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40話「2度目」

研修旅行当日の朝。


 島川不動産の前には、貸し切りの大型バスが停まっていた。


 営業部の社員たちが荷物を預け、次々と車内へ乗り込んでいく。


 普段とは違う私服姿。


 仕事の出張とは異なる空気。


 朝から賑やかな声が飛び交い、これから始まる3日間を楽しみにしていることが伝わってくる。


「日高先輩、おはようございます!」


 柚希が大きく手を振った。


 その隣には凛がいる。


 2人ともすでに荷物を預け、出発を待っていた。


『おはようございます、早川さん。遠藤さん』


「おはようございます。日高先輩」


 凛が丁寧に頭を下げる。


 少し遅れて、陽菜も大きな鞄を抱えながらやってきた。


『おはようございます!』


「陽菜さん、おはようございます」


「陽菜さん、こっちです!」


 柚希に呼ばれ、陽菜が明るく手を振る。


 樹里の隣を通り過ぎる瞬間だけ、小さな声を落とした。


『日高先輩。昨日のLINE、見ました?』


『見ました』


『あれ、本当に全員参加なんですか』


『予定表には、そう書いてあります』


『逃げられません?』


『逃げれば不自然です』


 2人が気にしているのは、研修の内容ではなかった。


 数日前に配られた日程表。


 初日の予定欄に記されていた一文が、頭から離れない。


 夕食後、大浴場で入浴。その後、懇親会。


 宿泊施設には客室にも浴室がある。


 だが、旅行の一環として、社員同士で大浴場を利用する流れが組まれていた。


 樹里、陽菜、そして美園。


 3人の背中には、同じ意味を持つ薔薇が残されている。


 特攻服は脱げる。


 髪型も化粧も変えられる。


 話し方を整え、会社員として振る舞うこともできる。


 だが、肌に刻まれた過去だけは、制服のように脱ぐことができなかった。


「日高先輩、どうかしましたか?」


 凛に声をかけられ、樹里はすぐに表情を戻した。


『いえ。忘れ物がないか考えていただけです』


「日高先輩でも、忘れ物を心配するんですね」


『私を何だと思っているんですか』


「忘れ物をしても、誰にも気づかれないうちに解決する人です」


『それは褒めていますか』


 凛は真剣な顔で考え始めた。


 その横から、柚希が陽菜の腕へ抱きつく。


「陽菜さん、大浴場がすごく広いらしいですよ。露天風呂もあるみたいです!」


『へ、へえ……楽しみだね』


「あとで一緒に入りましょうね!」


『一緒に』


「はい!」


 柚希は満面の笑みを浮かべている。


 陽菜は笑顔を保ったまま、樹里へ視線を送った。


(断れない)


(どうしよう)


