43話「隠していた背中」
「あら。日高と櫻井さんも今から?」
脱衣所の入口に立つ彩花を見て、陽菜の手が帯の上で止まった。
浴室にいる樹里も、振り返ったまま動かない。
彩花は2人の反応を見比べる。
「何よ、その顔。私が来たら困るの?」
『別に、そういうわけじゃ……』
「なら、そんなところで固まってないで入れば?」
彩花は気にした様子もなく、自分の籠を棚へ置いた。
陽菜は浴衣を押さえたまま、浴室にいる樹里へ視線を送る。
樹里はすでに服を脱いでいる。
今から脱衣所へ戻るには、必ず彩花へ背中を向けなければならない。
タオルだけで、背中に刻まれた刺青を隠しきることはできない。
『彩花さん、柚希ちゃんは?』
「部屋で寝てる。遠藤さんが見てくれてるわ」
『酔ってたけど、大丈夫そう?』
「水を飲ませたら少し落ち着いた。放っておいても寝るだけよ」
『そっか。じゃあ、彩花さんもゆっくり――』
「櫻井さん」
『何?』
「さっきから、浴衣を脱ぐ気がないわね」
陽菜の笑顔が引きつる。
『ちょっと、湯あたりしそうな気がして』
「まだ入ってもいないのに?」
『お酒も飲んだから』
「ほとんど飲んでなかったでしょ」
『……見てたんだ』
「同じ席にいたもの」
彩花が訝しげに目を細める。
「もしかして、私に見られたくないものでもあるの?」
『そんなわけないじゃん』
「じゃあ、脱いだら?」
彩花に悪意はない。
陽菜が不自然な態度を取るから、疑問を口にしているだけだった。
それでも、逃げ道は少しずつ塞がれていく。
陽菜が再び樹里を見る。
樹里は僅かに目を伏せた。
『櫻井さん』
会社で使う呼び方だった。
陽菜の表情が、僅かに引き締まる。
『無理に隠そうとすれば、余計に不自然になる』
『……日高先輩』
『彩花なら、見たものを面白半分で言いふらしたりはしない』
「ちょっと。勝手に話を進めないでくれる?」
彩花は腕を組む。
「何を隠してるのか知らないけど、私を巻き込むなら説明しなさい」
樹里は浴室の入口に掛けていたタオルを手に取った。
『彩花』
「何よ」
『見ても、騒ぐな』
「騒ぐかどうかは、見てから決めるわ」
『そうか』
樹里が、ゆっくりと背を向けた。
白い湯気の向こうに、その背中が晒される。
肩から背中にかけて刻まれた、大きな薔薇。
赤い花弁と、黒い茎。
肌の上を這うように伸びた棘が、1つの紋章を形作っている。
彩花の目が見開かれた。
「……何、それ」
『見たままだ』
「刺青?」
『ああ』
「どうして日高が……」
言いかけた彩花の視線が、陽菜へ移る。
陽菜は諦めたように息を吐き、浴衣の帯を解いた。
『あたしにもあるよ』
陽菜が背を向ける。
その背中にも、樹里と同じ意匠の薔薇が刻まれていた。
大きさや配置は異なる。
それでも、同じものを背負うために彫られたことは一目で分かった。
「櫻井さんまで……」
彩花の声から、普段の刺々しさが消えていた。
「2人で入れたの?」
『2人だけじゃない』
陽菜が、静かに答える。
『もう1人いる』
「それって……」
彩花の脳裏に、田所から送られてきたLINEが浮かんだ。
総長と副総長。
そして、美園という女。
だが、彩花はその名前を口にしなかった。
代わりに、樹里の背中を見つめる。
「日高。あなた、昔何をしてたの」
『今は話せない』
「私を信用できないから?」
『信用していなければ、最初から見せていない』
「なら、話せるでしょ」
『私だけの過去じゃない』
樹里は彩花へ向き直った。
タオルで前を隠しながらも、背中の薔薇を隠そうとはしなかった。
『陽菜と、もう1人の人間にも関わることだ。私の判断だけでは話せない』
彩花は陽菜を見る。
陽菜は困ったように笑った。
『ごめん、彩花さん』
「謝ってほしいわけじゃないわ」
彩花は深く息を吐く。
「随分と大きなものを隠してたのね」
『会社に持ち込んだことはない』
「それを決めるのは、あなたじゃないでしょ」
