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35話「助けて」

翌日。


 陽菜は、昼休みになっても彩花の席へ向かわなかった。


 昨日、樹里から言われたことを守るためだった。


 追いかけない。


 問い詰めない。


 助けたいという気持ちを、相手へ押しつけない。


 代わりに、給湯室ですれ違ったとき、ひと言だけ伝えた。


『彩花さん』


「……何?」


『話したくないことは、話さなくていいです』


 彩花の足が止まる。


『でも、もし誰かに聞いてほしくなったら、あたしは最後まで聞きます。途中で怒ったり、勝手に決めつけたりもしません』


「急に何の話?」


『それだけです』


 陽菜は答えを求めず、その場を離れた。


 彩花は何も言わなかった。


 午後になっても、2人の間に会話はない。


 それでも陽菜は、何度か自分へ向けられる視線に気づいていた。


 目が合いそうになるたび、彩花はすぐに顔を背ける。


 手元の書類へ視線を戻しても、その指は動いていなかった。


     ◇


 終業時刻を過ぎ、社員が少しずつ帰り始めた。


 陽菜は急がず、机の上を片づけていた。


 いつもなら柚希や凛と一緒に会社を出ることが多い。だが今日は、2人に先へ帰ってもらっている。


 彩花を待っていると思わせないため、陽菜から声をかけることはしなかった。


 鞄を持ち、椅子を机へ戻す。


 そのまま立ち上がろうとしたとき、机の上のスマートフォンが震えた。


 社内チャットに、短いメッセージが届いていた。


《少し、いい?》


 送り主は、彩花だった。


 陽菜はすぐに振り返りそうになるのを堪えた。


 数秒置いてから、短く返す。


《うん》


 指定されたのは、今は使われていない小会議室だった。


     ◇


 陽菜が会議室へ入ると、彩花は奥の席に座っていた。


 照明は点いている。


 それでも、青白い顔に落ちた影までは消えていなかった。


 陽菜は向かいではなく、彩花の斜め横へ座った。


 正面から見つめ続ければ、話しにくいと思ったからだ。


『誰にも言わない方がいいですか』


「……まだ、わからない」


『わかりました』


「何も聞かないの?」


『彩花さんが話すのを待ちます』


 それきり、会議室は静かになった。


 壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく音を刻んでいる。


 彩花は膝の上で両手を組んでいた。


 指を絡めては解き、また強く握り直す。


「……元彼がいるの」


 絞り出すような声だった。


 陽菜は口を挟まなかった。


「別れたのは、半年くらい前。付き合ってる時から束縛がひどくて……別れたあとも、何度か連絡が来てた」


 彩花は一度言葉を切り、乾いた唇を舐めた。


「最初は、やり直したいって。それを断ったら、あいつ……動画を送ってきた」


 膝の上で、彩花の手が震える。


『動画?』


「私が、映ってるの」


 それだけでは意味が伝わらないと思ったのか、彩花は唇を噛んだ。


「裸と……性行為を撮った動画。私は、撮られてることを知らなかった」


 陽菜の呼吸が止まった。


 身体の奥から、熱いものが一気に込み上げる。


 怒鳴りたかった。


 相手の名前を聞き出し、今すぐ捕まえに行きたかった。


 だが、陽菜は両手を膝の上に置いた。


 握り締めた拳を、彩花から見えない位置へ隠す。


(最後まで聞く)


