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26話「アネモネ」

休日の昼。


 陽菜と零は、駅前のカフェで向かい合っていた。


 先に着いていたのは零だった。


 約束の時間より15分も早く来ていたらしく、陽菜が店へ入ったときには、すでに窓際の席で背筋を伸ばして座っていた。


 メニューを持つ手にも、置かれた水へ伸ばす指にも、妙な硬さがある。


『零』


「はいっす」


『そんなに緊張しなくていいよ』


「緊張なんてしてないっす」


『じゃあ、なんでさっきから姿勢が1回も崩れないの?』


「これは、その……自分の普通っす」


『嘘。昔から、あたしの前にいるときだけそうなるじゃん』


 零の視線が、わずかに泳いだ。


『やっぱり、今でもあたしにビビってるでしょ』


「……少しだけっす」


 素直に認めた零を見て、陽菜が小さく笑う。


『もう昔のことだよ。今さら怯えなくてもいいって』


「そう言われても、身体が勝手に……」


『あたしはもう副総長じゃないし、零も部下じゃないでしょ』


「それは、そうっすけど」


『今日はただ、一緒にご飯を食べに来ただけ。何を言っても怒らないよ』


「本当っすか?」


『その確認をされると、少し傷つくんだけど』


「すみませんっす」


『すぐ謝るし』


 零が困ったように口を閉じる。


 その様子に、陽菜はまた笑った。


『まあ、急に変えろって言われても無理だよね』


「自分にとって陽菜さんは、ずっと陽菜さんなんで」


『何、それ』


「うまく説明できないっすけど……」


 零はしばらく言葉を探した。


「怖かったのは本当っす。でも、それだけじゃないっす」


『じゃあ、何?』


「自分たちが迷ったとき、陽菜さんは絶対に迷わなかったっす。少なくとも、自分にはそう見えてました」


 陽菜の表情から、笑みが少しだけ消えた。


「総長が前に立って、陽菜さんが後ろを支えてた。だから、自分たちは何も考えずについていけたんす」


『……あたしだって、迷ってたよ』


「そうだったんすか?」


『当たり前じゃん。毎日、これでいいのかなって考えてた』


 零が意外そうに目を見開く。


『でも、あたしまで迷ってる顔をしたら、みんなが不安になるでしょ。だから見せなかっただけ』


「全然、気づかなかったっす」


『零は人の顔を見る余裕がなかったからね』


「否定できないっす……」


 零が肩を落とす。


 陽菜は、昔の零を思い出した。


 頑張って険しい顔を作っているのに、少し強く言われただけで目が泳ぐ。


 自分を大きく見せようとしていることが、周りにはすぐに分かってしまう。


 それでも仲間のためなら、逃げずに前へ出る。


 怖がりなのに、臆病ではない。


 零は、そういう女だった。


『凛ちゃんのバイク、選ぶのを手伝ったんでしょ?』


「手伝ったというほどじゃないっす。候補を一緒に見ただけっすよ」


『でも、凛ちゃんは零に相談してよかったって言ってたよ』


「……そうなんすか?」


『うん。すごく頼りにしてた』


 零は照れたように目を伏せた。


「自分なんかでよければ、いつでも相談に乗るっす」


『そういうところは、昔から変わらないね』


「どういうところっすか?」


『自分に自信はないのに、人のためなら頑張れるところ』


「それ、褒めてるっすか?」


『褒めてるよ』


 零の口元が、少しだけ緩んだ。


 それから2人は注文を済ませた。


 料理が運ばれてくる頃には、零の肩からも幾分か力が抜けていた。


 陽菜が会社で起きた出来事を話し、零が驚いたり笑ったりする。


 零もガソリンスタンドで出会った変わった客の話をした。


「軽自動車なのに軽油を入れようとする人、今でもいるんすよ」


『名前に“軽”ってついてるから?』


「そうっす。止めると、“軽自動車なのに何で駄目なんだ”って怒られることもあるっす」


『零、そういう人に説明できるの?』


「仕事中ならできるっすよ」


『あたしの前ではこんなに固まってるのに?』


「陽菜さんは別っす」


『だから、もう怖がらなくていいって』


「努力はしてるっす」


『努力が必要なんだ……』


 陽菜が苦笑する。


 食事を終える頃には、零の姿勢も普段どおりになっていた。


 最初は膝の上に置かれていた両手も、今では自然にテーブルへ出ている。


 陽菜はそれに気づいたが、口にはしなかった。


 言えば、また元に戻ってしまいそうだった。


     ◇


