30話「守るための沈黙」
夜。
スナックRoseには、まだ数人の客しかいなかった。
カウンターの端では、常連客が静かに酒を飲んでいる。
店内に流れる音楽も、今夜はいつもより小さく聞こえた。
樹里は奥の席に座り、黙ってグラスを傾けていた。
零のガソリンスタンドを出たあと、そのまま自宅へ帰るつもりだった。
けれど、気づけばバイクをRoseの近くへ停めていた。
陽菜が、まどかと会った。
その後、美園のもとを訪れた。
零からその話を聞いても、樹里には何をすべきなのか分からなかった。
陽菜へ確認することもできない。
何も知らないふりを続けることも、以前ほど簡単ではない。
結局、答えを持っていそうな女の前へ来てしまった。
美園はカウンターの向こうで、静かに水を飲んでいる。
樹里が口を開くまで、何も聞こうとはしなかった。
その態度が、今は少しだけ腹立たしい。
『陽菜が、まどかと会ったらしい』
樹里が先に沈黙を破った。
美園は驚かなかった。
『知ってる』
予想していた答えだった。
それでも樹里の目が、わずかに細くなる。
『陽菜から聞いたのか』
『ここへ来て、私に話した』
『何を聞かれた』
『総長が消えた理由を知っているかって』
『美園は、何と答えた』
『全部ではないけど知っている、と』
樹里がグラスを置く。
『……お前は、どこまで知っている』
美園も水の入ったグラスを置き、樹里を真っ直ぐに見た。
『だいたいのことは知ってるよ』
『だいたいとは?』
『総長が消えた理由。誰に目をつけられたのか。私たちの前から離れることになった経緯も、ある程度は』
樹里の顔から、わずかに表情が消えた。
『誰から聞いた』
『1人から全部聞いたわけじゃない。総長が消えたあと、私なりに調べたの』
『なぜ、そんなことをした』
『理由も分からないまま、総長がいなくなったから』
『それでも、放っておけばよかった』
『できると思う?』
美園の声は穏やかだった。
『総長が突然いなくなった。陽菜は何も知らないまま捜し続けてる。それを見ながら、私だけ何もせずにいられると思った?』
樹里は答えなかった。
『全部を知ってるわけじゃないよ。細かいところまでは、今も分からない。でも、理由と相手くらいは知ってる』
『いつからだ』
『ほぼ最初から』
沈黙が落ちる。
樹里は目を伏せ、グラスの中で揺れる氷を見つめた。
4年前。
誰にも何も告げず、すべてのつながりを断った。
美園にだけ、最低限のことを伝えたつもりだった。
それ以上を知ろうとはしない。
樹里は勝手にそう思い込んでいた。
『聞いていないふりをしていたのか』
『総長が話したくないなら、無理に聞くつもりはなかったから』
『余計なことを』
『そうかもしれない』
美園は否定しなかった。
『でも、何も知らなかったら、私は陽菜に嘘をつき続けられなかったと思う』
『知っていたから、黙っていられたと?』
『少なくとも、総長が生きていることは分かってた。戻りたくても戻れない事情があることも』
美園は一度、言葉を止める。
『だから、待つことができた』
『陽菜には言わなかった』
『言えなかった』
『私に頼まれたからか』
『それもある。でも、最後に決めたのは私よ』
美園は樹里から目を逸らさなかった。
『陽菜が真実を知ったら、必ず総長を追った。自分がどうなっても構わない顔で』
『……そうだな』
『だから私は、陽菜に話さなかった。総長だけの責任じゃない』
樹里は再びグラスを持ち上げた。
だが、口をつけずに戻す。
『陽菜は、どこまで知った』
『私が何かを知っていることだけ』
『理由も、相手も?』
『話してない』
『そうか』
樹里の肩から、わずかに力が抜ける。
その変化を、美園は見逃さなかった。
『安心した?』
『何がだ』
『陽菜が、まだ何も知らないことに』
『……ああ』
樹里は誤魔化さなかった。
美園は短く息を吐く。
『陽菜に話してあげないの?』
樹里の指が、グラスの上で止まった。
『話さない』
『どうして』
『理由は分かっているだろ』
『総長の口から聞きたい』
樹里はしばらく黙っていた。
『陽菜に話せば、1人で相手のところへ乗り込む可能性がある』
『否定はできないね』
『可能性では済まない。あいつは必ず動く』
『そうかもしれない』
『危険な目には遭わせたくない』
樹里の声は低い。
怒っているわけではなかった。
そこにあるのは、揺らぐことのない恐怖だった。
『陽菜は、自分のことより私や美園を優先する。相手が誰なのか知れば、自分が傷つくことなんて考えずに動く』
『総長も同じでしょ』
樹里が顔を上げる。
『自分が傷つくことを考えずに、陽菜から離れた。全部を1人で背負って、守ったつもりになった』
『私は――』
『違う?』
樹里は何も答えられなかった。
美園は責めるような声を出さない。
だからこそ、その言葉から逃げられなかった。
『あのときは、それしかなかったのかもしれない。総長が残れば、私たちまで巻き込まれたのかもしれない』
『そうだ』
『でも、今も同じやり方を続けるの?』
『状況は何も変わっていない』
『変わってるよ』
美園は静かに言い切った。
『陽菜はもう、18歳の副総長じゃない。総長の後ろを、何も考えずについていくだけの子でもない』
