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44話「舎弟ではない」

『病院よ』


 美園から届いたLINEを見た瞬間、零は通話ボタンを押した。


 数回の呼び出し音のあと、美園が電話に出る。


『もしもし』


「美園さん、怪我したんすか」


『私は大丈夫よ』


「でも、病院にいるって」


『怪我をした子たちに付き添っているだけ。私は何ともないわ』


「……本当なんすね」


『ええ』


 零は壁へ背中を預け、深く息を吐いた。


「よかった……」


『どうして、私が怪我をしたと思ったの?』


 零は言葉に詰まる。


 だが、隠しても意味がない。


「昔の知り合いからLINEが来たっす」


『LINE?』


「美園さんがRose girlsの特攻服を着て、アネモネのたまり場に1人で乗り込んだって」


 電話の向こうが静かになった。


「本当なんすね」


『……もう噂になっているの』


「みたいっす」


『早いわね』


「樹里さんと陽菜さんは知ってるんすか」


『知らない』


「やっぱり……」


『2人には、まだ言わないで』


「でも、絶対に怒るっすよ」


『分かっているわ』


「陽菜さん、多分泣くっす」


『それも分かっている』


「そのあと、もっと怒るっすよ」


『……それも分かっているわ』


 美園の声に、僅かな諦めが混じる。


 零は眉間を押さえた。


「何で1人で行ったんすか」


『2人は研修旅行中なの。知らせれば、必ず戻ってくるから』


「戻ってきますよ。あの2人なら」


『だから言わなかった』


「美園さん」


『帰ってきたら、私からきちんと話す。約束するわ』


「誤魔化さないでくださいね」


『ええ』


「分かったっす。自分からは言わないっす」


『ありがとう、零』


「ただ、噂はもう広がり始めてるっす。自分が黙っていても、他の人から伝わるかもしれないっすよ」


『そうね』


「病院を出たらLINEしてください。家に着いた時も」


『分かったわ』


「絶対っすよ」


『ええ。心配をかけてごめんなさい』


 通話が切れる。


 零は樹里とのLINEを開いた。


 何も入力しないまま、画面を見つめる。


(樹里さん、ごめんなさい)


