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53話「今日はまだ」

初デートの待ち合わせは、土曜日の午前10時だった。


 陽菜が駅前へ着いたのは、約束の5分前。


 中井はすでにいた。


 改札脇の柱の前で背筋を伸ばし、スマートフォンと駅の時計を交互に見ている。陽菜を見つけた瞬間、表情が明るくなった。


「陽菜さん、おはようございます」


『おはよう。待った?』


「いえ。今来たところです」


 陽菜は中井の前で立ち止まり、その顔をじっと見た。


『嘘。中井くん、30分前には着いてたでしょ』


「どうして分かるんですか」


『髪、いつもよりちゃんとしてる。ここまで急いで来た人の髪じゃないもん』


「髪でそこまで分かるんですか……」


『勘だけど』


「勘なんですか」


 陽菜は笑い、中井の服装へ目を移した。


 普段のスーツとは違う。派手ではないシャツに、細身のパンツ。靴まで綺麗に磨かれている。


『いいじゃん。似合ってる』


「あ、ありがとうございます。陽菜さんも、その……すごく綺麗です」


『知ってる』


「そこは謙遜しないんですね」


『せっかく中井くんのために選んできたのに、謙遜したら服に失礼じゃん』


 陽菜はそう言って、その場で軽く一周してみせた。


 身体の線を拾いすぎない淡い色のワンピース。揺れた裾の下には、低めのヒールが覗く。会社で見慣れた制服姿とも、特攻服姿とも違う。


 中井は見惚れたまま、返事を忘れていた。


『どう?』


「……好きです」


『服の感想を聞いたんだけど』


「服も好きです。着ている陽菜さんは、もっと好きです」


 言ってから、中井の顔が赤くなる。


 陽菜は一度目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。


『朝から飛ばすね。今日の中井くん、期待できそう』


「期待されると緊張します……」


『じゃあ、まずどこ行く?』


「はい。最初は駅前のショッピングモールへ行って、そのあと12時半に昼食を予約しています。午後は雑貨店を見て、陽菜さんが疲れていなければ――」


 中井がスマートフォンを開く。


 画面には、時間ごとに整理された予定が並んでいた。移動時間だけでなく、混雑した場合の候補まで記されている。


 陽菜は横から画面を覗き込み、眉を上げた。


『何これ。研修旅行の行程表?』


「違います。初デートです」


『分刻みじゃん』


「待たせたり、退屈させたりしたくなかったので」


『中井くんらしいけどさ』


 陽菜はスマートフォンを持つ中井の手を、そのまま下へ押した。


『今日は仕事じゃないよ。予定どおりに回れなくても、失敗にはならないから』


「でも、陽菜さんには楽しんでほしいです」


『中井くんは?』


「え?」


『あたしを楽しませることしか考えてないじゃん。中井くんも楽しんでよ』


 中井はすぐに答えられなかった。


 陽菜はその手を取る。


『あたし、接待されに来たんじゃないよ。彼氏とデートしに来たの』


 つないだ手を軽く持ち上げて、陽菜は笑った。


『だから、2人で楽しもう』


「……はい」


『それと、その敬語もいつかどうにかしようね』


「それは、もう少し時間をください」


『そこは予定表に入ってないの?』


「入れ方が分かりません」


 2人は手をつないだまま歩き始めた。


 ショッピングモールでは、陽菜が中井の服を勝手に選んだ。


『これ着てみて』


「僕には少し派手じゃないですか」


『いいから。彼女の言うことは一回聞く』


「そういう決まりなんですか」


『今決めた』


 試着室から出てきた中井を、陽菜は腕を組んで眺めた。


 普段なら選ばない濃い色のシャツだったが、思った以上に似合っている。


『ほら。格好いい』


「本当ですか」


『うん。会社で着たら、女の子に声かけられるかもね』


「じゃあ、会社では着ません」


 即答だった。


『なんで』


「陽菜さんに格好いいと思ってもらえれば、それでいいので」


『……たまに不意打ちで恥ずかしいこと言うよね』


「すみません」


『褒めてるの。謝らないで』


 結局、中井はそのシャツを購入した。


 陽菜が別の店で小さな袋を持つと、中井はすぐに手を差し出した。


「持ちます」