 自分にそう言い聞かせる。


「会社の人間に送られたくなかったら、金を払えって言われた。ネットにも流すって」


『……それで、払ったんですか』


「最初は少額だった。これで消すって言われたから」


 彩花が、自嘲するように笑う。


「馬鹿だよね。消すわけないのに」


『彩花さんは、馬鹿じゃない』


「でも、払ったから要求が増えた」


『悪いのは、撮った人です。脅した人です。彩花さんじゃない』


 彩花の笑みが消えた。


 陽菜はそれ以上、慰めの言葉を重ねなかった。


 簡単な言葉で軽くできる苦しみではない。


 ただ、彩花の話を否定せずに受け取った。


「昨日会ってたのも、その人」


 陽菜は、会社の裏手で見た男の顔を思い出した。


「来週までに、また金を用意しろって。今度は、今までの倍」


『いくらですか』


 彩花が金額を口にする。


 陽菜の手に、さらに力が入った。


 簡単に用意できる額ではなかった。


「もう無理。貯金もほとんどない。今月の生活費だって……」


 彩花の声が掠れる。


「警察に行こうとも思った。でも、相談したら動画を全部ばらまくって言われてる。家も会社も知られてる。もし本当に送られたらって考えたら……」


 俯いたまま、彩花が両腕で自分の身体を抱いた。


「怖くて、何もできない」


 初めて、彩花の声が涙に滲んだ。


 陽菜は手を伸ばしかけ、止めた。


 今、触れられることを嫌がるかもしれない。


 代わりに、できるだけ穏やかな声で尋ねる。


『その人に、家の鍵を渡したことはありますか』


「ない。部屋に来たことはあるけど、鍵は替えた」


『最近、家の近くで待たれたことは?』


「今のところはない」


『暴力を振るわれたことは』


「……腕を掴まれたことはある。でも、それ以上は」


『昨日、その人は彩花さんに触ってない?』


「触ってない」


 陽菜は小さく息を吐いた。


 差し迫って身体を傷つけられる状況ではない。


 だが、安心できる状態でもなかった。


『証拠は残っていますか。メッセージとか、振り込んだ記録とか』


「全部残ってる。怖くて消せなかった」


『それ、消さないでください』


「え……?」


『相手には、今から返事もしないで。少なくとも、彩花さん1人で判断して返さないでください』


「でも、返事をしなかったら――」


『何か送る時は、送る前にあたしに見せてください。向こうから電話が来ても、すぐには出ないで』


「櫻井さんに、何ができるの?」


『あたし1人でできることは、そんなに多くないです』


 陽菜は正直に答えた。


『だから、日高先輩にも入ってもらいます』


 彩花の表情が、一瞬で強張った。


「それは駄目」


『彩花さん』


「日高には言わないで」


 先ほどまで震えていた声に、はっきりとした拒絶が戻る。


「約束して。日高にだけは絶対に言わないって」


『それは約束できません』


「どうして」


『この状況を、あたし1人だけで抱えるのは危ないからです』


「だったら、ほかの人にして。警察でも弁護士でも、誰でもいい。日高以外なら――」


『どうして、そこまで日高先輩を嫌がるんですか』


「嫌だからよ」


『それだけじゃないでしょ』


 陽菜の言葉に、彩花が黙り込む。


 入社した時から、彩花は樹里を意識していた。


 同じ年に入社し、同じ部署へ配属された同期。


 感情を大きく見せることもなく、自分から誰かの輪へ入ろうともしない。それなのに、困っている者はいつの間にか樹里を頼り、自然と人が集まっていった。


 樹里自身は、それを誇ることすらしない。


 だからこそ、彩花には気に入らなかった。


 必死に結果を出しても、周囲へ気を配っても、樹里の隣に立つと自分ばかりが空回りしているように思えた。


 負けたくない。


 追い越したい。


 その思いを、樹里へ一方的にぶつけ続けてきた。


 もし、その樹里に今の自分を知られたら。


 憐れまれるかもしれない。


 弱い人間だと思われるかもしれない。


 何より、勝負を続ける資格さえ失ってしまう気がした。


「……あいつにだけは、こんな姿を見られたくないの」


 彩花が俯く。


「同情されたくない。助けてもらって、借りを作るなんて絶対に嫌」


『日高先輩は、彩花さんを見下したりしません』


「どうして櫻井さんにわかるの」


『わかります』


 陽菜は即答した。


『それに、本当は彩花さんだってわかってるんじゃないですか』


「何を」


『日高先輩が、弱みを理由に人を見下すような人じゃないことです』


 彩花は否定しなかった。


 否定できなかった。


 それができる人間なら、彩花はこれほど長く樹里を意識していない。


『日高先輩に負けたくないのと、田所って人に1人で潰されるのは別の話です』


