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50話「いいよ」

翌日の終業時間。


 陽菜が会社の外へ出ると、中井はすでに入口の近くで待っていた。


 約束の時間より、まだ10分ほど早い。


 陽菜に気づいた中井が姿勢を正す。


「お疲れさまです、櫻井さん」


『お疲れさま。待たせた?』


「いえ。僕が早く来ただけです」


『そう?』


「はい」


 返事をしたきり、中井は黙ってしまった。


 昨日LINEで伝えた、話したいこと。


 それを今から口にするのだろう。


 陽菜にも、何となく予想はついていた。


『ここで話す?』


「できれば、少し場所を変えたいです」


『うん。いいよ』


「ありがとうございます」


 2人は並んで歩き出した。


 会社の近くには小さな公園がある。


 時間帯のせいか、遊具の周りに子供の姿はなく、仕事帰りの人間が時折通り過ぎるだけだった。


 中井は公園の奥まで進み、人気の少ない場所で足を止める。


 陽菜も立ち止まった。


『話って、何?』


「……はい」


 中井は何度か呼吸を整える。


 陽菜まで緊張してきた。


 昨日までなら、頼りないほど素直な後輩だと思っていただろう。


 今は違う。


 目の前にいる中井を、1人の男として意識している。


 それを自覚しただけで、正面から顔を見ることが難しくなっていた。


「櫻井さん」


『うん』


「僕は、櫻井さんが好きです」


 予想していた言葉だった。


 それでも、実際に聞くと胸が大きく鳴る。


「優しい先輩だからとか、尊敬しているからというだけじゃありません」


 中井は陽菜の目を見つめた。


「1人の女性として、櫻井さんが好きです」


『……うん』


「僕と、付き合ってください」


 中井は頭を下げた。


 陽菜は、目の前に差し出された頭を見つめる。


 断る理由を探してみる。


 見つからなかった。


 中井といることは嫌ではない。


 むしろ楽しい。


 自分をよく見てくれている。


 優しいだけではなく、仕事へ真面目に向き合うことも知った。


 同じ傘の下で肩が触れた時は、胸が高鳴った。


 昨日の夜から、何度も中井のことを考えていた。


 それが恋なのかは、まだ分からない。


 中井と同じ強さで好きだとは、とても言えない。


 それでも、もっと知りたいと思った。


『うん。いいよ』


 中井が顔を上げる。


「……何がですか」


『付き合おう』


「え?」


『だから、中井くんと付き合うって言ったの』


 中井は目を見開いたまま、動かなくなった。


「本当に?」


『うん』


「今、答えなくても大丈夫です」


『もう答えたよ』


「でも、僕に気を遣ってるなら――」


『気を遣ってない』


「僕がかわいそうだからとか」


『そんな理由で付き合わないよ』


「本当に、僕でいいんですか」


 陽菜は思わず笑った。


『告白したのは中井くんでしょ』


「そうですけど……」


『どうして告白した方が信じられないの』


「断られると思っていたので」


『そこまで驚くなら、何で告白したの?』


「言わないままでいる方が、後悔すると思ったからです」


『そっか』


 中井はまだ現実を受け入れきれない顔をしている。


 陽菜は少し考えてから、正直に話すことにした。


『中井くん』


「はい」


『あたし、中井くんと同じくらい好きかって聞かれたら、まだ分からない』


 中井の表情が僅かに固くなる。


『昨日までは、可愛い後輩だと思ってた』


「……はい」


『でも、昨日一緒に仕事して、中井くんって頼もしいところもあるんだなって思った』


「頼もしい、ですか」


『うん』


 陽菜は中井を見つめる。


『あたしが笑えない時は、笑わなくていいって言ってくれたでしょ』


「はい」


『あれ、嬉しかった』


 中井の目が僅かに揺れる。


『一緒にいると楽だし、あたしのことを大事にしてくれる人だと思ってる』


「櫻井さん……」


『だから、もっと中井くんのことを知ってみたい』


 陽菜は穏やかに笑った。


『今は、それがあたしの答え』


 中井はしばらく何も言わなかった。


 やがて、ゆっくりとうなずく。


「それで十分です」