 視線を受けた樹里も、わずかに眉を寄せる。


 柚希の誘いを不自然に断れば、余計に怪しまれる。


 かといって、一緒に入れば背中の薔薇を見られる。


「櫻井さん、そろそろ乗ってくれ。人数を確認するぞ」


 黒澤部長の声が飛ぶ。


『はい、黒澤部長!』


 陽菜は柚希とともにバスへ向かった。


 樹里も凛の後ろを歩く。


 乗車口の前では、神谷が名簿を手に参加者を確認していた。


「日高さん、荷物は預けましたか?」


『はい。問題ありません』


「櫻井さんが、何か忘れていないか確認しておいてください」


『私は櫻井さんの保護者ではありません』


「そう言いながら、結局確認するでしょう」


 神谷が笑う。


 樹里は返事をせず、バスへ乗り込んだ。


     ◇


 バスが会社を出てから、およそ30分。


 車内はすでに旅行らしい賑やかさに包まれていた。


 柚希は陽菜の隣で、施設の案内を見ながら話し続けている。


「夜の懇親会、私服でいいんですよね。何を着ようかな」


『柚希ちゃん、研修もあること忘れてない?』


「忘れてません。昼は真面目に研修して、夜は真面目に楽しみます」


「早川さん。夜更かしする前提で考えるな」


 通路を挟んだ席から、黒澤部長が釘を刺す。


「えー、部長。こういう時くらいいいじゃないですか」


「翌朝の集合に遅れないなら、常識の範囲で自由にしていい」


「さすが黒澤部長。話がわかります」


「今の返事を聞くと、許可を取り消したくなるな」


 柚希の明るい声に、周囲から笑いが起きる。


 少し後ろでは、彩花が窓際に座っていた。


 田所の件があってから、まだ日が浅い。


 今回の研修旅行を欠席する選択肢もあった。


 だが、彩花自身が参加すると決めた。


 以前とまったく同じではない。


 それでも、誰かと同じ場所へ出かけることを選べる程度には、日常を取り戻し始めていた。


 彩花は前方に座る樹里の背中を見たあと、すぐに窓の外へ視線を移した。


 樹里の過去を知ってしまった今でも、会社での接し方を変えるつもりはない。


 仕事では負けたくない。


 助けられたからといって、その思いまで捨てる必要はなかった。


 樹里は彩花の視線に気づいていたが、振り返らなかった。


 スマートフォンを取り出し、美園へLINEを送る。


《今、出発した》


 少しして、美園から返信が届いた。


《行ってらっしゃい》


《たまには会社の人たちと楽しんでおいで》


 樹里は短く返す。


《研修だ》


 すぐに、もう1件届く。


《総長は本当に真面目だね》


 続けて、陽菜からも3人のLINEグループへメッセージが送られてきた。


《美園さん、大浴場どうしよう》


《もう柚希ちゃんに一緒に入ろうって言われた》


 美園から、笑っているスタンプが返ってくる。


《頑張って》


《助けてよ》


《県外までは助けに行けないよ》


《薄情者》


 陽菜から送られてきた泣き顔のスタンプを見て、美園は店のカウンターで小さく笑った。


 朝のRoseには、まだ客はいない。


 夜の営業に備え、美園は仕込みと掃除を進めていた。


 昨日の話し合いから、一晩が過ぎている。


 渡辺沙羅は来ていない。


 Beauty Roseからの連絡もない。


 何も起きていない。


 美園はスマートフォンを伏せ、いつもの仕事へ戻った。


     ◇


 夕方。


 研修施設へ到着した一行は、荷物を預けたあと、予定されていた講習へ参加した。


 外部講師による接客と交渉についての研修。


 複数の班に分かれ、提示された事例をもとに対応を考える。


 樹里は真剣に資料を読み込んでいた。


 陽菜も最初こそ旅行気分を残していたが、始まればきちんと意見を出している。


 彩花は樹里とは別の班に入り、誰より早く課題の問題点を見つけた。


 柚希は発想の柔らかさを発揮し、凛は全員が見落としていた細かな条件へ気づく。


 黒澤部長は、少し離れた場所から部下たちの様子を見ていた。


 会社を離れた場所だからこそ見えるものがある。


 普段は発言の少ない者が前へ出る。


 部署内では目立たない者が、別の強みを見せる。


 研修旅行は単なる慰安ではない。


 互いの仕事を、いつもとは違う距離から見るための時間でもあった。


 研修が終わる頃には、窓の外が赤く染まっていた。


「皆さん、お疲れさまでした」


 講師の言葉とともに、室内の空気が一気に緩む。


 柚希が大きく伸びをした。


「終わったー。次は夕食ですね!」


『柚希ちゃん、切り替え早すぎない?』


「陽菜さん。終わった研修を引きずっても、お腹は満たされません」


『名言みたいに言ってるけど、ただお腹が空いてるだけだよね』


 凛が2人の後ろで、小さく笑った。


 樹里は資料をまとめながら、スマートフォンを確認する。


 美園から新しいLINEは届いていなかった。


 朝にやり取りをしたきりだった。


 それを気に留める理由はない。


 今頃は、開店の準備を終えた頃だろう。


