38話「1度目」
閉店時刻を少し過ぎた頃。
スナックRoseの店内には、美園と最後の客だけが残っていた。
美園はいつもと変わらない笑顔で客を見送り、店の外まで出て頭を下げる。
『ありがとうございました。気をつけて帰ってくださいね』
「また来るよ、ママ」
『お待ちしてます』
客の背中が通りの向こうへ消える。
美園は店内へ戻り、入口の札を営業中から準備中へ裏返そうとした。
そのとき、店の前に立っている人影に気づいた。
若い女だった。
年齢は19歳前後。
暗い色の上着に、飾り気のないパンツとスニーカー。髪型にも服装にも、目立つところはない。
ただ、美園を見つめる目だけが鋭かった。
鋭いというより、そう見せようとしている。
誰かに弱みを悟られないよう、必死に気を張っている目だった。
『お客さん?』
美園が尋ねる。
女は一瞬迷ったあと、小さく頭を下げた。
「中村美園さんですか」
美園の指が、入口の札に触れたまま止まる。
『そうだけど』
「少しだけ、話を聞いてください」
『もう閉店時間なの』
「お願いします」
女は深く頭を下げた。
上着の袖がずれ、手首に巻かれた包帯が見える。
美園はその傷を見た。
だが、何も尋ねなかった。
『お酒は出さないよ』
「飲みに来たわけじゃありません」
『わかってる』
美園は札を準備中へ裏返し、女を店内へ招いた。
◇
女はカウンターの端へ座った。
美園は水の入ったグラスを出し、少し離れた位置に立つ。
『名前は?』
「渡辺沙羅です」
『沙羅ちゃんね』
「……渡辺でいいです」
『じゃあ、渡辺さん』
美園は、訂正されたことに気分を害した様子も見せなかった。
沙羅はグラスへ手を伸ばさない。
カウンターの下で、両手を強く握っている。
「中村美園さん。Rose girlsにいた美園さんですよね」
美園の表情は変わらなかった。
ただ、グラスを拭いていた手だけが止まった。
『誰から聞いたの』
「昔、この辺りで走ってた人たちからです」
『人違いじゃない?』
「総長の日高樹里さん、副総長の櫻井陽菜さん。それから、中村美園さん」
3人の名前を並べられ、美園は小さく息を吐いた。
否定を続けても意味はないらしい。
『今は、ただの店のママだよ』
「私、Beauty Roseの副総長をやってます」
美園の目が、ほんのわずかに細くなる。
『Beauty Rose』
「はい」
『聞いたことがないな』
「Rose girlsがなくなったあと、その名前を使ってチームを立ち上げようとした人たちがいたと聞いてます」
美園は黙って続きを待つ。
「でも、櫻井陽菜さんが解散させた。今の総長の九条莉乃が、残った仲間を集め直して、別のチームとして作ったのがBeauty Roseです」
『Rose girlsとは別のチームなんだね』
「……はい」
『それなら、私たちの後継ではない』
穏やかな声だった。
それでも、沙羅は何も言い返せなかった。
「勝手に名前を借りるつもりはありません」
『だったら、どうして私のところへ来たの』
沙羅は膝の上で拳を握り直した。
「力を貸してほしいんです」
『何の力?』
「アネモネと、揉めています」
その名前を聞いた瞬間、美園の目がわずかに動いた。
短く、しかし確かな反応だった。
『続けて』
「最初は小さな揉め事でした。お互いのメンバーが街で鉢合わせて、口論になっただけです」
『それだけでは、ここまで来ないね』
「アネモネの方が、昔Rose girlsに負けたことを持ち出してきたんです。Beauty Roseも同じだろうって」
『違うと言えばいい』
「莉乃は、引きませんでした」
『それで?』
「売られた喧嘩から逃げるくらいなら、チームを名乗る資格はないって」
美園は、沙羅の手首へ視線を落とした。
『その包帯も、その資格のため?』
沙羅は反射的に袖を引き、傷を隠した。
「これは大したことありません」
『そうやって言い続けて、大したことになるんだよ』
「まだ誰も、取り返しのつかない怪我はしてません」
『“まだ”ね』
沙羅が口を閉じる。
店内には、製氷機の低い音だけが残った。
『それで、私に何をさせたいの』
「アネモネと話をつけてください」
『私の名前を使って?』
「昔のアネモネは、あなたたち3人には逆らえなかったと聞きました。美園さんが出てくれれば、向こうも――」
『断る』
沙羅の言葉が止まった。
「まだ、全部話してません」
『聞いても答えは同じ』
「どうしてですか」
『もう、そういう世界には戻らないから』
「戦ってほしいわけじゃありません。ただ、話を――」
『同じだよ』
美園はグラスをカウンターへ置いた。
『私がRose girlsの名前で出ていけば、あなたたちは何を覚えると思う?』
