34話「来週まで」
森下彩花の異変は、少しずつ仕事にも滲み始めていた。
書類を前にしたまま、手が止まっている。
内線が鳴っても、反応が一拍遅れる。
誰かに声をかけられるたび、肩が小さく跳ねる。
致命的な失敗をするほどではない。それでも、以前の彩花を知る者なら、明らかにおかしいと気づく変化だった。
昼休み。
陽菜は自分の弁当を手に、彩花の席へ近づいた。
『彩花さん。一緒に食べません?』
彩花は机の上に伏せていたスマートフォンから顔を上げた。
「……ごめん。今日は食欲ないから」
『じゃあ、飲み物だけでも』
「大丈夫」
短い返事だった。
拒絶というより、それ以上話せば何かが崩れてしまうのを恐れているように聞こえた。
陽菜は、その場から動かなかった。
『本当に、大丈夫ですか』
「大丈夫だって言ってるでしょ」
彩花の声が、わずかに強くなる。
だが、その目は陽菜を見ていなかった。
膝の上で握られたスマートフォンが震え、彩花の指が反射的に画面を伏せる。
『……わかりました』
陽菜はそれ以上踏み込まず、自分の席へ戻った。
(大丈夫な顔じゃないじゃん)
気にはなった。
追いかけて、何があったのか問いただしたかった。
それでも、樹里に言われた言葉が頭に残っている。
『こちらから動く話じゃない』
彩花が助けを求めていない以上、陽菜の心配は、ときにただの詮索になる。
その境界だけは、越えてはいけない。
陽菜は自分にそう言い聞かせた。
◇
終業後。
忘れ物に気づいた陽菜が会社へ戻ると、オフィスにはほとんど人が残っていなかった。
デスクの上に置き忘れたポーチを鞄へ入れ、再び建物を出る。
駅へ向かおうとしたところで、陽菜の足が止まった。
会社の裏手。
通用口から少し離れた場所に、彩花がいた。
向かいに立っているのは、40歳前後に見える男だった。
腕を組み、彩花を見下ろしている。
派手な服装ではない。声を荒らげているわけでもない。
それなのに、2人の間に漂う空気は、親しい相手同士のものには見えなかった。
彩花は俯き、両手で鞄を強く握っていた。
男が何かを言う。
彩花は小さく首を振った。
陽菜は反射的に近づきかけ、踏みとどまった。
今ここで自分が割って入れば、彩花を追い詰めるかもしれない。
陽菜は建物の角で足を止めた。
隠れて話を聞こうとしたのではない。
ただ、男が彩花に触れたり、無理に連れていったりしないか。それだけは見届けなければならないと思った。
「……来週までだぞ」
風の合間に、その言葉だけが届いた。
彩花が何かを答える。
声が小さく、内容までは聞き取れない。
男は鼻で笑うと、彩花の横を通り過ぎていった。
肩が触れそうなほど近くを歩かれても、彩花は顔を上げなかった。
男の姿が角の向こうへ消えたあとも、しばらくその場に立ち尽くしている。
やがて彩花は、男とは反対の方向へ歩き出した。
その背中は、ひどく小さく見えた。
陽菜は追わなかった。
ただ、頭の中で繰り返していた。
(来週までって、何を……?)
◇
翌日の終業後。
陽菜は樹里と並んで、会社から駅へ向かっていた。
周囲に同僚の姿がないことを確かめてから、口を開く。
『総長。昨日、彩花さんが男と会ってた』
樹里の歩調は変わらなかった。
『どこで』
『会社の裏。通用口から少し離れたところ』
『相手は』
『40歳くらい。腕を組んで、彩花さんに一方的に話してた。彩花さんはずっと俯いてた』
『触られたか』
『ううん』
『進路を塞がれたり、無理に連れていかれそうになったりは』
『それもなかった。ただ……』
陽菜は昨日の光景を思い返した。
『男が、来週までだぞって言ってた』
樹里の目が、わずかに細くなる。
『ほかには』
『聞こえなかった。たぶん、お金の話だと思う。彩花さん、最近ずっとスマホを気にしてるし、顔色も悪いから』
『陽菜』
静かな声に遮られ、陽菜が樹里を見る。
『聞いた事実と、お前の推測を混ぜるな』
責める口調ではなかった。
だからこそ、陽菜はすぐに言葉を改めた。
『……聞いたのは、来週までって言葉だけ。お金っていうのは、あたしの想像』
『それでいい』
樹里はしばらく黙って歩いた。
夕方の人波が、2人の横を流れていく。
『男の顔は覚えているか』
『うん。見ればわかる』
『車は』
『見てない。歩いて行った』
『彩花は、お前に気づいていたか』
『たぶん、気づいてない』
樹里は短く息を吐いた。
『現時点では、まだ動けない』
『でも、来週までって――』
『わかっている』
樹里の声が、陽菜の言葉を止めた。
『期限がある以上、前より状況が進んだ可能性は高い。ただ、何の期限かはわからない。あの男が誰なのかも、彩花とどういう関係なのかもな』
『じゃあ、何もしないの?』
『何もしないとは言っていない』
樹里は足を止めた。
陽菜も立ち止まり、その横顔を見る。
『彩花は私と同期だ。あいつが、誰にも弱みを見せたくない人間なのは知っている』
『……うん』
『だから、囲んで問い詰めれば余計に口を閉ざす。助けたい側の焦りで、あいつの逃げ道を潰すな』
陽菜は唇を結んだ。
正しいのだと思う。
それでも、昨日の彩花の背中を思い出すと、黙っていることが苦しかった。
『明日、もう一度だけ声をかけろ』
『あたしが?』
『内容は聞くな。困っているなら話を聞く。それだけ伝えろ。断られたら、その場では引け』
『総長は』
『私は様子を見る。あの男がもう一度会社の周辺に現れたら、すぐに私へ連絡しろ。社内や敷地内へ入ってきた場合は、黒澤部長にも報告する』
『……わかった』
『それと、1人で男に接触するな』
陽菜は一瞬、目を逸らした。
『しないよ』
『今、少し考えただろ』
『考えただけ』
『それを、するなと言っている』
陽菜は不満そうに頬を膨らませたが、やがて小さく頷いた。
『わかった。約束する』
樹里は再び歩き出した。
その表情は、いつもと変わらない。
だが、目だけは鋭く研ぎ澄まされていた。
(来週まで、か)
彩花が助けを求めるまで、無理に手を伸ばすことはできない。
だからといって、何かが起きてからでは遅い。
踏み込まずに、目を離さない。
その難しい距離を測りながら、樹里は隣を歩く陽菜へ告げた。
『明日、彩花が話し始めたら、途中で判断するな。否定も説教もするな。最後まで聞け』
『うん』
『聞いたら、必ず私に知らせろ』
『……うん』
陽菜の返事が、今度は少しだけ重くなった。
来週まで。
それが何を意味する期限なのか、まだ2人にはわからない。
ただ、止まって見えた時計の針は、確実にその日へ向かって進み始めていた。




