39話「報告」
夜。
閉店後のスナックRoseには、樹里、陽菜、美園の3人だけが残っていた。
カウンターには3人分のグラスが並んでいる。
樹里の前にはウイスキー。
陽菜の前には薄めに作られたカクテル。
美園はいつもどおり、水の入ったグラスを手にしていた。
陽菜はカウンターへ肘をつき、美園が用意した軽食を口に運んでいる。
『美園さん、これ美味しい』
『今日のお客さんに出した残りだけどね』
『残りでも美味しいものは美味しいよ』
『陽菜は何を出しても、だいたい美味しいって言うでしょ』
『そんなことないよ。ちゃんと味わってる』
『なら、何が入ってるかわかる?』
『……愛情?』
『それで誤魔化せると思わないで』
美園が呆れたように笑う。
向かいでは、樹里が静かにグラスを傾けていた。
いつもと変わらない、3人だけの時間だった。
その空気を区切るように、美園が水を一口飲む。
『2人に、話しておくことがある』
陽菜の手が止まった。
樹里もグラスを置く。
『何だ』
『数日前、若い子が店に来た』
『お客さん?』
『違う。渡辺沙羅さん。Beauty Roseの副総長だって』
陽菜の表情から、笑みが消えた。
『Beauty Rose?』
『知ってるの』
『名前だけは』
陽菜は背もたれへ身体を預け、腕を組んだ。
『総長は、九条莉乃でしょ』
『そう言ってた』
樹里が陽菜を見る。
『知り合いか』
『Rose girlsが解散したあと、残った子たちの一部が、もう一度同じ名前で集まろうとしたことがあった』
陽菜はテーブルの一点を見つめた。
『あたしが解散させた。総長がいないのにRose girlsを名乗るなって』
『その中に九条さんがいたんだね』
『うん』
陽菜の声が、わずかに硬くなる。
『まだ若かったけど、妙に人を引っ張る子だった。強気で、負けず嫌いで、言い出したら聞かない』
『誰かに似てるな』
樹里が言う。
『誰のこと?』
『さあな』
『総長、今あたしを見たよね』
『見ていない』
『見てたじゃん』
『話を戻せ』
美園が静かに遮る。
『陽菜に解散させられたあと、九条さんはRose girlsとは別のチームを立ち上げた。それがBeauty Roseらしい』
『名前を変えればいいって話じゃないでしょ』
陽菜が眉を寄せる。
『あの時、もう終わりにしろって言ったのに』
『本人が別のチームとして作った以上、私たちに止める権利はない』
樹里の言葉に、陽菜は不満そうな顔をする。
『それは、わかってる。でも――』
『何を頼まれた』
樹里が美園へ尋ねる。
美園は沙羅との会話を思い返した。
『アネモネと揉めているから、力を貸してほしいって』
店内の空気が、変わった。
陽菜の目が鋭くなる。
樹里も、わずかに眉を寄せた。
『アネモネ』
『そう』
『この前、陽菜と零がまどかに会った件と関係があるのか』
『わからない。沙羅さんの話では、Beauty Roseとアネモネのメンバー同士が揉めたのが始まりらしい』
美園は、聞いた内容を順に伝えた。
小さな口論から始まったこと。
アネモネが、かつてRose girlsに敗れた因縁を持ち出したこと。
九条莉乃が挑発を退けず、対立が大きくなっていること。
沙羅自身も、手首に怪我をしていたこと。
仲間が傷つき、このままでは莉乃も壊れてしまうと訴えていたこと。
陽菜は黙って聞いていた。
カウンターの下で握った拳に、力が入っている。
『それで、美園は何と答えた』
『断った』
美園は迷わず答えた。
『もう戻らない。私たちの名前で、今の子たちの争いを終わらせるつもりもないって』
樹里が短く頷く。
『それでいい』
陽菜は何も言わなかった。
『陽菜』
『……わかってる』
『何が』
『関わらない方がいいってこと』
そう答えながらも、陽菜の顔には納得しきれないものが残っていた。
『莉乃のLINEは』
『残っているのか』
『一応。でも、ずっと既読がつかない。たぶんアカウントを変えてる』
『ほかに連絡する方法は』
『ない』
陽菜は小さく息を吐いた。
『勝手なことしてる』
『怒ってるの』
美園が尋ねる。
『怒ってるよ。あたしが何のために、あの時止めたと思ってるの』
『九条さんには、伝わらなかったんだね』
『伝わるまで言えばよかった』
陽菜の声が低くなる。
怒りは九条莉乃へ向いている。
だが、その奥には、自分が途中で手を離したことへの後悔も混じっていた。
