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58話「帰りたくない夜」

翌朝、柚希はいつもと同じ時間に出社した。


 昨夜、陽菜に自宅の近くまで送ってもらったあとも、ほとんど眠れなかった。


 目を閉じるたび、田村の言葉が蘇った。


 ――好きにも、いろいろあるだろ。


 何度も寝返りを打ち、ようやく眠りに落ちた頃には、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。


 鏡の前で普段より丁寧に化粧をしたが、腫れた目元までは隠せていない。


 それでも、会社を休もうとは思わなかった。


 自分から関係を終わらせた翌日に休めば、田村から逃げたような気がした。


「おはようございます」


 営業部へ入ると、陽菜がすぐに顔を上げた。


『柚希ちゃん、おはよ』


「おはようございます、陽菜さん」


 陽菜は柚希の顔を見ても、昨夜のことには触れなかった。


 ただ、椅子へ座ろうとした柚希の机に、温かいカフェオレを置く。


「これ……」


『朝、二本出てきた』


「自動販売機からですか?」


『うん。あたし、一本しか買ってないのに』


「そんなことあります?」


『日頃の行いがいいからじゃない?』


 缶には、近くのコンビニの値札が貼られたままだった。


 柚希はそれに気づいたが、何も言わなかった。


「ありがとうございます」


『どういたしまして。自動販売機に言っておく』


 柚希がカフェオレへ手を伸ばしたところで、近くを通った女性社員が足を止めた。


「早川さん、目どうしたの? ちょっと腫れてない?」


「えっと……」


『あたしが泣かせた』


 陽菜が、柚希より先に答えた。


「櫻井さんが?」


『柚希ちゃんが楽しみに取っておいたプリン、勝手に食べたから』


「プリンで、そんなに泣く?」


『限定品だったんだよ。女には、絶対に譲れないプリンがあるの』


「そういうもの?」


『そういうもの』


 陽菜が真顔で言い切ると、女性社員は納得しきれない顔のまま自分の席へ戻っていった。


 その背中を見送り、柚希は小声で尋ねる。


「どうしてプリンなんですか?」


『咄嗟に浮かんだのが、それだった』


「もう少し信じられそうな理由、なかったんですか?」


『柚希ちゃんが泣くほど大事にしてそうな食べ物、プリンくらいしか思いつかなかった』


「私、どんなふうに見えてるんですか」


『プリンを愛する女』


「初めて言われました」


 思わず笑うと、陽菜も口元を緩めた。


『無理して笑わなくていいからね』


「今のは普通に呆れただけです」


『それならよし』


 陽菜はそれ以上、柚希を特別扱いしなかった。


 仕事の進捗を尋ね、必要な資料を渡し、いつものように軽口を叩く。


 その距離が、今の柚希にはありがたかった。


          ◇


 午前中、柚希は資料を別の部署へ届けるため、廊下を歩いていた。


 角を曲がった先から、田村が来る。


 足が止まりそうになった。


 田村も柚希に気づき、気まずそうに視線を逸らす。


「……おはよう」


「おはようございます」


 柚希は頭を下げ、そのまま横を通り過ぎようとした。


「柚希」


 呼び止められる。


 昨日までなら、その声を聞くだけで胸が高鳴った。


 今も胸は痛んだ。


 それでも、振り返らなかった。


「会社では、早川と呼んでください」


「昨日のことだけど、やっぱりちゃんと話した方が――」


「仕事の話ですか?」


「いや、そうじゃないけど」


「それなら、会社では話しません」


 柚希は歩き出した。


 足が震えている。


 角を曲がり、田村の姿が見えなくなったところで、壁に手をついた。


(言えた)


