41話「単騎」
店の扉が開いたのは、美園が着替えを終えてから10分ほど経った頃だった。
息を切らして入ってきた若い女が、カウンター席に座る沙羅を見つけて駆け寄る。
「沙羅!」
「……ごめん。呼び出して」
「何言ってんの。その怪我……早く病院行かないと」
女はBeauty Roseの特攻服こそ着ていなかったが、沙羅と同じ年頃だった。頬や腕に目立った傷はない。美園はそれを確かめてから、カウンターの内側へ回った。
棚から救急箱を取り出し、女に渡す。
『応急処置はしてある。でも、頭も打っているかもしれない。必ず病院へ連れていって』
「はい」
女は返事をした直後、美園の姿を見て息を呑んだ。
深い青を基調とした特攻服。
袖から裾へ伸びる赤と黒の薔薇。
もう何年も着ていなかったはずなのに、その姿には迷いがなかった。
「……その服、Rose girlsの」
『昔のものよ』
沙羅が立ち上がろうとした。
「私も行きます」
『行かない』
「でも、莉乃が……」
『その体で来られても困る』
突き放すような声ではなかった。
だからこそ、沙羅は言葉を失った。
美園は店内を見回し、ガスの元栓と火の気を確認する。伝票を片づけ、レジを閉めた。
まるで普段の閉店作業と変わらない。
ただ、その背中を包んでいるものだけが、いつもの黒いドレスではなかった。
「……美園さん」
沙羅の震える声に、美園が振り返る。
「莉乃を、助けてください」
沙羅は頭を下げた。
副総長としてではない。
大切な仲間を連れ戻してほしいと願う、1人の女として。
美園はしばらく黙っていた。
『九条さんは、私が迎えに行く』
「……必ず、ですか」
『約束はしない』
沙羅が顔を上げる。
美園は静かに続けた。
『相手が何人いるのかも、九条さんがどんな状態なのかも分からない。無責任な約束はできない』
「そんな……」
『でも、連れて帰るために行く』
声に迷いはなかった。
『生きて、ここへ戻ってもらう。そのために行く』
沙羅の目から、また涙が溢れた。
「……お願いします」
『病院に着いたらLINEして。あなたが診察を受けたことを確認するまでは、私も安心できないから』
「分かりました」
美園は店の鍵を手に取った。
沙羅の隣にいる女へ視線を向ける。
『渡辺さんをお願いね』
「はい。絶対に連れていきます」
美園は一度だけうなずき、店の外へ出た。
扉を閉める。
看板の明かりを落とし、鍵を掛けた。
足元に響くブーツの音が、夜の路地に溶けていく。
美園は停めていたバイクに跨がった。
エンジンをかける前に、スマートフォンを取り出す。
画面には、陽菜から届いたLINEの通知が残っていた。
研修旅行先で撮ったらしい料理の写真と、短い文章。
『美園さんも今度一緒に来ようね』
その下には、笑っている絵文字が添えられていた。
美園は通知だけを見つめ、LINEを開かなかった。
(今、既読をつけたら)
陽菜は、きっと何かを察する。
樹里も同じだ。
状況を知れば、2人とも戻ってくる。
どれほど遠くにいても、理由をつけて帰ってくる。
『……だから、言えないのよ』
美園はスマートフォンをしまった。
ヘルメットを被り、エンジンをかける。
低い排気音と共に、青い特攻服が夜の街へ走り出した。
◇
夕食を終えた一行は、それぞれ自由時間を過ごすことになった。
黒澤は宴会場を出る前に、全員を見回した。
「明日の集合は8時半。遅れるなよ。風呂も懇親会も自由だけど、飲みすぎるな」
「はーい」
柚希が真っ先に返事をする。
黒澤の視線が、そのまま柚希で止まった。
「早川さん。特に」
「なんで私だけ名指しなんですか!」
「自覚がないからだ」
「ありますよ! ちゃんと大人としての節度を持って――」
「さっきビールを何杯飲んだ」
「……覚えてません」
「覚えてない時点で駄目だろ」
周囲から笑いが起こる。
柚希が頬を膨らませる横で、凛が小さく頭を下げた。
「私が見ておきます」
「遠藤さんに任せる。森下さんも、悪いけど頼むな」
「どうして私まで」
彩花は不満そうに言いながら、すでにふらつく柚希の腕を掴んでいた。
