49話「後輩ではなく」
それから数日後。
営業部では、朝から翌月分の物件資料を整理していた。
陽菜は共有棚から厚いファイルを何冊か取り出すと、そのうち半分を中井へ差し出した。
『中井くん、これお願いしてもいい?』
「はい」
中井はすぐに立ち上がり、差し出された分だけを受け取る。
以前のように、陽菜が持っているものまで全て奪おうとはしない。
2人は並んで、それぞれの机へファイルを運んだ。
その様子を見ていた柚希が、凛へ小声で囁く。
「最近、陽菜さんの方から中井くんを呼ぶことが増えたよね」
「そうかも」
「旅行前は、陽菜さんが全部1人でやってたのに」
「中井さんに頼るようになったんだと思う」
「それって、結構な進展じゃない?」
「仕事を頼んでるだけだよ」
「凛ちゃんは分かってないなあ」
柚希は意味ありげに笑う。
陽菜が自席へ戻ってくると、柚希は待ち構えていたように椅子を寄せた。
「陽菜さん」
『何?』
「最近、中井くんと仲いいですよね」
『そうかな』
「前より明らかに話してます」
『同じ仕事をすることが増えたからじゃない?』
「それだけですか?」
『それ以外に何があるの?』
陽菜は本当に分かっていない顔をしている。
柚希は周囲を確かめてから、声をさらに小さくした。
「中井くん、絶対に陽菜さんのこと好きですよ」
『え?』
陽菜の手が止まる。
『まさか』
「どうしてですか」
『あたし、先輩だよ』
「会社には先輩と付き合ってる人なんて、いくらでもいますよ」
『でも、中井くんはあたしのことを頼れる先輩だと思ってくれてるだけでしょ』
「本当にそう見えます?」
『うん』
陽菜は答えながら、少し離れた席にいる中井を見た。
中井は真剣な表情でパソコンへ向かっている。
視線に気づいたのか、顔を上げた。
陽菜と目が合う。
中井は一瞬で表情を明るくし、軽く頭を下げた。
陽菜も反射的に笑顔を返す。
その直後、中井は恥ずかしそうに目を逸らした。
「今のを見ても?」
『……礼儀正しい後輩だから』
「陽菜さんにしかやってませんよ」
『そんなことないって』
陽菜は書類へ視線を落とす。
柚希に言われるまで、考えたこともなかった。
中井が自分を好き。
そんなはずはないと思う。
旅行中に荷物を持ってくれたのも、体調を崩した時に水やゼリーを買ってきてくれたのも、中井が優しい人間だからだ。
それでも一度意識すると、先ほど目が合った時の中井の表情が頭から離れなかった。
(……違うよね)
陽菜は余計な考えを追い出すように、仕事へ戻った。
◇
午後。
取引先から、翌朝の打ち合わせで使用する資料を変更してほしいと連絡が入った。
顧客側の希望条件が増え、候補物件を改めて選び直す必要がある。
黒澤が時計を見る。
「今日中に終わらせないと間に合わないな」
樹里と彩花は別件の商談で外出している。
凛と柚希にも、すでに担当している仕事があった。
陽菜が席を立つ。
『私がやります』
「1人で間に合うか?」
『以前使った資料を直せば、何とか』
「僕も手伝います」
中井も続いて立ち上がった。
黒澤が2人を見る。
「中井、自分の仕事は終わってるのか」
「今日中の分は終わっています」
「なら頼む。櫻井さん、1人で抱えるなよ」
『はい』
「遅くとも20時までには切り上げろ。終わらなければ、残りは俺が引き取る」
『分かりました』
「中井も、無理だと思ったら早めに言え」
「はい」
2人は必要な資料を集め、作業を始めた。
陽菜が候補物件を選び、中井が周辺環境や交通手段を調べる。
条件に合わないものを外し、新しい比較表へ入力していく。
中井の作業は以前より速くなっていた。
必要な情報の優先順位も、自分で判断できている。
『中井くん、こっちの物件はどう?』
「駅からは遠いですけど、先方の事業所までならバス1本です。通勤時間は、他の候補より短くなります」
『本当だ。候補に残そう』
「周辺にスーパーと病院もあります」
『じゃあ、生活環境の欄もお願い』
「分かりました」
陽菜は次の資料を開く。
作業へ集中しようとするが、時折中井を見てしまう。
袖を肘まで捲り、パソコンへ向かう横顔。
数字を確認する真剣な目。
分からないことがあっても、すぐに陽菜を頼るのではなく、まず自分で調べようとする姿勢。
旅行中、自分の後ろをついて回っていた中井とは、少し違って見えた。
(仕事してる時は、結構頼もしいんだ)
陽菜が見ていることに、中井は気づいていない。
