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48話「半分」

研修旅行を終えてから、最初の出勤日。


 陽菜が営業部へ入ると、真っ先に中井が立ち上がった。


「おはようございます、櫻井さん」


『おはよう、中井くん』


「鞄、持ちます」


『会社の中まで持たなくていいよ』


「でも、荷物がありますよね」


 陽菜の手には、普段使っている鞄のほかに紙袋があった。


『これはみんなへのお土産』


「じゃあ、それを持ちます」


『自分で持てるって』


「僕が持ちたいんです」


『朝から変わらないね』


 陽菜は笑い、紙袋を中井へ渡した。


 中井は大切なものを預かったように、両手で持つ。


 その様子を自席から見ていた柚希が、凛へ顔を寄せた。


「旅行が終わっても、舎弟のままだね」


「中井さんに聞こえるよ」


「聞こえてませんよね?」


「聞こえてます」


 中井が振り返る。


「それと、舎弟ではありません」


「じゃあ、何なんですか?」


「後輩です」


「陽菜さん専属の?」


「営業部の後輩です」


「でも、私の荷物は持ってくれませんよね」


「早川さんは、何も持ってないじゃないですか」


「正論で返された」


 柚希は肩を落とす。


 凛が小さく笑った。


 陽菜は自席へ着くと、紙袋から箱を取り出した。


『これ、みんなで食べて』


「ありがとうございます」


 凛が受け取り、休憩用のテーブルへ置く。


 陽菜は、さらに紙袋の底から小さな包みを取り出した。


『中井くん』


「はい」


『これは中井くんに』


 差し出された包みを見て、中井の動きが止まる。


「……僕にですか」


『旅行中、荷物を持ってくれたり、体調が悪い時に色々買ってきてくれたりしたでしょ。そのお礼』


「そんな、悪いです」


『大したものじゃないよ』


「でも」


『受け取ってくれないと、あたしが困る』


 中井は両手で包みを受け取った。


「ありがとうございます」


『うん』


「一生、大切にします」


『食べ物だから、ちゃんと食べてね』


「……はい」


 中井が包みを見る。


 中に入っているのは、旅先で売られていた焼き菓子だった。


 陽菜が自分のためだけに選んだ。


 その事実だけで、中井にとっては簡単に食べられないほど価値のあるものになっていた。


 柚希が机越しに覗き込む。


「中井くんだけ、個別のお土産ですか?」


『旅行中のお礼だよ』


「いいなあ」


『柚希ちゃんには、みんなと同じお菓子があるでしょ』


「私も陽菜さんの荷物を持てばよかった」


「早川さんは、自分の荷物を森下さんに持たせてただろ」


 黒澤の声が飛んでくる。


「それは、体調が悪かったからです」


「飲みすぎただけだ」


「過ぎたことを何度も言わないでください」


「次の旅行でも同じことをしそうだから言ってるんだ」


 黒澤は書類を手に、中井の机まで歩いてきた。


「中井」


「はい」


「土産を眺めるのは休憩時間にしろ」


「すみません」


 中井は慌てて包みを机の引き出しへしまう。


「これ、午前中にまとめてくれ」


 黒澤が置いたのは、賃貸物件に関する資料だった。


「以前問い合わせのあった法人が、社員寮として借りられる物件を探してる。候補を3件まで絞って、比較表を作れ」


「分かりました」


「家賃と広さだけじゃなく、通勤時間と周辺環境も入れておけ」


「はい」


 黒澤は陽菜へ顔を向ける。


「櫻井さん。悪いけど、中井がまとめた後に最終確認を頼む」


『分かりました』


「ただし、櫻井さんが全部作り直すなよ」


『え?』


「中井に任せた仕事だからな。間違いがあれば教えてやってほしいけど、代わりに終わらせるな」


『……はい』


「返事に間があったな」


『気をつけます』


 黒澤は自席へ戻っていく。


 中井が陽菜を見た。


「櫻井さん、僕1人で大丈夫です」


『うん。分からないことがあったら聞いてね』


「はい」


 陽菜は自分の仕事へ戻った。


 それでも時折、中井の様子を確認している。


 中井は複数の物件資料を広げ、条件を書き出していた。


 家賃。


 間取り。


 築年数。


 最寄り駅。


 問い合わせ元の法人から、それぞれの事業所までの所要時間。


 資料だけでは分からない周辺環境は、自分で地図を開いて調べている。


 陽菜が手を出す必要はなかった。


     ◇


 昼前。


「櫻井さん、確認をお願いします」


 中井が比較表を持ってきた。


『もうできたの?』


「はい」


『早いね』


