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31話「手伝い」

ボーナスが支給された翌週から、スナックRoseは明らかに忙しくなっていた。


 仕事帰りに立ち寄る常連客が増え、カウンターが埋まっている時間も長くなった。


 美園は客を待たせないように動いていたが、1人で店を回すには限界がある。


 注文を受けている間に別のグラスが空く。


 酒を作っている間に会計を頼まれる。


 電話が鳴った直後に、新しい客が入ってくる。


 どれだけ先を読んで動いても、美園の手は2本しかなかった。


     ◇


 その夜、陽菜がRoseを訪れたときも、店内はほとんど満席だった。


『いらっしゃい』


 美園はそう言ったものの、陽菜の席へグラスを用意する余裕すらなかった。


 陽菜は入口に立ったまま、店内を見回す。


『……今日もすごいね』


『見れば分かるでしょ』


 美園は客へ酒を出しながら、陽菜にだけ聞こえる声で答えた。


 カウンターには空いた皿とグラスが並んでいる。


 奥の席からは追加注文を求める声が上がり、別の客が会計のために財布を取り出していた。


『美園さん、あたしの分はいいよ』


『助かる』


『何か手伝おうか?』


 陽菜が尋ねると、美園は一瞬だけ迷った。


 店内の状況を見て、すぐに決断する。


『お願い。今日だけ手伝って』


『いいよ。何をすればいい?』


『まず、手を洗ってきて。エプロンは奥にあるから』


『分かった』


 陽菜の表情が、わずかに明るくなる。


 荷物を置き、早足で手洗い場へ向かった。


 その背中を見送り、美園が小さく息を吐く。


『……嬉しそうね、本当に』


 手を洗って戻ってきた陽菜は、黒いエプロンを身につけていた。


『似合う?』


『遊びじゃないよ』


『分かってるって』


『じゃあ、最初に約束して』


 美園は酒を作る手を止めないまま、陽菜を見る。


『客から連絡先を聞かれても教えない。店が終わったあとに誘われても、その場で約束しない』


『うん』


『身体へ触ろうとする客や、断ってもしつこい客がいたら、笑って誤魔化そうとしないで私を呼ぶ』


『あたしなら自分で――』


『自分で何とかしようとしない』


 美園の声が少しだけ強くなる。


『ここでは私が責任者。陽菜が何とかできるかどうかは関係ない。何かあったら必ず私に言って』


『……分かった』


『お酒は、私が作ったものを運んで。分量が分からないまま勝手に作らないでね』


『はい』


『空いたグラスと皿を下げる。注文を聞いたら、必ず復唱する。金額が分からない会計は触らない』


『了解』


『返事だけは立派ね』


『ちゃんと働くよ』


 陽菜はそう言うと、早速、空いたグラスへ手を伸ばした。


     ◇


 その夜は、本当に忙しかった。


 陽菜は、最初こそ店内の動きを掴めずにいた。


 同じ客から追加注文を2度聞きかけたり、空いたグラスと飲みかけのグラスを間違えそうになったりもした。


 そのたびに美園から短い指示が飛ぶ。


『陽菜、それはまだ下げない』


『ごめん』


『先に奥のテーブル。ずっと待ってる』


『分かった』


 陽菜は言われたことを素直に直した。


 仕事の流れが見え始めると、動きは急速に変わっていった。


 誰が次に注文しそうなのか。


 誰が会話を求め、誰が静かに飲みたがっているのか。


 どの席から先にグラスを下げるべきか。


 美園が視線を向けるだけで、陽菜はその先にいる客を確認する。


 指示を待つだけではなく、店全体を見ながら動くようになった。


「お姉さん、今日から?」


 常連客の1人が陽菜へ尋ねる。


『今日だけのお手伝いです』


「ママの妹?」


『そんな感じです』


『勝手に妹にならないで』


 離れた場所から美園の声が飛んでくる。


「違うの?」


『手のかかる知り合いです』


『美園さん、ひどくない?』


 客たちが笑う。


 陽菜も笑顔を返しながら、空になった皿を下げた。


 軽い冗談には応じる。


 しかし、会話へ夢中になりすぎない。


 別の客に呼ばれれば、自然にその場を離れる。


 美園は酒を作りながら、その様子を横目で見ていた。


 陽菜には、人との距離を縮める力がある。


 相手の懐へ入ることを恐れない。


 その一方で、仕事となれば、自分が話すより先に相手の言葉を拾うこともできる。


 初めて店へ立った人間としては、十分すぎる働きだった。


     ◇


 閉店時間が近づき、ようやく客足が落ち着いた。


 最後の客を見送ると、陽菜は大きく息を吐き、カウンターへ両手をついた。


『疲れた……』


『当たり前でしょ』


『営業部の仕事と全然違うね』


『どっちが大変?』


『比べられないよ。使うところが違う』


 陽菜はエプロンを外しながら答えた。


『でも、楽しかった』


『そう』


『また手伝ってもいいよ』


『調子に乗らない』


『結構、役に立ったでしょ?』


『最初に飲みかけのグラスを下げようとした人が言う?』


『途中からは間違えなかったじゃん』


『それは当然』


 美園はそう言いながらも、口元に小さな笑みを浮かべていた。


 冷蔵庫から水を出し、2人分のグラスへ注ぐ。


『助かった。私1人では、本当に回らなかった』


『それなら、もっと素直に褒めてよ』


『褒めたら、次から勝手に店へ立ちそうだから』


『そこまではしないよ』


『どうだか』


 美園は水を飲んでから、レジの中を確認した。


