↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
46/96

46話「おかえり」

研修旅行を終えた一行を乗せたバスが会社へ到着したのは、午後3時を過ぎた頃だった。


 社員たちは荷物を手に、次々とバスを降りていく。


 陽菜も座席から立ち上がろうとしたが、その足元には土産の入った袋がいくつも並んでいた。


「櫻井さん、持ちます」


 すぐ後ろの席にいた中井が、そのうち2つを手に取る。


『中井くん、今日は大丈夫だよ』


「これだけあると、バスを降りる時に危ないです」


『でも、中井くんも自分の荷物があるでしょ』


「背負えるので平気です」


 中井は自分の鞄を背負い、陽菜の土産袋を両手に持った。


 昨夜のことを聞こうとはしない。


 泣き腫らした陽菜の目を見ても、体調以外のことには触れなかった。


『……ありがとう』


「いえ」


『それと、昨日の水とゼリーも。本当に助かった』


「食べられましたか」


『うん。中井くんが持ってきてくれなかったら、何も食べないで寝てたかも』


「じゃあ、持っていってよかったです」


 中井の表情が僅かに明るくなる。


『今度、何かお礼するね』


「お礼なんて必要ありません」


『でも――』


「櫻井さんの役に立てたなら、それで十分です」


『中井くんは、本当に優しいね』


 陽菜が笑う。


 中井は返事をしないまま、赤くなった顔を隠すように先にバスを降りた。


 その様子を後ろから見ていた柚希が、凛へ顔を寄せる。


「やっぱり舎弟だよね」


「聞こえるよ」


「でも、昨日より忠誠心が上がってない?」


「中井さんは犬じゃないよ」


 凛が小声で窘める。


 彩花は2人の横を通り過ぎながら、呆れたように言った。


「本人が満足そうなんだから、放っておきなさい」


「彩花さんも、そう思います?」


「少なくとも櫻井さんが気づくまでは、時間がかかりそうね」


 少し離れた場所で、樹里も中井の背中を見ていた。


 中井が振り返り、陽菜が降りてくるまでバスの脇で待つ。


 階段を踏み外さないようにと、手まで差し出している。


 陽菜はその手を借りず、自分でバスを降りた。


 それでも中井は、どこか嬉しそうだった。


「日高」


 彩花に呼ばれ、樹里が振り返る。


「難しい顔してるわよ」


『そうか』


「櫻井さんの後輩が気になるの?」


『今は別のことを考えていた』


「そう」


 彩花はそれ以上聞かなかった。


 黒澤が全員の荷物が降ろされたことを確認し、声を上げる。


「忘れ物がないか確認しろ。今日はこのまま解散でいい。明日は通常どおりだから、遅れるなよ」


 社員たちが返事をする。


 黒澤は陽菜へ目を向けた。


「櫻井さん、体調はもういいのか」


『はい。昨日はご迷惑をおかけしました』


「疲れが出ただけだろ。今日は帰って休め」


『ありがとうございます』


「日高さんも、付き添いお疲れ」


『いえ』


 黒澤は2人の顔を見比べる。


 何か事情があることには気づいている。


 それでも、会社へ持ち込まれていないことまで聞き出そうとはしなかった。


「じゃあ、解散」


 その一言で、社員たちがそれぞれの帰路へつく。


 中井は陽菜の土産袋を会社の入口まで運んだ。


「家まで持っていきましょうか」


『そこまでしてもらったら、本当に中井くんのことを舎弟みたいに扱ってると思われるよ』


「僕は気にしません」


『あたしが気にするの』


「でも、重いですよ」


『ここからは日高先輩もいるから大丈夫』


 中井が樹里を見る。


「日高先輩、お願いします」


『私が言われることですか』


「櫻井さん、無理しても大丈夫と言うので」


『……分かりました』


『日高先輩まで』


「それじゃ、僕はこれで」


『うん。中井くんも気をつけて帰ってね』


「はい。櫻井さんも」


 中井は頭を下げ、何度か振り返りながら歩いていった。


 陽菜は、その背中へ手を振っている。


『真面目な人だな』


『でしょ?』


『少し真面目すぎる気もするが』