 怖かった。


 声を聞けば、また気持ちが揺らぐと思っていた。


 それでも、戻らなかった。


 大きく息を吸い、抱えていた資料を持ち直す。


「早川さん?」


 前方から来た彩花が、不思議そうに柚希を見ていた。


「大丈夫? 顔色、悪いけど」


「大丈夫です。少し立ち眩みがしただけなので」


「座る?」


「いえ。本当に大丈夫です」


 彩花は柚希の顔をしばらく見つめたあと、廊下の角へ視線を向けた。


 その先には、遠ざかっていく田村の背中が見える。


 彩花の目が、わずかに細くなった。


「……そう」


 何かに気づいたようだったが、それ以上は聞かなかった。


「その資料、向こうへ持っていくの?」


「はい」


「私も同じ方向だから、半分持つ」


「でも」


「立ち眩みした人に全部持たせて、廊下でぶちまけられた方が迷惑なの」


「ありがとうございます、彩花さん」


「別に。ついでよ」


 彩花は資料の半分を奪うように受け取り、柚希の隣を歩き出した。


 歩幅は、柚希に合わせて少しだけ遅かった。


          ◇


 昼休み。


 柚希が陽菜、凛と食事をしていると、陽菜が弁当の卵焼きを箸で持ち上げながら尋ねた。


『午前中、田村さんと会った?』


 柚希の手が止まる。


「どうして分かったんですか?」


『廊下ですれ違ったけど、変な顔してたから』


「どんな顔ですか?」


『自分の思い通りにならなくて、困ってる顔』


「陽菜さん、本人に何か言ってないですよね?」


『言ってないよ』


「本当ですか?」


『本当。柚希ちゃんが自分で終わらせたことに、あたしが勝手に口出すわけないじゃん』


 陽菜の返事に、柚希は安堵したように息を吐いた。


「呼び止められました」


『うん』


「でも、会社では早川と呼んでくださいって言えました。仕事以外の話は、ここではしないとも言いました」


『言えたんだ』


「足は震えてましたけど」


『震えてても言えたなら、もっとすごいでしょ』


 陽菜が当然のように答える。


 隣で聞いていた凛も、静かに頷いた。


「柚希ちゃん、頑張ったね」


「……ありがとう、凛ちゃん」


 柚希は箸の先で、ご飯を小さく崩した。


「でも、まだ好きなんです」


『うん』


「今朝も、起きた瞬間にLINEが来てないか確認しそうになりました。もうブロックしたのに」


『ずっと待ってたから、癖になってるんだよ』


「馬鹿みたいですよね」


『馬鹿じゃないよ』


 陽菜の声から、ふざけた調子が消える。


『好きだった次の日に、全部忘れられる方が不自然じゃん』


「いつになったら、忘れられるんでしょう」


『忘れなくてもいいんじゃない?』


「え?」


『そのうち、思い出しても痛くなくなれば、それでいいと思う』


 柚希は黙った。


 忘れることしか、立ち直る方法はないと思っていた。


 陽菜の言葉は、その思い込みに小さな逃げ道を作ってくれた。


          ◇


 終業時刻が近づくにつれ、柚希の口数は少なくなった。


 仕事が終われば、一人で帰らなければならない。


 昨夜までなら、田村からのLINEを待っていた時間だった。


 予定がなくても、もしかしたら会えるかもしれないと思うだけで、帰り道には意味があった。


 今夜は、何も来ない。


 自分で来ないようにしたのに、そのことが寂しかった。


『柚希ちゃん』


 帰り支度をしていた陽菜が、声をかける。


『今日、何か予定ある?』


「ありません」


『じゃあ、ご飯食べて帰ろうよ』


「陽菜さん、中井さんとの予定は?」


『今日はないよ』


「でも……」


『一人でいたいなら、無理に誘わない』


 柚希は鞄の持ち手を握った。


「一人では……いたくないです」


『分かった』


 陽菜はそれだけ言って、柚希の気持ちを恥じさせないよう、普段と同じ顔で頷いた。


『凛ちゃんも来る?』


「はい。私は大丈夫です」


「二人とも、ありがとうございます」


 そのとき、少し離れた席で帰り支度をしていた彩花が、三人へ視線を向けた。


 午前中の廊下で、柚希と田村の間に何かあったことには気づいている。


 だが、聞こえないふりをして、そのまま鞄を持ち上げた。


『彩花さん』


 陽菜が呼び止める。


「何?」


