32話「袖口の猫」
週末のスナックRoseは、開店直後から慌ただしかった。
予約の団体客が入る前から、カウンターには常連客が並んでいる。
陽菜と凛は、揃いの黒いエプロンを身につけてカウンターの中に立っていた。
陽菜にとっては2度目の手伝いだが、凛にとっては初めての接客だった。
凛は背筋を伸ばし、美園の説明を聞いている。
『注文を受けたら必ず復唱。分からない酒は、勝手に作らず私に聞くこと』
「はい」
『客から個人的な連絡先を聞かれても、教えなくていい。店が終わったあとの誘いも断って』
「はい」
『断ってもしつこい場合や、身体へ触られそうになった場合は、すぐに私を呼んで。自分だけで何とかしようとしないでね』
「分かりました」
『陽菜も同じだからね』
『分かってるよ』
『昨日、自分なら何とかできるって言ったのは誰?』
『……あたしです』
『店の中で起きたことは、私の責任。2人とも忘れないで』
美園は2人の顔を順番に見る。
『それから、無理に客を楽しませようとしなくていい。できないことは、できないと言って。困ったら必ず私を見ること』
「はい」
『うん』
2人が頷く。
美園は店内の時計を確認し、静かに息を吐いた。
『じゃあ、始めようか』
◇
予約客が到着すると、店内の空気は一変した。
仕事を終えたばかりの会社員たちが、まとまって店へ入ってくる。
人数分のおしぼりを出し、最初の注文を取る。
ビールが行き渡るより先に、別の席から追加注文が飛んだ。
美園は酒を作り、陽菜と凛が運ぶ。
空いた瓶を下げ、氷を補充し、使用済みのおしぼりを回収する。
陽菜は前回の経験を生かし、店全体を見ながら動いていた。
美園が視線を向けただけで、次に何をするべきかを察する。
凛も最初は緊張していたが、仕事の手順を覚えると、動きが少しずつ滑らかになっていった。
「お姉さん、ビールもう1本」
「ビールを1本ですね。少々お待ちください」
「こっちは水割り」
「水割りですね。美園さん、お願いします」
『はい』
凛は聞いた注文を必ず繰り返し、分からないことがあれば美園へ確認した。
面白い話をすることも、客の冗談へ気の利いた言葉を返すこともできない。
それでも、頼まれたものを間違えずに届ける。
空いたグラスを見つければ、下げてもいいかを確認する。
教えられたことを1つずつ守る凛の接客は、決して華やかではない。
しかし、丁寧で安心できるものだった。
『凛ちゃん』
陽菜が通りすがりに小さく声をかける。
『肩、上がってるよ』
「緊張してるので」
『少し力を抜いて。顔まで固くなってる』
「笑顔は作っているつもりです」
『真面目な人が真面目に笑ってる顔になってる』
「どういう顔ですか、それ」
凛の表情が思わず緩む。
『今の顔の方がいいよ』
「……仕事してください」
『してるよ』
陽菜は笑いながら、別の席へグラスを運んでいった。
凛は小さく息を吐き、再び店内へ目を向ける。
先ほどまでより、ほんの少しだけ周囲が見えるようになっていた。
◇
団体客の会話が盛り上がり始めた頃、1人の男性客が凛を呼び止めた。
「ねえ、お姉さん」
「はい。ご注文ですか?」
「いや、注文じゃなくてさ。名前を聞こうと思って」
「遠藤です」
「下の名前は?」
凛は一瞬、答えに迷った。
店で名乗るのは名字だけでいいと、美園から教えられている。
「遠藤でお願いします」
「いいじゃん、名前くらい。何ていうの?」
「店では、遠藤で通していますので」
「真面目だねえ」
男性は上機嫌に笑った。
「何歳?」
「それは秘密です」
「彼氏いるの?」
「個人的なことは、お答えしていません」
凛は教えられたとおりに返した。
それでも男性は引かなかった。
「店、何時まで?」
「閉店時間は――」
「そうじゃなくて、お姉さんが何時に終わるのか聞いてるの。終わったら、一緒に飲みに行かない?」
「申し訳ありません。店が終わったあとのお誘いは、お断りしています」
「そんな固いこと言わないでさ。今日だけでいいから」
「すみません」
「連絡先だけでも――」
『お客様』
陽菜が、凛と男性の間へ自然に入った。
笑顔は崩していない。
