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36話「正体」

彩花がすべてを打ち明けた夜。


 3人は会社を出る前に、田所とのLINEを最初まで遡った。


 金銭を要求する文章。


 動画を送ると脅す言葉。


 振込先として指定された口座。


 手渡しの日時と場所。


 彩花のスマートフォンに残されていた履歴を、日付がわかる形ですべて保存した。


 振込記録も確認し、消失に備えて複製する。


 田所から送られてきた動画については、誰の目にも触れないよう慎重に扱った。


 陽菜は画面を見た瞬間、奥歯を強く噛み締めた。


 だが、何も言わなかった。


 怒りを見せれば、彩花が自分を責めてしまうかもしれない。


 悪いのは、撮られた彩花ではない。


 そのことだけは、絶対に見失ってはいけなかった。


 翌日、彩花の同意を得たうえで、3人は専門の相談窓口へ向かった。


 脅迫を受けていること。


 無断で撮影された性的な動画を使い、金銭を要求されていること。


 すでに複数回、金を渡してしまったこと。


 そして、次の期限を告げられていること。


 残していたLINEと振込記録は、彩花が被害を受けていることを明確に示していた。


 相手から連絡が来ても証拠を消さないこと。


 新たに金を渡さないこと。


 1人で会わないこと。


 身の危険を感じた場合は、ためらわず警察へ連絡すること。


 今後の対応について説明を受けた彩花は、何度も小さく頷いた。


 帰り道、彩花は隣を歩く樹里を見た。


「日高」


『何だ』


「……本当に、あいつに会うの?」


『私は会わない方がいいと思っている』


「じゃあ、どうするのよ」


『証拠は揃っている。こちらから会う必要はない』


「でも、田所はLINEで、会えば全部消すって言ってる」


『目の前で消したものが、唯一のデータだと証明できない』


「それは、わかってるけど……」


 彩花は俯いた。


 正しいことは理解している。


 それでも、自分を映した動画が他人の手に残っているという恐怖は、理屈だけでは拭えなかった。


「会って、もう金は払わないって自分で言いたい」


『彩花』


「逃げたまま終わりたくないの」


 樹里はしばらく何も言わなかった。


 隣にいた陽菜も、彩花の顔を見つめている。


「1人では行かない。勝手なこともしない。2人の言うとおりにする」


『意地か』


「そうよ」


 彩花は樹里を睨んだ。


「悪い?」


『いや』


 樹里は短く答えた。


『私も、お前が黙って終われるとは思っていなかった』


「……わかってるみたいに言わないで」


『同期だからな』


 彩花は不満そうに顔を背けた。


 だが、それ以上は反論しなかった。


     ◇


 田所から指定されたのは、駅から少し離れた古い公園だった。


 休日の昼間。


 近くには家族連れの姿があり、少し離れた道路を車が行き交っている。


 彩花は事前に、田所から届いたLINEを保存していた。


《金を持ってこい》


《余計なやつには話すな》


《約束を守れば、動画は全部消してやる》


 そのすべてが、田所自身の言葉として残っている。


 彩花の鞄には、金は入っていない。


