54話「事実でも」
週明けの昼休み。
給湯室では、陽菜が淹れたばかりのコーヒーを手に、機嫌よく鼻歌を歌っていた。
普段から明るい女ではある。
しかし今日の陽菜は、朝から何度もスマートフォンを確認している。画面を見るたびに口元が緩み、それを隠そうともしない。
凛が自分のカップへ湯を注ぎながら、そっと尋ねた。
「陽菜さん、土曜日のデート、楽しかったんですか」
『楽しかったよ。中井くん、予定を分刻みで考えてた』
「すごいですね」
『初デートっていうより、社外研修だったけどね』
柚希が身を乗り出す。
「どこへ行ったの?」
『買い物して、ご飯食べて。途中で雨が降ったから、中井くんの家にも行った』
「家!?」
柚希の声が給湯室に響く。
書類を持って入ってきた彩花が、その言葉だけを拾って足を止めた。
「初デートで、もう家に行ったの?」
『行ったよ。服も借りた』
「それで?」
彩花まで会話に加わる。
陽菜はコーヒーを一口飲み、何でもないことのように答えた。
『キスはした。でもエッチはまだ』
凛が咳き込んだ。
柚希は目を丸くし、彩花は一度だけ給湯室の入口を確認する。
「櫻井さん、ここ会社だからね」
『聞かれたから答えただけじゃん』
「全部正直に答えなくてもいいでしょ」
『別に恥ずかしいことじゃないし』
陽菜が平然としているところへ、中井が入ってきた。
「陽菜さん、午後の資料なんですけど――」
給湯室にいた全員の視線が、中井へ集まる。
中井は入口で固まった。
「……何ですか」
柚希が先に目を逸らす。凛は咳を抑え、彩花は何も知らない顔で書類を整えた。
陽菜だけが、いつもどおり笑っている。
『土曜日の話してた』
「土曜日……」
中井の顔から血の気が引く。
『キスまではしたけど、エッチはしてないって』
「陽菜さん!」
中井の声が裏返った。
『何。嘘は言ってないよ』
「そういう問題じゃないです!」
『やっぱり恥ずかしい?』
「恥ずかしいです!」
陽菜は声を上げて笑った。
『かわいいね、中井くん』
「会社で言わないでください……」
『じゃあ次からは、本人の許可を取ってから言う』
「次からも言う前提なんですか」
中井は耳まで赤くしたまま、資料を抱えて給湯室を出ていった。
その背中を見送り、陽菜は満足そうにコーヒーを飲む。
凛が苦笑した。
「陽菜さんは、そういう話も平気なんですね」
『自分の話だからね。あたしがいいならよくない?』
「日高先輩は、絶対に無理そう」
柚希が何気なく言った。
陽菜の目が、すぐに面白そうな色へ変わる。
『日高先輩は無理だね』
「恋愛の話、苦手なんですか」
『苦手なんてもんじゃないよ。あの人、恋愛になるとびっくりするくらいポンコツだから』
凛が目を丸くする。
「日高先輩が、ですか」
『普通に話す分には完璧なんだけどね。男の人に好意を向けられた瞬間、何も分からなくなるの』
彩花が書類を胸の前で抱え直した。
「日高にも、そんな弱点があるんだ」
『あるよ。前に男の人から綺麗ですねって言われたとき、なんて返したと思う?』
「ありがとうございます、じゃないんですか」
『「視力は悪いんですか」って』
柚希が吹き出した。
「本当に?」
『本当。相手、どう返せばいいか分からなくなってた』
「日高らしいといえば、日高らしいけど」
彩花の口元も少し緩む。
陽菜は止まらない。
『美園さんやあたしには偉そうなこと言うくせに、自分のことになると全然駄目。誰かと付き合ったこともないし、キスだって――』
そこで、凛の表情が固まった。
柚希の視線も、陽菜ではなく、その後ろへ移る。
彩花は静かに半歩下がった。
陽菜だけが気づかない。
『もちろん、いまだに処女――』
『櫻井さん』
背後から、静かな声が落ちた。
陽菜の口が止まる。
振り返る動きは、ひどく遅かった。
給湯室の入口に、樹里が立っている。
表情は普段と変わらない。
変わらないことが、かえって怖い。
『……日高先輩。いつからそこに?』
『視力を心配されたところからです』
『ほとんど最初じゃん』
『会議室へ来てください』
『午後の仕事が』
『まだ昼休みです』
『コーヒーが残ってる』
『持ってきて構いません』
逃げ道がない。
陽菜は周囲を見た。
凛と柚希は助けを求められても困る顔をしている。彩花は樹里と目を合わせないまま、書類の角を揃えていた。
『誰か一緒に来てよ』
「当事者同士で話した方がいいと思います」
凛が申し訳なさそうに答える。
「頑張って、陽菜さん」
柚希は応援だけを送った。
彩花は陽菜の肩を軽く叩く。
「骨は拾ってあげる」
『死ぬ前提なの?』
『櫻井さん』
『はい。行きます』
陽菜はコーヒーを持ち、樹里のあとをついて給湯室を出た。