 そして、陽菜の前へ封筒を置く。


『今日の分』


『いらないよ。あたしが勝手に手伝っただけだし』


『私が頼んで働いてもらった。受け取って』


『でも――』


『働かせた側が、仲がいいからという理由で払わないのは駄目でしょ』


 美園の口調には、有無を言わせないものがあった。


 陽菜は封筒を見つめ、やがて手に取る。


『……分かった。ありがとう』


『どういたしまして』


『それで、また手伝ってほしい日があるの?』


 美園は小さく息を吐いた。


『今週末、団体の予約が入ってる。今日より多くなると思う』


『美園さん1人じゃ、絶対無理じゃん』


『だから、誰かに頼もうとは思ってる』


『あたしが手伝うよ』


『会社の規定は確認した?』


『まだ』


『店からお金を払う以上、1日だけでも副業扱いになる可能性がある。先に就業規則を確認して』


『分かった。問題なければ手伝う』


『無理なら断っていいからね』


『うん』


 陽菜は水を飲みながら、少し考える。


『もう1人いた方がいいんじゃない?』


『いた方が助かるけど、急に頼める人がいないのよ』


『凛ちゃんは?』


 美園が顔を上げる。


『凛ちゃん?』


『うん。真面目だし、言われたことはちゃんと守る。あたしと凛ちゃんの2人がいれば、かなり楽になるでしょ』


『接客の仕事は初めてだと思うけど』


『最初はグラスを出したり、皿を下げたりするだけでいいじゃん。あたしも一緒にいるし』


 美園はすぐには答えなかった。


 以前、凛が1人で店を訪れた夜を思い出す。


 忙しい時期があるのか。


 いつも1人で店を回しているのか。


 凛は、何気ない様子で尋ねていた。


 手伝いたいとまでは言わなかった。


 それでも、美園が忙しそうだから気になったのだと話していた。


『……聞くだけ聞いてみてもいいかもしれないね』


『じゃあ、あたしから誘ってみる』


『無理に引き受けさせないでよ』


『分かってる』


『仕事内容と時間、それから謝礼が出ることも最初に伝えて。会社の規定を確認することも』


『はいはい』


『返事を省略しない』


『分かりました』


 陽菜は、すでに次の夜を楽しみにしているように笑っていた。


     ◇


 翌朝。


 陽菜は出勤すると、最初に就業規則を確認した。


 勤務時間外の単発の仕事について、必要な手続きがないかを確かめる。


 確認を終えてから、凛の席へ向かった。


『凛ちゃん、今週末は空いてる?』


「今週末ですか?」


 凛は手帳を開き、予定を確認する。


「特にはありません。どうしたんですか?」


『美園さんの店、今週末に団体の予約が入ってるんだって。昨日、あたしが少し手伝ったんだけど、かなり忙しくて』


「陽菜さんが、Roseで働いたんですか?」


『昨日だけね。それで、今週末も手伝ってほしいって言われたの』


「そうなんですね」


『凛ちゃんも、よかったら一緒にどうかなと思って』


 凛の指が、手帳の上で止まる。


「私が、ですか?」


『うん。でも、無理なら断っていいよ。接客だし、お酒を飲んだお客さんもいる。簡単な仕事ではないから』


「何をするんですか?」


『最初は、空いたグラスや皿を下げたり、美園さんが作った飲み物を運んだり。分からないことは、勝手に判断しないで美園さんに聞く』


「勤務時間は?」


『夕方から閉店まで。謝礼も出るって。会社の規定や必要な手続きは、自分でも確認してほしい』


 陽菜は、分かっていることを順番に説明した。


 凛は黙って聞いている。


 先日1人でRoseを訪れたとき、美園に尋ねられたことを思い出していた。


 飲み屋の仕事に興味があるのか。


 あのときは否定した。


 本当に、働きたいと思って質問したわけではなかった。


 ただ、美園が1人で忙しそうにしていることが気になっただけだった。


『すぐに返事しなくていいよ』


 陽菜が言う。


『美園さんも、無理に誘わないでって言ってたから』


「……美園さんが?」


『うん』


 凛は少しだけ俯いた。


 Roseでは、役に立たなくてもいい。


 真面目でいなくてもいい。


 何も話さずに座っているだけでもいい。


 美園は、そう言ってくれた。


 だからこそ今、手伝ってほしいと言われたことが、単なる人手不足以上のものに感じられた。


 必要とされなければ、あの店へ行けないわけではない。


 役に立たなくても、凛の座る場所はある。


 そのうえで、自分にできることがあるなら、やってみたいと思った。


「私でよければ、手伝います」


 陽菜の顔が明るくなる。


『本当?』


「はい。ただ、接客は初めてなので、足を引っ張るかもしれません」


『大丈夫。あたしも一緒にいるから』


「それが少し不安です」


『どういう意味?』


「陽菜さん、楽しみすぎて失敗しそうなので」


『昨日はちゃんと働いたよ』


「美園さんに確認します」


『なんであたしより美園さんを信じるの?』


「美園さんが責任者だからです」


『真面目だなあ』


「褒め言葉として受け取っておきます」


 凛が小さく笑う。


 陽菜も笑い返した。


 こうして週末、Roseのカウンターに3人が立つことになった。


 美園にとっては、店を回すための助っ人。


 陽菜にとっては、新しい経験。


 そして凛にとっては、客として座っていた場所の向こう側へ、自分の意思で踏み出す最初の夜になる。

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