52話「また来ます」
金曜日の終業間際。
営業部の空気が、少しずつ週末へ傾き始めていた。
片づけを終えた者から時計を見て、残業する者は資料を机の中央へ寄せる。陽菜も翌週分のファイルを閉じ、バッグを取り出した。
中井は取引先からまだ戻っていない。帰社する頃には、陽菜の方が先に会社を出ている予定だった。
その様子を、佐藤が向かいの席から見ていた。
「櫻井さん、今日は中井と会わないんですか」
『中井くん、まだ外だからね。今日は美園さんのところに行く』
「美園さん?」
聞き慣れない名前に、佐藤が顔を上げる。
陽菜は一度だけ考え、悪戯を思いついたように目を細めた。
『あたしがよく行く店のママ。すごく綺麗な人だよ』
「へえ。どんな店なんですか」
『スナック。落ち着くし、お酒もおいしい。佐藤くん、今日予定ある?』
「ないですけど」
『じゃあ来る?』
佐藤は少し驚いたものの、すぐにうなずいた。
「いいんですか」
『いいよ。美園さんにも会社の人を紹介したかったし』
そこで陽菜は、口元だけで笑った。
『ただし、一目惚れしても責任は取らないからね』
「しませんよ。会ってもいないのに」
『みんな最初はそう言うんだよ』
「みんなって誰ですか」
『今、あたしが作った』
「作ったんですか」
佐藤の呆れた声を聞きながら、陽菜は楽しそうに会社を出た。
駅から少し離れた通りへ入り、陽菜が足を止めたのは、小さな看板の前だった。
控えめな照明に【Rose】の文字が浮かんでいる。
佐藤は店構えを見上げた。
「ここですか」
『そう。変なところじゃないから安心して』
「それ、入る前に言われると逆に不安になります」
『大丈夫。取って食われるとしても、美園さんにだから』
「やめてください」
陽菜が先にドアを開ける。
鈴の音が、店内へ柔らかく広がった。
『美園さん、ただいま』
カウンターの中にいた美園が顔を上げる。
黒いドレスに、派手すぎないアクセサリー。髪は邪魔にならないよう緩くまとめられている。店内を見渡す目は落ち着いているのに、その場の空気をすべて把握しているような鋭さがあった。
『おかえり、陽菜。今日は一人じゃないんだね』
『会社の佐藤くん。連れてきた』
陽菜が半歩ずれる。
『佐藤くん、ここのママの美園さん』
「佐藤です。突然すみません」
『中村美園です。陽菜の知り合いなら歓迎するよ。座って』
美園が、カウンターの椅子を目で示す。
佐藤は一瞬遅れて頭を下げた。
「ありがとうございます」
陽菜が隣へ座る。佐藤も腰を下ろしたが、その視線はまだ美園から離れていなかった。
綺麗な女性だとは聞いていた。
実際、その言葉に嘘はない。
だが、目を奪われた理由は、それだけではなかった。
美園は陽菜へ何も聞かず、水の入ったグラスを置いた。
『今日は先にこれ』
『え、お酒は?』
『顔が少し疲れてる。水を飲んでから』
『会社の人の前で子供扱いしないでよ』
『嫌なら飲まなくていいよ』
陽菜は不満そうに唇を尖らせながら、それでも素直にグラスへ手を伸ばした。
言葉は軽い。
しかし、美園は陽菜が何を言うより先に、その日の状態を見抜いていた。
佐藤の前にも水とおしぼりが置かれる。
『佐藤くんは、何を飲む?』
「あまり詳しくないので、おすすめでお願いします」
『お酒は強い?』
「普通だと思います」
『その答えが一番信用できないんだよね』
美園がわずかに笑う。
『明日は仕事? 車は? 食事は済ませた?』
「明日は休みです。電車で来ました。夕飯はまだです」
『じゃあ、軽めのものからにしようか。何か食べるものも出すね』
注文を受けるというより、今の佐藤に合うものを探している聞き方だった。
美園がグラスを用意している途中、カウンターの奥にいた常連客が手を上げた。
「ママ、いつもの」
美園は客の手元を見た。
カウンターの上に車の鍵が置かれている。
『今日は車?』
「ああ。このあと家まで帰るだけだから、一杯くらい」
『駄目。代行を呼ぶなら作る。自分で運転するならノンアルコール』
「一杯だけだって」
『その一杯で、帰りに誰かを巻き込んだら遅いよ』
声は穏やかだった。
だが、断る余地は残していない。
常連客はしばらく美園を見たあと、観念したように両手を上げた。
「分かったよ。ノンアルで」
『最初からそう言えばいいの』
美園は表情を変えず、別のボトルへ手を伸ばした。
客を立てながら、譲れない線は越えさせない。
佐藤は、その一連のやり取りを黙って見ていた。
美園が佐藤の前へグラスを置く。
『お待たせ』
「……ありがとうございます」