『本当に?』


「はい」


「今すぐ僕と同じ気持ちになってほしいとは思いません」


 中井は、少し照れたように笑う。


「一緒にいてもいいと思ってもらえたことが、嬉しいです」


『そっか』


「これから、もっと僕のことを知ってください」


『うん』


「そのうえで、好きになってもらえたら嬉しいです」


『努力するものなの?』


「櫻井さんに好きになってもらえるように、僕が努力します」


『それだと、中井くんばっかり頑張ることになるじゃん』


「僕は好きでやるので」


『またそれ』


「駄目ですか」


『駄目じゃないけど』


 陽菜は少し迷い、片手を差し出した。


『じゃあ、これも半分ずつ』


 中井が差し出された手を見る。


「……手を繋いでもいいんですか」


『そのつもりで出したんだけど』


「すみません」


『謝らなくていいよ』


 中井は壊れ物に触れるように、陽菜の手を握った。


 大きく、温かい手だった。


 指が重なる。


 陽菜の胸が再び高鳴る。


 昨日触れた時は、すぐに離れてしまった。


 今は、離す理由がない。


『中井くん、手が熱いね』


「緊張してるので」


『あたしも少し緊張してる』


「櫻井さんも?」


『付き合ったばかりなんだから、当たり前でしょ』


 中井の顔が、また赤くなる。


「今の、もう一度言ってもらってもいいですか」


『何を?』


「付き合ったばかりって」


『嫌だよ。恥ずかしい』


「すみません」


『だから、すぐ謝らないの』


「はい」


 2人は手を繋いだまま、公園を出た。


     ◇


 駅へ向かう途中、中井が何度か陽菜を見ていた。


『さっきから、どうしたの?』


「夢じゃないかと思って」


『夢だったら、あたしは誰と手を繋いでるの』


「僕です」


『なら、夢じゃないよ』


「はい」


 中井は嬉しそうに笑う。


 陽菜も、つられて笑った。


 駅の近くまで来たところで、中井が足を止める。


「櫻井さん」


『何?』


「1つ、お願いがあります」


『また告白?』


「違います」


『冗談だよ』


 中井は一度呼吸を整え、陽菜を見る。


「これから、陽菜さんと呼んでもいいですか」


 陽菜は瞬きをする。


 中井の口から初めて聞いた、自分の名前。


 ただ名字が名前へ変わるだけなのに、急に距離が近くなった気がした。


『いいよ』


「ありがとうございます」


『呼んでみて』


「今ですか」


『うん』


 中井は告白の時と同じくらい緊張した顔になった。


「……陽菜さん」


 陽菜の頬が熱くなる。


『何?』


「呼んでみただけです」


『あたしが呼べって言ったんだけどね』


「すみません」


『ふふ』


 陽菜が笑う。


 呼ばれ慣れているはずの名前が、中井の声では違うものに聞こえた。


 駅の入口で、2人は繋いでいた手を離す。


「それじゃ、また明日。陽菜さん」


『うん。また明日ね、中井くん』


 中井は何度も振り返りながら、改札へ向かっていった。


 陽菜も反対側のホームへ向かう。


 まだ、恋人になった実感は薄い。


 中井への気持ちが、昨日までと大きく変わったわけでもない。


 それでも、離れた手が少しだけ寂しいと思った。


     ◇


 翌朝。


 中井は普段より30分早く会社へ来ていた。


 何度も自分の机を拭き、パソコンを起動し、時計を確認する。


 柚希が営業部へ入ってくる。


「中井くん、早いですね」


「おはようございます」


「何か今日、顔が明るくないですか?」


「普通です」


「絶対何かあった顔ですよ」


「何もありません」


「怪しい」


 凛も出勤し、自席へ鞄を置く。


「おはようございます」


「凛ちゃん、中井くんが変」


「いつもより姿勢がいいかも」


「遠藤さんまで」


 彩花も営業部へ入ってくる。


「朝から何を騒いでるの」


「中井くんが何か隠してるんです」


「仕事に関係ないなら放っておきなさい」


 最後に陽菜と樹里が入ってきた。


『おはようございます』


 陽菜の声に、中井が即座に立ち上がる。


「おはようございます、陽菜さん」


 営業部の時間が止まった。


 柚希が口を開けたまま、中井を見る。


 凛も目を見開いている。