しかし、相手との距離をはっきりと遮る位置に立っている。
『追加のご注文はありますか?』
「いや、俺はこの子と話してるんだけど」
『遠藤からは、すでにお断りしていますよね』
「少しくらいいいだろ。店の女の子なんだから」
『店で働いていることと、個人的な誘いを受けることは別です』
陽菜の声は明るいままだった。
けれど、曖昧に笑って流すつもりがないことは伝わった。
男性が不満そうに眉を寄せる。
そのとき、美園がカウンターの向こうから声をかけた。
『お客様』
美園は酒を作る手を止めていた。
『うちの子が断ったことを、何度も聞くのはやめてください』
「ママ、別に俺は――」
『遠藤は仕事をしに来ています。連絡先や退勤時間を答えるために立っているわけではありません』
店内の空気が、わずかに変わった。
美園は声を荒らげていない。
それでも、その言葉には明確な境界があった。
『このまま楽しく飲んでいただけるなら、私たちも普通に接客します。続けるのであれば、今日はここまでです』
男性は周囲の視線に気づき、気まずそうに顔を背けた。
「……分かったよ。もう聞かない」
『ありがとうございます。追加のご注文は?』
「ビール、もう1本」
『承りました』
美園が何事もなかったように酒を用意する。
陽菜も男性を責め続けず、凛をその場から離した。
カウンターの奥へ移動してから、陽菜が小声で尋ねる。
『大丈夫?』
「はい。触られたりはしてません」
『怖かった?』
「少しだけ」
『ちゃんと断れてたよ』
「でも、私だけでは終わらせられませんでした」
『それは凛ちゃんの失敗じゃないよ』
陽菜ははっきりと言った。
『断られたのに続けた、相手の問題。美園さんを呼ぶところまで含めて、あたしたちの仕事なんだから』
「……はい」
『次は、しつこいと思った時点で呼んでね』
「分かりました」
『あたしでも、美園さんでもいいから』
「ありがとうございます、陽菜さん」
『どういたしまして』
陽菜は凛の肩を軽く叩き、仕事へ戻った。
凛も一度深く息を吐き、次の注文を取りに向かった。
◇
店が少し落ち着いた頃、カウンターの端に1人の男性が座った。
年齢は40代ほど。
派手さのないジャケットを着て、1人で静かに酒を飲んでいる。
以前から時々訪れる客だった。
美園が声をかける。
『お疲れさまです。今日もお1人ですか?』
「……ええ」
『お仕事、忙しかったんですか』
「まあ、普通です」
『今日はずいぶん冷えましたね』
「そうですね」
美園が当たり障りのない話題を振っても、男性の返事は短い。
話しかけられることを嫌がっているわけではなさそうだった。
しかし、自分から会話を広げようとはしない。
美園も無理に言葉を引き出さず、男性が静かに飲める距離を保った。
しばらくして、凛が空いたグラスを下げに向かった。
「お下げしてもよろしいですか?」
「お願いします」
凛がグラスへ手を伸ばしたとき、男性のジャケットの袖に細い毛がついていることに気づいた。
人の髪よりも細く、柔らかい。
色も1色ではない。
凛は一度口を閉じたものの、思い切って尋ねる。
「もしかして、長毛の猫を飼っていますか?」
男性の手が止まった。
ゆっくりと顔を上げ、凛を見る。
「……分かるんですか?」
「袖に毛がついていたので。色が混ざっていますし、長毛の猫かなと思いました」
男性は自分の袖を確認し、少し恥ずかしそうに毛を摘まんだ。
「家を出る前に取ったつもりだったんですが」
「換毛期は、取ってもすぐにつきますよね」
「そうなんです」
男性の表情が、初めて柔らかくなった。
「うちの三毛が長毛でして。冬毛が抜け始めると、毎日大変なんですよ」
「三毛の長毛なんですね。可愛いでしょうね」
「見ますか?」
「いいんですか?」
男性はスマートフォンを取り出し、保存されている写真を凛へ見せた。
毛足の長い三毛猫が、ソファの中央で堂々と寝転がっている。
「可愛い……」
凛の声が、仕事中とは思えないほど素直なものになった。
「この子、女の子ですか?」
「そうです。名前は小春といいます」
「小春ちゃん。似合っていますね」
