45話「心配する権利」
自由行動を終えた一行が旅館へ戻ったのは、夕食の少し前だった。
陽菜は買ってきた土産を畳の上へ並べ、誰に何を渡すか確認している。
『これは美園さん。こっちは零で――』
『零にまで買ったのか』
『いつもお世話になってるからいいじゃん』
『そうだな』
樹里は窓際の椅子に座り、明日の予定表を確認している。
陽菜は2本の酒瓶を並べた。
『総長が選んだ方と、あたしが選んだ方、どっちが美園さん喜ぶと思う?』
『どちらでも喜ぶだろ』
『ちゃんと選んでよ』
『似たような酒じゃないか』
『全然違うよ。こっちは甘口で、こっちは――』
畳の上に置いた陽菜のスマートフォンが震えた。
画面には、懐かしい名前が表示されている。
Rose girlsに所属していた元メンバーだった。
『珍しい……』
陽菜がLINEを開く。
「陽菜さん、今どこにいますか?」
続けて、すぐに次のメッセージが届いた。
「昨日の夜のこと、知ってますか?」
陽菜の指が止まる。
『昨日の夜?』
返信すると、数秒後に1枚の写真が送られてきた。
暗い夜道。
古びた倉庫の前。
画質は荒く、横顔も髪に隠れている。
それでも、陽菜が見間違えるはずはなかった。
深い青の特攻服。
袖から裾へ広がる、赤と黒の薔薇。
何度も見てきた背中だった。
誰より近くで見てきた背中だった。
「中村美園さんです」
「アネモネのたまり場に、1人で乗り込んだらしいです」
「Beauty Roseの総長を連れて出てきたって聞きました」
「あの3人が、また動き始めたんじゃないかって噂になってます」
陽菜の顔から血の気が引いていく。
手に持っていた酒瓶が指先から滑った。
畳の上へ倒れ、鈍い音が響く。
樹里が顔を上げる。
『陽菜?』
陽菜は答えられない。
画面に映る美園の姿を見つめている。
『どうした』
樹里が立ち上がり、陽菜の前へ来る。
陽菜の目には、すでに涙が浮かび始めていた。
『総長……』
その呼び方を聞いた瞬間、樹里の表情が変わった。
『何があった』
陽菜は何も言えないまま、スマートフォンを差し出した。
樹里が画面を見る。
青い特攻服を着た美園。
周囲に並ぶバイク。
倉庫の奥には、アネモネの特攻服も見える。
写真の下には、元メンバーから届いた文章が並んでいる。
樹里は写真を拡大した。
『……昨日の夜か』
陽菜が震えながらうなずく。
『昨日、美園さんにLINEした』
『ああ』
『返事が来なかったから心配してた。でも、あとで店が立て込んでたって……』
陽菜の頬を、涙が伝う。
『問題ないって言った。楽しんできなさいって』
樹里の目から、感情が消えていく。
怒鳴りもしない。
顔を歪めることもない。
ただ、静かに自分のスマートフォンを取り出した。
美園の名前を表示し、通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴る。
1度。
2度。
3度。
美園は出ない。
陽菜は両手で口元を押さえた。
『出てよ……』
4度目の呼び出し音が鳴り終わる。
『……もしもし』
美園の声が聞こえた。
陽菜の肩が大きく震える。
樹里は一度目を閉じた。
『美園』
電話の向こうで、美園が息を止める。
『……総長』
『今、どこにいる』
『店よ』
『1人か』
『ええ』
『怪我は』
『ないわ』
『本当か』
『本当よ』
樹里は写真をもう一度確認する。
『九条莉乃さんと渡辺沙羅さんは』
美園は、樹里たちがどこまで知っているのかを悟った。
『2人とも無事よ。病院で診てもらった。入院が必要な怪我ではなかったわ』
『そうか』
樹里は短く答える。
その声から、僅かに力が抜けた。
まず確かめたかったのは、美園が無事であることだった。
怒るのは、そのあとでいい。
『何があった』
美園は、ゆっくりと話し始めた。
沙羅がRoseを訪れ、アネモネとの抗争を止めてほしいと頼んだこと。
一度は断ったこと。
傷だらけになった沙羅が、再び店へ来たこと。
莉乃がアネモネに残されていると知り、1人で迎えに行ったこと。
まどかが現れ、現在の総長である愛と話をつけたこと。
樹里は途中で口を挟まなかった。
陽菜も、涙を拭いながら聞いていた。
『それで、昨夜のうちに九条さんを病院へ連れていった』
『今夜は』
『何もない。アネモネとの話は終わっているわ』
『分かった』
樹里の返事は静かだった。
その静けさに耐えられなくなったように、美園が言葉を続ける。
『黙っていて、ごめんなさい』
『どうして言わなかった』
『言えば、2人とも戻ってきたでしょう』
『当たり前じゃん』
陽菜が声を上げた。
樹里が通話をスピーカーへ切り替える。
『陽菜……』