小さな会議室へ入る。
樹里はドアを閉めると、陽菜の向かいに立った。
座れとも言わない。
しばらく、何も言わなかった。
『……怒ってる?』
『怒っていないように見えますか』
『見えない』
『では、聞かないでください』
陽菜は紙コップを両手で持った。
『ごめん。でも、嘘は言ってないよ』
『事実であれば、本人の許可なく話していいのですか』
樹里の返事は静かだった。
陽菜は、すぐに言い返せなかった。
『私が誰と付き合ったことがあるのか。誰と口づけをしたのか。どのような経験があるのか。それを会社の人間へ話すかどうかは、私が決めることです』
『……うん』
『あなたが自分の話をすることは止めません。中井さんが困っていましたが、それは2人で話してください』
『あとで謝る』
『そうしてください』
陽菜はカップの中へ視線を落とした。
樹里に叱られること自体は、昔から珍しくない。
それでも今回は、言葉が胸に残った。
親しいから知っている。
長く一緒にいるから、話しても許されると思っていた。
だが、それは陽菜が決めていいことではない。
『本当にごめん。面白がって、話しすぎた』
陽菜は顔を上げた。
『もう勝手に言わない』
樹里は、しばらく陽菜を見ていた。
『分かればいいです』
『でも、恋愛になるとポンコツなのは撤回しないよ』
樹里の眉が、わずかに動いた。
『まだ言いますか』
『これは経験じゃなくて、あたしの評価だから』
『その評価も、会社で共有する必要はありません』
『美園さんとは共有済み』
『中村さんを共犯にするな』
『美園さんも同じこと言ってたよ』
樹里が小さく息を吐いた。
完全に怒りが解けたわけではない。それでも、先ほどまでの硬さは少しだけ薄れている。
陽菜はそれを見逃さなかった。
『あれ。もう終わり?』
『終わりです。午後の仕事に戻ってください』
『日高先輩』
『何ですか』
『本当は、あたしの初デートがどうだったか気になってるでしょ』
『別に』
『嘘。給湯室の前で結構長く聞いてたじゃん』
『あなたが大声で話していたからです』
『中井くんの家に行ったところ、気にならない?』
『気になりません』
『キスしたところは?』
樹里の視線が、一瞬だけ陽菜から外れた。
耳が、わずかに赤くなっている。
陽菜の顔に笑みが戻る。
『今、照れた』
『照れていません』
『キスって言っただけだよ?』
『戻ります』
『待って。怒らないでよ』
樹里がドアへ向かう。
陽菜はその背中を追いながら、声を少しだけ柔らかくした。
『楽しかったよ』
樹里の手が、ドアノブの上で止まる。
『中井くん、あたしを楽しませることばっかり考えてた。だから、2人で楽しもうって言った』
樹里は振り返らない。
『雨で予定どおりにならなかったけど、それも楽しかった。家には行ったし、キスもした。でも、あたしが今日はまだって言ったら、ちゃんと止まってくれた』
『……そうですか』
『うん』
『それなら、よかったです』
短い言葉だった。
陽菜は、その背中を見て笑った。
樹里は恋愛の話に慣れていない。聞くだけで耳を赤くする。
それでも、陽菜が大切に扱われたかどうかだけは確かめている。
『心配してくれてたんじゃん』
『していません』
『はいはい』
『返事は一度でいい』
『はーい』
『伸ばすな』
会議室を出る。
給湯室へ戻ると、凛と柚希と彩花が、まだ同じ場所にいた。
3人とも、何もしていなかったような顔を作っている。
「大丈夫だった?」
柚希が小声で尋ねる。
陽菜はカップに残ったコーヒーを飲み干した。
『怒られた。あたしが悪かった』
凛が少し驚く。
「素直ですね」
『あたし、悪いときはちゃんと謝るよ』
「それで、日高先輩の話は……」
柚希が続きを待つ。
陽菜は樹里を一度見た。
樹里も、自分の席へ戻る途中でこちらを見ている。
『本人の許可がないから、もう話さない』
柚希はすぐにうなずいた。
「分かりました」
彩花も追及しなかった。
陽菜は空になったカップを捨て、給湯室を出る。
樹里の横を通り過ぎるとき、声を落とした。
『でも、ポンコツは本当だからね』
『聞こえています』
陽菜は笑いながら、自分の席へ戻った。
その日の午後、中井へ届いたLINEは短かった。
『朝の話、みんなの前で言ってごめん』
中井からの返信も、すぐに届いた。
「分かってくれたなら大丈夫です。でも、次からは先に聞いてください」
『分かった。じゃあ昨日のキスの感想、みんなに言っていい?』
「駄目です」
『即答じゃん』
「絶対に駄目です」
陽菜は画面を見て、声を出さずに笑った。
言わない約束は守る。
その代わり、恥ずかしがる中井を自分一人で楽しむことにした。