 入っているのは、普段使っている財布と、相談時に受け取った連絡先を記した紙だけだった。


 陽菜と樹里は、彩花を挟むように歩いている。


「……2人とも、そんなに近くにいなくても逃げないから」


『彩花さんが逃げないことは知ってます』


「だったら離れて」


『田所が何をするかわからないので、嫌です』


「櫻井さん、たまに頑固よね」


『彩花さんに言われたくないです』


 陽菜の返事に、彩花はわずかに眉を寄せた。


 そのやり取りを聞きながら、樹里は前方へ目を向けていた。


 公園の奥。


 古びたベンチに、田所が座っている。


 腕を組み、苛立たしそうに足を揺らしていた。


 彩花の姿を見つけると、すぐに立ち上がる。


「遅いぞ」


 彩花の肩が、わずかに震えた。


 陽菜はそれに気づいたが、声はかけなかった。


 代わりに、彩花より半歩だけ前へ出る。


 田所の表情が変わった。


「……なんだ、お前ら」


「この2人も一緒に話を聞く」


「余計なやつには言うなってLINEしただろ」


「もう、あんたの言うことには従わない」


 彩花の声は震えていた。


 それでも、視線を逸らさなかった。


「金は持ってきてない。これ以上、1円も払わない」


「は?」


「警察にも、相談した」


 田所の顔から笑みが消えた。


「お前……俺が何て言ったか忘れたのか」


『忘れてません』


 陽菜が静かに答える。


『相談したら動画をばらまく。会社にも送る。そうLINEに残ってました』


「お前には関係ないだろ」


『関係がないかどうかを決めるのは、あなたじゃないです』


 陽菜の声は穏やかだった。


 だが、その顔からは笑みが消えている。


 感情を爆発させているわけではない。


 むしろ、静かすぎた。


 田所が彩花へ向けて1歩踏み出す。


 同時に、陽菜も動いた。


 進路を塞ぐように立ち、田所を見上げる。


『それ以上、彩花さんに近づかないでください』


「どけよ」


『嫌です』


 ただそれだけの言葉だった。


 陽菜は怒鳴っていない。


 睨みつけてもいない。


 それなのに、田所の足は止まった。


 田所が苛立ったように舌打ちし、ポケットからスマートフォンを取り出す。


「だったら、今ここで消してやるよ。それで文句ないだろ」


『触らないでください』


 樹里の声が飛んだ。


 田所の指が止まる。


『今、そのスマートフォンに入っているものも証拠です。勝手に操作しないでください』


「証拠って……こいつが勝手に俺へ金を渡しただけだろ」


『LINEに、金銭を要求した記録が残っています。動画を公開すると告げた記録もな』


「そんなもの、冗談に決まってる」


『それを判断するのは、あなたではない』


 樹里は、田所から目を逸らさなかった。


『動画の撮影について、彩花は同意していない。金銭の要求にも、動画の公開をほのめかしている。振込記録も残っている』


 淡々と、確認した事実だけを並べていく。


 声を荒らげる必要はなかった。


 田所は反論しようと口を開いたが、言葉が出てこない。


『これまでに受け取った金は、記録が残る方法で返してください。今後、彩花への直接の連絡と接触はしない。動画についても、こちらが案内された手順に従って対応してもらいます』