 今だけは、美園との約束を守る。


 そう決めて画面を閉じたものの、胸騒ぎは消えなかった。


     ◇


 研修旅行2日目。


 朝食会場へ入った陽菜が空いている席を探していると、少し離れた場所から椅子を引く音が響いた。


「櫻井さん、ここ空いてます!」


 声を上げたのは、営業部の中井だった。


 まだ入社して間もない若手社員で、真面目ではあるが、どこか不器用なところがある。


 普段はそれほど大きな声を出さない。


 しかし、陽菜の姿を見つけた時だけ、普段の遠慮はどこかへ消えるらしい。


『ありがとう、中井くん』


「いえ!」


 陽菜が笑顔を向ける。


 それだけで、中井の背筋が不自然なほど伸びた。


 陽菜が席へ着こうとすると、中井は椅子を引く。鞄を置こうとすれば、隣の椅子を空ける。湯呑みを手に取る前に、急須を持ち上げた。


「お茶、注ぎます」


『自分でできるよ?』


「僕がやります」


『そう? じゃあ、お願いしようかな』


「はい」


 中井は真剣な表情で茶を注ぐ。


 湯呑みが満たされると、両手で陽菜の前へ置いた。


「熱いので気をつけてください」


『ありがとう』


「お代わりが必要なら言ってください」


『うん』


「ご飯も取ってきます」


『それは自分で行くよ』


「味噌汁もあります」


『中井くん』


「はい」


『一緒に取りに行こうか』


 中井の動きが止まる。


「……一緒に?」


『うん。中井くんも、まだ何も取ってないでしょ』


「行きます」


 返事だけは異様に早かった。


 2人が料理を取りに向かう姿を、少し離れた席から柚希と凛が見ていた。


「ねえ、凛ちゃん」


「うん」


「中井くんって、陽菜さんの前だと動きが3倍くらい速くない?」


「私も、そう思ってた」


「あれ、絶対に陽菜さんのこと好きだよね」


「聞こえたら失礼だよ」


「でも、隠せてないじゃん」


 柚希は声を潜めているつもりだったが、隣に座る彩花には全て聞こえていた。


「本人だけは隠してるつもりなんじゃない?」


「彩花さんも気づいてました?」


「あれで気づかない方が難しいわよ」


「陽菜さんは?」


 3人が料理を選ぶ陽菜を見る。


 陽菜は、中井の皿に焼き魚を載せてやっていた。


 中井は嬉しさを隠せず、何度も頭を下げている。


「気づいてないでしょうね」


 彩花が即答する。


「どうして分かるんですか?」


「櫻井さんの顔を見れば分かるわよ。可愛い後輩の世話を焼いてる顔だもの」


「中井くん、かわいそう……」


「まだ何も始まってないのに、勝手に同情しないの」


 樹里も、陽菜と中井の様子を見ていた。


 中井が陽菜へ向けている感情には、とっくに気づいている。


 だが、口を挟むつもりはなかった。


 陽菜が誰を好きになり、誰と一緒にいるか。


 それを決めるのは、陽菜自身だ。


 料理を持った2人が戻ってくる。


 陽菜は中井の向かいへ座った。


『中井くん、朝はしっかり食べるんだね』


「はい。朝食を抜くと仕事に集中できないので」


『偉いね』


「ありがとうございます」


 褒められただけで、中井の顔が明るくなる。


 陽菜が醤油を探して周囲を見る。


 中井はすぐに醤油差しを手に取り、差し出した。


「どうぞ」


『ありがとう』


 陽菜が味噌汁を一口飲み、少しむせる。


 中井は即座に水を差し出した。


「大丈夫ですか」


『大丈夫。ちょっと変なところに入っただけ』


「背中、叩きましょうか」


『そこまでしなくて平気だよ』


「そうですか……」


 心なしか残念そうだった。


 それを見ていた黒澤が、中井へ声を掛ける。


「中井」


「はい」


「櫻井さんの世話ばかり焼いてないで、自分の飯も食え」


「すみません」


『黒澤部長、中井くんは親切にしてくれてるだけですよ』


「櫻井さんがそう思ってるなら、それでいいけどな」


『はい。中井くん、すごく気が利くんです』


 中井は俯いた。


 耳まで赤くなっている。


 柚希が堪えきれず、凛の肩へ顔を伏せた。


「柚希ちゃん、どうしたの?」


『具合悪い?』


「違います。何でもないです」


 笑っていることを悟られないよう、柚希は必死に顔を隠した。


     ◇


 午前の研修は、ホテル内の会議室で行われた。


 架空の物件資料を使い、班ごとに営業提案をまとめる。


 陽菜と中井は、同じ班になった。


「櫻井さん、資料を配ります」


『ありがとう。あたしも半分持つよ』


「大丈夫です」


『でも、結構あるよ?』


「これくらいなら平気です」


 中井は全員分の資料を抱え、各席へ配り始める。


 戻ってきた時には、すでに陽菜がホワイトボードへ議題を書き出していた。


「櫻井さん、僕が書きます」


『もう終わるよ』


「じゃあ、ペンを片づけます」


『そこまでしなくていいって』


「何か手伝わせてください」


『中井くんも一緒に考えてくれたら、それで十分だよ』


「はい!」


 陽菜に言われ、中井は勢いよく席へ着いた。


 資料を読み込む表情は真剣だった。


 陽菜の意見に何でも同意するわけではない。


「単身者向けにするなら、駅からの距離が気になります」


『やっぱりそうだよね』


「ただ、近くに大きな工場があります。車通勤の人なら、駅までの距離はそれほど問題にならないと思います」


『そっか。工場で働く人を想定するんだ』


「夜勤のある人もいるはずなので、周辺の騒音が少ないことも強みにできませんか」


『いいね、それ』


「本当ですか」


『うん。中井くん、ちゃんと物件を使う人のことまで考えてる』


 中井は一瞬言葉を失った。


「……ありがとうございます」


『何でそんなに緊張してるの?』


「してません」


『顔、赤いよ』


「会議室が暑いだけです」


 室温は、むしろ少し低いくらいだった。


 同じ班の社員たちは、誰もそれを指摘しない。


 中井のために、気づかないふりをした。


 発表では、陽菜が全体の説明を担当し、中井が補足へ入った。


 中井の声は最初こそ僅かに震えていたが、話し始めると次第に落ち着いていった。


 黒澤から質問を受けても、資料を確認しながら自分の言葉で答える。


 発表が終わると、陽菜が隣にいる中井へ笑顔を向けた。


『中井くん、すごく分かりやすかったよ』


「櫻井さんがまとめてくれたおかげです」


『中井くんの案がよかったんだよ』


「……今日のこと、一生忘れません」