「ちょっと、彩花さん。私は歩けます」
「真っ直ぐ歩いてから言いなさい」
「歩いてますよ。ほら」
「それは壁に向かってる」
彩花に引き戻された柚希を見て、陽菜が声を上げて笑う。
樹里は呆れたように息を吐いた。
『早川さん、明日に響かない程度にしてください』
「樹里先輩まで……」
その後、凛と彩花は柚希を連れて売店へ向かった。
酒を追加させないために、代わりの飲み物と夜食を買うらしい。
他の社員たちも、卓球台や二次会の会場へ散っていく。
陽菜と樹里は、一度部屋へ戻った。
扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかる。
室内に2人しかいないことを確かめると、陽菜は小さく息を吐いた。
『総長、今のうちにお風呂行かない?』
『そうだな。人が増える前に済ませるか』
2人が気にしているのは、背中に刻まれた薔薇の刺青だった。
会社の人間に見られるわけにはいかない。
大浴場へ行くなら、利用者の少ない時間を選ぶ必要があった。
陽菜は着替えを準備しながら、スマートフォンを手に取った。
『……あれ』
『どうした』
『美園さん、まだLINEに既読ついてない』
画面には、夕食の写真と共に送ったメッセージが表示されている。
普段なら、美園は忙しくても短い返信を寄越す。
少なくとも、店が落ち着く時間には既読がつくはずだった。
樹里が時計を見る。
『まだ店に客がいるんじゃないか』
『そうかな』
『電話するほどのことでもない。落ち着いたら返ってくる』
『……うん』
陽菜は納得しきれない顔で、スマートフォンを伏せた。
『帰ったら、土産を持っていけばいい』
『総長、美園さんに何買う?』
『酒以外で頼む』
『絶対お酒が一番喜ぶじゃん』
『店にいくらでもあるだろ』
『それとこれとは別だよ』
陽菜が笑う。
樹里もわずかに口元を緩めた。
2人は浴衣とタオルを持ち、部屋を出た。
その時、陽菜のスマートフォンには、まだ既読がついていなかった。
◇
アネモネのたまり場は、街外れにある古い倉庫だった。
かつては運送会社が使っていたらしく、錆びた看板が半分外れたまま残っている。
倉庫の前には、10台を超えるバイクが並んでいた。
美園は少し離れた場所にバイクを停め、エンジンを切る。
ヘルメットを外しながら、周囲を見渡した。
正面に大きなシャッター。
横に通用口。
建物の裏にも出入口がある。
窓には光が見える。中にいる人数は、外のバイクだけでは判断できない。
(沙羅ちゃんが見たのは12人)
その人数だけなら、ここへ来る前に聞いている。
問題は、それ以外に何人いるか。
美園はヘルメットをバイクへ掛け、倉庫へ歩き出した。
通用口の前にいた2人の女が、美園に気づく。
「何、この人」
「その服……Rose girls?」
1人が、袖に刺繍された薔薇を見る。
「誰か呼んだ?」
『呼ばれてはいないわ』
「じゃあ何しに来たの」
『九条莉乃さんを迎えに来た』
2人の表情が変わった。
片方が倉庫の奥へ視線を送る。
その一瞬を、美園は見逃さなかった。
莉乃は中にいる。
『話のできる人を呼んで』
「は?」
『同じことを何度も言わせないで。九条さんを迎えに来たの』
「1人で?」
『そうよ』
女たちは顔を見合わせたあと、馬鹿にするように笑った。
「Rose girlsの残党が来るって聞いてたけど、本当に来るとはね」
「しかも1人」
「この人、誰? 元総長?」
「違うでしょ。元総長は日高樹里。副総長は櫻井陽菜」
奥から、さらに数人が姿を現す。
「じゃあ、ただのOG?」
「役職もなかった人が何しに来たの」
笑い声が重なった。
美園は何も言わない。
ただ、倉庫から出てくる女たちを順番に見ていた。
声の大きい者。
周囲の顔色を窺っている者。
腰に手を回した者。
そして、全員が一度だけ視線を向けた女。
集団には、必ず順序がある。
肩書きがなくても、それは動きに出る。
「黙ってないで、何とか言えば?」
若い女が美園の肩を掴もうとした。
その手が触れる寸前、美園が半歩ずれる。