『それでも、陽菜は陽菜だ』
『そうね。だから、自分で選ぼうとする』
美園の目が、わずかに厳しくなる。
『総長は、陽菜が自分を選ぶと分かってるから、選ばせたくないんでしょ』
その言葉は、樹里の胸の奥へ深く刺さった。
『……あいつの人生を、私の過去に巻き込みたくない』
『その気持ちは分かる』
『なら――』
『でも、何も知らせずに選択肢を奪うことも、陽菜の人生を勝手に決めることになる』
『知らなければ、関わらずに済む』
『もう知らないままではいられないよ』
美園はゆっくりと首を振った。
『まどかが知っていた。昔のつながりから話が流れている。零も聞いた。陽菜は私が何か知っていることに気づいた』
樹里は唇を引き結ぶ。
『総長が黙っていれば、過去も黙っていてくれる。そんな段階はもう終わったんじゃない?』
それは、樹里自身も感じていたことだった。
閉じ込めたはずの過去は、消えていない。
樹里が口を閉ざしている間にも、別の場所から陽菜へ近づいている。
『今すぐ全部話せとは言わない』
美園が続ける。
『何をどこまで話すのか、総長が決めればいい。話す時期も、総長が選べばいい』
『……ああ』
『でも、いつまでも話さないという選択には、私はもう賛成できない』
樹里の目が、美園へ向く。
『陽菜には、私が処理するまで関係のないことだ』
『4年前から、ずっとそう言ってる』
『まだ終わっていない』
『いつ終わるの?』
樹里は答えられなかった。
相手が何かをしてくるまで。
自分が完全に過去を断ち切れるまで。
陽菜たちへ危険が及ばないと確信できるまで。
そんな日は、本当に来るのだろうか。
『総長』
美園の声が柔らかくなる。
『陽菜は、総長が自分で話すまで待つと言った』
『……そうか』
『でも、いつまでも待てるとは言えないとも言った』
樹里は目を伏せた。
陽菜らしいと思った。
待つと決めても、黙って従い続ける女ではない。
『それから、私にも言われた』
『何を』
『もう1人で抱え込まないでって』
美園が、自嘲するように笑う。
『総長を守ろうとして私まで何も言わなくなったら、自分はまた置いていかれるって』
樹里の胸が痛んだ。
守るために離れた。
巻き込まないために黙った。
それなのに陽菜に残ったのは、守られた安心ではなく、置いていかれた痛みだった。
『……私は、間違っていたのか』
樹里の口から、かすかな声が漏れた。
美園はすぐに答えなかった。
『あのときの選択が間違いだったとは、私には言えない』
『では、何だ』
『あのとき必要だった選択が、今も正しいとは限らないってこと』
樹里は長く息を吐いた。
美園の言っていることは分かる。
零の言葉も、陽菜の気持ちも分かっている。
それでも、話す決心はつかなかった。
口にすれば、過去が再び形を持つ。
陽菜が、その過去の中へ足を踏み入れる。
それが怖かった。
『少し、考えさせてくれ』
美園の表情が、わずかに和らぐ。
『うん』
『ただ、今はまだ陽菜に話さない』
『分かった。今は、その方針でいいよ』
『“今は”か』
『今は、ね』
美園はそれ以上追及しなかった。
2人の間に、再び沈黙が落ちる。
さきほどまでとは違う沈黙だった。
何も変わらなかったようで、樹里は初めて、話すことを選択肢に入れた。
それだけでも、4年間閉ざされていた扉はわずかに動いていた。
◇
そのとき、店の扉が開いた。
ベルの音とともに、スーツ姿の男性が3人入ってくる。
「こんばんは。まだ大丈夫ですか?」
『いらっしゃい。大丈夫ですよ』
美園はすぐに表情を切り替え、客を迎えた。
3人が席へ着くより先に、さらに扉が開く。
今度は4人組だった。
先客のグラスも空きかけている。
注文が一度に重なり、静かだった店内が急に騒がしくなった。
美園は客へ笑顔を向けながら、樹里にだけ聞こえる声で呟く。
『……今日は忙しくなりそう』
樹里はグラスに残っていた酒を飲み干し、席を立った。
『邪魔したな』
『別に邪魔ではないよ』
『私がいれば、客が座れないだろ』
『そうね。じゃあ、今日は見送る』
美園が伝票へ手を伸ばす。
樹里は代金を置き、上着を手に取った。
『無理をするなよ、美園』
『総長に言われたくない』
『それはそうだな』
樹里はほんの少しだけ口元を緩めた。
『また来る』
『うん。また来て』
樹里が店を出るのと入れ替わるように、さらに数人の客が入ってきた。
カウンターはほとんど埋まり、美園は休む間もなく注文を取っていく。
扉が閉まる直前、樹里は一度だけ振り返った。
笑顔で客に応じる美園。
その手は、すでに別の酒を作り始めている。
1人で店を回すには、明らかに忙しすぎる。
外へ出ると、Roseの看板が夜の空気の中で小さく光っていた。
樹里はしばらく、その灯りを見上げる。
陽菜のこと。
美園のこと。
追いついてきた過去のこと。
考えるべきことが、また増えた。
それでも今夜、1つだけ変わったことがある。
話さないと決めていた樹里が、初めて話す時期を考え始めた。
すぐに答えが出るとは思えない。
けれど、立ち止まったままではいられなかった。
店内から聞こえる賑やかな声を背に、樹里はゆっくりと歩き出した。