『中井くんのいいところだよ』


 陽菜は、何の疑いもなく笑った。


 樹里はそれ以上何も言わず、陽菜の土産袋を1つ持ち上げる。


『行くぞ、陽菜』


 会社の人間がいなくなったため、呼び方が変わる。


 陽菜の笑顔も消えた。


『うん』


 2人が向かう場所は、決まっていた。


     ◇


 Roseは、まだ開店前だった。


 表の看板には明かりがついていない。


 陽菜が扉へ手を掛ける。


 鍵は開いていた。


 店内へ入ると、カウンターの中に美園が立っていた。


 黒いドレスを纏い、グラスを磨いている。


 いつもと変わらない姿だった。


 だが、カウンターの奥には、深い青の特攻服が掛けられている。


 赤と黒の薔薇。


 かつて、美園が着ていたものだった。


 美園は扉の音に気づき、顔を上げた。


『おかえり』


 その一言を聞いた瞬間、陽菜の顔が歪んだ。


 手に持っていた土産袋を床へ置き、美園のもとへ駆け寄る。


『陽菜』


 美園が名前を呼ぶ。


 次の瞬間には、陽菜が美園の体を強く抱き締めていた。


『美園さんの馬鹿!』


『……うん』


『本当に馬鹿!』


『ごめんなさい』


『1人で行くなんて、何考えてるの!』


『ごめん』


 陽菜は美園の胸へ顔を押しつける。


 握った拳で、その肩を一度だけ叩いた。


『嘘つき!』


『そうね』


『店が忙しかったって言った!』


『ごめんなさい』


『何ともないって言った!』


『怪我はしていないわ』


『そういうことじゃない!』


 陽菜の声が涙で崩れる。


 美園は抵抗せず、その体を抱き返した。


『美園さんに何かあったと思ったら、怖くて……』


『うん』


『写真を見た時、息ができなくなった』


『……うん』


『もう、あんな嘘つかないで』


『約束する』


『絶対?』


『絶対よ』


 美園の目にも、涙が浮かんでいた。


 陽菜の髪を撫でながら、何度も謝る。


 少し離れた場所に、樹里は立っていた。


 美園が顔を上げる。


『総長』


 樹里は答えない。


 ゆっくりと美園へ近づく。


 その顔を見る。


 頬。


 首元。


 露出した腕。


 目立つ傷がないことを、改めて自分の目で確認する。


 美園は陽菜を抱き締めたまま、樹里の視線を受け止めていた。


『本当に、怪我はないんだな』


『ないわ』


『隠していないか』


『隠していない』


『そうか』


 樹里は手を伸ばす。


 美園の肩へ触れ、そのまま強く掴んだ。


『痛いわ、総長』


『怪我がないか確かめている』


『電話でも確認したでしょう』


『自分の目で見るまでは信用できない』


『昨日、嘘をついたから?』


『そうだ』


 美園は何も言い返せなかった。


 樹里の手が、肩から美園の頭へ移る。


 一度だけ、乱暴にならない程度に髪を撫でた。


『無事でよかった』


 それだけだった。


 美園の目から涙が落ちる。


『……ごめん、総長』


『謝罪は聞いた』


『でも』


『昨日は電話だった。もう一度だけ聞く』


 樹里は美園を真っ直ぐに見る。


『自分で行くと決めたことを、後悔しているか』


 美園は首を横へ振った。


『していない』


『同じ状況になれば、また行くか』


 美園はすぐには答えなかった。


 陽菜の腕の中で、僅かに目を伏せる。


『……行くと思う』


『正直でいい』


『怒らないの?』


『怒っている』


『そうよね』


『だが、助けを求めてきた人間を見捨てろとは言えない』


 樹里は青い特攻服へ視線を向けた。


『お前が自分で考え、行くと決めた。その判断を、私が総長だったという理由で奪うつもりはない』


『総長』


『ただし、次は連絡しろ』


『でも、連絡したら2人とも来るでしょう』


『行くかどうかを決めるのは私たちだ』


 昨夜と同じ言葉だった。


 美園は小さく息を吐く。


『分かったわ』


『本当に分かっているか』


『次は、必ず連絡する』


『止められるかもしれないぞ』


『その時は、話し合う』