差し出された手首を取り、相手の勢いをそのまま前へ流した。
「え――」
女の体が崩れる。
美園は腕を捻り上げることもなく、そのまま床へ押さえた。
鈍い音が響く。
「何すんの!」
横から別の女が殴りかかる。
美園は振り向かなかった。
僅かに頭を傾けて拳をかわし、伸びきった腕を掴む。足を払うと、2人目も床へ倒れた。
美園は倒れた女の首元へ膝を置く直前で止めた。
『やめておいた方がいい』
声は静かだった。
『私は喧嘩をしに来たわけじゃない』
「ふざけんな!」
3人目が飛び出しかける。
美園が顔を上げた。
ただ、それだけだった。
目が合った女の足が止まる。
美園は立ち上がり、服の袖を軽く払った。
『今の2人も、怪我はしていない。次も同じようにできるとは限らないけど』
その場から、笑い声が消えた。
美園は最初から気づいていた女へ顔を向ける。
腰に鍵を下げ、他の者たちから何度も視線を送られていた女。
『あなたが、ここでは一番上なの?』
「……違う」
『なら、上の人を呼んで』
「私たちの総長に、何の用?」
『九条さんを返してもらう。それから、Beauty Roseへの報復を終わらせる』
「そんなこと、あんたが決められると思ってんの?」
『私は決めに来たんじゃない』
美園は静かに言った。
『話を終わらせに来たの』
倉庫の奥から、ゆっくりと足音が近づいてくる。
女たちが左右へ道を空けた。
黒い特攻服を着た女が、その中央を歩いてくる。
胸元には、赤紫のアネモネが刺繍されていた。
「随分、好きにしてくれたね」
現在のアネモネ総長、西村愛。
美園は黙って彼女を見る。
愛は床に倒れた2人を一瞥したあと、美園へ視線を戻した。
「Rose girlsの元総長でも、副総長でもない。ただのOGが、1人で何しに来たの?」
『肩書きを確かめるために来たんじゃない。九条さんを返して』
「断ったら?」
『返してもらうまで話をする』
「話で済むと思ってる?」
『あなたたちが、話で済ませられるなら』
愛の目が鋭くなる。
「Rose girlsがアネモネに何をしたか、忘れたわけじゃないよね」
『あなたは、その場にいたの?』
「……何?」
『Rose girlsとアネモネが争った時、あなたはそこにいたのかと聞いているの』
「話は聞いてる」
『誰から』
「答える必要ある?」
『ないわ』
美園は愛から目を逸らさなかった。
『でも、それなら今あなたが抱えているのは、自分の傷じゃない』
「黙れ」
『誰かから聞いた恨みを、あなたが引き継ぐのは勝手よ。でも、そのために九条さんを縛る理由にはならない』
「Beauty Roseが先に私たちへ手を出した」
『それを終わらせるために、渡辺さんがここへ来た』
「あの程度で?」
愛が鼻で笑う。
「あれが副総長? 仲間を守ることもできない。総長を置いて逃げて、昔の女に泣きついた」
美園の表情から、僅かに温度が消えた。
『渡辺さんは逃げていない』
「現に自分だけ助かってるじゃない」
『九条さんに託されて、助けを求めに来た。それを逃げたとは言わない』
「随分、あの子に肩入れするね」
『肩入れしているんじゃない』
美園の声が、少しだけ低くなる。
『折れそうな足でここまで走った人間を、笑わないで』
愛の口元から笑みが消えた。
「……やっぱり、話じゃ済まなそうだね」
愛が一歩前へ出る。
周囲の女たちも身構えた。
美園は手を上げない。
構えすら取らず、ただ愛の動きを見ていた。
その時だった。
「動くな、愛」
倉庫の奥から、低く通る声が響いた。
愛の足が止まる。
美園を囲んでいた女たちも、一斉に動きを止めた。
それまで威勢よく声を上げていた者まで、息を潜める。
美園は声のした方へ、ゆっくりと顔を向けた。
暗がりの中から、1人の女が歩いてくる。
「その女に触るな」
女は美園を見つめたまま、静かに告げた。
「今のお前たちが、相手にしていい人間じゃない」
聞き覚えのある声だった。
そして、美園が忘れるはずのない目だった。
現れたのは、かつてRose girlsと敵対したアネモネの元総長。
鈴原まどかだった。




