27話「ひとりで来た夜」
遠藤凛が1人でスナックRoseの扉を開けたのは、仕事を終えた金曜日の夜だった。
誰かに誘われたわけではない。
神谷や陽菜と訪れた夜から、まだそれほど日は経っていなかった。
そのときに今度は柚希も連れてくると話していたが、今日は声をかけなかった。
柚希と来るのが嫌だったわけではない。
ただ、自分1人でもあの店へ入れるのか、確かめてみたくなった。
店の前まで来てから、凛は何度も看板を見上げた。
(別に、入ってもいいよね)
一度しか来ていない客が、急に1人で訪れたところで、美園は気にしないだろう。
そう思う一方で、扉へ伸ばした手はなかなか動かなかった。
(もし、“どうして来たの”って聞かれたら、何て答えよう)
明確な理由はない。
ひどく疲れているわけでも、誰かに聞いてほしい悩みがあるわけでもない。
家へ帰りたくないわけでもなかった。
ただ、今日という日を、会社から自宅への往復だけで終わらせたくなかった。
それだけだった。
凛は小さく息を吸い、意を決して扉を開けた。
控えめなベルの音が鳴る。
カウンターの中でグラスを拭いていた美園が、顔を上げた。
『いらっしゃい』
美園は凛の姿を認めると、少しだけ目を丸くした。
『あら。今日は1人?』
「はい」
凛は扉の前に立ったまま答えた。
「迷惑でしたか?」
『どうして?』
「いえ……特に予約もしてないですし、まだ2回目なので」
『スナックへ来るのに、予約も来店回数も関係ないよ』
美園はカウンターの席を示した。
『どうぞ。好きなところへ座って』
「ありがとうございます」
凛は前回と同じ席へ腰を下ろした。
そこを選んだことに深い理由はない。
けれど、前回と同じ椅子に座るだけで、少しだけ緊張が和らいだ。
『今日は何にする?』
「ビールをお願いします」
『帰りは?』
「電車です。バイクは家に置いてきました」
『それなら安心ね』
美園は冷えたグラスを用意し、丁寧にビールを注いだ。
きめ細かな泡が、グラスの縁近くまでゆっくりと持ち上がる。
『お疲れさま』
「ありがとうございます」
凛は両手でグラスを受け取り、一口だけ飲んだ。
冷たさと苦みが喉を通る。
それだけで、身体の奥に残っていた仕事の緊張がわずかにほどけた。
店内には数人の先客がいた。
離れた席で静かに酒を飲む男性。
カウンターの端で、美園と世間話をしている女性。
テレビからは、小さな音で天気予報が流れている。
会話が途切れるたび、グラスの中で氷が鳴った。
静かだ。
しかし、家の静けさとは違う。
誰かの気配があるのに、無理に関わらなくてもいい。
そんな距離が、この店にはあった。
『会社、忙しかった?』
「普通です。月末なので、少しだけ処理するものが多かったですけど」
『真面目な返事ね』
「そうですか?」
『普通って答えたあとに、忙しかった理由まで説明してくれる人は少ないよ』
「聞かれたので……」
美園が面白そうに目を細める。
『陽菜が言ってたとおりね』
「何をですか?」
『凛ちゃんは真面目だって』
「……また、それですか」
『言われるの、嫌なの?』
「嫌というわけではありません」
凛はグラスへ視線を落とした。
「褒めてもらっているのは分かります。でも、真面目だと言われると、次もきちんとしないといけないような気がして」
『期待を裏切れなくなる?』
「そんな感じです」
美園はすぐに言葉を返さなかった。
凛のグラスの減り具合を確かめ、その隣へ水を置く。
『真面目でいることが性格じゃなくて、役目になったら疲れるよ』
凛が顔を上げる。
『周りが思っている自分を、ずっと演じ続けることになるから』
「美園さんにも、そういうことがあるんですか?」
『あるよ』
「意外です」
『どういう意味?』
「美園さんは、他人にどう思われても気にしない人に見えます」
『気にしないふりが上手いだけ』
美園は穏やかに笑った。
『誰だって、周りから求められる役目くらいあるでしょ。会社でも、家でも、友達の前でも』
「……はい」
『でも、ここでは役に立たなくていいよ』
「え?」
『面白い話をしなくてもいい。私に気を遣わなくてもいい。真面目な客でいる必要もない』
美園はカウンターへ片手をつき、凛を見る。
『飲みたいものを飲んで、帰りたくなったら帰ればいい。今日は何も話したくないなら、それでもいいよ』
凛は返事をせず、もう一度グラスへ口をつけた。
美園も答えを求めなかった。
別の客に呼ばれ、カウンターの端へ移動する。
グラスを作り、話に相槌を打ち、空いた皿を片づける。
それから凛の前へ戻ってきても、先ほどの話を続けようとはしなかった。
2人の間に、沈黙が落ちる。
居心地の悪いものではなかった。
何かを話さなければならないという焦りもない。
ただそこにいて、ゆっくりとビールを飲む。
それだけでよかった。
(……前に来たときより、落ち着く)
誰かと一緒だった前回は、周りの会話を聞いているだけで時間が過ぎた。
1人で来れば、美園と話し続けなければならないと思っていた。
けれど、美園は必要以上に話しかけてこない。
凛が口を開けば聞き、黙れば同じように黙っている。
客が求めている距離を、言葉にされる前に見極めているようだった。
しばらくして、美園が再びカウンターへ肘をつく。
『彼氏、まだいないの?』