『これくらい自分で持てるよ』


「でも」


『中井くん』


 陽菜が足を止める。


『あたしは、荷物を持ってほしくて付き合ったんじゃないよ』


「……はい」


『持ってくれるのは嬉しい。でも、全部やろうとしないで』


 少し言いすぎたかと思ったのか、陽菜は袋を中井へ渡した。


『これはお願い。代わりに、中井くんが買った服は自分で持って』


「分かりました」


『半分ずつね』


 中井は受け取った袋を見て、小さく笑った。


「はい。半分ずつです」


 昼食の店は、静かな洋食店だった。


 中井が事前に調べていたとおり、料理はおいしい。だが、陽菜が一番楽しそうに笑ったのは、緊張した中井がパンを落とし、慌てて拾おうとしたときだった。


『そんなに急いで拾わなくても、逃げないって』


「すみません」


『店員さんじゃなくてパンに謝ってるの?』


「違います」


『今日だけで何回すみませんって言ったと思う?』


「数えてないです」


『あたしは数えてる』


「何回ですか」


『数えてない』


「今、数えてるって言ったじゃないですか」


『中井くん、ちゃんと突っ込めるようになったね』


 予定表から少しずつ時間がずれていく。


 それでも中井は、もう何度も時計を確認しなかった。


 食事を終えて店を出た頃には、朝の青空が嘘のように曇っていた。


『雨、降りそう』


「予報にはなかったんですけど……」


『空は中井くんの予定表を見てくれないからね』


 陽菜が笑った直後、大粒の雨が落ちてきた。


 数秒で路面の色が変わる。


「こっちです!」


 中井が陽菜の手を引き、近くの建物の軒下へ駆け込んだ。


 だが雨脚は弱まらない。風まで出始め、屋根の下にも細かな雨粒が吹き込んでくる。


 中井は周囲を見てから、迷いながら口を開いた。


「あの、僕の家がここから近いです」


『中井くんの家?』


「はい。雨が弱くなるまででいいので。もちろん、嫌なら別の場所を探します」


 陽菜は濡れた前髪を指で払った。


『行く』


「いいんですか」


『彼氏の家でしょ。何をそんなに驚いてるの』


「いえ、その……はい。近いので、走りましょう」


 中井の部屋へ着いた頃には、2人とも肩や髪が濡れていた。


 玄関に入るなり、中井はタオルを取りに走る。


「これを使ってください。風邪をひいたら大変なので」


『ありがと』


 陽菜は髪を拭きながら、部屋を見渡した。


 物は少ない。机の上も棚も、綺麗に片づいている。綺麗というより、片づけた形跡が新しい。


『今日、あたしが来てもいいように掃除した?』


「……一応」


『雨まで予定に入れてたの?』


「そういうわけではないです。ただ、何があるか分からないので」


『ふうん』


 陽菜は面白そうに部屋を見回した。


『エッチな本とか、慌てて隠した?』


「ありません!」


『じゃあ、スマホの検索履歴見せて』


「それは駄目です!」


 あまりに必死な返事に、陽菜が声を上げて笑った。


 中井には、その理由を話せない。


 すでに樹里に見られているとは、なおさら言えなかった。


「服、濡れていますよね。僕のものでよければ、部屋着を出します」


『借りる。ワンピース、乾かしたいし』


 中井が差し出したシャツとハーフパンツを持ち、陽菜は洗面所へ入った。


 数分後。


 戻ってきた陽菜を見て、中井の動きが止まった。


 大きめのシャツから、細い脚が伸びている。ハーフパンツは穿いているが、シャツの裾に半分隠れていた。


『何、その顔』


「いえ。似合っています」


『これ、中井くんの服だけど』


「僕が着るより似合っています」


『じゃあ、もらおうかな』


「どうぞ」


『即答じゃん』


 陽菜はソファへ座った。


 中井は少し離れた場所へ腰を下ろす。


 2人の間には、人一人分ほどの隙間があった。


 陽菜はその隙間を見下ろした。


『なんでそんなに離れてるの』


「近いと、緊張するので」


『デート中ずっと手つないでたじゃん』


「家で2人きりなのは、意味が違います」


『何が違うの?』


「それを僕に言わせるんですか」


『聞いてるのはあたしだけど』


 中井は困ったように口を閉じた。


 陽菜は少しずつ身体をずらし、その隙間を自分から埋めた。


 肩が触れる。


 中井の背筋が目に見えて固くなった。