樹里の表情が僅かに強張る。
彩花は、その変化を見逃さなかった。
普段は何を言われてもほとんど顔色を変えない樹里が、初めて見せた不安だった。
「……日高」
『何だ』
「私が黒澤部長に話すと思ってる?」
樹里はすぐに答えなかった。
『可能性は考えた』
「正直ね」
『隠していたのは事実だからな』
「あなたらしくない」
『何が』
「見つかってもいないうちから、自分が不利になる可能性ばかり考えるところよ」
彩花は脱衣籠からタオルを取り出す。
「そんなに今の仕事を失うのが怖い?」
『怖い』
樹里は、迷わず答えた。
陽菜が驚いたように樹里を見る。
彩花も僅かに目を見開いた。
『この刺青を入れたことを後悔しているわけじゃない。これも私の一部だと思っている』
樹里は自分の背中へ手を回そうとする。
当然、指先は薔薇まで届かない。
『ただ、過去の私を理由に、今の私まで否定されたくない』
「……そう」
『営業部で働くことも、今の人間関係も失いたくない』
陽菜は何も言わなかった。
ただ、樹里の横顔を見つめていた。
総長だった頃の樹里なら、決して口にしなかった言葉だった。
何かを失うことが怖い。
それを他人の前で認められるほど、樹里は今の場所を大切に思っている。
彩花は浴衣の帯へ手を掛けた。
「私、刺青の入った人間と一緒に仕事をしてはいけないなんて、就業規則は知らないわ」
『彩花』
「それに、その刺青が日高の仕事を代わりにしてるわけじゃない。営業成績に数字を足してくれるわけでも、ミスを減らしてくれるわけでもないでしょ」
『……そうだな』
「だったら、私には関係ない」
彩花は浴衣を脱ぎ、畳んで籠へ入れた。
「誰かに話すつもりもないわ。人の背中を言いふらして喜ぶほど、暇じゃないもの」
陽菜の顔が明るくなる。
『彩花さん、ありがとう』
「櫻井さんにお礼を言われることじゃないわ」
『でも――』
「ただし」
彩花の鋭い視線が、樹里へ向く。
「私に見つかる程度の隠し方しかできないなら、今後は大浴場に入らないことね」
『今回は誰も来ないと思っていた』
「その見通しが甘いと言ってるの」
『悪かった』
「素直に謝られると、調子が狂うわ」
彩花は樹里の横を通り、先に浴室へ入った。
入口で一度だけ振り返る。
「いつまでそこにいるの。体が冷えるわよ」
陽菜は樹里と顔を見合わせた。
樹里が小さくうなずく。
2人も彩花のあとに続いて、浴室へ入った。
◇
病院の処置室から莉乃が出てきた時、沙羅は待合室の椅子から立ち上がろうとした。
「莉乃!」
「沙羅、動くな!」
莉乃が慌てて声を上げる。
沙羅は途中まで立ち上がったものの、痛みに顔を歪めて座り直した。
額には包帯が巻かれ、左腕は固定されている。
莉乃も頬や腕に傷があったが、幸い骨折や内臓の損傷はなかった。
医師からは数日間の安静を言い渡されている。
莉乃は仲間の肩を借り、沙羅の前まで歩いてきた。
「沙羅……ごめん」
「何で莉乃が謝るの」
「私が、もっと早く引くって決めてたら」
「違う。私が副総長なのに、何もできなかったから……」
「お前は助けを呼んでくれた」
「でも、莉乃を置いて逃げた」
「私が行けって言ったんだろ」
「それでも!」
沙羅の声が待合室に響く。
他の患者たちがこちらを見る。
美園は2人の間に立った。
『続きは、退院してからにしなさい』
莉乃と沙羅が同時に黙る。
『謝るのも、反省するのも後でいくらでもできる。今は、2人とも無事だったことを喜びなさい』
「でも……」
『渡辺さん』
美園は沙羅の前へ膝をついた。
『あなたが私の店まで来なければ、九条さんを連れ戻すことはできなかった』
「私は、美園さんに頼っただけです」
『助けを求めることを、簡単なことだと思っているの?』
沙羅が顔を上げる。
『一度断られた相手のところへ、傷だらけになってもう一度来た。格好悪い姿を見せて、頭を下げた』
「……はい」
