28話「消えた棘」
森下彩花の様子が、おかしかった。
最初に気づいたのは、陽菜だった。
以前の彩花は、何かにつけて陽菜へ棘のある言葉を向けてきた。
仕事が早ければ、誰かに手伝ってもらったのではないかと疑う。
服装や化粧が少し変われば、男でもできたのかと余計なことを言う。
陽菜が周囲から褒められれば、聞こえるように小さく息をつく。
どれも露骨な悪意と呼ぶほどではない。
それでも、自分へ向けられた言葉なのだと分かる程度には、鋭さがあった。
陽菜も最初のうちは反応していた。
だが、相手にするほど彩花の言葉が増えることに気づいてからは、笑って受け流すようになった。
そんな彩花から、棘が消えた。
陽菜への態度が柔らかくなったわけではない。
和解したわけでもない。
ただ、誰かへ言葉を向ける余裕そのものがなくなったように見えた。
席に座り、黙って仕事をしている。
休憩時間になっても、誰かと楽しそうに話すことはない。
以前は頻繁に顔を合わせていた女性社員から声をかけられても、曖昧に笑うだけだった。
そして、何度もスマートフォンの画面を確認している。
通知が届けばすぐに手を伸ばす。
何も表示されていなくても、少し時間が経つとまた画面をつける。
誰かからの連絡を待っているようにも、連絡が来ることを恐れているようにも見えた。
どちらなのかは、陽菜には分からなかった。
◇
昼休み。
陽菜が自分の席で弁当を開いていると、柚希が近づいてきた。
周囲を気にしながら身体を屈め、小さな声で話しかける。
「ねえ、陽菜さん」
『何?』
「彩花さん、最近ちょっと変じゃない?」
陽菜は箸を止めた。
『そうかな』
「スマホばっかり見てるし、誰かに話しかけられても上の空だし」
『仕事で何かあるんじゃない?』
「それだけかな」
柚希が彩花の席へ目を向ける。
本人は休憩へ出たのか、そこにはいなかった。
「この前、給湯室で会ったんだけど、呼んでも全然気づかなかったんだよ。肩に触ったら、ものすごく驚かれて」
『考え事してたんじゃない?』
「私もそう思ったけど……」
柚希の表情から、心配は消えなかった。
「顔色も悪くない?」
陽菜も気づいていた。
化粧で隠しているつもりなのだろうが、目元の影までは消えていない。
頬も以前より少し痩せたように見える。
昼食を抜いている日も増えていた。
『寝不足なのかもね』
「大丈夫かな」
『……どうだろう』
「陽菜さんから聞いてみたら?」
『あたしが?』
「私より、陽菜さんの方が彩花さんのことを分かってるでしょ」
『分からないよ。仲がいいわけじゃないし』
「でも、最近ずっと気にしてるよね」
柚希に指摘され、陽菜は言葉に詰まった。
『……変化が分かりやすかっただけだよ』
「それでも、私が聞くよりはいいと思う」
陽菜は箸を置き、少し考えた。
『こっちから無理に事情を聞くのはやめよう』
「でも」
『本人が話したくないことかもしれないでしょ。ただ、体調が悪そうなら声はかけてみる』
「うん。それがいいかも」
『柚希ちゃんも、あまり見すぎないでね。彩花さんが気づいたら嫌でしょ』
「分かってる」
柚希は頷き、自分の席へ戻っていった。
陽菜はもう一度、誰も座っていない彩花の席を見る。
『……気のせいなら、いいんだけど』
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇
午後になり、彩花はいつもどおり席へ戻ってきた。
仕事はこなしている。
書類の不備もなく、電話応対で言葉に詰まることもない。
それでも、普段と同じではなかった。
机の上でスマートフォンが震えるたび、彩花の肩がわずかに揺れる。
画面を確認しては伏せる。
しばらくすると、また手に取る。
その動作が何度も繰り返されていた。
陽菜は、自分の仕事へ視線を戻そうとした。
けれど、どうしても気になってしまう。
しばらくして、彩花が席を立った。
スマートフォンを手にしたまま、事務所の外へ出ていく。
陽菜は少し迷った末、自分も給湯室へ向かった。
追いかけるつもりではなかった。
そう自分へ言い聞かせながら廊下を歩く。
給湯室で飲み物を用意し、事務所へ戻る途中だった。
廊下の先にある窓際で、彩花が1人で立っていた。
スマートフォンを耳に当て、誰かと話している。
声は聞こえない。
彩花も、ほとんど言葉を発していなかった。
相手の話を聞きながら、何度も小さく頷いている。
その横顔は、明らかに強張っていた。
唇を引き結び、スマートフォンを持つ指に力が入っている。
やがて彩花が、掠れた声を出した。
「……分かったから」
短い言葉だった。
それ以上は聞こえない。
陽菜は足を止めかけ、すぐに視線を逸らした。
近づいて声をかけるべきか。
何も見なかったふりをするべきか。
迷った末、そのまま黙って通り過ぎた。
電話中の彩花がこちらを見た気配はなかった。
◇
席へ戻ってからしばらくして、彩花も事務所へ戻ってきた。
何事もなかったように椅子へ座り、パソコンの画面を開く。
しかし、マウスへ伸ばした指がわずかに震えていた。
陽菜は、自分の席から声をかける。
『彩花さん』
「何?」
彩花は顔を上げなかった。
『体調、悪い?』
「別に」
『顔色、あまりよくないよ』