『これからご飯行くんだけど、彩花さんも来ない?』


「どうして私が?」


『お腹空いてそうだから』


「意味が分からない」


『午前中、柚希ちゃんの資料を持ってくれたんでしょ。そのお礼も兼ねて』


「櫻井さんが礼をすることじゃないでしょ」


『じゃあ、柚希ちゃんから誘って』


「私に振るんですか?」


 突然話を向けられ、柚希が目を丸くする。


 彩花は小さく息を吐いた。


「無理に誘わなくていいわよ。私は――」


「あの、彩花さん」


 柚希は、帰ろうとする彩花を呼び止めた。


「よかったら、一緒に来てもらえませんか?」


「……私がいても、楽しくないと思うけど」


「そんなことありません。それに、午前中のお礼もしたいです」


「本当についでだったの」


「それでも、嬉しかったので」


 彩花は柚希を見つめ、少し迷ったあとで鞄を肩に掛け直した。


「分かった。でも、お礼はいらない。自分の分は自分で払うから」


『よし。四人ね』


「どこへ行くの?」


 彩花に尋ねられた陽菜は、少し考えてから答えた。


『あたしの大切な人がいる店』


          ◇


 陽菜が三人を連れてきたのは、Roseだった。


 落ち着いた照明に照らされた店内には、静かな音楽が流れている。


 柚希は少し緊張した様子で中を見回し、彩花は店の造りや並んだボトルへ注意深く目を向けていた。


「ここ、スナック?」


『そう。あたしの行きつけ』


「櫻井さんに、こんな店へ通う趣味があったのね」


『似合わない?』


「もう少し騒がしい店が好きなのかと思ってた」


『失礼だなあ』


 カウンターの奥でグラスを磨いていた美園が、顔を上げる。


『いらっしゃい』


 陽菜の後ろにいる顔ぶれを見て、その目がわずかに細くなった。


『珍しい組み合わせだね。凛ちゃんも一緒なんだ』


「はい。今日はお客としてお邪魔します」


『もちろん。ゆっくりしていって』


 美園はそれだけ返すと、柚希と彩花へ視線を移した。


『そっちの二人は、初めましてだね』


『紹介していい?』


 陽菜はそこで一度、柚希を見た。


 失恋のことまで話していいのか、目で尋ねている。


 柚希は少し迷ったあと、小さく頷いた。


『こっちは早川柚希ちゃん。それから、森下彩花さん』


「早川です。初めまして」


「森下です」


 二人がそれぞれ頭を下げる。


 美園はカウンターから出ると、穏やかに微笑んだ。


『中村美園。好きなところに座って。今日は陽菜のおごりだから、遠慮しなくていいよ』


『え、あたし?』


『連れてきたんでしょ』


「自分の分は払います」


 彩花がすぐに言う。


『森下さん、真面目だね』


「普通です」


『じゃあ、陽菜の分まで払わせるから、自分の分は取っておきな』


『なんであたしの支払いだけ増えるの?』


 美園は陽菜の抗議を無視し、柚希の顔を見た。


 腫れた目元。


 笑おうとするたびに、わずかに遅れる表情。


 何があったのかを聞かなくても、平気ではないことくらい分かった。


『柚希ちゃんは、お酒飲める?』


「少しなら」


『今日はやめておこうか』


「どうしてですか?」


『悲しい日に飲むと、酒のせいで泣いたのか、自分が泣きたかったのか、分からなくなるから』


 柚希は驚いたように美園を見る。


 陽菜が事情を説明するより先に、美園は柚希の状態を見抜いていた。


『代わりに、甘いの作るよ』


「……お願いします」


『凛ちゃんは?』


「私も同じものをお願いします」


『森下さんは?』


「私はウーロン茶で」


『隙がないね』


「初めて来た店で酔うほど不用心じゃありません」


 彩花の返事を聞き、美園は面白そうに笑った。


『いいね。嫌いじゃない』


「私はまだ、中村さんを好きとも嫌いとも言ってません」


『それでいいよ。今決められたら、つまらないから』


 彩花の眉が、わずかに動く。


 陽菜は二人を交互に見て、楽しそうに口元を緩めた。


『なんか、彩花さんと美園さん、合いそう』


『どこを見てそう思ったの?』


「やめて。私は客として来ただけだから」


『ほら、息ぴったり』


『陽菜、黙って座りな』


「櫻井さん、黙って座って」


『ほら!』


 二人の声が重なり、柚希が思わず吹き出した。