「何をって……」
『困ったら昔の名前を借りればいい。勝てない相手には、もっと怖い人間を連れてくればいい。そう覚える』
「違います。私は、仲間を守りたいだけです」
『なら、最初に守るべきだったね』
美園の声は優しかった。
だが、逃げ道を与える優しさではなかった。
『喧嘩を買うことと、仲間を守ることは違う。それを総長が見失った時に止めるのが、副総長じゃないの』
「止めました」
沙羅が初めて声を強めた。
「何度も止めました。でも、莉乃は聞かなかった」
『それで、あなたは一緒に走った』
「1人で行かせられなかったからです!」
沙羅の声が、誰もいない店内へ響く。
その直後、自分が声を荒らげたことに気づき、顔を伏せた。
「……莉乃は、馬鹿です」
握られた拳が震えている。
「強がって、何でも自分だけで決める。誰かが傷つくたびに自分のせいだって思ってるくせに、もっと前へ出ようとする」
沙羅の声から、張りつめた鋭さが剥がれていく。
「このままだと、本当に誰かが大怪我する。莉乃自身が壊れるかもしれない」
『だから、私に止めてほしい』
「私の言葉は、もう聞いてくれないから」
『それを私に言った時点で、あなたも副総長であることを諦めてる』
沙羅が顔を上げた。
「私は諦めてません」
『なら、私のところへ来てる場合じゃない』
「私では、莉乃を止められない」
『止める方法が、正面から説得することだけだと思ってる?』
沙羅は答えられなかった。
『誰と会っているのか。どこで揉めたのか。次はいつ動こうとしているのか。怪我をしている子は何人いるのか。学校や仕事に影響が出ている子はいないのか』
美園は一つずつ問いかける。
沙羅の表情が変わっていく。
『本当に仲間を守るなら、総長の顔色だけ見ていたら駄目。全員を見なさい』
「……全部、把握してるつもりです」
『つもりでは足りない』
厳しい言葉だった。
それでも沙羅は、目を逸らさなかった。
美園はその目を見つめ、心の中だけで息を吐く。
助けを求める相手を間違えている。
だが、仲間を守りたいという気持ちまで偽物ではない。
それがわかるからこそ、安易に手を貸すことはできなかった。
「美園さんなら、止められるんですよね」
『止められるかもしれない』
「だったら――」
『でも、それではあなたたちは何も終わらせられない』
美園はきっぱりと告げた。
『私たちの時代は、もう終わった。あなたたちの問題を、昔の私たちに片づけさせないで』
「このまま見捨てるんですか」
『見捨てるなんて言葉で、私に責任を押しつけないで』
沙羅の顔が強張る。
美園は声を荒らげない。
ただ、沙羅が目を背けようとしているものを、正面から突きつけた。
『あなたが守りたいのは、Beauty Roseという名前? それとも、九条莉乃と仲間たち?』
「両方です」
『優先順位を決めて』
短い沈黙が落ちる。
沙羅の唇が動いた。
「……莉乃と、仲間です」
『なら、チームの面子より、その子たちを選びなさい』
「でも、どうやって」
『それを考えるのが、今のあなたの仕事でしょ』
沙羅は俯いた。
納得したわけではない。
美園に頼れば、すぐに何かが変わると思っていた。
だが、目の前の女は助けに来るとも、代わりに戦うとも言わなかった。
自分の場所へ戻れと告げただけだった。
やがて沙羅は、手をつけていなかった水を一口飲んだ。
グラスを置き、ゆっくりと立ち上がる。
「……今日は帰ります」
『そうした方がいいね』
「でも、諦めません」
『何を』
「美園さんに、力を貸してもらうことです」
『話を聞いてた?』
「聞きました。そのうえで、また来ます」
『来なくていいよ』
「失礼します」
沙羅は深く頭を下げ、店を出ていった。
ドアが閉まる音がして、店内に静寂が戻る。
美園は、沙羅が座っていた席を見る。
水の減ったグラス。
強く握られたことで、わずかに歪んだ紙のコースター。
そして、カウンターの下には小さな血の跡が残っていた。
包帯の内側から滲んだものだろう。
『……人の話を聞かない子だな』
美園は布巾を手に取り、血の跡を拭った。
カウンターへ戻り、自分のスマートフォンを手にする。
樹里、陽菜、美園の3人だけで使っているLINEの画面を開いた。
文字を入力しかけ、指を止める。
自分は断った。
もう関わらないと決めた。
なら、2人へ報告する必要もない。
そう考えて画面を閉じようとした時、沙羅の言葉が頭に残った。
このままだと、誰かが大怪我をする。
美園はLINEを閉じ、スマートフォンをカウンターへ伏せた。
今夜は送らない。
だが、話さずに終わらせることもできないだろう。
『……面倒なのが来たな』
誰もいない店内で、美園は小さく呟いた。