「寝不足なだけ。仕事には影響させてないでしょ」
突き放すような言葉だった。
だが、以前のような棘はなかった。
近づいてくる相手を追い払うためだけの、弱々しい拒絶だった。
『そういう意味で言ったんじゃないよ』
「じゃあ、どういう意味?」
『心配しただけ』
彩花の手が止まる。
ゆっくりと顔を上げ、陽菜を見た。
「私を?」
『うん』
「……急に優しくしないでよ」
『急にって――』
「放っておいて」
彩花はそれだけ言うと、画面へ視線を戻した。
その横顔には、苛立ちよりも怯えに近いものが浮かんでいた。
陽菜は言葉を飲み込む。
『……分かった』
今は、それ以上聞くべきではない。
そう判断し、自分の仕事へ戻った。
それでも、胸に引っかかったものは消えなかった。
◇
終業後。
会社を出た樹里と陽菜は、駅へ続く道を並んで歩いていた。
夕日が建物の間へ沈み、街路樹の影を長く伸ばしている。
しばらく無言で歩いたあと、陽菜が口を開いた。
『総長』
『何だ』
『総長、彩花さんと同期だよね』
『そうだが』
『最近、彩花さんから何か聞いてない?』
『何も聞いていない』
『やっぱり、そうなんだ』
陽菜の声を聞き、樹里が横目で見る。
『彩花に何かあったのか』
『何か抱えてると思う』
樹里は前を向いたまま尋ねる。
『理由は?』
『顔色が悪いし、最近ずっとスマホを気にしてる。今日も誰かと電話してたんだけど、普通の様子じゃなかった』
『内容は聞いたのか』
『聞いてない。声までは聞こえなかったし、近づかなかったから』
『それでいい』
『でも、柚希ちゃんも気にしてた』
樹里はすぐには答えなかった。
一定の速さで歩きながら、何かを考えている。
『本人には聞いたのか』
『体調が悪いのかだけ聞いた。放っておいてって言われた』
『なら、今はこちらから動く話じゃない』
『でも、何かあってからじゃ遅いかもしれないじゃん』
『陽菜』
樹里が足を止める。
陽菜も立ち止まり、その横顔を見る。
『心配することと、詮索することは違う』
『分かってるよ』
『分かっていないから、今すぐ何かしようとしている』
『あたしは、ただ――』
『助けたいんだろ』
樹里に先回りされ、陽菜は口を閉じた。
『でも、相手が助けを求めていないうちに踏み込めば、余計に話せなくなることもある』
陽菜は、前日の美園との会話を思い出した。
総長が、自分で話すまで。
無理に傷を開けば、また閉じてしまう。
彩花と樹里では、状況も関係も違う。
それでも、本人が話せないものへ周囲が勝手に手を伸ばす危うさは同じだった。
『……じゃあ、何もしないの?』
『そうは言っていない』
樹里は再び歩き出した。
陽菜も、その隣へ並ぶ。
『仕事に影響が出る。無断で休む。明らかな怪我がある。そういう変化があれば、黒澤部長へ報告する』
『うん』
『本人が話しかけてきたら、聞けばいい。ただし、こちらから答えを決めつけるな』
『答えを決めつける?』
『恋人との問題なのか、家族なのか、金なのか、体調なのか。今の私たちには何も分からない』
陽菜は、彩花の強張った横顔を思い出す。
電話の相手が誰なのかも知らない。
彩花が何を恐れているのかも分からない。
『勝手に想像した答えに合わせて助けようとすれば、必要なものを間違える』
『……そうだね』
『今は、本人が話せるようになったとき、気づける距離にいればいい』
『同期でも、聞かないの?』
『同期だから聞いていいとは限らない』
樹里は迷わず答えた。
『私と彩花は、同じ年に入社した。それだけだ。本人が話したくないことへ踏み込める理由にはならない』
『総長は、気にならないの?』
『気になる』
樹里は即答した。
『だから様子は見る』
陽菜が樹里の顔を覗き込む。
『あたしには深入りするなって言ったのに』
『2人で同時に見ていたら、彩花に気づかれる』
『自分だけ見るつもり?』
『そういう意味じゃない』
『じゃあ、どういう意味?』
『陽菜は顔に出る』
『出ないよ』
『今日もずっと彩花を見ていたんだろ』
陽菜は反論しようとした。
しかし、昼休みに柚希へ同じことを注意した自分を思い出し、言葉に詰まる。
『……少しだけ』
『それを、顔に出ると言うんだ』
『総長は出なさすぎるんだよ』
『仕事中に出してどうする』
樹里の口調は変わらない。
それでも、その目はすでにわずかに鋭くなっていた。
陽菜には分かる。
樹里も、同期である彩花の異変を軽く考えてはいない。
『分かった。今は何もしない』
『何もしないのではない。待つんだ』
『同じじゃないの?』
『違う』
樹里は前を見たまま答える。
『何もしない人間は、相手が声を上げても気づかない。待つ人間は、その声を聞き逃さない』
陽菜はその言葉を、黙って受け止めた。
『……分かった。待つ』
『ああ』
『でも、本当に危なそうだったら動くからね』
『そのときは、私にも話せ』
『うん』
2人は並んで、夕暮れの道を歩いていった。
彩花が抱えているものが何なのかは、まだ誰も知らない。
本人が助けを求めているのかさえ、分からない。
ただ、陽菜も樹里も、もう彩花の異変を見落としてはいなかった。
差し伸べる手は、まだ動かさない。
それでも、いつでも届く場所には置いておく。
彩花が自分から、その手を求められるように。




