42話「役職のない女」
「その女に触るな」
暗がりから現れたまどかの声に、倉庫内の空気が一変した。
「今のお前たちが、相手にしていい人間じゃない」
アネモネの女たちが道を空ける。
美園は、その中央を歩いてくるまどかを静かに見つめていた。
長い金髪。
黒い特攻服の袖には、紫色のアネモネが刺繍されている。
かつて敵として向かい合った頃と、鋭い目はほとんど変わっていなかった。
「久しぶりだな、中村美園」
『そうね』
「何年ぶりだ?」
『数えてないわ』
「相変わらず、愛想がない」
『あなたに振りまく必要はないでしょ』
まどかの口元が、僅かに持ち上がる。
「それもそうだ」
2人の間に流れる空気に、西村愛が苛立った声を上げた。
「ちょっと待ってください。知り合いなんですか」
「知り合い、か」
まどかは美園から目を逸らさないまま答える。
「何度か殺し合いになりかけた仲だ」
『大袈裟ね』
「お前が言うな」
愛の眉間に皺が寄る。
「だったら、ちょうどいい。まどかさんだって、Rose girlsに潰された側ですよね」
「潰された覚えはない」
「でも――」
「私たちは負けた。だが、潰されてはいない」
まどかの声が低くなる。
「それに、私と日高樹里の話は、4年前に終わってる」
愛が唇を噛んだ。
「終わってません。Rose girlsのせいでアネモネは――」
「お前は、その時アネモネにいなかっただろ」
「昔の仲間から聞いてます」
「聞いただけだ」
「だからって、なかったことにはできない」
「なかったことにしろとは言ってない」
まどかは愛の正面に立った。
「だが、お前が今やってることは、昔のアネモネを守ることじゃない。昔の名前を使って、今の連中を喧嘩に巻き込んでるだけだ」
「私は総長です」
「ああ。今のアネモネの総長はお前だ」
まどかは周囲の女たちを見回す。
床に倒された2人。
身構えながらも、美園へ近づけずにいる者たち。
その奥には、不安を隠せない顔もあった。
「だったら、昔の私たちの恨みじゃなく、お前自身の言葉でこいつらを立たせろ」
愛の顔が歪む。
「まどかさんは、どっちの味方なんですか」
「どちらの味方でもない」
「じゃあ、口を出さないでください。もう、まどかさんのチームじゃない」
倉庫の中が静まり返る。
愛の言葉に、周囲の女たちが息を呑んだ。
まどかは怒らなかった。
むしろ、僅かに目を細める。
「その通りだ」
「……え」
「今のアネモネは、お前のチームだ。だから、止めるのも私の役目じゃない」
まどかが一歩下がった。
「好きにしろ」
愛は一瞬、戸惑った。
それでも、すぐに美園へ向き直る。
「まどかさんが何を言おうと、九条莉乃は返さない」
『理由を聞いても?』
「Beauty Roseに思い知らせるため」
『何を』
「私たちに手を出したら、どうなるかを」
『それを思い知らせたあと、どうするの』
「……何?」
『九条さんを返さず、渡辺さんたちがまた仲間を集める。今度はBeauty Roseだけじゃなく、話を聞いた他のチームも動くかもしれない』
「返り討ちにする」
『そう。次も勝ったとする』
美園の声は変わらない。
『その次は?』
「何が言いたいの」
『あなたが勝ち続ける限り、終わらないと言っているの』
愛が美園を睨む。
『九条さんを傷つければ、Beauty Roseは引けなくなる。あなたたちがBeauty Roseを潰せば、今度はその仲間が動く。人数を増やして、もっと大きな喧嘩になる』
「怖いなら、最初から手を出さなきゃよかった」
『あなたは怖くないの?』
「怖いわけないでしょ」
『自分のことは聞いていない』
美園の視線が、愛の後ろにいる女たちへ向く。
『この子たちが傷つくことも、何とも思わないのかと聞いているの』
「みんな覚悟して、ここにいる」
『本当に?』
美園は、倉庫の右端に立つ女を見た。
『あなたは、さっきからずっと出口を見ている』
「……っ」
次に、その隣の女へ視線を移す。
『あなたは愛さんが前へ出るたびに、止めようとしている。でも、総長に逆らえなくて手を下ろしている』
「私は……」
『そこのあなたは、床に倒れた2人が心配で仕方がない。それでも、勝手に駆け寄ることができない』
誰も答えられなかった。
美園は愛へ視線を戻す。
『この人たちは、あなたのために立っている。でも、あなたと同じ気持ちで立っているわけじゃない』
「勝手なこと言わないで!」
愛が一気に間合いを詰めた。
右手が美園の顔へ伸びる。