『あなたが副総長として何もできなかったとは、私は思わない』
沙羅の目に、涙が溜まる。
『自分では助けられないと分かった時に、助けられる人間を探した。それも、仲間を守るために必要なことよ』
「美園さん……」
美園は立ち上がり、今度は莉乃を見る。
『九条さんも』
「はい」
『渡辺さんを逃がした判断は間違っていない。でも、自分だけが残ればいいという考え方は、今後改めなさい』
莉乃が俯く。
『あなたが残れば、他の人間が逃げられる。そう考えたのでしょうけど、あなたを置いて逃げた人間が何を背負うのかまでは考えていなかった』
「……そうですね」
『総長だから、最後まで残らなければならないわけじゃない』
「でも、仲間を置いては行けません」
『なら、全員で帰る方法を最後まで考えなさい』
莉乃は美園を見つめた。
やがて、ゆっくりとうなずく。
「はい」
美園はBeauty Roseの仲間たちにも目を向けた。
『アネモネとの話は終わった。今後、向こうから手を出すことはない』
「本当ですか?」
『ただし、Beauty Roseから再び仕掛ければ、その限りではない』
莉乃が答える。
「こちらからは、絶対に手を出しません」
『その言葉は、私ではなく仲間全員に伝えて』
「分かりました」
沙羅が、特攻服姿の美園を見上げる。
「美園さん」
『何?』
「最初に頼みに行った時は、断りましたよね」
『そうね』
「どうして、今日は助けてくれたんですか」
美園は少しだけ考える。
『最初にあなたたちが頼んだのは、Beauty Roseの代わりに私へ戦ってほしいという話だった』
「……はい」
『今日は違った』
美園の視線が、莉乃へ向く。
『あなたは九条さんを連れて帰ってほしいと頼んだ』
沙羅が息を呑む。
『喧嘩に勝ってほしいと言われたわけじゃない。大切な人を助けてほしいと言われたの』
美園は静かに微笑んだ。
『それなら、断れないわ』
沙羅は唇を震わせ、深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
莉乃も沙羅の隣で頭を下げる。
「この恩は、絶対に忘れません」
『恩に感じなくていい』
「でも――」
『次に誰かが助けを求めてきた時、今夜のことを思い出して。その人を見捨てないでくれれば、それでいい』
2人は、もう一度うなずいた。
◇
浴室には、しばらく湯の音だけが響いていた。
彩花は洗い場の椅子に座り、自分の髪を洗っている。
陽菜はその少し離れた場所で、何度も彩花の様子を窺っていた。
彩花が顔を上げる。
「櫻井さん」
『はい』
「さっきから鏡越しに見すぎ」
『ごめん』
「別に、逃げたりしないわよ」
『そういうつもりじゃなくて』
「じゃあ、どういうつもり?」
『……嫌じゃないのかなって』
「何が」
『あたしたちの背中』
彩花は髪についた泡を流す。
「好きか嫌いかで言えば、刺青を入れたいとは思わないわ」
『うん』
「でも、櫻井さんたちが入れているものを、私が好きになる必要もないでしょ」
『そっか』
「嫌いになる必要もない」
陽菜が瞬きをする。
彩花は鏡越しに、陽菜の背中を見る。
「ただ、意外だっただけよ」
『日高先輩が?』
「2人ともよ。でも、日高の方が意外」
『どうして?』
「あの人、自分以外の誰かと同じものを背負うようには見えないから」
少し離れた湯船に浸かっていた樹里が、彩花を見る。
『聞こえているぞ』
「聞こえるように言ったの」
『そうか』
「否定しないのね」
『否定できないからな』
彩花は洗い場を立ち、湯船へ入る。
樹里とは少し距離を置いて腰を下ろした。
「もう1人も、同じ薔薇なの?」
『ああ』
「その人とは、今も会ってる?」
『会っている』
「会社の人?」
『違う』
樹里の返事は短かった。
彩花も、それ以上は聞かない。
代わりに、湯船の縁へ背中を預ける。
「いつか話せるようになったら、聞かせなさい」