 彩花が僅かに眉を上げた。


 黒澤まで、手にしていた書類から顔を上げる。


 樹里は何も言わず、中井を見た。


 陽菜だけが、いつもと変わらない笑顔を返す。


『おはよう、中井くん』


「……はい」


 中井は、自分がどこで何と呼んだのかに気づいたらしい。


 見る見るうちに顔が赤くなっていく。


 柚希が勢いよく立ち上がった。


「今、陽菜さんって呼びました?」


「……呼びました」


「どうしてですか?」


「それは」


「昨日まで櫻井さんでしたよね?」


「はい」


「一晩で何があったんですか?」


「早川さん、声が大きいです」


「だって、名前で呼びましたよ!」


『柚希ちゃん』


 陽菜が自席へ鞄を置く。


『昨日から、そう呼んでもらうことにしたの』


「どうしてですか?」


『中井くんと付き合うことになったから』


「ええっ!」


 柚希の声が、先ほどよりさらに大きくなった。


 凛が慌てて周囲を見る。


「柚希ちゃん、他の部署にまで聞こえるよ」


「だって! 付き合ったんですか?」


『うん』


「いつから?」


『昨日から』


「告白は?」


『中井くんから』


「返事は?」


『いいよって』


「軽い!」


『駄目なの?』


「駄目じゃないですけど、もっとこう、悩んだり、眠れない夜を過ごしたりするものじゃないんですか?」


『あたし、昨日は普通に寝たよ』


 中井が僅かに傷ついた顔をする。


『でも、中井くんのことは考えたよ』


「本当ですか」


『うん』


 中井の表情が、すぐに明るくなる。


 彩花が呆れたように息を吐いた。


「中井くん、分かりやすいわね」


 樹里は何も言わず、2人を見ている。


 柚希は興奮したまま陽菜へ詰め寄った。


「どこで告白されたんですか?」


『会社の近くの公園』


「何て言われたんですか?」


『それは言わない』


「手は繋ぎました?」


『何でそこまで答えないといけないの』


「繋いだんですね?」


『仕事して』


「まだ始業前です」


『じゃあ、自分の席で待ってて』


「休憩時間に全部聞きますからね」


 黒澤が部長席から立ち上がる。


「朝から随分騒がしいな」


「黒澤部長! 陽菜さんと中井くんが付き合ったんです!」


「早川さん。聞こえてるから、もう叫ばなくていい」


「すみません」


 黒澤は中井を見る。


「本当か、中井」


「はい」


「櫻井さんも、それでいいんだな」


『はい』


「そうか」


 黒澤は一度、営業部全体を見回した。


「社内恋愛自体は問題ない。呼び方まで俺が口を出すつもりもない」


 中井が少しだけ安心する。


「ただし、仕事と私情は分けろ」


「はい」


『分かりました』


「中井。浮かれてミスするなよ」


「気をつけます」


「櫻井さんも、後輩だからって仕事で甘やかすな」


『甘やかしません』


「ならいい。ほら、仕事を始めるぞ」


 黒澤の一言で、社員たちが自席へ戻っていく。


 それでも柚希だけは、陽菜の隣を離れようとしない。


「陽菜さん、本当にあとで聞かせてくださいね」


『覚えてたらね』


「絶対ですよ」


『はいはい』


 陽菜は笑いながらパソコンを起動した。


 中井は周囲に知られた恥ずかしさで俯いている。


 それでも口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。


     ◇


 昼休み。


 陽菜が給湯室で茶を淹れていると、樹里が入ってきた。


 扉が閉まり、2人きりになる。


『陽菜』


 呼び方が変わる。


『うん』


『本当に、中井さんでいいのか』


『総長まで同じこと聞くの?』


『大事なことだからな』


 陽菜は湯呑みへ茶を注ぐ。


『中井くんのこと、嫌いじゃないよ』


『好きなのか』


『まだ、はっきりとは分からない』


 樹里は黙って陽菜を見る。


『でも、一緒にいると楽しい。あたしのこともよく見てくれてる』


『ああ』


『もっと知りたいって思ったから、付き合った』


『そのことは、中井さんも知っているのか』


『ちゃんと話したよ。中井くんと同じくらい好きかは、まだ分からないって』


『それで、何と』


『今はそれで十分だって』


 樹里の表情が、僅かに和らぐ。