『私たちが一緒に行くと言ったら』


『……人数と状況を考えて決める』


 陽菜が美園から少しだけ離れた。


『そこは、一緒に行くって言ってよ』


『無条件には言えないわ』


『美園さん、そういうところだよ』


『3人で無茶をしたら、止める人がいないでしょう』


『無茶するって決めつけないでよ』


『総長と陽菜が揃って、何もしないと思う方が難しいわ』


『それは……』


 陽菜が言葉に詰まる。


 樹里は否定しなかった。


『美園の言うことにも一理ある』


『総長まで!』


『だから、話し合うと言っている』


 樹里は美園を見る。


『次は、お前だけで結論を出すな』


『ええ』


『助けに行くなとも、1人で決めるなとも言わない』


 樹里の声が僅かに柔らかくなる。


『ただ、私たちにも一緒に心配させろ』


 美園は目を閉じた。


 新しい涙が頬を伝う。


『……分かった』


 陽菜が再び美園を抱き締める。


『今度は、あたしも一緒に心配するから』


『心配させないようにする、では駄目なのね』


『駄目』


『そう』


『それと、美園さんが怖い時は、怖いって言って』


『難しいことを言うのね』


『あたしには言ってほしい』


『努力するわ』


『約束』


『ええ。約束する』


 陽菜は、ようやく美園から腕を離した。


 目元を指で拭い、美園の体を上から下まで確認する。


『本当に怪我してないね』


『さっき総長にも確認されたわ』


『あたしも自分で見ないと信用できない』


『2人とも、同じことを言うのね』


 美園が少しだけ笑った。


 それを見て、陽菜もようやく笑顔を取り戻した。


     ◇


 3人はカウンター席へ座った。


 美園が水を用意し、昨夜の出来事を改めて詳しく話す。


 沙羅が最初に店へ来た時のこと。


 一度は頼みを断った理由。


 再び現れた沙羅が、傷だらけのまま涙を流したこと。


 美園が青い特攻服へ袖を通したこと。


 アネモネの倉庫で、現在の総長である愛と向き合ったこと。


『それで、まどかがいたのか』


 樹里の声が僅かに低くなる。


『ええ』


『鈴原まどかが、どうしてアネモネのたまり場に?』


『愛さんに呼ばれていたみたい。昔のアネモネを理由にBeauty Roseを潰すなら、元総長にも見届けてもらいたかったんでしょうね』


『まどかは何て?』


『Rose girlsとの話は、4年前に終わっていると言っていたわ』


 樹里は黙り込む。


『私を止めたのも、まどかよ』


『美園さんを?』


『違う。愛さんたちが私へ手を出すのを止めたの』


『どうして?』


『今のアネモネでは、私の相手にならないと思ったみたい』


 陽菜の目が細くなる。


『美園さん、何人倒したの』


『2人』


『やっぱり喧嘩してるじゃん!』


『向こうから触ってきたから、止めただけよ』


『怪我させてない?』


『させていないわ』


『美園さんが?』


『どういう意味?』


『美園さん、怒ると容赦ないから』


『陽菜に言われたくないわ』


『あたしはちゃんと手加減するよ』


 樹里と美園が、同時に陽菜を見る。


『何、その目』


『いや』


『何でもないわ』


『絶対何か思ってるでしょ』


 僅かに空気が和らぐ。


 樹里は青い特攻服を見る。


『どうして、それを着ていった』


『スナックの店主として行くより、Rose girlsの中村美園として行った方が話が早いと思ったの』


『その結果、昔の連中まで騒ぎ始めた』


『そこまでは考えていなかったわ』


『美園さんらしくないね』


『そうね』


 美園も、特攻服へ視線を向ける。


『もう一度着ることになるとは思わなかった』


 陽菜が椅子から立ち、特攻服の前へ行く。


 袖に刺繍された薔薇へ、そっと指を触れた。


『懐かしい』


『ええ』


『美園さん、今でも絶対似合うよ』


『褒めても、もう着ないわ』


『写真撮っておけばよかった』


『撮らないで』


『あたしも着ようかな』


『やめなさい』


『3人で並んだら格好いいと思わない?』