「その話、前にもしましたよね」
『数日でできてるかもしれないでしょ』
「できてません」
『好きな人も?』
「いません」
『即答ね』
「本当にいませんから」
凛は少しだけ頬を膨らませた。
「美園さんは、誰にでもそういうことを聞くんですか?」
『聞く人は選んでる』
「私は聞いてもいい人なんですか?」
『嫌なら、もう聞かないよ』
「嫌ではないです。ただ……慣れてないだけです」
『じゃあ、少しずつ慣れて』
「今後も聞くつもりなんですね」
『恋人ができたら、聞かなくて済むでしょ』
「そういう予定はありません」
『分からないよ。凛ちゃんは、気づくのが遅そうだから』
「何にですか?」
『自分の気持ちに』
凛は言葉を返そうとしたが、適当な反論が見つからなかった。
仕方なくグラスへ口をつける。
美園が楽しそうに笑った。
「……美園さんは、少し意地悪です」
『今さら気づいたの?』
「前回から、なんとなく思っていました」
『それでも、また来たんだ』
「そうですね」
凛自身、そのことが少し不思議だった。
何を聞かれるか分からない。
自分でも気づいていないことまで、見透かされそうになる。
それなのに、美園と話すことは嫌ではなかった。
◇
時間が進むにつれ、店内の客は少しずつ増えていった。
2人組の会社員。
1人で来た年配の女性。
仕事帰りらしいスーツ姿の男性。
美園は1人ですべての注文を受け、手際よく酒を作っていく。
会話を求める客には言葉を返し、静かに飲みたい客には必要以上に話しかけない。
空いたグラスを見逃さず、灰皿や皿が汚れればすぐに交換する。
電話が鳴れば応対しながら、別の客へおしぼりを渡す。
その動きに迷いはなかった。
けれど、客が重なった瞬間、美園の手が足りていないことは凛にも分かった。
注文を待っている客がいても、美園は急いでいる様子を見せない。
それでも、1人で店を回すことに限界があるのは明らかだった。
「あの、美園さん」
『何?』
「この店って、忙しい時期があるんですか?」
『あるよ。週末や、給料日とボーナスの後は特にね』
「いつも1人なんですか?」
『基本は私1人。どうしても回せない日は、知り合いに頼むこともあるけど』
「大変じゃないですか?」
『大変よ。でも、自分で始めた店だからね』
美園はグラスへ氷を入れながら、凛を見る。
『もしかして、飲み屋の仕事に興味がある?』
「え?」
凛は慌てて両手を振った。
「いえ、そういうつもりで聞いたわけでは……」
『そうなの?』
「ただ、美園さんが忙しそうだったので」
『手伝おうと思った?』
「そこまでは……」
否定しかけた凛の声が弱くなる。
美園はそれ以上追及しなかった。
『凛ちゃんには会社の仕事もあるでしょ。簡単にできる仕事じゃないよ』
「分かっています」
『酒を作るだけじゃない。客の話を聞いて、酔い方を見て、止めるべきときには止める。店の中で起きたことには、私たちが責任を持たないといけない』
以前、この店で酔った客に絡まれた女性を、美園が守ったことを凛はまだ知らない。
それでも、美園の声から、ただ酒を提供するだけの仕事ではないことは伝わった。
「美園さんは、どうしてこの店を始めたんですか?」
美園の手が、ほんの一瞬だけ止まった。
『話すと長くなるよ』
「今日は聞きません」
『聞かないの?』
「美園さんが、話したいと思ったときに聞きます」
美園は少し驚いたように凛を見た。
やがて、穏やかに目を細める。
『本当に真面目な子ね』
「今日は、真面目じゃなくてもいいんですよね」
『そうだった』
「では、今の質問はなかったことにしてください」
『分かった』
美園は笑いながら、凛の空いたグラスを見た。
『もう1杯飲む?』
「いえ、今日はここまでにします」
『それがいいね。最初から飛ばすと、帰りがつらくなるから』
「お会計をお願いします」
『はい』
美園は伝票を確認し、金額を告げた。
凛が支払いを済ませ、席を立つ。
「今日は、ありがとうございました」
『こちらこそ』
「1人で来ても、思ったより平気でした」
『何か理由がないと、1人で店へ来ちゃいけないと思ってた?』
「少しだけ」
『理由なんて、あとから考えればいいのよ』
「あとから?」
『家に帰る前に少し寄りたかった。それだけでも、十分でしょ』
凛はその言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
「そうですね」
『また来て。1人でも、誰かと一緒でも』
「はい」
『次は柚希ちゃんも連れてきてね』
「覚えてたんですか?」
『客との約束は忘れないよ』
美園の言葉に、凛は小さく笑った。
「では、次は柚希ちゃんと来ます」
『待ってる』
凛は店を出た。
夜の空気が、酒で温まった頬に心地いい。
駅へ向かって歩きながら、凛は先ほどまで座っていたカウンターを思い出した。
悩みを聞いてもらったわけではない。
特別な答えをもらったわけでもない。
けれど、会社にいるときよりも、家にいるときよりも、肩の力を抜いていられた。
誰かの役に立たなくてもいい。
真面目でいなくてもいい。
何も話さなくても、そこにいていい。
(……また、来てもいいかも)
特に深い理由はなかった。
ただ、あの店には、自分のままで座っていられる椅子が1つある。
今は、それだけで十分だった。