「お前ら、何様だよ」


『彩花の同僚です』


「同僚が、ここまで首を突っ込むのかよ」


『困っている同期を助けるのに、ほかの肩書きが必要ですか』


 樹里が問い返す。


 田所は鼻で笑おうとした。


 だが、その笑みは途中で消えた。


 初めて樹里の顔を正面から見たからだった。


 田所の視線が、樹里から陽菜へ動く。


 もう一度、樹里へ戻る。


「……待て」


 声の調子が変わった。


「お前ら、どこかで……」


 陽菜は何も答えなかった。


 樹里も、ただ静かに田所を見ている。


「その目……」


 田所が、1歩後ずさる。


「嘘だろ」


 顔から血の気が引いていく。


「Rose girls……」


 彩花が眉を寄せた。


「何、それ」


 田所は答えず、2人を凝視している。


「お前が総長で……そっちが、副総長」


 彩花が、ゆっくりと樹里を見る。


「総長?」


『昔の話だ』


 樹里は田所から目を逸らさないまま答えた。


「やっぱり、あの時の3人だ……」


 田所の声が震え始める。


「あの2人が、なんでこんなところに……」


『私たちの昔話をするために来たわけではありません』


 樹里が言葉を切る。


『話は理解しましたか』


「あ、ああ……」


『返事ではなく、内容を答えてください』


「金は返す。もう連絡もしない。動画も……」


『今ここで勝手に消すなと言ったはずです』


「わかった。言われたとおりにする」


『返金については、相談先を通して連絡します。彩花へ直接送金したり、手渡そうとしたりしないでください』


「……わかった」


『それから』


 樹里の声が、わずかに低くなる。


『今後、彩花の家や会社の周辺へ近づいた場合も、すぐに相談します』


「近づかない。絶対に近づかない」


 田所は何度も頷いた。


 先ほどまで彩花を見下ろしていた威圧感は、完全に消えている。


『今日はこれで終わりです』


 樹里は田所から視線を外し、彩花を見た。


『行くぞ、彩花』


「……うん」


 彩花は歩き出そうとした。


 そのとき、背後から田所の声が飛ぶ。


「森下!」


 彩花の肩が強張る。


『振り返らなくていいです』


 陽菜が小さく告げた。


 彩花は足を止めなかった。


 3人はそのまま、公園を出た。


     ◇


 駅へ向かう途中、彩花は何度も樹里を見ていた。


 聞きたいことはあった。


 だが、何から尋ねればいいのかわからない。


「……さっきの、何?」


『何のことだ』


「とぼけないで。Rose girlsって言ってた。総長とか、副総長とか」


『昔、そういう名前のチームにいた』


「いたって……日高が総長だったの?」


『今は関係のない話だ』


「関係あるでしょ。田所、顔を見ただけで怯えてた」


『それで今回の件が解決したわけではない』


 樹里の声は冷静だった。


『あいつが何を知っているかも、昔の私たちをどう思っているかも関係ない。必要なのは、証拠を守り、お前への接触を止めることだ』


「でも――」


『彩花』


 樹里が足を止めた。


『怖がらせて従わせただけなら、別の場所にデータを隠して、あとからまた脅せる。今日、あいつが何を約束したかではなく、これから実際に何をするかを見る』


 彩花は、何も言い返せなかった。


 田所が急に怯え始めた瞬間、彩花はこれで終わるのだと思いかけた。


 だが樹里は、田所の恐怖を信用していない。


 過去の名前を武器にすることもなかった。


 最後まで、今ある証拠と、これから取るべき手順だけを見ていた。


『今日のところは、私たちの過去より、自分の安全を考えろ』


「……わかった」


『櫻井さん。彩花を家まで送ってくれ』


『日高先輩は?』


『私は、今日の内容を整理する。あとでLINEする』


『わかりました』


 樹里は彩花へ向き直る。


『田所から連絡が来ても返信するな。LINEは開いて構わないが、内容を保存して私たちに送れ』


「わかってる」


『ならいい』


 樹里はそれ以上何も言わず、駅とは別の方向へ歩き出した。


 彩花は、その背中を見送った。


 隣で陽菜が、小さく息を吐く。


『あたしたちも行きましょうか』


「櫻井さん」


『はい』


「あの人、本当に何者なの?」


 陽菜は少しだけ困ったように笑った。


『それは、日高先輩の言ったとおり、昔の話です』


「櫻井さんも副総長だったんでしょ」


『田所が勝手に言ってただけです』


「否定はしないのね」


『今は、彩花さんを送る方が先です』


 陽菜も答えるつもりはないらしい。


 彩花は納得できなかったが、それ以上は聞かなかった。


     ◇


 その夜。


 自宅へ戻った彩花のスマートフォンに、田所からLINEが届いた。


 通知に表示された名前を見た瞬間、胸が強く鳴る。