『噂が事実になるだろ』


 樹里の言葉に、陽菜が振り返る。


『噂?』


『私たち3人が、また動き出したと言われている』


『別に、少しくらいなら――』


『戻らない』


 樹里が、はっきりと言った。


 陽菜が黙る。


『私たちは、もうRose girlsには戻らない』


 美園も静かにうなずいた。


『ええ』


『過去をなかったことにはしない。あの2年間を後悔もしていない』


 樹里は特攻服を見つめる。


『だが、今の私たちには、それぞれの生活がある』


『分かってるよ』


 陽菜は薔薇から指を離した。


『ちょっと懐かしくなっただけ』


『そうか』


『でも、何かあった時に3人で助け合うのは変わらないよね』


『当然だ』


『ええ』


 陽菜は満足そうに笑った。


 それから、床へ置いたままだった土産袋を思い出す。


『そうだ。お土産!』


『その話、今するの?』


『今だからするんだよ。せっかく買ってきたんだから』


 陽菜は袋から酒瓶を取り出し、美園の前へ置いた。


『これは、あたしから』


 続いて、もう1本を取り出す。


『こっちは総長から』


『陽菜。別々に渡す必要はないだろ』


『だって、どっちが美味しかったか聞きたいから』


 美園は2本の酒瓶を見比べる。


『結局、2人ともお酒なのね』


『美園さんが一番喜ぶと思って』


『店にあるだろうと言ったんだが』


『総長も最後は真剣に選んでたよ』


『余計なことを言うな』


 美園が樹里を見る。


『ありがとう、総長』


『別に、大したものじゃない』


『陽菜も、ありがとう』


『うん』


 美園は酒瓶をカウンターの上へ並べた。


 陽菜が椅子へ座り直す。


『あとね、旅行で面白い後輩がいたの』


『面白い後輩?』


『中井くんっていうんだけど、すごく真面目で優しいの』


 美園は陽菜の表情を見る。


『男性?』


『うん』


『陽菜が、その人の話をするのは初めてね』


『そうだっけ?』


『どんな人なの』


『あたしが何か持とうとすると、すぐに半分持ってくれる人』


 美園の目が僅かに動く。


『へえ』


『何か食べようとするとお茶を出してくれるし、体調崩したら水とゼリーも買ってきてくれた』


『随分親切なのね』


『でしょ? 柚希ちゃんには舎弟みたいって言われてたけど』


『舎弟?』


『違うよ。可愛い後輩』


 美園が樹里へ視線を向ける。


 樹里は水を飲みながら、僅かに眉を寄せていた。


『総長は、その中井くんを知っているの?』


『同じ営業部だからな』


『どんな人?』


『仕事は真面目だ。陽菜の前では、必要以上に動きが速い』


『やっぱり舎弟みたいじゃない』


『美園さんまで!』


 陽菜が頬を膨らませる。


 美園は小さく笑った。


『今度、会ってみたいわね』


『じゃあ、Roseに連れてくるよ』


『陽菜』


 樹里がすぐに止める。


『何?』


『本人の都合も聞かずに決めるな』


『誘うだけだよ』


『中井さんなら、誘われた瞬間に来るだろうな』


『いいじゃん』


 美園は2人のやり取りを眺めながら、口元を緩めていた。


 つい先ほどまで泣いていた陽菜が笑っている。


 怒っていた樹里も、いつもの顔に戻っている。


 美園の胸に残っていた恐怖が、少しずつ薄れていく。


 陽菜が、ふと美園を見る。


『美園さん』


『何?』


『ちゃんと言ってなかった』


『何を?』


 陽菜は笑った。


『ただいま』


 美園の目が僅かに潤む。


『……おかえり、陽菜』


 樹里も、美園を見る。


『ただいま、美園』


 美園は唇を噛み、溢れそうになる涙を堪えた。


 それでも、最後には穏やかに笑う。


『おかえり、総長』


 もう、3人が同じ特攻服を着て並ぶことはない。


 同じ道を走ることもない。


 それぞれが違う場所で、違う人生を歩いている。


 それでも、帰ってくる場所だけは変わらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。