「……簡単に言わないで」


『簡単に言ってません』


 陽菜の声は、穏やかなままだった。


『彩花さんが嫌がってるのに、あたしから勝手に全部話したりはしません。でも、日高先輩の力は借ります』


「それが嫌だって言ってるの」


『だったら、借りにしなければいいです』


 彩花が顔を上げる。


『今だけ力を使わせてもらって、全部終わったら、また日高先輩と張り合えばいいじゃないですか』


「そんな勝手な……」


『彩花さん、ずっと勝手に日高先輩をライバルにしてたんでしょ』


「……櫻井さん、時々容赦ないよね」


『すみません。でも、ここは譲れません』


 陽菜は一度息をつき、声を和らげた。


『あたしから日高先輩へ事情を全部話すことはしません。ここへ来てもらって、彩花さんが自分で話してください。言葉にできないところは、あたしが隣で手伝います』


「……嫌だって言ったら?」


『今日は1人で帰しません。そのうえで、ほかの相談先を一緒に探します』


「日高には言わない?」


『彩花さんの許可なく、詳しい事情は話しません。ただ、何かに巻き込まれていることまでは、もう日高先輩も気づいてます』


 彩花が深く息を吐いた。


 逃げ道を探すように視線を彷徨わせる。


 だが、自分でもわかっていた。


 もう限界だった。


 これ以上、誰にも知られないことと引き換えに、恐怖を抱え続けることはできない。


「……呼んで」


『いいんですか』


「何度も言わせないで」


 彩花は涙の残る目で、陽菜を睨んだ。


「日高を呼んで」


     ◇


 陽菜から連絡を受けた樹里は、数分後に会議室へ現れた。


 扉を閉め、施錠されていないことを確認する。


 彩花の逃げ道を塞がないためだった。


 樹里は陽菜の隣へ座る。


 向かいにいる彩花の顔を見ても、驚いた様子は見せなかった。


『彩花。私が聞いてもいいんだな』


「……櫻井さんに、無理やり呼ばせたわけじゃない」


『そうか』


「それだけ?」


『何を言えばいい』


「少しくらい驚いたら?」


『お前の様子がおかしいことには、前から気づいていた』


「……相変わらず、何でもわかってるみたいな顔するのね」


『全部わかるなら、もっと早くここにいる』


 樹里の返答は淡々としていた。


 憐れみも、勝ち誇った色もない。


 それが彩花には、悔しいほどいつもの樹里に見えた。


「先に言っておくけど、同情はいらない」


『していない』


「そんな即答する?」


『同情している暇はない。話を聞いて、何をすべきか考える』


 彩花は樹里を睨んだ。


「本当に、むかつく」


『それだけ言えるなら、まだ大丈夫だな』


「そういうところがむかつくって言ってるの」


 陽菜は2人の間で、わずかに目を瞬かせた。


 言い争っているはずなのに、空気は不思議と険悪ではない。


 互いに遠慮がない。


 簡単に譲らない。


 それでも、相手の言葉から逃げようとはしない。


 同期として積み上げてきた時間が、2人の間には確かにあった。


『それで、何があった』


 樹里が尋ねる。


 彩花は再び俯いた。


 陽菜へ話した時よりも、言葉が出てこなかった。


 弱みを知られたくない相手が、目の前にいる。


 それでも彩花は、膝の上で拳を握り、口を開いた。


「元彼に……動画を撮られてた」


 樹里は何も言わない。


「付き合ってた時の、裸と……性行為の動画。私は、撮られてることを知らなかった」


 彩花は途切れながらも、自分の言葉で話し続けた。


 動画をばらまくと脅されていること。


 何度も金を要求され、すでに支払ってしまったこと。


 来週までに、さらに大きな金額を用意するよう迫られていること。


 警察へ相談すれば、会社や知人へ動画を送ると言われていること。


 すべてを話し終えるまで、樹里は一度も口を挟まなかった。


 説明が終わると、必要なことだけを尋ねる。


『相手の名前は』


「田所孝之」


『連絡手段は』


「LINEと電話。番号もわかる」


『金は手渡しか、振り込みか』


「最初の2回は振り込み。そのあとは手渡し」


『手渡しを指定されたやり取りも残っているか』


「残ってる」


『動画は、どの端末にあると言っている』


「スマホとパソコン。ほかにも複製してるかもしれない」


『家の鍵は』


「持ってない。部屋に来たことはあるけど、別れたあとで鍵は替えた」


『最近、家の近くで待たれたことは』


「今のところはない」


『暴力は』


「腕を掴まれたことはある。それ以上は、まだ」


 樹里は短く息を吐いた。


『わかった。メッセージも着信履歴も、振込記録も消すな。別の場所にも保存しておく』