『あたしたちが戻るかどうかは、あたしたちが決めることでしょ』
『せっかくの研修旅行を、途中で投げ出してほしくなかったの』
『美園さんに何かある方が、何もかも台無しだよ!』
陽菜の声が震える。
『あたしが楽しんでる間に、美園さんは1人でアネモネのところに行ってたんだよ』
『……ええ』
『何人いたの』
『十数人』
『そんなところに1人で行って、何で問題ないなんて言えるの』
『何もなかったから』
『それは結果の話じゃん!』
陽菜の涙が止まらない。
『もし殴られてたら? 捕まってたら? 戻ってこなかったらどうするの?』
『そうならないように考えて動いたわ』
『美園さんはいつもそうだよ』
陽菜は膝の上で拳を握る。
『自分なら大丈夫って言って、何でも1人で背負う。あたしや総長には無茶するなって言うのに、自分の時だけ平気な顔する』
『陽菜』
『あたしは、美園さんがいなくなるのが怖い』
電話の向こうから、返事はない。
『怖いんだよ……』
陽菜は俯き、涙を畳へ落とした。
『それなのに、あたしが旅行を楽しんでるようなLINEまで送って……美園さんは、それを見て1人で行ったんでしょ』
『通知だけ見たわ。LINEは開かなかった』
『同じだよ』
『……そうね』
『あたしたち、そんなに頼りない?』
『違うわ』
『じゃあ、どうして』
美園は一度、息を整えた。
『頼れば、2人とも全てを置いて来ると分かっていたからよ』
『それの何が悪いの』
『今の2人には、今の生活がある』
『美園さんも、その中にいるんだよ』
陽菜の言葉に、美園が黙る。
『総長も、美園さんも、あたしの家族なんだよ』
陽菜は涙を拭った。
拭っても、すぐに新しい涙が溢れる。
『家族が危ない時に、仕事も旅行も関係ないじゃん』
『……ごめんなさい』
美園の謝罪は、小さかった。
樹里がスマートフォンを持ち直す。
『美園』
『はい』
『私はもう、Rose girlsの総長じゃない』
電話の向こうで、美園が息を呑む。
『お前も、私の命令を聞く立場ではない』
『……ええ』
『今回、お前が自分で考え、自分の意思で九条さんを助けに行った。その判断まで否定するつもりはない』
『総長』
『だが』
樹里の声が低くなる。
『私たちに、心配する権利までないと思うな』
美園は答えられなかった。
『止められたくなかったなら、それでもいい。私たちが戻ると分かっていたから黙ったというのも、お前なりの考えだったんだろう』
『ええ』
『それでも、無事に帰ったあとで連絡はできた』
『……できたわ』
『陽菜に嘘をつく必要もなかった』
『そうね』
『私たちは、お前の足を引っ張るためにいるわけじゃない』
『分かっている』
『分かっていないから、こうなっている』
美園の声が途切れる。
『ごめんなさい』
『私が聞きたいのは謝罪だけじゃない』
『……何を言えばいいの』
『怖くなかったのか』
予想していなかった問いだったのか、美園はすぐに答えなかった。
『何も感じずに行ったわけじゃないだろ』
『……怖くなかったと言えば、嘘になるわ』
陽菜が顔を上げる。
『倉庫の前に並ぶバイクを見た時、少しだけ足が止まった』
『それでも行ったのか』
『沙羅ちゃんの顔を見たから』
美園の声が震える。
『あの子は、自分よりも九条さんのことを心配していた。あのまま見捨てることはできなかった』
『そうか』
『それに』
美園が一度言葉を切る。
『総長と陽菜がいないから、代わりに行ったわけじゃない』
『分かっている』
『私は、私自身の意思で行くと決めた』
『ああ』
『2人に許可をもらってから動くことではないと思った』
『それも分かっている』
樹里は否定しなかった。
『だから、行ったことを責めているんじゃない』
『……うん』
『無事だったと、自分の口で伝えなかったことを怒っている』
美園が小さく息を吐く。
『ごめん、総長』
今度の謝罪からは、取り繕う響きが消えていた。
『陽菜も、ごめんなさい』
『明日帰ったら、店に行くから』
『ええ』
『逃げないでよ』
『逃げないわ』
『本当に怪我してない?』
『していない』
『顔も?』
『大丈夫よ』
『腕は?』
『大丈夫』
『足は?』
『どこも怪我していないわ』
『……分かった』
陽菜はようやく、僅かに息を吐いた。
樹里が告げる。
『明日、帰ったら改めて話を聞く』
『待っているわ』
『今夜は家に帰れ』
『そうする』
『店で酒を飲むな』
『少しくらいはいいでしょう』
『駄目だ』
『……分かったわ』
普段と変わらない美園の返しに、陽菜の口元が僅かに緩んだ。
『美園さん』
『何?』
『無事でよかった』
電話の向こうから、しばらく返事はなかった。
『……ありがとう』
通話が切れる。