 彩花は返信せず、届いた文章を開いた。


《金は返す》


《もうお前には近づかない》


《動画も言われたとおりにする》


 そこで終わりかと思った。


 だが、続けて長い文章が送られてきた。


《お前、あの2人が何者か知らなかったのか》


《昔、Rose girlsっていうレディースがいた》


《日高が総長で、櫻井が副総長だ》


《俺がいたグループも、絶対に手を出すなって何度も言われてた》


 彩花は、画面を見つめた。


 さらにLINEが届く。


《1度だけ、うちの連中がRose girlsの縄張りで揉め事を起こした》


《軽い挑発のつもりだった》


《3日後、総長と副総長、それにもう1人、3人だけで来た》


《大勢を連れてきたわけじゃない》


《たった3人だった》


《それでも、誰も動けなかった》


《総長はほとんど何も言わなかった》


《ただ立って、こっちを見てただけだ》


《副総長は今にも飛びかかってきそうな顔をしてた》


《一番わからなかったのは、3人目の女だ》


《たしか、美園って呼ばれてた》


 知らない名前だった。


 名字なのか、名前なのかもわからない。


 少なくとも、彩花の記憶に該当する人物はいなかった。


《見た目は3人の中で一番落ち着いてた》


《でも、こっちの人数も、誰が中心かも、逃げ道も、最初から全部わかってるみたいだった》


《うちの幹部が言い訳しようとするたび、そいつが名前を呼ぶだけで全員黙った》


《総長が「二度と近づくな」って言った》


《美園って女が「わかったなら、返事をして」って言った》


《それだけで、うちの幹部が頭を下げた》


《あの3人には逆らうな》


《俺はもう何もしない。だから、お前からも約束を守るって伝えてくれ》


 彩花は返信しなかった。


 教わったとおり、LINEの画面を日付と相手の名前がわかる形で保存する。


 それを陽菜と樹里へ送ろうとして、指が止まった。


 樹里の名前を見つめる。


 会社では感情を表に出さず、必要なことだけを話す女。


 仕事で競い合っても、勝ったと誇ることはない。


 誰かが困れば黙って手を差し出し、それを恩に着せることもしない。


 そんな樹里の周りには、いつも自然と人が集まっていた。


 彩花は、それが嫌いだった。


 自分がどれだけ努力しても、樹里には敵わないと言われているような気がした。


 だから勝手に張り合い、棘のある言葉を向けてきた。


 けれど今日、樹里は過去の肩書きを一度も名乗らなかった。


 田所を殴りもしない。


 脅し返すこともしない。


 相手が怯えたあとでさえ、その恐怖に頼ろうとはしなかった。


 守るべき証拠と、彩花の安全だけを見ていた。


(……ずるい)


 こんなことをされたら、嫌いでいるだけではいられなくなる。


 それでも、素直に認めるつもりはなかった。


 助けてもらったからといって、樹里へ近づき、急に仲良くする気もない。


 勝ちたいという気持ちは、今も残っている。


 むしろ、その正体を知ったことで、以前より強くなった気さえした。


 そして、もう1人。


(美園って、誰……?)


 樹里と陽菜とともに、たった3人で相手の集団へ乗り込んだ女。


 田所の文章だけでは、顔も年齢もわからない。


 ただ、最も落ち着いて見えたその女が、言葉ひとつで場を制圧したという。


 樹里と陽菜の過去を知るには、決して無関係ではない人物なのだろう。


 だが、その正体を今すぐ調べようとは思わなかった。


 樹里が話さないと決めている以上、勝手に踏み込むつもりはない。


 彩花は田所から届いたLINEを、まず陽菜へ転送した。


《日高にも見せて》


 短く付け加えてから送信する。


 数秒後、陽菜から返信が届いた。


《わかりました》


《今日は田所のLINEを通知オフにして、もう休んでください》


《何かあったら、時間を気にせず電話してください》


 彩花は画面を見つめ、小さく息を吐いた。


 田所が語った過去が、どこまで事実なのかはわからない。


 樹里と陽菜が、なぜその姿を捨てて会社員として働いているのかも知らない。


 美園という女が何者なのかもわからない。


 だが、3人が知られたくない過去なら、ほかの人間へ話すつもりはなかった。


 助けられた礼ではない。


 弱みを握ったつもりもない。


 自分と樹里の勝負に、こんなものを使いたくなかった。


 勝つなら、仕事で正面から勝つ。


 彩花はそう決め、スマートフォンを伏せた。


 樹里を見る目が変わり始めていることだけは、まだ本人には知られたくなかった。


 そして、LINEに残された「美園」という名前が、やがて自分の前に現れることを、この時の彩花はまだ知らなかった。

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