美園はその腕を外側へ流した。
愛の勢いを殺さないまま背後へ回り、肘を取り、体勢を崩す。
「くっ……!」
愛の膝が床についた。
美園は背後から手首を押さえている。
力任せではない。
逃げようとする方向だけを塞ぎ、愛の体を動けなくしていた。
「離せ!」
『暴れないで。肩を痛めるわよ』
「ふざけんな!」
周囲の女たちが動こうとする。
美園が顔を上げた。
『来るなら、全員で来ても構わない』
静かな声だった。
怒鳴ってもいない。
睨みつけてもいない。
それでも、誰も一歩を踏み出せなかった。
『でも、あなたたちが動けば、愛さんの肩に負担がかかる。傷つけたくないなら、その場にいて』
愛を人質に取っているわけではない。
美園の腕には、関節を壊すほどの力は込められていなかった。
それが分かるからこそ、誰も動けない。
美園は愛が痛みを感じる一歩手前だけを正確に押さえ、集団全体の動きを止めていた。
まどかが小さく息を吐く。
「だから止めたんだ」
愛が歯を食いしばったまま、まどかを見る。
「……何がですか」
「こいつを相手にするなと言った理由だ」
「こんなの、不意を突かれただけで……」
「違う」
まどかは、はっきりと言い切った。
「お前が殴りかかる前から、中村美園はお前の次の動きを読んでいた」
まどかの視線が、美園へ向く。
「日高樹里は、正面から相手を押し潰す。あいつの前に立たされた人間は、動く前に心を折られる」
次に、愛の後ろで身構えている女たちを見る。
「櫻井陽菜は逆だ。何をするか分からない。笑っていようが、泣いていようが、限界を越えた瞬間に自分まで壊して相手へ食らいつく」
まどかは美園を見据えた。
「だが、一番こちらの集団を見ていたのは、中村美園だ」
美園の眉が僅かに動く。
「誰が一番強いかじゃない。誰を止めれば全員が止まるのか。誰が怯えていて、誰が抜けようとしているのか。喧嘩が始まる前から、全部見ていた」
『昔の話よ』
「ああ、昔の話だ」
まどかが鼻で笑う。
「でも、お前は何も変わってない」
愛が、押さえられたまま美園を見上げる。
「……この人、Rose girlsで何だったんですか」
「何でもない」
「は?」
「総長でも、副総長でも、幹部でもない。ただの創設メンバーだ」
まどかは続ける。
「だから、厄介だった」
愛の目が揺れる。
「肩書きがないから、立場では縛れない。上に立とうともしない。名前を売ることにも興味がない」
まどかの声に、僅かな苦さが混じった。
「それなのに、こいつが一言口を開けば、日高樹里も櫻井陽菜も聞いていた」
『買い被りすぎよ』
「だったら聞くが、中村美園」
まどかは青い特攻服を見つめた。
「日高と櫻井は、今日のことを知ってるのか」
『知らない』
「だろうな」
『2人は今、会社の研修旅行に行っている』
「知ったら戻ってくるか」
『必ず』
「だから1人で来た」
『そうよ』
「馬鹿は変わってないらしい」
『あなたに言われたくないわ』
美園は、ゆっくりと愛の腕を離した。
愛は床に手をつきながら、肩を押さえる。
痛みは残っていない。
怪我をさせられていないことが、余計に愛の敗北感を強くした。
美園は愛の正面へ回る。
『もう一度だけ聞くわ。九条さんを返して』
「……返したら、どうするの」
『Beauty Roseには、今後アネモネへ手を出さないように伝える』
「伝えるだけ?」
『決めるのは九条さんたちよ。私はBeauty Roseの人間ではないから、勝手な約束はできない』
「私たちには解散しろって言わないんだ」
『言わない』
「どうして」
『解散するかどうかも、あなたたちが決めることだから』
愛は黙り込む。
『ただし、九条さんへの報復は、ここで終わりにして』
「……もし私が、嫌だと言ったら?」
『その時は、九条さんを連れて帰ってから考える』
「力ずくで?」
『必要なら』
短い言葉だった。
虚勢でも、脅しでもなかった。
愛は後ろを振り返る。
仲間たちの顔を見る。
自分についてきた女たち。
その中には怒りを抱えている者もいる。
だが、それ以上に戸惑いと不安が広がっていた。
愛は視線を落とした。
「……連れてきて」
奥にいた女へ命じる。
「でも、これで終わりです。Beauty Roseが次に手を出したら、今度は止めません」
『分かった。九条さんにも、そう伝える』
女が倉庫の奥へ走っていく。
しばらくして、肩を支えられた莉乃が姿を現した。
両手は自由だったが、制服は汚れ、頬には殴られた痕が残っている。
