51話「履歴」
樹里が忘れ物に気づいたのは、帰宅してからだった。
翌朝の打ち合わせで使う手帳が、鞄に入っていない。
最後に使ったのは営業部だ。
時刻は、すでに午後9時を過ぎていた。
翌朝でも間に合わなくはないが、必要な情報を確認しておきたい。
樹里は着替えることもなく、再び会社へ向かった。
◇
警備員へ事情を伝え、社員証を使って社内へ入る。
廊下の照明はほとんど落とされていた。
営業部のある区画だけ、薄暗い明かりが残っている。
(誰かいるのか)
樹里が静かに扉を開ける。
営業部には、1人だけ残っていた。
中井が自分の机へ突っ伏し、眠っている。
パソコンの画面には、作成途中の報告書が表示されていた。
傍らには、空になった紙コップと私物のスマートフォンが置かれている。
『中井さん』
返事はない。
樹里は中井の机まで歩き、もう一度呼んだ。
『中井さん。こんなところで寝ると風邪を引きますよ』
「……はい」
中井が僅かに顔を動かす。
それでも、まだ目は開かない。
樹里は自分の机へ向かい、置き忘れた手帳を見つけた。
鞄へ入れ、帰ろうとする。
その時、中井のスマートフォンが短く震えた。
振動で端末が机の端へ動く。
落ちそうになったため、樹里は反射的に手を伸ばした。
画面はまだ消えていなかった。
開かれていたのは、検索履歴だった。
『年上の彼女 初デート』
『初デート 服装 男』
『年上彼女 喜ぶ場所』
『初デート 会話 沈黙』
『彼女 キス タイミング』
『付き合いたて どこまで』
『初めて 彼女 リード』
『年上彼女 初めて エッチ』
樹里の目が細くなる。
『……随分、熱心ですね』
「え?」
中井が、ゆっくりと顔を上げる。
「日高先輩……?」
寝ぼけた目が、樹里の手元へ向く。
自分のスマートフォン。
開かれた検索履歴。
次の瞬間、中井の顔から血の気が引いた。
「待ってください!」
中井は慌てて立ち上がった。
膝を机へぶつけ、鈍い音が響く。
「痛っ……!」
『大丈夫ですか』
「大丈夫です! それより、見ましたか?」
『見えました』
「どこまでですか」
『初デートの服装から、初めてのエッチまで』
「全部じゃないですか!」
中井はスマートフォンを受け取り、大慌てで画面を閉じた。
「違うんです」
『何が違うんですか』
「これは、その……勉強というか」
『何の勉強ですか』
「陽菜さんとのデートで失敗しないためです」
『最後の2つは、初デートだけの話ではないと思いますが』
「そこは……将来的な知識として」
中井の顔が、耳まで真っ赤になっていく。
「お願いします。陽菜さんには言わないでください」
『言うつもりはありません』
「本当ですか」
『中井さんの検索履歴を、私が櫻井さんへ報告する理由がありません』
「よかった……」
『ただし』
安堵しかけた中井の肩が再び強張る。
『これは個人のスマートフォンですね』
「はい」
『会社の端末で調べたわけではない』
「それは絶対にしていません」
『なら、その点は構いません』
樹里は中井のパソコンを見る。
『ですが、仕事を終えたあと、会社で寝落ちするまで調べる内容ではないでしょう』
「すみません」
『報告書は終わっているんですか』
「はい。保存もしてあります」
『なら、帰ってください』
「そのつもりだったんですけど、少し調べているうちに……」
『少しには見えませんでした』
「気になることが多くて」
『検索すればするほど、余計に分からなくなったんじゃないですか』
中井は返事をしなかった。
図星らしい。
樹里は小さく息を吐き、自分の鞄を机へ置いた。
『初デートはいつですか』
「今度の土曜日です」
『行き先は決めたんですか』
「一応、考えました」
中井は鞄から小さなノートを取り出した。
樹里へ見せることを迷ったものの、意見を聞くために差し出す。
「これです」
ノートには、当日の予定が細かく書き込まれていた。
午前10時に待ち合わせ。
映画。
昼食。
水族館。
買い物。
夕食。
夜景。
移動経路と所要時間まで記されている。
昼食と夕食には、それぞれ候補の店が3軒ずつ並んでいた。
『……研修旅行ですか』
「デートです」
『予定が多すぎます』
「そうですか?」
『朝から夜まで、ほとんど空き時間がないでしょう』
「陽菜さんを退屈させたくなくて」
『疲れさせるつもりですか』
「そんなつもりは」
『映画と水族館を同じ日に入れる必要がありますか』
「どちらが好きか分からなかったので」
『本人に聞けばいいでしょう』
「聞いたら、僕が決めてと言われました」
『だから全部入れたんですか』
「はい」
樹里はノートを閉じ、中井へ返した。
『半分にしてください』
「半分ですか」
『行き先は、多くても2つで十分です』
「でも、時間が余ったら」
『話せばいい』
「会話が続かなかったら、気まずくなりませんか」
『そのための検索履歴ですか』
「……はい」
樹里は、中井の机の横へ立った。
『中井さん』
「はい」
『櫻井さんは、予定どおりに物事が進むことを喜ぶ人ではありません』
「そうなんですか」
『予定が崩れても、その場で面白いものを見つけられる人です』
樹里は、かつて陽菜と走った夜を思い出す。
目的地を決めずにバイクを走らせ、気になった店があれば立ち寄る。
雨が降れば、軒下で笑いながら止むのを待つ。
陽菜は、計画された場所よりも、一緒にいる人間との時間を楽しむ女だった。
『失敗しないことばかり考えていたら、中井さん自身が楽しめないでしょう』
「僕が楽しむことも必要ですか」
『当然です』
「僕は、陽菜さんが楽しんでくれれば」
『そうやって、また櫻井さんのためだけに動くつもりですか』