「研修旅行で使った資料の作り方を参考にしました」


 陽菜は比較表へ目を通す。


 必要な情報は、ほとんど揃っている。


 誤字もない。


 数字の間違いも見当たらなかった。


 ただ、表には情報が詰め込まれすぎていた。


『中井くん』


「はい」


『これ、すごく丁寧に調べてあるね』


「ありがとうございます」


『ただ、お客さんが一番知りたいのは何だと思う?』


「社員寮として使える物件かどうかです」


『うん。それを判断する時に、最初に見るものは?』


 中井が比較表を見直す。


「家賃と、入居できる人数……でしょうか」


『あたしもそう思う』


 陽菜は表の中央を指差した。


『今は情報が全部同じ大きさで並んでるから、大事なところが少し見つけにくいかな』


「なるほど……」


『調べた内容を減らす必要はないよ。最初に見る項目と、詳しく検討する時に見る項目を分けたら、もっと分かりやすくなると思う』


「一覧表と、詳細資料を分けるんですね」


『そう。それなら中井くんが調べたことも、全部無駄にならないでしょ』


「やってみます」


 中井は自席へ戻ろうとする。


 陽菜が呼び止めた。


『中井くん』


「はい」


『本当に丁寧に作ってあるよ。あたしが最初に作った時より、ずっとちゃんとしてる』


「櫻井さんより、ですか」


『あたし、最初は数字を1つ間違えて、日高先輩に見つけてもらったから』


 少し離れた席で、樹里が顔を上げる。


『櫻井さん』


『何ですか?』


『あの時は、1つではありません』


『そうでしたっけ?』


『家賃、管理費、駅までの所要時間。3つです』


『そんなに間違えてました?』


『覚えています』


『日高先輩、昔の失敗を細かく覚えすぎです』


『同じことを繰り返さないためです』


 中井が、驚いたように2人を見る。


「櫻井さんにも、そんな時があったんですね」


『あたしだって最初から何でもできたわけじゃないよ』


「すみません。櫻井さんは何でもできる人だと思ってました」


『何でもはできないよ』


 陽菜は笑う。


『できないことを、周りに助けてもらってるだけ』


 その言葉を聞き、中井は小さくうなずいた。


「分かりました。修正してきます」


『うん。お願い』


     ◇


 修正された比較表を見た黒澤は、内容を確認しながらうなずいた。


「見やすくなったな」


「ありがとうございます」


「調べた内容も悪くない。通勤時間を実際の勤務時間帯で出したのはいい」


「朝と夜で変わると思ったので」


「その視点は残せ」


 黒澤は資料を閉じる。


「ただ、最初から完璧に作ろうとしすぎだ。調べることに時間を使いすぎて、期限に遅れたら意味がないからな」


「はい」


「今回は櫻井さんが確認したけど、次は自分で優先順位をつけろ」


「分かりました」


「この資料は午後の打ち合わせで使う。中井も同席しろ」


「僕もですか」


「自分で作ったんだろ。質問された時に答えられるようにしておけ」


「はい」


 中井は緊張した表情を浮かべながらも、はっきりと返事をした。


 黒澤が自席へ戻る。


 陽菜は隣から、中井の肩を軽く叩いた。


『よかったね』


「櫻井さんのおかげです」


『あたしは少し見ただけだよ』


「その少しがなかったら、分かりにくいままでした」


『でも、調べたのは中井くんでしょ』


「はい」


『なら、自信持って』


「……はい」


 中井の返事には、先ほどより少しだけ力があった。


     ◇


 午後の打ち合わせを終え、中井が営業部へ戻ってきた。


 緊張が解けたのか、席へ座った瞬間に大きく息を吐く。


 柚希が隣から顔を覗き込んだ。


「どうでした?」


「何とか終わりました」


「怒られませんでした?」


「どうして怒られる前提なんですか」


「中井くん、緊張すると固まりそうだから」


「ちゃんと説明できました」


 黒澤が自席から口を挟む。


「最初の声は小さかったけどな」


「すみません」


「途中からは問題なかった。次もその調子でやれ」


「はい」


 陽菜が自席から笑顔を向ける。


『お疲れさま、中井くん』


「ありがとうございます」


『自分で説明できた?』


「はい。1つだけ黒澤部長に助けてもらいましたけど、他は答えられました」


『すごいじゃん』


 中井の顔に、照れたような笑みが浮かぶ。


「櫻井さんに教えてもらったおかげです」


『だから、あたしは少し見ただけだって』


「それでもです」


 柚希が2人を見比べる。


「何か、旅行前より距離が近くなってません?」


『仕事の話だよ?』