「気が強くて、家では一番偉いんです」
「他にも猫がいるんですか?」
「あと2匹います」
男性は別の写真を表示した。
並んで食事をする3匹の猫。
窓際で寄り添って眠る姿。
段ボール箱を奪い合っている場面。
一度話し始めると、先ほどまでの短い返事が嘘のように言葉が続いた。
「この子は食べるのが早くて、他の子の分まで取ろうとするんです」
「食事の場所を少し離した方がいいかもしれませんね」
「やっぱり、そうですよね」
「多頭飼いだと、トイレも多めに必要ですよね」
「うちは3個置いています。最初は2個だったんですが、増やしたら落ち着きまして」
「猫にも、それぞれ落ち着ける場所が必要ですからね」
「お姉さんも飼っているんですか?」
「今は飼っていません。でも、猫は好きです。よく調べたり、猫を飼っている友達の話を聞いたりします」
「それで詳しいんですね」
男性が嬉しそうに笑う。
凛も、普段より柔らかな表情で話を聞いていた。
自分が何か面白いことを言おうとしているわけではない。
男性の話したいことを聞き、気になったことを尋ねる。
それだけで、会話は自然に続いていた。
少し離れた場所で、美園が陽菜へ目を向ける。
『……凛ちゃん、すごいね』
『猫の話、好きなんだよ』
『それだけじゃない』
『何が?』
『あの人が話したいことを、ちゃんと見つけた』
陽菜は男性と話す凛を見る。
会社では真面目で、少し融通が利かない。
人と話すことが苦手というほどではないが、自分から会話の中心へ入ることも少ない。
そんな凛が今は、相手の言葉を急かさずに聞いている。
『凛ちゃん、接客に向いてるのかもね』
『自分では気づいてないだろうけどね』
美園は小さく笑い、別の客の酒を作り始めた。
◇
男性は、いつもより長く店に残った。
猫の話が一段落すると、無理に別の話題を探そうとはせず、再び静かに酒を飲んでいた。
しかし、店へ入ってきたときよりも、その表情は明らかに穏やかだった。
会計を終えると、男性は凛へ小さく頭を下げる。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ、可愛い写真を見せていただいてありがとうございました」
「また、猫の話をしてもいいですか?」
「はい。また聞かせてください」
男性は微笑み、店を出ていった。
扉が閉まると、陽菜が凛の横へ寄ってくる。
『凛ちゃん、好評だったね』
「猫の話をしていただけです」
『その“だけ”が難しいんだよ』
「そうなんですか?」
『あの人、あんなに話してるの初めて見た』
美園も会話へ加わる。
『私が仕事の話を振っても、いつも2言くらいで終わるから』
「迷惑ではなかったでしょうか」
『迷惑なら、あんな顔で帰らないよ』
美園は、男性が座っていた席のグラスを下げる。
『凛ちゃんは、相手が話したいことを見つけた。それで、無理に自分の話へ変えずに最後まで聞いた』
「私は、猫の話が好きだっただけです」
『それでいいの』
美園が穏やかに笑う。
『接客は、自分が話して客を楽しませることだけじゃない。相手が安心して話せるようにするのも、大事な仕事だから』
凛は少し照れたように眼鏡の位置を直した。
「……それなら、少しは役に立てたでしょうか」
『少しどころじゃないよ』
陽菜が明るく答える。
『さっきのしつこい人にも、ちゃんと断れてた。猫の人とは自然に話せてた。初めてなら十分でしょ』
『そうね。思っていたより、ずっと戦力になってる』
美園も頷いた。
「ありがとうございます」
凛は小さく頭を下げ、空いたグラスを手に取った。
店内は、まだ混んでいる。
話を続けている時間はない。
美園が酒を作り、陽菜が注文を取り、凛がグラスを運ぶ。
最初は別々だった3人の動きが、少しずつ噛み合い始めていた。
凛はもう、指示を待って立ち尽くしてはいない。
分からないことは美園へ聞く。
困ったときは陽菜を頼る。
そして、自分にできることを見つけたときは、自分から一歩を踏み出す。
客として座っていたカウンターの向こう側で、凛は初めて、自分の真面目さが誰かを安心させることもあるのだと知った。