『大袈裟だなあ』


 陽菜は笑っていたが、中井の表情は本気だった。


     ◇


 研修終了後。


 社員たちが会議室から出ていく中、陽菜は残った資料を集めていた。


 机の上に余った冊子や筆記用具を重ね、両腕で抱える。


 その上へ、使い終えたファイルまで載せた。


「櫻井さん、それは僕が持ちます」


『大丈夫。これくらい持てるよ』


「持てるかどうかじゃなくて、僕にも持たせてください」


『でも、中井くんはパソコン持ってるでしょ』


「パソコンは肩に掛けられます」


『落としたら危ないよ』


「落としません」


 中井が陽菜の前に立つ。


 いつものように慌てているわけでも、浮かれているわけでもなかった。


「櫻井さん、朝からずっと他の人の分まで動いてますよね」


『そうかな』


「朝食の時も、研修の時もそうでした。誰かがやる前に、櫻井さんが全部やってます」


『別に、無理してるわけじゃないよ』


「分かってます」


 中井は陽菜が持つ資料の半分へ手を掛けた。


「櫻井さんなら、全部持てると思います。でも、持てる人に任せていたら、その人だけがずっと持つことになります」


 陽菜の表情が止まる。


「だから、半分ください」


『……中井くん』


「全部取ったら、櫻井さんが気にすると思うので。半分だけ」


 中井は陽菜の返事を待った。


 強引に奪うことはしない。


 自分が持ちたいからといって、陽菜の意思を無視することもしなかった。


 陽菜は少し迷ったあと、腕の力を抜いた。


『じゃあ、半分お願いしようかな』


「はい」


 中井は資料の半分を受け取る。


 想像していたより重かったのか、一瞬だけ腕が下がった。


『重いでしょ?』


「重くないです」


『今、ちょっと落としそうになったよね』


「なってません」


『無理しなくていいよ』


「半分なら持てます」


 中井は真剣な顔で資料を抱え直した。


 陽菜が声を上げて笑う。


『ありがとう、中井くん』


「いえ」


『助かった』


「……はい」


 中井は前を向いた。


 それでも、緩む口元までは隠せていなかった。


 少し離れたところで、樹里が2人を見ていた。


 隣には彩花がいる。


「日高」


『何だ』


「あの2人、いつもあんな感じなの?」


『中井さんが一方的に世話を焼いている』


「やっぱり、そうなのね」


『ただ、陽菜は誰かに頼ることが得意じゃない』


「それは見てれば分かるわ」


 彩花は、資料を半分ずつ持って歩く2人を見る。


「あの子、意外とよく見てるじゃない」


『そうだな』


「日高としては、どうなの?」


『何が』


「櫻井さんに、あれだけ露骨に近づいてる男がいることよ」


『陽菜が嫌がっていないなら、私が口を出すことじゃない』


「随分と冷静なのね」


『今のところはな』


「今のところ?」


 樹里は答えなかった。


 ただ、中井へ向ける視線が少しだけ厳しくなっていた。


     ◇


 午後は自由行動となった。


 陽菜、樹里、凛、柚希、彩花が土産物店を見ていると、中井も偶然同じ店へ入ってきた。


『中井くんもお土産?』


「はい。家族に頼まれていて」


『何を買うの?』


「この地域限定のお菓子です」


『あ、それ。あたしも気になってた』


「櫻井さんも買うんですか」


『どうしようか迷ってる』


「美味しいらしいです。口コミも調べました」


『そこまで調べたの?』


「櫻井さんが昨日、気になるって言ってたので」


 陽菜が瞬きをする。


『あたし、そんなこと言った?』


「夕食の時に言ってました」


『よく覚えてるね』


「櫻井さんが言ったことなので」


 あまりに真っ直ぐな言葉だった。


 陽菜は僅かに首を傾げたが、深く考えずに笑う。


『じゃあ、買ってみようかな』


「持ちます」


『まだ買ってないよ』


「買ったら持ちます」


『自分で持てるって』


「僕が持ちたいんです」


『本当に親切だね、中井くんは』


 少し離れた場所で聞いていた柚希が、とうとう我慢できなくなった。


「中井くんって、陽菜さんの舎弟みたいですね」


「えっ」


 中井の顔が固まる。


『舎弟?』


「だって、陽菜さんが言う前に何でもしますよね」


「違います」


「じゃあ、何なんですか?」


「僕は……」


 中井は言葉に詰まった。


 全員の視線が集まる。


 陽菜だけが、何も疑っていない顔で返事を待っていた。


「……後輩です」


「普通の後輩は、お菓子の口コミまで調べませんよ」


「仕事でも事前調査は大切です」


「これは仕事じゃないですよ」


「習慣です」


「陽菜さん以外の人にも同じことしてます?」


「それは……」


 中井の視線が泳ぐ。


 凛が柚希の袖を引いた。


「柚希ちゃん、それくらいにした方がいいよ」


「だって、面白くて」


「中井さんが困ってる」


 陽菜も、助けるように柚希へ声を掛ける。


『柚希ちゃん、中井くんをからかわないの』


「陽菜さんは何とも思わないんですか?」


『何が?』


「中井くん、陽菜さんのことだけ特別扱いしてますよ」


 中井の顔が、耳まで一気に赤くなる。


 樹里と彩花は黙って陽菜を見る。


 凛も答えを待っていた。


 陽菜は少し考えたあと、穏やかに笑う。


『中井くんは、素直で優しい後輩だから』


 その言葉に、中井の表情が止まった。


 喜んでいいのか、落ち込むべきなのか分からない顔だった。


「……ありがとうございます」


「中井くん、今のでいいんですか?」


「櫻井さんに褒めてもらえました」


「でも、完全に後輩扱いですよ」


「褒めてもらえました」


 中井は同じ言葉を繰り返した。


 陽菜は、そんな中井を見て楽しそうに笑っている。


 彼の気持ちには、まだ少しも気づいていない。


 樹里が小さく息を吐いた。


『先は長そうだな』


「日高先輩、何か言いました?」


『何でもない』


 中井は陽菜が購入した土産袋を受け取ると、大切そうに両手で持った。


 その姿は、やはり恋人候補というより、忠実な後輩にしか見えない。


 少なくとも、今の陽菜にとっては。


 けれど、誰にでも手を差し伸べる陽菜へ、初めて「半分持たせてほしい」と言った男だった。


 その言葉が陽菜の中で意味を持つのは、もう少し先のことになる。

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