『日高先輩、行きますよ』


 陽菜に呼ばれ、樹里はスマートフォンを鞄へしまった。


『今行きます』


 旅行先の夜が、始まろうとしていた。


     ◇


 同じ頃。


 スナックRoseでは、最後の客が帰ったところだった。


 美園は入口まで客を見送り、店内へ戻る。


 閉店時刻にはまだ少し早い。


 それでも今夜は、これ以上客が来る気配はなかった。


 グラスを洗い、カウンターを拭く。


 何度目かの作業を終えた時、店のドアが激しく開いた。


 取りつけられたベルが、乱暴な音を立てる。


 美園は反射的に顔を上げた。


 入口に立っていたのは、渡辺沙羅だった。


 額から血を流している。


 唇は切れ、上着の肩が裂けていた。


 呼吸も乱れている。


 沙羅は美園の顔を見つけると、張りつめていた力が切れたように膝をついた。


『渡辺さん』


 美園はすぐにカウンターの中から出た。


 倒れそうになった身体を支え、床へ座り込ませる。


『聞こえる? 私がわかる?』


「……美園、さん」


『頭を打った?』


「殴られたけど……意識は、失ってません」


『吐き気は』


「ないです」


『目は見える?』


「見えます」


 美園は沙羅の瞳を確認し、額の傷へ清潔なタオルを当てた。


 見た目ほど出血は深くない。


 だが、ほかにも怪我をしている可能性がある。


『救急車を呼ぶよ』


「待ってください」


『待たない』


「先に、話を聞いてください」


『話はあと。身体が先』


「総長が捕まったんです!」


 沙羅の声が、店内へ響いた。


 美園の手が止まる。


『……誰に』


「アネモネです」


 沙羅は美園の腕を掴んだ。


 震える指には、乾きかけた血が付いている。


「今日、向こうから話をつけるって連絡が来ました。莉乃は、これで終わらせるって……何人かで指定された場所へ行ったんです」


『あなたも一緒だった』


「はい。でも、最初から話し合うつもりなんてなかった」


 沙羅の呼吸が、再び速くなる。


「待ち伏せされてました。人数も、聞いていたよりずっと多くて……気づいた時には囲まれてた」


『九条さんは』


「私たちを逃がすために残りました」


『ほかの子は』


「逃げられた子には、怪我をした子を病院へ連れていかせました。動けるのは、もう私くらいで……」


『それで、ここへ来た』


「ほかに、頼れる人がいなかった」


 沙羅は美園を見上げた。


 前に来た時の強がりは、もう残っていない。


「アネモネは、莉乃を拠点へ連れていくって言ってました」


『場所は』


「わかります」


『人数は』


「少なくとも、外にいたのは12人。中に何人いるかはわかりません」


『刃物は』


「見てません。でも、棒を持ってた人はいました」


『九条さんが連れていかれてから、どれくらい経ってる』


「1時間くらいです」


 美園は黙って沙羅を見た。


 質問へ迷わず答えている。


 混乱はしているが、意識ははっきりしていた。


『警察には』


「駄目です」


『誘拐と監禁なら、あなたたちだけの問題じゃない』


「警察を呼んだら、莉乃がどうなるかわからない。向こうも、それをわかってて……」


『だから黙って従うの?』


「違います!」


 沙羅は必死に首を振った。


「でも、今は時間がないんです」


 美園の目が、沙羅の顔から離れる。


 カウンターの上には、伏せたスマートフォンが置かれていた。


 樹里と陽菜は県外にいる。


 今頃は研修を終え、会社の仲間たちと夕食へ向かっているはずだった。


 LINEを送れば、2人は戻ろうとする。


 事情を知れば、陽菜は迷わない。


 樹里も止めながら、最後には一緒に来る。


 美園には、それがわかっていた。


 だからこそ、スマートフォンへ手を伸ばさなかった。


『渡辺さん。もう一度、場所と中の構造を説明して』


 沙羅の目が見開かれる。


「行ってくれるんですか」


『まだ、そうは言ってない』


 美園は救急箱を取り出し、沙羅の額へ新しいガーゼを当てた。


『あなたの怪我を処置する。その間に、知っていることを全部話して』


「でも、時間が――」


『焦って説明を飛ばしたら、助けられるものも助けられない』


 美園の声は静かだった。


 その一言で、沙羅の乱れた呼吸がわずかに整う。


『入口はいくつあるの』


「正面と、裏に搬入口があります」


『窓は』


「高い位置にいくつか。ほとんど割れてます」


『九条さんが連れていかれた時、意識はあった?』


「ありました。歩けてました」


『アネモネの総長は』


「西村愛です。現場にいました」


『鈴原まどかは』


「……いませんでした」


 美園の指が、わずかに止まる。


『そう』


 それだけ答え、処置を続けた。


 沙羅の話を聞きながら、美園の頭の中では、すでに必要な情報が組み上がり始めていた。


 人数。


 出入口。


 九条莉乃の状態。


 相手の中心にいる人間。