中井が黙る。
『櫻井さんは、人へ与えることに慣れています』
「はい」
『ですが、与えられることには慣れていない』
中井は、研修旅行での陽菜を思い出す。
自分の荷物だけでなく、他人の分まで持とうとしていた。
体調が悪くても、何も必要ないと言った。
『中井さんが何でも決め、何でも用意すれば、櫻井さんは笑って受け取るでしょう』
「それなら――」
『本当に喜んでいるのか、中井さんへ合わせているのか、分からなくなります』
中井の表情が変わる。
『櫻井さんは、嫌なことでも笑顔で受け流す時があります』
「……はい」
『ですから、分からないことは本人に聞いてください』
「嫌じゃないか、ですか」
『それだけではありません。何をしたいか。疲れていないか。帰りたくないか』
「はい」
『櫻井さんが自分で選べる余白を残してください』
中井はノートを開く。
詰め込まれた予定を見る。
「僕、陽菜さんを楽しませることばかり考えていました」
『悪いことではありません』
「でも、陽菜さんがどうしたいかは、あまり考えていなかったかもしれません」
『今、気づいたなら十分です』
中井はペンを手に取る。
予定を消そうとして、手を止めた。
「日高先輩」
『何ですか』
「映画と水族館なら、どちらがいいと思いますか」
『私に聞かないでください』
「でも、陽菜さんのことを一番よく知っているので」
『デートする相手は私ではありません』
「そうですよね……」
『ただ』
樹里は僅かに考える。
『水族館なら、話をしながら回れるでしょう』
「水族館にします」
『私が決めたわけではありません』
「参考にしただけです」
『そうしてください』
中井は映画の予定へ線を引いた。
買い物と夜景も外し、水族館と食事だけを残す。
空白が増えた予定表を見つめた。
「随分、短くなりました」
『そのくらいでいいでしょう』
「時間が余ったら、陽菜さんに聞きます」
『ええ』
「どこへ行きたいか。疲れていないか」
『それでいいと思います』
中井はノートを閉じた。
そこで、検索履歴に残っていたもう1つの疑問を思い出したらしい。
顔を赤くしながら、恐る恐る樹里を見る。
「日高先輩」
『まだ何か』
「キスのタイミングは……本人に聞いた方がいいんでしょうか」
樹里の眉間に皺が寄る。
『私に聞くことではありません』
「そうですよね」
『ですが、迷うなら聞いた方がいいでしょう』
「聞いたら、雰囲気が壊れませんか」
『勝手にして嫌がられるよりはいい』
「なるほど……」
『それと』
樹里の声が低くなる。
中井の背筋が伸びた。
『初めから、そういうことを目的にデートするな』
「しません!」
『検索履歴には残っていました』
「将来的な知識です!」
『そういう流れになったとしても、相手の意思を確認すること』
「はい」
『陽菜がいいと言ったとしても、勢いだけで進めるな』
中井は真剣な顔でうなずく。
『嫌がったら、すぐにやめろ。迷っているなら待て』
「分かりました」
『避妊も必ずしてください』
「はい……」
返事をしたあと、中井の顔がさらに赤くなる。
「陽菜さんと、そんなところまで……」
『自分で調べていたんでしょう』
「そうですけど、日高先輩の口から言われると現実味が……」
『なら、忘れないでしょう』
「絶対に忘れません」
『それでいいです』
樹里は鞄を持ち上げた。
『もう帰りますよ』
「はい。すぐに片づけます」
中井はパソコンを閉じ、机の上を片づける。
「日高先輩」
『何ですか』
「ありがとうございます」
『礼を言われるようなことはしていません』
「怒られると思っていました」
『怒っています。こんな時間まで会社に残って、寝ていたことには』
「すみません」
『ですが』
樹里は中井を見る。
『真面目に考えること自体は、悪くない』
「……はい」
『櫻井さんを大切に思っている証拠でしょう』
中井が驚いたように顔を上げる。
『ただし、検索結果に櫻井さんの気持ちは書いてありません』
「本人を見ることが大切なんですね」
『そうです』
「分かりました」
樹里は営業部の扉へ向かう。
途中で足を止め、振り返った。
『中井さん』
「はい」
『櫻井さんを楽しませるだけではなく、中井さん自身も楽しんでください』
「……はい」
『一方だけが相手へ尽くす関係は、長く続きません』
中井は、しっかりとうなずいた。
「2人で楽しみます」
『そうしてください』
樹里は営業部を出た。
廊下を歩きながら、小さく息を吐く。
(真面目すぎるのも、困ったものだな)
それでも、中井が陽菜を軽い気持ちで見ていないことは分かった。
何も考えずに傷つける人間よりは、検索履歴を見られて顔を真っ赤にする男の方が、まだ信用できる。
◇
会社を出る前に、中井は陽菜へLINEを送った。
「土曜日、11時に駅前でお願いします」
「水族館へ行ったあと、近くで食事をしようと思っています」
すぐに既読がつく。
『楽しそう』
『あたし、水族館好きだよ』
中井の顔が明るくなる。
「よかったです」
『そのあとは?』
中井は、書き直した予定表を見る。
空白になった午後。
「水族館を出た時に、2人で決めたいです」
少し間を置いて、陽菜から返信が届く。
『うん。それがいい』
『楽しみにしてるね』
「僕も楽しみです」
中井はスマートフォンをしまった。
失敗しないための答えは、検索履歴の中にはなかった。
陽菜が何を望んでいるのかは、陽菜にしか分からない。
ならば、隣で尋ねればいい。
自分の希望も伝えながら、2人で決めればいい。
中井は予定の詰まっていないノートを閉じ、今度こそ会社をあとにした。