足取りも覚束ない。
「……美園さん?」
莉乃は美園の青い特攻服を見て、目を見開いた。
『迎えに来たわ』
「どうして……」
『渡辺さんに頼まれたから』
「沙羅は」
『無事よ。今は仲間に付き添われて、病院にいる』
莉乃の張り詰めていた顔が崩れる。
「よかった……」
その場に膝をつきそうになった莉乃を、美園が抱き留めた。
『歩ける?』
「……はい」
『無理をしなくていい』
「でも、私が歩かないと」
『今まで十分頑張ったでしょ』
莉乃の目から涙が落ちた。
「私、総長なのに……みんなを守れなかった」
『総長だから、1人で全員を守らなければならないわけじゃない』
「沙羅に、逃げろって言いました」
『正しい判断よ』
「あの子を置いていくみたいに、突き放して……」
『それでも、渡辺さんはあなたを助けるために走った』
美園は、莉乃の体をしっかりと支える。
『あなたが帰らないと、あの子は自分を許せなくなる』
「……沙羅」
『帰りましょう。話は、そのあとで聞くわ』
莉乃が小さくうなずいた。
美園はスマートフォンを取り出し、沙羅へLINEを送る。
『九条さんを見つけた。意識はある。今から病院へ向かう』
送信して、数秒も経たないうちに既読がついた。
直後、返信が届く。
「本当に? 莉乃は無事なんですか?」
続けて、何度もメッセージが送られてくる。
「怪我は?」
「話せますか?」
「私のせいだって言ってませんか?」
美園は莉乃の様子を確認してから、短く返した。
『あなたのせいだとは言っていない。今は自分の怪我を診てもらって』
「分かりました」
その下に、すぐ新しいメッセージが表示される。
「ありがとうございます」
美園はBeauty Roseの仲間へ現在地を送り、車で迎えに来るよう頼んだ。
それから、倉庫を出る前に振り返る。
愛は仲間たちに囲まれながら、まだその場に立っていた。
『愛さん』
「……何ですか」
『総長であることと、1人で決めることは同じじゃない』
「説教ですか」
『いいえ』
美園は、愛の周囲にいる女たちを見る。
『この人たちは、あなたの命令を待っているんじゃない。あなたが自分たちの声を聞いてくれるのを待っている』
愛は答えなかった。
美園も、それ以上は何も言わない。
莉乃を支えながら、倉庫の外へ歩いていく。
まどかも2人のあとを追った。
外へ出ると、冷たい夜風が青い特攻服の裾を揺らした。
「中村美園」
呼び止められ、美園が振り返る。
「日高と櫻井には、黙っておくつもりか」
『そのつもりよ』
「無理だろうな」
『どうして』
「その服を着たお前を、何人が見たと思ってる」
美園が倉庫を振り返る。
愛を含め、十数人。
誰か1人が話せば、すぐに噂は広がる。
『……口止めしても意味はなさそうね』
「諦めろ」
まどかは美園の隣に立った。
「それに、あの2人が知った時に怖いのは、私じゃない。お前だ」
『分かっているわ』
「なら、先に謝罪の言葉でも考えておけ」
『総長はともかく、陽菜は泣くでしょうね』
「泣くだけで済むのか?」
美園は少しだけ考えた。
『……済まないかもしれない』
「だろうな」
まどかが僅かに笑った。
遠くから、1台の車がこちらへ近づいてくる。
Beauty Roseの仲間が迎えに来たのだろう。
美園は、そのヘッドライトを見つめる。
(総長、陽菜)
2人がいない間に、勝手なことをした。
怒られるのも、責められるのも覚悟している。
それでも、今夜だけはこれでよかった。
美園の腕の中で、莉乃は確かに生きている。
それだけで十分だった。
◇
その頃。
大浴場には、湯気が立ち込めていた。
幸い、先に入っている社員の姿はない。
陽菜は脱衣所の入口を確認してから、安堵の息を吐いた。
『誰もいないね』
『今のうちに済ませるぞ』
『久しぶりに総長と一緒に入る気がする』
『会社の旅行で喜ぶことじゃない』
『いいじゃん。背中、流してあげる』
『断る』
『なんで?』
『絶対に余計なことをするからだ』
『しないって』
『信用できない』
陽菜が不満そうに頬を膨らませる。
樹里は先に浴室へ入り、周囲を確かめた。
洗い場にも、露天風呂にも人影はない。
これなら、背中を見られる心配はない。
『陽菜、今なら大丈夫だ』
『はーい』
陽菜が浴衣の帯へ手を掛ける。
その瞬間だった。
脱衣所の扉が開く。
「あら。日高と櫻井さんも今から?」
聞き覚えのある声に、2人の動きが止まった。
入口に立っていたのは、彩花だった。