『聞きたいのか』
「日高が隠してることを、知らないままにしておくのが気に入らないだけ」
『彩花らしいな』
「何よ」
『いや』
樹里の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
彩花はそれを見て、僅かに眉を寄せた。
「勘違いしないで。私はあなたを理解したわけでも、全部受け入れたわけでもない」
『分かっている』
「これからも、仕事では負けるつもりはないから」
『私もだ』
「その刺青があるからって、手加減もしないわよ」
『望むところだ』
陽菜が2人の間に入り、嬉しそうに笑う。
『なんか、いいね』
「何が?」
『2人とも、やっぱり似てる』
『似ていない』
「似てないわよ」
樹里と彩花の声が重なった。
陽菜はますます笑う。
『ほら、そういうところ』
「櫻井さん、少し静かにして」
『はーい』
注意されても、陽菜の笑顔は消えなかった。
樹里は湯気の向こうで彩花を見る。
『彩花』
「何よ」
『ありがとう』
彩花は一瞬だけ目を逸らした。
「次に言ったら、黒澤部長へ報告するわよ」
『それは困る』
「なら、二度と言わないことね」
『分かった』
樹里の返事を聞き、彩花は口元だけで小さく笑った。
◇
美園が病院の廊下でスマートフォンを確認すると、陽菜から送られたLINEには新しいメッセージが増えていた。
『美園さん、今お風呂上がったよ』
『お土産、何がいい?』
『総長はお酒以外って言ってるけど、あたしはお酒でいいと思ってる』
その下には、土産物売り場で撮ったらしい酒瓶の写真が並んでいる。
美園は青い特攻服を見下ろした。
袖には、今夜の騒ぎでついた埃が僅かに残っている。
何も知らない陽菜は、遠く離れた旅館で笑っている。
美園は少し迷ったあと、返信を打った。
『返事が遅くなってごめん。少し店が立て込んでいたの』
すぐに既読がつく。
『大丈夫?』
『問題ないわ』
『本当に?』
『本当よ。せっかくの旅行なんだから楽しんできなさい』
しばらくして、陽菜から笑顔の絵文字が送られてきた。
『分かった。お土産楽しみにしてて』
『ええ』
美園はLINEを閉じた。
嘘をついた。
正確には、全てを話さなかっただけかもしれない。
それでも陽菜の顔を思い浮かべると、胸の奥に小さな痛みが残った。
(帰ってきたら、きちんと話さないと)
美園はそう思いながら、特攻服の袖についた埃を払った。
◇
同じ頃。
仕事を終えた零は、ガソリンスタンドの事務所で着替えていた。
ロッカーからスマートフォンを取り出すと、見慣れない名前からLINEが届いている。
昔、走っていた頃に何度か顔を合わせた女だった。
「零、今どこにいる?」
「今日の話、聞いた?」
零は眉を寄せる。
続いて届いた文章を見た瞬間、その表情が変わった。
「Rose girlsの中村美園が、特攻服を着てアネモネのたまり場に1人で乗り込んだって」
「本当なら、あの3人がまた動き出したの?」
零は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(美園さんが……1人で?)
樹里と陽菜は、会社の研修旅行に行っている。
美園が2人へ黙って動いたのだとすれば、理由は1つしかない。
知られれば、2人が必ず戻ってくるからだ。
零は樹里の名前が表示されたLINEの画面を開く。
親指を入力欄へ置いた。
だが、文字を打つことができない。
(美園さんは、樹里さんたちに知られたくないはずっす)
それでも、黙っていていい話なのか分からない。
もし何か起きていたら。
もし、美園が怪我をしていたら。
迷った末に、零は樹里の画面を閉じた。
代わりに、美園とのLINEを開く。
「美園さん、今どこにいるんすか」
送信したメッセージには、すぐに既読がついた。
返事は短かった。
『病院よ』
零の背筋に、冷たいものが走った。