『どうしたの。さっきから、よく見てるね』
不意に指摘され、佐藤の肩がわずかに跳ねた。
陽菜が隣で吹き出す。
『ほら。もう見抜かれてる』
「すみません」
『謝ることじゃないけど。顔に何かついてる?』
佐藤は一度言葉を探した。
だが、誤魔化すより先に、そのまま答えた。
「綺麗な人だと思って、見ていました」
陽菜が水を飲みかけたまま止まる。
美園も一瞬だけ目を丸くした。
『……本人の前で、よく言えるね』
「思ったことを隠す方が失礼かと思ったので」
『それは、隠した方がいいこともあるんじゃない?』
「今のは、隠さなくてもいいことだと思いました」
美園は佐藤を数秒見つめたあと、小さく笑った。
『正直なんだね、佐藤くんは』
「よく言われます」
『褒めてるかどうかは、まだ決めてないよ』
「それでも大丈夫です」
返事が早い。
陽菜は2人を交互に見て、面白いものを見つけた顔になった。
『佐藤くん、あたしの予想より早いじゃん』
「何がですか」
『一目惚れ』
「まだ、そうとは――」
否定しかけた佐藤が、美園を見る。
そこで言葉が止まった。
美園は別の客の空いたグラスに気づき、話の途中でも自然にそちらへ体を向けている。客の会話を邪魔せず、必要なものだけを差し出す。笑うときも、黙って聞くときも、距離を間違えない。
佐藤は視線を戻さないまま、言い直した。
「……否定は、できないです」
『素直すぎない?』
「櫻井さんが聞いたんじゃないですか」
陽菜が声を上げて笑う。
美園は呆れたように見ながらも、佐藤のグラスが空けば次を尋ね、料理を食べる速さが落ちれば水を差し出した。
その夜、佐藤は飲みすぎなかった。
美園の顔だけを見ていたわけでもない。
常連客の話にも加わり、陽菜に会社での失敗を暴露されれば言い返し、店の空気を壊さない程度には笑った。
それでも、美園が別の客と話している間だけ、視線が自然にそちらへ向いた。
閉店より少し前。
陽菜が立ち上がり、佐藤も財布を取り出した。
『今日はあたしが連れてきたから、あたしが出すよ』
「いや、自分の分は出します」
『いいって』
「それは嫌です。次も櫻井さんに連れてきてもらわないと来られないみたいになるので」
陽菜が目を細める。
『次も来るつもりなんだ』
「駄目ですか」
佐藤が尋ねた相手は、陽菜ではなかった。
美園は伝票を置きながら答える。
『ここは店だからね。普通に飲みに来るなら、断る理由はないよ』
「じゃあ、また来ます」
『はい。お待ちしてます』
店としての、ごく普通の返事だった。
それでも佐藤は、その言葉を大切そうに受け取った。
外へ出ると、夜の空気が店内より冷たい。
陽菜は数歩歩いてから、隣の佐藤を覗き込んだ。
『どうだった?』
「いい店でした」
『それだけ?』
「美園さんに、また会いたいです」
返事に迷いがない。
『本当に惚れたんだ』
「多分」
『多分って顔じゃないよ』
「自分でも、少し早いと思っています」
『少しどころじゃないけどね』
陽菜は笑ったあと、ほんの少しだけ声を落とした。
『美園さんは、簡単な人じゃないよ』
「分かっています」
『まだ何も知らないじゃん』
「だから、知りたいです」
佐藤は前を向いたまま答えた。
「知ったうえで駄目なら、そのとき諦めます。でも、何も知らないまま諦める理由はないので」
陽菜は一度だけ目を丸くした。
中井とはまるで違う。
悩むより先に言葉を出し、出したあとで責任を考える。危うさはある。だが、少なくとも気持ちを曖昧にはしない男らしい。
『じゃあ、頑張れば』
「手伝ってくれないんですか」
『やだよ。美園さんに怒られるもん』
「櫻井さんでも怒られるんですね」
『あたしは、美園さんに一番怒られてきたの』
佐藤が少し笑う。
別れ道で陽菜と離れてからも、佐藤の頭には店の照明が残っていた。
美園の顔だけではない。
陽菜に水を飲ませた声。
客へ酒を出さなかった目。
自分の正直すぎる言葉を、笑って受け止めた表情。
帰宅した佐藤は、スマートフォンを取り出した。
陽菜とのLINEを開き、一度だけ迷ってから送る。
「Roseは、明日も営業していますか」
既読はすぐについた。
『してるけど』
少し間を置いて、もう一つ届く。
『まさか、明日も行く気?』
佐藤は短く返した。
「はい」
画面の向こうで陽菜がどんな顔をしているかは、容易に想像できた。
それでも、送った文を取り消す気はなかった。
佐藤はもう、美園へ再び会う理由を探していなかった。
会いたい。
理由は、それだけで足りていた。