 そして、鈴原まどかがその場にいなかったという事実。


『あなたは、どうして逃げられたの』


 美園が尋ねる。


 沙羅の顔が歪んだ。


「莉乃が……行けって」


『九条さんが逃がしたんだね』


「私は残るって言いました。でも、莉乃が私を突き飛ばして、ほかの子と一緒に逃げろって……」


 沙羅の声が震え始める。


「私、副総長なのに」


 堪えていたものが、初めて言葉の隙間から溢れた。


「莉乃が間違ってるってわかってたのに、止められなかった」


 沙羅の目から、涙が落ちる。


「仲間を守れって、美園さんにも言われたのに……結局、莉乃に守られて逃げた」


 血と涙が頬の上で混ざった。


 沙羅は乱暴に拭おうとしたが、次から次へと溢れてくる。


「副総長なのに、私は何もできなかった」


『何もできなかった人は、ここまで来ないよ』


 美園が静かに言った。


 沙羅が顔を上げる。


『逃げた子に、怪我人を病院へ連れていかせた。相手の人数も、九条さんの状態も、連れていかれた場所も覚えていた』


「でも、莉乃を置いてきた」


『連れて帰るために、ここまで来たんでしょ』


「私には、助けられないから……」


『自分で全部できなければ、副総長じゃないと思ってる?』


 沙羅は答えられなかった。


『総長の代わりに殴られることだけが、副総長の仕事じゃない。残った仲間を動かして、必要な人に助けを求めるのも仕事だよ』


「でも……」


『悔しいね』


 その一言に、沙羅の顔がさらに歪んだ。


「悔しいです」


 声を殺そうとしても、涙は止まらなかった。


「莉乃の隣にいたのに、何も届かなかった。守りたかったのに、守られた。こんなの……副総長じゃない」


 美園は、泣き続ける沙羅を見ていた。


 最初に店へ来た時の彼女は、過去の名前へ縋ろうとしていた。


 自分では止められないから、伝説に片づけてもらおうとしていた。


 だが、今は違う。


 仲間を置いて逃げた自分を許せず、それでも九条莉乃を連れ戻すため、血を流したままここまで来た。


 責任から逃げるための涙ではない。


 自分の不甲斐なさを噛み締め、それでも副総長であろうとする人間の涙だった。


 美園は、沙羅の額へ貼ったガーゼを確認する。


 それから、静かに立ち上がった。


『渡辺さん。Beauty Roseに、今動ける子はいる?』


「1人だけ。喧嘩には参加してなくて、怪我もしてません」


『その子にLINEして。ここへ来てもらって』


「何をさせるんですか」


『あなたを病院へ連れていってもらう』


「そんな時間はありません」


『時間がないからこそ、あなたまで倒れるなと言ってるの』


「でも、莉乃は――」


『九条さんは、私が迎えに行く』


 沙羅の呼吸が止まった。


「……行って、くれるんですか」


『あなたの涙を見たから、情に流されたわけじゃないよ』


 美園は沙羅の目をまっすぐに見た。


『あなたが、副総長としてここまで来たから行く』


 沙羅の唇が震える。


 何度も言葉にしようとして、ようやく小さな声が出た。


「お願いします」


『うん』


「莉乃を……総長を、連れて帰ってください」


『連れて帰る』


 美園は、はっきりと答えた。


『だから、あなたも副総長として自分の身体を守りなさい。九条さんが戻った時、隣に立てるように』


「……はい」


 沙羅は涙を拭い、震える指でスマートフォンを操作した。


 Beauty Roseの仲間へLINEを送る。


 美園は返信が届いたことを確認してから、カウンターの奥にある扉へ向かった。


 店の裏には、小さな物置として使っている部屋がある。


 美園は照明を点け、奥に置かれた古い衣装箱の前へ立った。


 何年も開けていないわけではない。


 処分しようと思ったことも、一度や二度ではなかった。


 それでも、捨てられずに残してきた。


 蓋を開ける。


 畳まれた青い布の上に、赤と黒の薔薇が咲いていた。


 美園は、しばらくそれを見つめた。


 もう戻らないと、昨夜3人で決めたばかりだった。


 その言葉を破るまでに、1日もかからなかった。


 県外の宿泊施設では、陽菜から新しいLINEが届いていた。


《研修終わった》


《これから夕食》


《美園さんもちゃんと食べてね》


 美園は通知だけを確認し、返信しなかった。


 LINEを送れば、2人は戻ってくる。


 だが、これは樹里や陽菜を呼び戻すための戦いではない。


 沙羅が副総長として差し出した覚悟に、美園が応えると決めたのだ。


 美園はスマートフォンの画面を消した。


 そして、青い特攻服へ袖を通す。


 過去へ戻るためではない。


 過去の名前に巻き込まれた誰かを、そこから連れ戻すために。


 鏡の中に、スナックRoseのママはいなかった。


 そこに立っていたのは、かつて総長と副総長の隣で、誰より静かに場を制していた女だった。

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