『キスしたい?』


「……はい」


『正直でよろしい』


 陽菜が顔を近づける。


 中井は待っていた。自分から奪わず、陽菜が目を閉じるのを確かめてから唇を重ねる。


 最初は短いキスだった。


 離れたあと、陽菜が中井のシャツを掴んだ。


『もう一回』


 今度は少し長い。


 中井の呼吸が変わる。行き場を失っていた手が、陽菜の肩へ触れ、すぐに離れようとした。


 陽菜はその手首を取り、自分の腰へ置いた。


『ここならいいよ』


「……はい」


『毎回返事しなくてもいいけど』


「返事しないと、どこまでいいのか分からなくて」


『じゃあ、分からないときは聞いて』


「聞いてもいいんですか」


『その方がいい。勝手に我慢されるより、あたしも分かりやすいから』


 再び唇が重なる。


 腰へ置かれた中井の手に、少しだけ力が入った。


 陽菜はそのまま中井の胸へ身体を預ける。中井の鼓動が、服越しにも分かるほど速い。


 しばらくして、陽菜が何かに気づいた。


 視線を下げ、すぐに中井の顔へ戻す。


『中井くん、すごいことになってるけど』


「言わないでください!」


 中井が慌てて身体を離そうとする。


 陽菜は逃がさず、その腕を掴んだ。


『別に嫌がってないよ』


「でも、陽菜さんに失礼な気がして……」


『彼女とキスして、そうなるのは普通じゃない?』


「普通でも、恥ずかしいです」


『あたしはちょっと嬉しいけど』


 中井の顔が、さらに赤くなる。


『ただし』


 陽菜は中井の目を見た。


 からかう表情は残っている。だが、声だけは曖昧にしなかった。


『今日は、エッチはまだしないよ』


「はい」


 返事は早かった。


 残念そうな顔を隠しきれてはいない。それでも、陽菜の腰に置いていた手を静かに離す。


 陽菜はその手を取り、指を絡めた。


『したくないって意味じゃないからね』


「え……」


『中井くんとしたくないんじゃなくて、今日はまだってだけ』


 陽菜は少し照れたように笑う。


『初めては、雨に追い込まれた流れじゃなくて、あたしが今日って決めた日にしたい』


 中井は数秒黙ったあと、強くうなずいた。


「分かりました。待ちます」


『待つだけじゃなくて、もっと好きにさせて』


「努力します」


『そこ、仕事みたいに言わないの』


「じゃあ……もっと好きになってもらえるように、一緒にいたいです」


 陽菜の目が、柔らかく細くなる。


『うん。それならいい』


 もう一度、陽菜から口づけた。


 今度は短い。


 そのあとは2人でソファに並び、雨の音を聞いた。


 予定していた雑貨店には行けなかった。予約していたカフェにも寄れなかった。


 それでも陽菜は、中井の肩へ頭を預けたまま、何度も笑った。


 夕方になり、雨が弱くなる。


 乾いたワンピースへ着替えた陽菜を、中井は駅まで送った。


 改札の前で、陽菜が振り返る。


『今日は楽しかった』


「予定どおりには、ほとんど回れませんでしたけど」


『だから言ったじゃん。予定どおりじゃなくても失敗じゃないって』


「次は、もう少し余裕を持ちます」


『次もあるんだ』


「駄目ですか」


『今日より楽しくしてくれるなら』


「頑張ります」


『また仕事になってる』


 陽菜は笑い、中井の頬へ軽くキスをした。


 人の多い改札前だった。


 中井が固まっている間に、陽菜は改札を通る。


『じゃあね、中井くん。今日はここまで』


 手を振る陽菜の顔は、付き合う前より少しだけ甘い。


 中井は、その姿が人混みに消えるまで動かなかった。


 帰りの電車で、陽菜のLINEが届く。


『初デート、合格』


 続けて、もう一つ。


『次は予定表なしで来てね。彼氏として』


 中井は何度も読み返してから、返信を打った。


「はい。次は僕も、もっと楽しみます」


 送信後、少し迷ってもう一文を加える。


「今日は、まだで止めてくれてありがとうございました」


 陽菜からは、すぐに返事が来た。


『止めたの、後悔させないから。楽しみにしてて』


 中井は電車の中で、再び顔を赤くした。


 初デートの予定表にはなかった時間だけが、何より鮮明に残っていた。

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