「櫻井さんにも同じことを言われた」


『なら、そのとおりにしろ。今後は1人で返事をするな。田所にも会うな。金も渡すな』


「簡単に言わないで。返事をしなかったら、動画を――」


『だから証拠を残して、警察を含めた専門の窓口へ相談する』


 樹里は彩花の目をまっすぐに見た。


『相手のスマートフォンから消させても、それで終わりにはならない。複製がない保証はないからな。目の前のデータだけ消させて安心する方が危険だ』


「警察へ行ったことが知られたら、何をされるかわからない」


『怖いのは当然だ』


 樹里は、その恐怖を否定しなかった。


『勝手に通報はしない。相談して、取れる手段を確認してから決める。ただし、もうお前1人には判断させない』


「……それ、助ける側が言う言葉?」


『違うなら言い直す。お前が間違った判断をしそうになったら、私は止める。その代わり、最終的にどうするかはお前が決めろ』


 彩花は黙り込んだ。


 命令するようでいて、樹里は彩花から選ぶ権利を奪っていない。


 すべてを引き受けるとも言わない。


 だが、決して置いていくつもりもなかった。


「……こんな形で、日高に借りを作るなんて最悪」


『私は貸したつもりはない』


「私にはあるの」


『なら、全部終わってから返せ』


「何を返せばいいのよ」


『仕事で私に勝てばいい』


 彩花が顔を上げる。


 樹里の目に、憐れみはなかった。


 弱った彩花を見て、自分の勝ちだと考えている様子もない。


『私は、こんなことでお前に勝ったことにする気はない』


「……本当に、むかつく」


『知っている』


「いつか絶対に、吠え面かかせるから」


『それなら、まず元に戻れ』


 彩花の唇が震えた。


 強がりを返そうとしたのに、言葉が出てこない。


 代わりに、目から涙が落ちた。


 樹里にだけは、こんな姿を見られたくなかった。


 けれど、樹里は泣いていることに触れなかった。


 慰めるために手を伸ばすこともしない。


 ただ、彩花が再び顔を上げるのを待っている。


 その距離が、今はありがたかった。


『彩花さん。今日は、あたしも一緒に帰ります』


 陽菜が静かに告げる。


「1人で帰れる」


『日高先輩』


『櫻井さんが付き添え。彩花、今夜だけは意地を張るな』


「命令しないで」


『なら、同期として頼む』


 その言葉に、彩花は返事を失った。


 樹里が自分へ何かを頼むことなど、これまでほとんどなかった。


「……今日だけだから」


『わかった』


「それと、日高」


『何だ』


 彩花は膝の上で拳を握った。


 口にすれば、何かが決定的に変わってしまう気がした。


 それでも、今の自分には言わなければならない言葉がある。


「お願い」


 声が震える。


「助けて」


 樹里は、すぐには答えなかった。


 できもしない約束を、勢いだけで口にしないためだった。


『動画が絶対に流出しないとは、今の段階では言い切れない』


 彩花の顔から、わずかに血の気が引く。


『奪われた金も、すべて戻るとは約束できない。だが、これ以上お前が1人で脅される状況は終わらせる』


 樹里は、はっきりと言った。


『助ける』


 短い言葉だった。


 大丈夫だとも、すべて任せろとも言わない。


 それでも、彩花には十分だった。


『だから、今だけは勝ち負けを忘れろ』


「……嫌よ」


 涙を拭いながら、彩花が答える。


「忘れない。日高に助けられたことも、全部覚えてる。そのうえで、いつか必ず勝つ」


 樹里は、ほんのわずかに口元を緩めた。


『そうか』


「何、その余裕」


『戻ってきたと思っただけだ』


「本当に、あんたのそういうところが嫌い」


『私も、お前の意地の張り方は面倒だと思っている』


「なら、お互い様ね」


『そうだな』


 問題は、まだ何ひとつ解決していない。


 動画も消えていない。


 奪われた金も戻っていない。


 田所から逃れられたわけでもない。


 それでも彩花は、ようやく息を吸うことができた。


 恐怖を打ち明ければ、樹里との勝負は終わると思っていた。


 弱みを見せた瞬間、自分は永遠に追いつけなくなると思っていた。


 だが樹里は、弱った彩花を勝敗の数へ入れなかった。


 立ち上がるまで待つと、当然のように告げただけだった。


 負けたくないという気持ちは、消えていない。


 感謝したからといって、素直に認めるつもりもない。


 それでも、彩花の中で樹里を見る目は、ほんの少しだけ変わり始めていた。


 誰にも知られたくなかった弱みは、差し出した瞬間に、自分を救うための最初の証拠へと変わっていた。

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