「中井くんは、そういう顔してませんけど」


「どういう顔ですか」


「褒めてもらった犬みたいな顔」


「犬じゃありません」


「じゃあ、舎弟」


「舎弟でもありません」


 凛が書類から顔を上げる。


「柚希ちゃん、仕事中だよ」


「ごめんなさい」


 注意され、柚希は自分の席へ戻った。


 中井も気持ちを切り替え、午後の報告書を作り始める。


 陽菜はその横顔を少しだけ見つめた。


 旅行中は、自分の周りを慌ただしく動く、親切で不器用な後輩だと思っていた。


 だが、今日の中井は違った。


 自分で考え、自分の言葉で説明し、黒澤からの指摘も素直に受け止めている。


(中井くん、仕事してる時は結構しっかりしてるんだ)


 陽菜は、初めて中井を後輩という枠の外から見た。


 恋愛感情ではない。


 それでも、今まで見えていなかった一面を知った。


     ◇


 終業時間が近づいた頃。


 陽菜は、翌日使う資料を別の棚へ移そうとしていた。


 厚いファイルを何冊も重ね、両腕で抱え上げる。


 そのまま歩き出そうとして、足を止めた。


 旅行中、中井に言われた言葉を思い出す。


 持てる人に任せていたら、その人だけがずっと持つことになる。


 陽菜は少し迷い、近くにいる中井を呼んだ。


『中井くん』


「はい」


『今、手は空いてる?』


「空いてます」


 返事と同時に、中井が立ち上がる。


 陽菜は抱えているファイルの半分を示した。


『半分、お願いしてもいい?』


 中井の目が僅かに見開かれた。


「はい」


 嬉しさを隠しきれない返事だった。


 それでも、全部を奪うことはしない。


 陽菜が差し出した分だけを受け取る。


『向こうの棚まで』


「分かりました」


 2人は並んで歩き出した。


 ファイルを運び終え、棚へ収める。


『助かった。ありがとう』


「こちらこそ、ありがとうございます」


『どうして中井くんがお礼を言うの?』


「頼ってもらえたので」


『変なの』


「すみません」


『謝るところじゃないよ』


 陽菜は笑った。


『また半分お願いするかも』


「何度でも言ってください」


『うん』


 中井も、少しだけ笑う。


 離れた場所から見ていた樹里は、静かに2人の姿を追っていた。


 旅行中の中井は、陽菜の後ろをついて回っていた。


 だが今は、同じ量の荷物を持ち、陽菜の隣を歩いている。


「気になる?」


 彩花の声に、樹里が振り返る。


『何がですか』


「櫻井さんと中井くん」


『仕事を手伝っていただけでしょう』


「そうね。今は」


 彩花は自分の書類へ視線を戻す。


「でも、櫻井さんが自分から誰かを頼るのは珍しいんじゃない?」


 樹里は答えなかった。


 彩花の言うとおりだった。


 陽菜は誰かに与えることには慣れている。


 困っている者を見つければ、頼まれなくても手を差し伸べる。


 その一方で、自分が誰かへ頼ることはほとんどない。


 その陽菜が、中井へ自分から半分を渡した。


 小さな変化だった。


 まだ、恋と呼べるものではない。


 それでも樹里は、2人の間に生まれ始めたものを無視できなかった。


     ◇


 帰宅後。


 中井は鞄から、陽菜にもらった土産を取り出した。


 包装を崩さないよう、丁寧に開く。


 中には数個の焼き菓子が入っていた。


 食べ物だから、ちゃんと食べてね。


 陽菜に言われた言葉を思い出し、ようやく1つだけ封を開ける。


 その時、スマートフォンが震えた。


 陽菜からのLINEだった。


『今日は資料を手伝ってくれてありがとう』


『中井くんに半分持ってもらったから、すぐ終わったよ』


 中井は何度も文章を打っては消した。


「いつでも頼ってください」


 それだけでは、素っ気ない気がする。


「櫻井さんのためなら何でもします」


 これでは、また舎弟と言われる。


 悩んだ末に、短い文章を送った。


「こちらこそ、頼ってもらえて嬉しかったです」


 すぐに既読がつく。


『じゃあ、またお願いするね』


 笑顔のスタンプが送られてきた。


 中井は画面を見つめたまま、静かに息を吐く。


(また、か)


 たった2文字が、何度も頭の中で繰り返される。


 中井は焼き菓子を一口食べた。


 味は、ほとんど分からなかった。


 それでも今まで食べた何よりも、美味しいと思った。


 陽菜が誰かへ荷物を渡すことを覚えた日。


 中井は初めて、その半分を任された。

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