『陽菜。お前が責任を負う話ではない』
『でも、あたしが知ってる子だよ』
『知っていることと、背負うことは違う』
樹里は静かに言った。
『九条さんが自分で作ったチームなら、その選択の責任も本人にある。私たちが過去の名前を使って介入すれば、次に何か起きた時も同じことになる』
『わかってるって言ってるじゃん』
陽菜の声が少しだけ強くなる。
それでも、語尾は荒れなかった。
『ただ……』
言葉を探すように、陽菜はグラスへ視線を落とした。
『アネモネって聞いた瞬間、少し身体が動きそうになった』
美園は黙って陽菜を見る。
『楽しそうって意味じゃないよ。懐かしいとも違う。あの名前を聞くと、まだ何かを終わらせてない気がする』
『まどかから聞いた話か』
『それもある』
樹里が消えた理由。
陽菜がまだ知らされていない過去。
まどかが口にした、危険な相手の存在。
アネモネという名前が、それらすべてを呼び起こしている。
『だからこそ、今は関わるな』
樹里の声は静かだった。
『感情で動けば、相手が何を狙っているのか見えなくなる』
『総長は、何も気にならないの?』
『気になっている』
樹里は即答した。
陽菜が顔を上げる。
『だが、気になることと、踏み込むことは別だ』
『……そういうところ、ずるい』
『何がだ』
『自分だけ平気な顔するところ』
樹里は答えなかった。
平気なわけではない。
美園には、それがわかっていた。
『沙羅さんは、また来るって言ってた』
『美園さんは?』
『来なくていいって言った』
『来るだろうな』
樹里の言葉に、美園は眉を上げる。
『どうしてそう思うの』
『美園に断られて、1度で諦めるような人間なら、店まで来ない』
『……私も、そう思う』
美園は水の入ったグラスを見つめた。
『でも、次に来ても答えは同じ。私たちは、もうRose girlsじゃない』
『ああ』
『うん』
3人の意見は一致していた。
今のBeauty Roseは、自分たちとは別のチームだ。
過去の因縁を理由に、もう一度同じ世界へ戻るつもりはない。
若い彼女たちが自分で始めたことなら、自分たちで終わらせなければならない。
それが、今の3人が出した答えだった。
◇
話が途切れたところで、樹里が腕時計を確認した。
『それと、明日から3日間、会社の研修旅行へ行く』
美園が顔を上げる。
『2人とも?』
『うん。営業部の研修だから、総長とあたしは同じ日程』
『どこまで行くの』
『県外の研修施設。昼は研修で、夜は自由時間らしいけど』
『遊びに行くんじゃないからな』
『わかってるよ』
陽菜は返事をしながら、目を逸らした。
『何か企んでる顔だね』
『何も企んでないって』
『櫻井さんや凛ちゃんと夜更かししようとしてる顔』
『柚希ちゃんもいるよ』
『否定するところは、そこじゃないでしょ』
美園が呆れたように笑う。
先ほどまで張りつめていた空気が、少しだけ緩んだ。
『店の方は問題ないか』
樹里が尋ねる。
『大丈夫。2人がいなくても、いつもどおり開けるよ』
『何かあったらLINEしてくれ』
『研修中の人に、店のことで連絡しないよ』
『店のことに限らない』
美園は樹里を見る。
その言葉が、沙羅やBeauty Roseのことを指しているとわかった。
『何もないよ』
『ならいい』
『総長も、研修先で仕事ばかりしないでね』
『研修旅行だ。仕事をするために行く』
『そういうところだよ』
美園と陽菜の声が重なった。
樹里は何も言わず、グラスを手に取る。
陽菜が吹き出し、美園も小さく笑った。
◇
夜が深くなり、樹里と陽菜は店を出た。
美園は2人を見送ったあと、店内へ戻る。
3人分のグラスを片づけ、カウンターを拭く。
いつもと同じ閉店作業だった。
それでも、入口のドアが風でわずかに鳴るたび、美園の視線がそちらへ向いた。
沙羅は来なかった。
Beauty Roseからの連絡もない。
何も起きていない。
『……関わらない、か』
美園は、自分たちで決めた言葉を小さく繰り返した。
正しい判断だと思う。
自分たちが出ていけば、若い彼女たちは過去の名前に頼る。
抗争が終わっても、別の争いが始まるだけかもしれない。
それでも、包帯の内側から血を滲ませていた沙羅の手が、頭から離れなかった。
美園は入口の鍵を確認し、店の明かりを落とす。
明日から、樹里と陽菜は県外にいる。
その事実が、なぜか小さな棘のように胸へ残った。