 笑った直後、自分でも驚いたように口元を押さえる。


 美園はそれを見ても、大げさに喜ばなかった。


 四人分の飲み物を用意し、柚希の前にだけ、小さな皿に載せたチョコレートを添える。


『食べられそうなら、どうぞ』


「ありがとうございます、美園さん」


『話したくなったら聞くし、話したくないなら、くだらない話だけして帰ればいいよ』


 柚希の目に、薄く涙が滲んだ。


「私……好きだった人と、昨日終わったんです」


『そう』


「私と会う前から、他に付き合ってる人がいました」


『うん』


「今日、会社で会いました。まだ好きで……苦しくて。一人で帰るのが、嫌だったんです」


 美園は、慰めるための言葉を急がなかった。


 柚希の前へ置いたグラスを、少しだけ近づける。


『じゃあ、今日は一人で帰らなくて正解だね』


 柚希の目から、一粒だけ涙が落ちた。


「はい」


『ここには、あんたを一人にしない人間が四人もいる』


「中村さんも入るんですか?」


 彩花が尋ねる。


『私の店に来た客を、泣かせたまま放り出すほど薄情じゃないよ』


「……そうですか」


『森下さんも、その四人に入ってるけど』


「私は、たまたま誘われただけです」


『それでも帰らずに座ってる』


 彩花は返事をせず、ウーロン茶へ口をつけた。


 その横顔は、少しだけ気まずそうだった。


 柚希は涙を拭い、チョコレートを一つ口に入れた。


 甘さが、ゆっくりと広がっていく。


『ねえ、柚希ちゃん』


 陽菜が頬杖をついた。


『遠くに行かない?』


「遠く?」


『ここにあるものが全部その人を思い出させるなら、その人と関係ない景色を見に行くの』


「旅行ですか?」


『うん。一泊二日くらいで』


「どこへ?」


 陽菜は少し考えたあと、笑顔で答えた。


『京都』


「急ですね」


 凛が目を丸くする。


「急すぎるでしょ」


 彩花も呆れた声を漏らした。


『でも、夏の京都ってよくない? 美味しいもの食べて、いろんなところ歩いて、写真撮って。柚希ちゃんの中に、新しい思い出を増やすの』


「私のために、ですか?」


『柚希ちゃんだけのためじゃないよ。あたしも遊びたい』


「そこは嘘でも、私のためだと言ってください」


『じゃあ、半分は柚希ちゃんのため』


「半分なんですね」


 柚希は涙の残る顔で笑った。


 陽菜は、その笑顔を見てから美園へ顔を向ける。


『美園さんも行こうよ』


『店をどうするの』


『一日くらい休めばいいじゃん』


『簡単に言うね』


「まだ日程すら決まってませんよ」


 凛が冷静に指摘する。


『じゃあ、これから決めよう。みんな誘ってさ』


「みんなって、誰?」


 彩花が警戒するように尋ねた。


 陽菜は指を折りながら、頭の中に浮かんだ顔を数えていく。


『日高先輩、神谷さん、中井くん、佐藤くん。零も呼びたいし――』


「ずいぶん多いですね」


『大人数の方が楽しいじゃん』


『あんた、自分が声をかければ全員来ると思ってるでしょ』


『来るでしょ』


 陽菜は悪びれることなく答えた。


 美園は呆れたように息を吐き、彩花は信じられないものを見るような目を向ける。


 その隣で、柚希はグラスを両手で包みながら、陽菜が挙げた名前を聞いていた。


 昨日までは、何かを楽しみにする気持ちなど、しばらく戻ってこないと思っていた。


 それでも今、夏の京都を歩く自分たちを、ほんの少しだけ想像している。


「……行きたいです」


 小さな声だった。


 だが、陽菜には届いた。


『決まり』


「まだ他の人には聞いてません」


『これから聞く』


「日程も決まってないわよ」


『これから決める』


『宿も交通手段も?』


『これから考える』


 三人から一斉に指摘されても、陽菜の笑顔は崩れなかった。


『大丈夫。行くって決めたら、あとはどうにかなるから』


 あまりにも陽菜らしい言葉に、柚希はまた笑った。


 失ったものは、まだ胸の中に残っている。


 痛みも、寂しさも消えてはいない。


 それでも、その隣に新しい予定が一つ置かれた。


 夏の京都。


 田村のいない場所で作る、まだ名前もない思い出だった。

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