29話「追いつく過去」
樹里が零の働くガソリンスタンドを訪れたのは、仕事を終えた平日の夜だった。
日が沈んだばかりの空には、まだわずかに青が残っている。
整備を終えた黒いバイクは、給油機から少し離れた場所に停められていた。
樹里が敷地へ入ると、作業場にいた零がすぐに気づく。
「あ、総長。お待たせしたっす」
『いや。こちらこそ、仕事中に悪かったな』
「今日はもう落ち着いてるんで、大丈夫っすよ」
零は作業用の手袋を外しながら、バイクへ歩み寄った。
「オイル交換とチェーンの調整、終わってるっす。タイヤとブレーキも見たっすけど、今のところ問題なかったっすよ」
『分かった。ありがとう』
樹里は短く頷き、車体の状態を確認していく。
オイルの漏れはない。
チェーンの張りも適切だった。
レバーやペダルの感触にも違和感はない。
零の仕事は丁寧だった。
昔から、不器用なほど真面目なところは変わっていない。
「気になるところがあったら、すぐ持ってきてほしいっす」
『ああ。そうする』
樹里がバイクのキーを受け取る。
それで話は終わるはずだった。
しかし零は、その場を離れようとしなかった。
両手を身体の前で組み、何かを言いたそうに樹里を見ている。
樹里が視線を向けると、零はすぐに目を逸らした。
『まだ何かあるのか』
「……あるっす」
『何だ』
零は周囲を確認した。
給油機の近くには客がいる。
しかし、こちらの会話が聞こえる距離ではない。
「この前、陽菜さんと2人で街にいたときのことっす」
樹里は黙って続きを待った。
「鈴原まどかに会ったっす」
車体へ触れていた樹里の手が止まった。
『……まどかに?』
「はい。向こうから陽菜さんに気づいて、声をかけてきたっす」
樹里はゆっくりと顔を上げる。
先ほどまでの穏やかな目が、わずかに細くなっていた。
『何を話した』
「自分も全部は分からないっす。ただ、まどかは陽菜さんのことを見て、すぐにRose girlsの副総長だと分かったみたいっす」
『それから?』
「最初は、昔のことを少し話してただけっす。でも途中で、総長の話になったっす」
夜の空気が、急に冷たくなったように感じた。
『詳しく話せ』
低い声だった。
零は緊張しながらも頷く。
「まどかが、総長の消えた理由を少しだけ聞いたことがあると言ってたっす」
『誰から聞いたと言っていた』
「昔のつながりから流れてきただけだと。名前までは言ってなかったっす」
『内容は?』
「普通の喧嘩や、チーム同士の因縁で消えたわけじゃない。相当面倒な相手に目をつけられたらしい、って」
沈黙が落ちた。
遠くで給油機の作動音が聞こえる。
車が1台、スタンドから出ていく。
樹里はキーを握ったまま、何も言わなかった。
「それから、深入りしない方がいいとも言ってたっす」
『まどかは、陽菜を脅したのか』
「違うっす。そういう感じじゃなかったっすよ」
『敵意は?』
「なかったと思います。。自分には、むしろ陽菜さんへ忠告してるように見えたっす」
『……そうか』
樹里の声は平静を保っていた。
しかし、キーを握る指には力が入っている。
『陽菜は、何と答えた』
「相手は誰なのか、知ってることを全部話してほしいと言ってたっす。でも、まどかも詳しくは知らないみたいで」
『そのあとは?』
「まどかと別れてから、陽菜さんは美園さんの店へ向かったっす」
樹里の目が、わずかに動いた。
『Roseへ?』
「はい。自分は途中で別れたんで、何を話したかまでは知らないっすけど」
樹里は、美園の顔を思い浮かべた。
陽菜が真正面から尋ねれば、美園は簡単な嘘では誤魔化さない。
すべてを話すことはないだろう。
それでも、何かを知っていることまでは隠さなかったはずだ。
まどかが過去へ触れた。
陽菜が美園のもとへ行った。
そして今、零が自分の前にいる。
長い間、閉じ込めてきたものが、少しずつ外側へ滲み出している。
『この話を、他に誰かへしたか』
「してないっす」
『凛さんや早川さんにも?』
「話してないっす。こんな話、できないっすよ」
『なら、今後も話すな』
「はい」
『まどかと再び会っても、こちらから何かを聞こうとするな。向こうから連絡が来た場合も、私に話せ』
「分かりました」
樹里の言葉は命令に近かった。
零は反射的に背筋を伸ばした。
かつて総長の前で指示を受けていた頃のように。
