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33話「背中の薔薇」

店が閉まったのは、予定より少し遅い時間だった。


 最後の客を見送り、美園が入口の鍵を閉める。


 賑やかだった店内に、急に静けさが戻った。


 テーブルには、空いたグラスや皿がまだ残っている。


 陽菜と凛はエプロン姿のまま、閉店後の片づけを続けていた。


「このグラスは、どこへ戻せばいいですか?」


『そっちの棚。背の高いものと低いものを分けてね』


「はい」


『陽菜、それはまだ洗わなくていい。先にテーブルを拭いて』


『分かった』


 美園の指示に従い、2人が動く。


 店に立っていたときほどの慌ただしさはない。


 それでも、洗い物やごみの片づけ、レジの確認など、閉店後にすることはいくつも残っていた。


 凛は、最後まで気を抜かなかった。


 使ったものを元の場所へ戻し、分からないことは必ず美園へ確認する。


 陽菜は慣れた様子でテーブルを拭きながら、そんな凛を見て笑った。


『凛ちゃん、もうお客さんいないよ』


「だから何ですか?」


『仕事中と顔が変わってない』


「片づけまで仕事です」


『真面目だなあ』


「陽菜さんが気を抜きすぎなんです」


『あたしもちゃんとやってるよ』


『2人とも、話してる暇があるなら手を動かして』


『はい』


「はい」


 声を揃えて返事をした2人を見て、美園が小さく笑う。


 片づけが終わった頃には、時計の針は日付が変わる時刻へ近づいていた。


 美園がカウンターへ両手をつき、長く息を吐く。


『……終わった』


『お疲れさま、美園さん』


「お疲れさまでした」


 陽菜がエプロンを外し、丁寧に畳む。


 凛もそれを真似て、自分のエプロンを畳んだ。


 美園は2人を見比べる。


『今日は本当に助かった。2人とも、ありがとう』


『お安い御用です』


「こちらこそ、勉強になりました」


『初めてで、よくあれだけ動けたね』


「陽菜さんと美園さんが教えてくださったからです」


『あたしは、凛ちゃんを助けたくらいだけどね』


「十分です。あのときは、本当にありがとうございました」


 凛が、しつこく誘ってきた客のことを思い出す。


 陽菜は軽く手を振った。


『美園さんが言ってたでしょ。1人で何とかしようとしなくていいって』


「はい」


『次からは、もっと早く呼んでね』


「分かりました」


『陽菜も、割って入る前に私を見なさい』


『あれくらいなら大丈夫だと思って』


『自分だけで判断しないって約束したでしょ』


『……はい』


 今度は陽菜が素直に頭を下げる。


 凛が小さく笑うと、陽菜が不満そうに振り返った。


『凛ちゃん、笑った?』


「笑ってません」


『絶対に笑ったよね』


「気のせいです」


『凛ちゃんも、少し美園さんに似てきた』


『私のせいにしないで』


 3人の間に、柔らかな笑いが広がった。


     ◇


 美園は後ろでまとめていた髪を一度ほどき、指で整え始めた。


 長時間結んでいた髪をまとめ直そうと、両腕を上げる。


 そのとき、シャツの襟がわずかに下がった。


 髪に隠れていた背中が、ほんの少しだけ露わになる。


 凛の手が止まった。


 美園の肩甲骨の間に、薔薇が刻まれていた。


 黒と赤で描かれた、1輪の薔薇。


 派手に広がるのではなく、背中へ根を張るように静かに咲いている。


 その下には、小さな文字が並んでいた。


 Rose girls。


「……薔薇」


 凛の口から、思わず声が漏れる。


 美園が鏡越しに凛を見る。


 その視線が、自分の背中へ向けられていることに気づいた。


『ああ、これね』


 美園は慌てて襟を直そうとはしなかった。


 見せつけることも、隠すこともしない。


 ただ、髪をまとめ直しながら、淡々と答える。


『昔、少しね』


「すみません。じっと見てしまって」


『別にいいよ。見えたのは私のせいだから』


「綺麗ですね」


 凛は正直に言った。


 美園の手が、一瞬だけ止まる。


『怖いとは思わないの?』


「驚きました。でも、怖くはありません」


『そう』


 美園は髪を結び終え、凛へ向き直った。


 凛は、もう一度その背中があった場所を見る。


「Rose girlsという文字も、タトゥーの一部ですか?」


『うん』


「何か、意味があるんですか?」


 凛の問いに、美園はすぐには答えなかった。


 カウンターの上に置かれた髪留めを整えながら、少しだけ考える。


『昔、一緒に走っていた仲間たちの名前』


「バイクのチームですか?」


『そんなところ』


「美園さんも、バイクに乗っていたんですね」


『昔はね』


 陽菜は何も言わなかった。


 畳んだエプロンを見つめながら、2人の会話を聞いている。


 Rose girlsは、単なるチーム名ではない。


 陽菜にとっても、美園にとっても、言葉だけでは説明できない時間そのものだった。


「そのチームは、今もあるんですか?」


『もうないよ』


 美園の返事は短かった。


「そうなんですね」


 凛はそれ以上、すぐには尋ねなかった。


 美園の声に、話したくないという拒絶があったわけではない。


 けれど、軽々しく触れてはいけないものが含まれているように感じた。


 少しの沈黙のあと、凛が口を開く。


