37話「内緒」
田所との対面から数日が過ぎた。
その後、田所から彩花への直接の連絡は止まっている。
奪われた金についても、相談先を通じて返金の手続きが進められていた。
動画については、田所の言葉だけで削除されたと判断することはしなかった。
残した証拠をもとに、専門の窓口と相談を続けながら対応している。
すべてが終わったわけではない。
それでも、彩花が1人で田所のLINEに怯え、金を用意しなければならない日々は終わった。
会社での彩花にも、少しずつ以前の姿が戻り始めていた。
顔色はまだ万全ではない。
突然スマートフォンが鳴れば、肩を強張らせることもある。
それでも書類を前に手が止まることは減り、周囲の会話にも反応できるようになっていた。
その日の午後。
樹里が作成した資料を確認していた彩花が、数枚目で手を止めた。
「日高」
『何だ』
「ここの数字、前月の資料と単位が違う」
樹里が彩花の指した箇所を見る。
『……本当だな。修正する』
「珍しい。日高でもこんなミスするのね」
『見つけたことは感謝するが、嬉しそうに言うな』
「別に、嬉しくないけど」
『口元が笑っている』
「気のせいでしょ」
彩花は資料を樹里へ返し、何事もなかったように自分の仕事へ戻った。
その背中を見ながら、樹里は一瞬だけ目を細める。
数日前までの彩花なら、人の小さなミスを見つけても反応できなかった。
ようやく、こちらへ噛みつく余裕が戻ってきたらしい。
『彩花』
「何?」
『助かった』
「……次は最初から間違えないで」
『努力する』
樹里は修正作業へ戻った。
少し離れた席で2人のやり取りを聞いていた陽菜は、声を出さずに笑った。
(ちゃんと戻ってきてる)
仲直りしたわけではない。
彩花が急に樹里へ懐いたわけでもない。
むしろ以前より、はっきりと樹里を意識しているように見える。
それでいいのだと、陽菜は思った。
感謝したからといって、彩花が彩花でなくなる必要はない。
◇
終業後。
陽菜が廊下を歩いていると、後ろから声をかけられた。
「櫻井さん。少しいい?」
足を止めて振り返ると、彩花が立っていた。
『いいですよ』
「ここでは話しにくい」
彩花が視線を動かす。
すでに退勤した社員も多いが、誰が通るかわからない。
2人は空いている小会議室へ入った。
以前、彩花が被害を打ち明けた部屋だった。
同じ場所に入ったことで、彩花の表情が一瞬だけ硬くなる。
それでも、今度は自分から陽菜の向かいへ座った。
「確認したいことがあるの」
『はい』
「田所から聞いた話」
陽菜の表情から、わずかに笑みが消えた。
「日高と櫻井さんが、昔、Rose girlsっていうレディースにいた。日高が総長で、櫻井さんが副総長だった」
彩花は陽菜の目をまっすぐに見る。
「本当なの?」
陽菜は、誤魔化さなかった。
『本当です』
彩花が息を止める。
田所の言葉を信じていなかったわけではない。
公園で見せた態度を考えれば、嘘とも思えなかった。
それでも、陽菜本人の口から認められると、すぐには言葉が出なかった。
「……本当に?」
『はい。6年前、総長と美園さんとあたしの3人で作りました。解散したのは4年前です』
「日高が、総長」
『そうです』
「櫻井さんが、副総長」
『一応』
「一応って何?」
『肩書きはそうでしたけど、偉そうにできるほどしっかりしてなかったので』
「今も大して変わらない気がする」
『彩花さん、元気になった途端に厳しくないですか』
「事実を言っただけ」
彩花はそう返しながらも、陽菜から目を逸らさなかった。
「どうして会社で隠してるの?」
『隠してるというより、話す必要がないからです』
「元暴走族だなんて知られたら、面倒だから?」
『それもあります』
陽菜は少し考え、言葉を続ける。
『でも、一番は、もう終わったことだからです。今のあたしたちは、島川不動産で働いてる。それで十分なので』
「日高も、同じ考え?」
『総長は、あたしよりずっとそう思ってます』
彩花は、公園での樹里を思い出した。
田所に正体を知られても、樹里はRose girlsの名前を使おうとしなかった。
過去の肩書きで相手を従わせることを、最初から選択肢に入れていないように見えた。
だからこそ、彩花には新たな疑問が残る。
「もう1人」
『え?』
「田所のLINEに書いてあった。あの時、2人だけじゃなくて、もう1人いたって」