樹里はキーへ視線を落とし、短く息を吐く。
『話はそれだけか』
「……もう1つあります」
零の返事に、樹里が顔を上げる。
「陽菜さんには、総長に話していいか確認してないっす」
『そうか』
「陽菜さんは、総長に話すか少し考えさせてほしいと言ってたっす。それなのに自分が先に話したのは、悪かったと思ってるっす」
『なら、なぜ話した』
「黙っている方が、あとで後悔すると思ったからっす」
零は視線を逸らさなかった。
「総長に関わる話なのに、知らないままでいるのは違うと思ったっす」
樹里は、零を静かに見つめる。
昔の零なら、樹里から視線を向けられただけで俯いていた。
今も身体は強張っている。
それでも、自分の判断を口にしている。
『分かった。陽菜に何か言われたら、私へ話したことは隠すな』
「はい」
『零の判断で話したと、正直に言えばいい』
「分かったっす」
零は頷いた。
だが、まだその場を離れなかった。
『今度は何だ』
「総長」
『何だ』
「陽菜さんへ、自分から話した方がいいんじゃないっすか」
樹里の目が冷たくなる。
『零には関係のないことだ』
「そうっすね」
零は一度、言葉を止めた。
「でも、関係がなくても、心配するくらいは許してほしいっす」
『……何を心配している』
「陽菜さんも、総長もっす」
樹里は何も答えなかった。
「陽菜さん、まどかと別れたあと、ずっと平気なふりをしてたっす。でも、全然平気じゃなかったっす」
『それは分かっている』
「だったら――」
『分かっているから、話せない』
樹里の声が、零の言葉を止めた。
怒鳴ったわけではない。
それでも零は、それ以上続けられなかった。
『話せば、陽菜は必ず動く』
「でも、何も知らないままでも動くと思うっす」
樹里の眉がわずかに動いた。
零は今にも目を逸らしそうになりながら、それでも言葉を続ける。
「陽菜さんは、総長が話すまで待つつもりだと思うっす。でも、何も分からないまま待たされるのも、つらいんじゃないっすか」
『零』
「すみません」
謝りながらも、零は俯かなかった。
「余計なことを言ってるのは分かってるっす。でも、自分からはこれ以上何も言わないっす。これで最後にするっす」
しばらくの間、2人の間に沈黙が続いた。
樹里は、零の言葉を否定できなかった。
陽菜が待ち続けていたことは知っている。
何も知らされないまま、自分を捜していたことも。
ようやく再会したあとも、樹里の口から何かが語られるのを待っていることも。
そのすべてを知りながら、樹里は何も話していない。
『……分かった』
樹里が先に視線を外した。
『話してくれて、ありがとう』
「総長……」
『ただ、この話を広めるな。それだけは守ってくれ』
「はい」
零は深く頷いた。
樹里はヘルメットをかぶり、顎紐を締める。
バイクへ跨り、キーを差し込んだ。
エンジンが始動し、静かだったスタンドに重い音が響く。
「総長」
零がもう一度呼び止める。
樹里は振り返らず、顔だけをわずかに零へ向けた。
「気をつけて帰ってくださいっす」
『ああ』
樹里はそれだけ答え、ゆっくりとバイクを発進させた。
ヘッドライトが夜の道路を照らす。
スタンドを出た樹里は、流れに乗って速度を上げた。
風を受けても、胸の奥に生まれた重さは消えない。
まどかの言葉は、陽菜へ届いた。
陽菜は美園のもとへ向かった。
そして零は、自分へ話した。
誰にも知られなければ、過去は消えていく。
樹里はどこかで、そう思おうとしていた。
だが、消えてはいなかった。
見えない場所に残り続け、今になって自分たちへ追いつこうとしている。
陽菜に話すべきなのか。
何を、どこまで話せばいいのか。
そもそも、自分の口から語る資格があるのか。
答えは出なかった。
樹里は振り返らず、そのまま夜の道を走り続けた。
零は、遠ざかっていくテールランプを見つめていた。
(……怒ってる。やっぱり、怒ってる)
そう思った。
けれど、最後に見えた樹里の目を思い出す。
冷たく見えたその奥にあったものは、怒りだけではなかった。
(総長も、怖いんすかね)
何を恐れているのか、零には分からない。
ただ、過去に触れられた樹里の顔は、敵を前にした総長のものではなかった。
隠してきたものを、大切な誰かに知られることを恐れている。
そんな、1人の人間の顔に見えた。