「美園さんにとって、大切なものだったんですね」


 美園が顔を上げる。


『どうして、そう思うの?』


「大切ではなかったら、今もその名前を背負っていないと思ったので」


 凛は静かに答えた。


「消すのが難しいことは知っています。でも、美園さんは隠そうとしていませんでした」


 美園は、しばらく凛を見つめていた。


 表面的な好奇心だけなら、適当な言葉で話を終わらせるつもりだった。


 だが、凛は過去の出来事を聞き出そうとしているのではない。


 美園が今もその印を残している理由を、知ろうとしていた。


『大切だったよ』


 美園は、ようやく答えた。


『楽しいことばかりじゃなかった。間違えたことも、人に言えないようなこともある』


 陽菜の指が、畳んだエプロンの上でわずかに動く。


『それでも、なかったことにはしたくない』


「……はい」


『今の私がいるのは、あの頃があったから。だから、消すつもりはないよ』


 美園の声は、誇るようなものでも、悔やむようなものでもなかった。


 過去を美しく飾らない。


 かといって、汚れたものとして切り捨てることもしない。


 良いことも悪いことも含め、自分が歩いてきた時間として受け入れている。


 そんな声だった。


「素敵だと思います」


『そう?』


「私は、自分の過去を誰かに見せられるような形で残す勇気はないので」


『残した方がいい過去ばかりじゃないよ』


「それでも、美園さんは逃げていないように見えます」


 美園は、かすかに目を細めた。


『凛ちゃんは、本当に人をよく見てるね』


「すみません」


『褒めてるの』


 凛は少し照れたように眼鏡の位置を直した。


 陽菜は黙ったまま、美園を見る。


 過去から逃げていない。


 凛はそう言った。


 だが、美園もすべてを話しているわけではない。


 樹里のこと。


 Rose girlsがなくなった理由。


 そして、美園自身がRose girlsへ加わるより前に歩いてきた道。


 まだ、誰にも語っていないものがいくつもある。


 それでも、美園が自分の口からRose girlsという名前を凛へ伝えたことは、陽菜にとって小さくない変化だった。


     ◇


 美園はレジの中から、2つの封筒を取り出した。


『これ、今日の分』


 陽菜と凛の前へ、それぞれ差し出す。


『時間と金額を書いた明細を入れてあるから、確認して』


『ありがとう』


 陽菜は素直に受け取った。


 凛も封筒を受け取り、中に入っている明細へ目を通す。


「こんなにいただけません」


『どうして?』


「私は初めてで、何度も陽菜さんや美園さんに助けてもらいました。それに、途中で長く話し込んでしまって……」


『猫の人のこと?』


「はい。仕事中なのに、話ばかりしていました」


『あの人が、あんなふうに話して帰ることは滅多にないよ』


 美園は首を横に振る。


『凛ちゃんが話を聞いたことで、あの人は楽しい時間を過ごせた。それも接客の仕事』


「でも――」


『陽菜も、しつこい客から凛ちゃんを離してくれた。2人がいなかったら、私は団体客の対応をしながら全部を見なければならなかった』


 美園は真剣な目で凛を見る。


『助かったから払う。それだけよ』


 凛はもう一度、明細へ目を落とした。


 以前、美園から言われた言葉を思い出す。


 役に立たなくてもいい。


 真面目でいなくてもいい。


 それでも今日は、自分が役に立ったと言ってもらえた。


 役に立たなければ居場所がないのではない。


 居場所があるうえで、自分の力を認めてもらえた。


 その違いは、凛が思っていた以上に大きかった。


「……ありがとうございます」


 凛は封筒を両手で持ち、丁寧に頭を下げた。


『こちらこそ。また忙しいときにお願いするかもしれないけど、そのときはよろしくね』


『あたしはいつでもいいよ』


「私も、予定が合えば」


『無理はしなくていいからね』


「はい」


 美園は満足そうに頷いた。


     ◇


 3人は店内の照明を消し、夜の通りへ出た。


 駅へ向かって歩きながら、凛は美園の少し後ろをついていく。


 美園の背中は、今は服と髪に覆われている。


 あの薔薇も、文字も見えない。


(Rose girls……)


 昔、一緒に走っていた仲間たちの名前。


 もう存在しないチーム。


 その名前を、美園は今も背負っている。


 意味はまだ分からない。


 何があったのかも、誰がいたのかも知らない。


 それでも、あの薔薇と美園の言葉が、凛の頭から離れなかった。


 凛は隣を歩く陽菜を見る。


 美園の過去を聞いても、陽菜は1度も驚かなかった。


 初めから、すべて知っていたかのように。


 陽菜が視線に気づく。


『どうしたの、凛ちゃん』


「いえ。何でもありません」


『そう?』


「はい」


 凛は、それ以上聞かなかった。


 話したいと思ったときに聞く。


 以前、美園へそう言ったのは自分だった。


 ならば今も、同じでいたかった。


 ただ、凛の中に1つの名前が残った。


 Rose girls。


 それはまだ、意味を持たない言葉にすぎない。


 けれど、その言葉は確かに、樹里と陽菜と美園の隠された時間へ続いていた。

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