静かになった部屋で、陽菜はスマートフォンを胸へ抱えた。
樹里が隣に座る。
『総長』
『何だ』
『あたし、まだ怒ってる』
『私もだ』
『顔を見たら、もっと怒ると思う』
『好きにしろ』
『泣くかもしれない』
『もう十分泣いている』
『だって……』
樹里は陽菜の頭へ手を置いた。
不器用に、一度だけ撫でる。
『美園は無事だ』
『うん』
『九条さんも、渡辺さんも助かった』
『うん』
『明日、帰れば会える』
陽菜は何度もうなずいた。
『帰ったら、抱き締めてもいいかな』
『美園が嫌がっても離すな』
『総長も一緒にする?』
『私はしない』
『本当はしたいくせに』
『うるさい』
陽菜は涙を流しながら、少しだけ笑った。
◇
夕食の時間になっても、陽菜は部屋から出られなかった。
泣き腫らした顔を会社の人間に見せたくない。
樹里は黒澤へ、陽菜の体調が優れないと伝え、自分も部屋に残った。
しばらくして、陽菜のスマートフォンに中井からLINEが届いた。
「櫻井さん、夕食にいませんでしたけど、体調は大丈夫ですか?」
陽菜は画面を見つめる。
今は誰かと話せる気分ではない。
それでも、心配して送ってくれたことは分かった。
『少し疲れただけ。大丈夫だよ』
返信すると、すぐに既読がついた。
「何か必要なものはありますか?」
『何もいらないよ。心配してくれてありがとう』
「分かりました」
それで、やり取りは終わった。
中井は理由を尋ねなかった。
何があったのか探ろうともしない。
陽菜はスマートフォンを伏せ、再び目元を冷たいタオルで覆った。
数分後。
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
樹里が立ち上がり、扉を開ける。
廊下に中井が立っていた。
手には、小さな紙袋がある。
「日高先輩、すみません」
『中井さん。どうしました』
「櫻井さんが夕食を食べていないと聞いたので」
中井は紙袋を差し出した。
「売店で、水とゼリーを買ってきました。食欲がなくても、これなら少しは口にできると思います」
『櫻井さんは何もいらないと言ったはずです』
「はい」
『それでも持ってきたんですか』
「すみません」
中井は一度視線を落とす。
「でも、何もいらないと言う人が、本当に何も必要としていないとは限らないので」
樹里の目が僅かに動く。
「渡すだけです。部屋には入りません。理由も聞きません」
『……そうですか』
「迷惑なら、日高先輩が使ってください」
『分かりました。預かります』
「お願いします」
中井は頭を下げる。
「櫻井さんに、お大事にと伝えてください」
『伝えます』
中井はもう一度頭を下げ、部屋の前から離れていった。
樹里は、その背中をしばらく見送った。
扉を閉め、紙袋を陽菜の前へ置く。
『中井さんからだ』
『中井くん?』
『水とゼリーが入っている』
『何もいらないって言ったのに』
『何もいらないと言う人間が、本当に何も必要としていないとは限らないそうだ』
陽菜は紙袋を見つめた。
中には水とゼリー飲料、それから小さな栄養補助食品が入っている。
どれも、体調が悪くても口にしやすいものだった。
『中井くんらしいな』
『そうなのか』
『うん。真面目で、ちょっと不器用だけど、すごく優しいの』
陽菜はゼリーを1つ手に取った。
『あとで、お礼言わないと』
『今は食べろ』
『はーい』
陽菜は封を開け、一口だけ飲んだ。
冷たさが、泣き続けて熱を持った体へ染み込んでいく。
『総長』
『何だ』
『中井くん、いい後輩でしょ』
『……そうだな』
樹里は素直に認めた。
陽菜は少し笑い、もう一口飲む。
中井が自分に向けている感情には、まだ気づいていない。
それでも、その気遣いは確かに陽菜の心へ届いていた。
◇
同じ頃。
明かりを落としたRoseの店内で、美園は1人、カウンター席に座っていた。
青い特攻服は脱ぎ、ハンガーへ掛けてある。
6年の時間を経ても変わらない薔薇が、暗がりの中に浮かんでいた。
テーブルに置いたスマートフォンが震える。
陽菜からのLINEだった。
『明日、絶対に会いに行くから』
続けて、もう1通届く。
『顔を見たら、いっぱい怒るからね』
美園は目を細める。
『ええ。待っているわ』
送信してから、青い特攻服へ視線を戻した。
もう着ることはないと思っていた。
過去を捨てたつもりはない。
けれど、過去へ戻るつもりもなかった。
それでも、あの服を再び身に纏った自分を見て、樹里と陽菜は何を思うのだろう。
『……怒られるだけでは済まないかもしれないわね』
誰もいない店内で、美園は小さく呟く。
その声は、僅かに震えていた。
明日。
4年ぶりに、3人は同じ特攻服を前にして向き合う。