『そうか』


『反対?』


『お前が自分で決めたことなら、反対しない』


『ありがとう』


『ただ』


 樹里は少しだけ声を低くする。


『いずれ、過去のことをどこまで話すかは考えろ』


 陽菜の動きが止まる。


 背中に刻まれた薔薇。


 Rose girls。


 総長と呼び続けている樹里。


 家族同然に思っている美園。


 中井は、そのどれも知らない。


『……うん』


『今すぐ全て話す必要はない』


『分かってる』


『だが、隠したまま関係を深くすれば、あとでお前自身が苦しくなる』


『いつか、ちゃんと話すよ』


『そうしろ』


 陽菜は樹里を見る。


『総長』


『何だ』


『中井くんに何か言わないでね』


『何も言わない』


『本当?』


『今のところは』


『その言い方、怖いよ』


『中井さんが、お前を大切にしている間は何も言わない』


『大丈夫だよ。中井くん、すごく優しいから』


『優しいだけで全部が決まるわけじゃない』


『分かってる』


 陽菜は茶を2つ持ち上げた。


『でも、あたしが選んだ人だから』


 樹里は一瞬黙った。


 そのあと、僅かにうなずく。


『なら、自分の目で見ろ』


『うん』


 陽菜は給湯室を出ていった。


 1つは自分の席へ。


 もう1つは、中井の机へ持っていく。


 樹里はその背中を見送り、静かに息を吐いた。


     ◇


 終業後。


 陽菜と中井は、会社から少し離れた場所で合流した。


 人目が少なくなったところで、中井が名前を呼ぶ。


「陽菜さん」


『何?』


「今日、みんなに話すとは思いませんでした」


『隠した方がよかった?』


「いえ。嬉しかったです」


『じゃあ、いいじゃん』


「ただ、驚きました」


『中井くん、隠し事が苦手そうだし』


「多分、呼び方ですぐに気づかれてました」


『実際、すぐに気づかれたね』


「はい」


『でも、あたしは名前で呼ばれる方が好きだよ』


「本当ですか」


『うん。ちょっと恥ずかしいけど』


 中井は嬉しそうに笑った。


 少し迷ったあと、口を開く。


「陽菜さん」


『うん』


「次の休み、デートしてもらえませんか」


 陽菜が足を止める。


『してもらえませんか、じゃなくて』


「はい」


『付き合ってるんだから、一緒に行こうでいいよ』


 中井の顔が赤くなる。


「じゃあ……次の休み、僕とデートに行ってください」


『あまり変わってないよ』


「すみません」


『でも、行く』


「本当ですか」


『うん。どこに行く?』


「陽菜さんは、行きたいところがありますか」


『中井くんが誘ったんだから、中井くんが決めて』


「分かりました」


『変なところは嫌だからね』


「調べます」


『仕事みたいに調べすぎなくていいよ』


「失敗したくないので」


『初めてなんだから、失敗してもいいじゃん』


 陽菜は笑いながら、中井の手を取った。


『2人で楽しかったら、それでいいよ』


「はい」


『何着ていこうかな』


「何でも似合うと思います」


『そういうのは参考にならないよ』


「本当に何でも似合うので」


『中井くん、今からそんな感じで大丈夫?』


「何がですか」


『そのうち、また舎弟って言われるよ』


「彼氏です」


 中井は、今度ははっきりと答えた。


 陽菜が僅かに目を見開く。


 普段の中井なら、恥ずかしさで言えなかっただろう。


『そっか』


「はい」


『中井くん、あたしの彼氏なんだ』


「そうです」


 陽菜は自分で口にして、少し照れたように笑う。


『じゃあ、楽しみにしてるね。初デート』


「絶対に楽しませます」


『力みすぎないでよ』


 2人は手を繋ぎ、駅へ向かって歩き出した。


 中井にとって、この交際は長く抱えてきた恋が叶ったものだった。


 陽菜にとっては、まだ始まったばかりの関係だった。


 想いの深さは、同じではない。


 けれど陽菜は、その差を埋めるためではなく、中井という男を知るために隣を歩き始めた。


 やがて自分の方が深く、離れられないほど彼を愛することになるとは、まだ知らないまま。

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