陽菜が黙る。
「美園、って呼ばれてた女」
『美園さんです』
短い訂正だった。
その声に含まれた親しさを、彩花は聞き逃さなかった。
「知り合いなの?」
『はい』
「その人も、Rose girlsだった?」
『そうです』
「どんな人?」
陽菜はすぐには答えなかった。
彩花が尋ねているのは、ただの好奇心からではない。
田所のLINEに書かれていた3人目。
総長と副総長の横に立ち、言葉ひとつで場を収めたという女。
その人物が何者なのか、気になるのは当然だった。
『あたしと総長にとって、とても大切な人です』
「それだけ?」
『美園さんのことは、美園さんが自分で話すことなので』
「会うことがあるみたいな言い方ね」
『そう聞こえました?』
「聞こえた」
『じゃあ、そうなのかもしれません』
「何、その答え」
陽菜は、それ以上説明しなかった。
彩花の中に、「美園」という名前だけが残る。
顔も、年齢も、今どこで何をしているのかもわからない。
ただ、陽菜がその名を口にした時の表情は、会社で誰かについて話す時とは明らかに違っていた。
「……まあ、いい。本人が話すことなら、今は聞かない」
『ありがとうございます』
「それと」
彩花は背筋を伸ばした。
「誰にも言わないから」
『え?』
「Rose girlsのこと。会社の人間には話さない」
陽菜は驚いたように彩花を見る。
『いいんですか』
「よく考えたら、私には関係ないもの。日高が昔何をしてたかと、今の仕事は別でしょ」
『そうですけど』
「それに、こんな秘密を使って日高より優位に立っても、勝ったことにならない」
彩花はきっぱりと言った。
「私は仕事で日高に勝つ。それ以外のところで足を引っ張る気はない」
陽菜の表情が、少しだけ柔らかくなる。
『彩花さんらしいですね』
「何、その言い方」
『褒めてます』
「櫻井さんに褒められても、あまり嬉しくない」
『そこは素直に受け取ってくださいよ』
「嫌」
彩花は席を立った。
「話はそれだけ。日高にも伝えておいて。誰にも言わないって」
『自分で言わないんですか』
「言わない」
『どうして?』
「助けてもらったうえに、秘密まで守ってあげますなんて、本人に言えるわけないでしょ」
『別に、守ってあげるって言い方をしなければ――』
「櫻井さん」
彩花が陽菜を睨む。
「日高には、余計なことを言わないで」
『どこまでが余計なことですか』
「私が感謝してるように聞こえること、全部」
『難しい注文ですね』
「できるでしょ、副総長」
陽菜の目がわずかに見開かれる。
彩花は言ってから気恥ずかしくなったのか、すぐに扉へ向かった。
『彩花さん』
「何?」
『ありがとうございます』
彩花は振り返らなかった。
「……内緒にするだけ。お礼を言われることじゃない」
それだけ言い残し、会議室を出ていった。
◇
帰宅後。
陽菜は樹里へLINEを送った。
《彩花さんに、Rose girlsのことを聞かれた》
少しして、樹里から返信が届く。
《何と答えた》
《本当だって答えた》
《会社では誰にも話さないそう》
《日高先輩にも伝えておいて、と》
返事が途切れた。
やがて、短いLINEが届く。
《そうか》
それだけだった。
いかにも樹里らしい返事に、陽菜は小さく笑う。
《あと、美園さんのことも聞かれた》
今度の返信は早かった。
《何と答えた》
《あたしと総長にとって、大切な人って》
《詳しいことは、美園さん本人が話すことだから教えられないとも伝えた》
《それでいい》
陽菜は画面を見つめる。
《いつか、彩花さんもRoseに連れていっていい?》
送信してから、少し早かったかもしれないと思った。
彩花の問題は、まだ完全に終わったわけではない。
今すぐ誘うつもりもなかった。
ただ、いつか3人が顔を合わせる日が来る気がしていた。
樹里からの返事が届く。
《美園に聞け》
《はーい》
陽菜はLINEを閉じた。
その頃、彩花も自宅でスマートフォンを見ていた。
田所から新しいLINEは届いていない。
静かな画面を確認したあと、スマートフォンを伏せる。
(美園さん、か)
陽菜が自然に付けた呼び方を、頭の中で繰り返す。
樹里と陽菜にとって、大切な人。
いつか会うことがあるのかもしれない。
それがどこで、いつになるのかはわからない。
彩花はまだ、Roseという店の存在さえ知らなかった。