それがかえって、陽菜を落ち着かなくさせた。
◇
終業時間を過ぎると、営業部から少しずつ人が減っていった。
凛と柚希が帰り、外出していた樹里と彩花も報告を終えて退勤する。
『櫻井さん』
帰り支度をした樹里が、陽菜の机へ来る。
『まだかかりますか』
『あと少しです』
『手伝いましょうか』
『中井くんもいるので、大丈夫です』
陽菜の返事を聞き、樹里の視線が中井へ移る。
中井は立ち上がった。
「日高先輩、僕が最後まで手伝います」
『そうですか』
「20時までには終わらせます」
『櫻井さんを頼みます』
『日高先輩、あたしの方が先輩ですよ』
『それは知っています』
樹里は陽菜を見る。
『無理はしないでください』
『分かってます』
『中井さんも、遅くなりすぎないように』
「はい」
樹里は2人を残して営業部を出た。
廊下を歩きながら、一度だけ振り返る。
陽菜と中井は、すでに同じ画面を見ながら仕事へ戻っていた。
◇
午後7時を過ぎた頃。
営業部に残っているのは、陽菜と中井だけになっていた。
陽菜は作成した資料を印刷し、ページを捲りながら確認する。
『これで大丈夫かな』
「僕も確認します」
『中井くんは、少し休んでいいよ』
「櫻井さんも休んでないじゃないですか」
『あたしは平気』
「その言葉、今日は何回目ですか」
『え?』
「朝から4回は聞きました」
『数えてたの?』
「気になったので」
中井は陽菜から資料の半分を受け取る。
「僕は後ろから確認します。櫻井さんは前からお願いします」
『うん』
2人は別々の方向から資料を確認していく。
数分後、中井の手が止まった。
「櫻井さん」
『何?』
「この物件、管理費が前の資料のままです」
陽菜が該当箇所を見る。
『本当だ』
参照した資料が古かった。
現在の管理費とは金額が異なっている。
『危なかった。ありがとう』
「他の数字も、同じ資料から移していませんか」
『確認する』
陽菜は元資料を開き直す。
中井も隣に椅子を寄せ、2人で数字を照合する。
肩が触れそうな距離だった。
陽菜が画面へ手を伸ばす。
同じ箇所を指そうとした中井の手と、指先が触れた。
『あ……』
「すみません」
中井が反射的に手を引く。
『ううん』
陽菜も自分の手を膝へ戻した。
ただ指が触れただけ。
それなのに、胸の奥が僅かに跳ねた。
隣へ座る中井を、今までとは違う距離で感じる。
自分より大きな手。
捲った袖から伸びる腕。
普段は頼りないほど素直に見えるのに、黙って仕事をしている横顔には、思っていたより大人びたものがあった。
「櫻井さん?」
『何?』
「顔、赤くないですか」
『ちょっと暑いだけ』
「空調、下げますか」
『大丈夫』
「また言いました」
『何を?』
「大丈夫って」
中井が、少し困ったように笑う。
陽菜は視線を逸らした。
『本当に大丈夫だよ』
「なら、いいんですけど」
中井はそれ以上追及せず、再び画面へ目を向けた。
陽菜も仕事へ戻ろうとする。
だが、指先に残った感覚は、なかなか消えてくれなかった。
◇
資料が完成したのは、午後7時半を過ぎた頃だった。
陽菜は椅子の背もたれへ体を預ける。
『終わった……』
「お疲れさまでした」
『中井くんも、お疲れさま』
「少し待っていてください」
中井は立ち上がり、給湯室へ向かった。
戻ってきた手には、温かい飲み物が2つある。
「どうぞ」
『ありがとう。お茶?』
「カフェインが少ないものにしました。もう夜なので」
『本当に気が利くね』
「旅行中も言われました」
『嫌だった?』
「嬉しかったです」
中井は陽菜の向かいへ座る。
誰もいない営業部。
仕事中は気にならなかった時計の音が、妙に大きく聞こえる。
陽菜は温かい飲み物を一口飲んだ。
『中井くん』
「はい」
『どうして、そんなにあたしのことを気にしてくれるの?』
中井の手が止まる。
陽菜は、柚希に言われたことを思い出していた。
中井は、自分のことが好きなのではないか。
聞くつもりはなかった。
だが、2人きりになった静けさの中で、自然と言葉が出ていた。
「迷惑でしたか」
『違うよ』
「なら、よかったです」
『答えになってないよ』
「……そうですね」
中井は紙コップへ視線を落とす。
「櫻井さんは、いつも誰かのことを見てるからです」
『あたしが?』
「困ってる人がいれば、言われる前に手伝います。誰かが失敗しても、責める前にどうすれば直せるかを考えます」
『そんな立派なものじゃないよ』
「僕には、そう見えます」
中井が顔を上げる。
「でも、櫻井さんが困ってる時は、誰が気づくんだろうと思ったんです」
陽菜は何も言えなかった。
「櫻井さんは、大丈夫って言うから」
『……本当に大丈夫な時もあるよ』
「はい。でも、大丈夫じゃない時も言いますよね」
研修旅行の夜。
美園のことを知り、部屋から出られなかった陽菜。
中井は事情を知らない。
それでも、何もいらないという言葉をそのままにはしなかった。
「理由を話したくないなら、話さなくていいと思います」
中井の声は穏やかだった。
「笑えない時は、笑わなくてもいいです」
『中井くん』
「僕の前でまで、いつも元気な先輩でいなくても大丈夫です」
陽菜の胸が大きく鳴った。
中井が自分を見つめている。
憧れている先輩を見る目ではなかった。
守ってほしい後輩の目でもない。
目の前にいる1人の女性を、大切に見つめる男の目だった。
陽菜は初めて、その視線を正面から受け止めた。
先に逸らしたのは、陽菜だった。
『……ありがとう』
「いえ」
『でも、あたしは先輩だからね。中井くんが困った時は、ちゃんと言ってよ』
「はい」
『半分ずつだから』
「そうですね」
中井は笑う。
陽菜も笑顔を返した。
けれど今までとは違い、その顔を真っ直ぐ見続けることができなかった。
◇
会社を出ると、雨が降っていた。
予報にはなかったらしく、中井は傘を持っていない。
『中井くん、傘は?』
「ないです。駅まで走ります」
『駄目だよ。風邪引くでしょ』
「でも、櫻井さんの傘に入ると狭いので」
『2人くらい入れるよ』
陽菜が傘を開く。
『駅まで一緒に行こう』
「いいんですか」
『中井くんには、今日いっぱい助けてもらったから』
「ありがとうございます」
中井が傘へ入る。
2人で並ぶと、想像していたより距離が近かった。
肩が触れる。
歩調を合わせるたび、腕も僅かに重なる。
中井は陽菜が濡れないよう、傘を彼女の方へ傾けていた。
そのせいで、中井の右肩が雨に濡れていく。
『中井くん、そっち濡れてるよ』
「僕は大丈夫です」
『大丈夫って言うの禁止』
陽菜は傘の柄を持つ中井の手へ、自分の手を添えた。
傾いていた傘を、2人の中央へ戻す。
手が重なる。
中井の足が止まりかけた。
『半分ずつって言ったでしょ』
「……はい」
陽菜はすぐに手を離した。
それでも、また胸が強く鳴る。
雨の音に紛れていなければ、中井にまで聞こえてしまいそうだった。
駅までの道を、2人はゆっくりと歩いた。
会話は少なかった。
それでも、不思議と居心地は悪くない。
隣を歩く中井を意識するたび、陽菜の頬に熱が集まる。
(何、これ)
旅行中までは、可愛い後輩だった。
今日の朝も、まだそうだった。
けれど今は、同じ傘の下にいる中井を、後輩とだけ思うことができない。
◇
帰宅後。
陽菜はベッドへ横になり、スマートフォンを見つめていた。
中井とのLINEを開く。
これまでのやり取りは、ほとんどが仕事に関するものだった。
資料の確認。
集合時間。
研修旅行中の連絡。
そこに混じって、体調を気遣う短い文章がある。
「櫻井さん、体調は大丈夫ですか?」
「何か必要なものはありますか?」
文字を読み返すだけで、会社で向けられた目を思い出す。
(あたしのこと、好きなのかな)
今度は、すぐに否定できなかった。
もし本当にそうなら。
自分は、どう思っているのだろう。
陽菜は枕へ顔を埋める。
『何で中井くんのことばっかり考えてるの……』
呟いた直後、スマートフォンが震えた。
画面には、中井の名前が表示されている。
「今日は、ありがとうございました」
続けて、もう1通届く。
「明日の仕事終わり、少しだけ時間をもらえませんか?」
陽菜の指が止まる。
仕事の相談かもしれない。
今日の資料について、何か確認したいだけかもしれない。
それでも、胸の音が急に大きくなった。
陽菜は何度か文章を打ち直し、ようやく返信する。
『うん。大丈夫だよ』
「ありがとうございます」
「明日、会社の前で待っています」
陽菜はスマートフォンを胸へ抱いた。
明日、中井が何を話そうとしているのか。
まだ分からない。
けれど、もし柚希の言ったことが本当なら。
(あたし、何て答えるんだろう)
旅行中まで、中井は可愛い後輩だった。
今日までは、それで説明できた。
だが今はもう、後輩という言葉だけでは片づけられなくなっていた。