 店を出たあと、2人は特に目的もなく街を歩いた。


 駅前の人通りを抜け、少し静かな通りへ入る。


「陽菜さん」


『何?』


「今日は、どうして自分を誘ってくれたんすか?」


『誘ったら駄目だった?』


「そういう意味じゃないっす。ただ……今まで、こういうことはなかったんで」


『そうだね』


 陽菜は歩きながら、空を見上げた。


『凛ちゃんと柚希ちゃんが、零と楽しそうに話してるのを見たからかな』


「凛さんと柚希さんが?」


『あの2人は、昔の零を知らないでしょ。ただ今の零を見て、友達になろうとしてる』


「友達……」


『零も、あの2人の前では自然に話せてた。だから、あたしも昔の関係を引きずってるだけじゃ駄目だなって思ったの』


 陽菜は足を止め、零を見る。


『あたし、零とちゃんと話したこと、ほとんどなかったよね』


「副総長と下の人間だったんで、仕方ないっす」


『仕方ないで終わらせたくないんだよ』


 零が目を瞬かせる。


『もう、上下なんてない。あたしは零に命令する立場じゃないし、零もあたしの顔色を見なくていい』


「……はいっす」


『それに、今は“副総長”じゃなくて、櫻井陽菜だから』


 零はしばらく、陽菜の顔を見ていた。


「それなら自分も、ただの東雲零でいいんすか?」


『最初からそう言ってるじゃん』


「……分かったっす」


『本当に?』


「すぐには無理かもしれないっすけど、少しずつ慣れるっす』


『うん。それでいいよ』


 陽菜が笑う。


 零も、ぎこちないながら笑い返した。


 そのときだった。


 向かい側から歩いてきた1人の女性が、陽菜を見て足を止めた。


 淡い金髪を低い位置で束ね、黒を基調とした服を身につけている。


 派手な格好ではない。


 それでも、その女だけが周囲から切り離されているように見えた。


 真っ直ぐに相手を射抜く目。


 誰かに道を譲ることを、最初から考えていない歩き方。


 陽菜の表情から、笑みが消えた。


 零も女性の顔を見て、無意識に身体を固くする。


 女性は陽菜の前まで来ると、口元だけで笑った。


「……Rose girlsの副総長じゃねえか」


 低く、はっきりとした声だった。


 陽菜は零を庇うように半歩前へ出る。


『久しぶりだね、まどか』


 鈴原まどか。


 かつてRose girlsと敵対したレディースチーム、アネモネ。


 その頂点に立っていた女だった。


 特攻服を脱ぎ、髪型も化粧も変わっている。


 それでも、陽菜を見つめる目だけは当時と何も変わっていなかった。


「ずいぶん丸くなったな」


『まどかもね。昔なら、声をかける前に睨んでたじゃん』


「今も睨んでる」


『そうは見えないけど』


「お前が鈍くなっただけじゃねえか?」


『そうかもね』


 陽菜は穏やかに返しながら、まどかの目を見ていた。


 敵意は感じない。


 しかし、ただ懐かしんで声をかけてきたわけでもない。


 まどかの視線が、陽菜の後ろに立つ零へ向く。


「そっちは……見覚えがあるな」


「東雲零っす」


「名乗られても覚えてねえよ」


「じゃあ、聞かなくてもよかったんじゃないっすか……」


 零が小声で返す。


 その言葉を聞いたまどかが、わずかに目を細めた。


「少しは言い返せるようになったらしいな」


 零は再び黙り込んだ。


 陽菜が肩をすくめる。


『零を怖がらせないでよ』


「怖がらせてるのは私じゃなくて、昔のお前らだろ」


 その言葉に、陽菜は何も返さなかった。


 まどかはポケットへ手を入れ、陽菜を上から下まで眺める。


「お前、生きてたんだな」


『そっちもね』


「私は簡単には死なねえよ」


『知ってる』


「お前の総長は?」


 陽菜の目が、わずかに細くなる。


『知らない』


「嘘が下手だな」


『何のこと?』


「まあいい。今どこにいるかを聞きたいわけじゃねえ」


 まどかは声を少し落とした。


「お前の総長が消えた理由。少しだけ聞いたことがある」


 通りを走る車の音が、急に遠ざかったように感じた。


『……誰から聞いたの』


「昔のつながりから流れてきただけだ。私も全部は知らねえ」


『何を聞いたの』


「普通の喧嘩や、チーム同士の因縁で消えたわけじゃないってことだけだ」


 陽菜は、まどかから視線を外さなかった。


「相当、面倒な相手に目をつけられたらしいな」


『相手は誰』


「そこまでは知らねえよ」


『知ってることを全部話して』


「私が知ってるのは、本当にそれだけだ」


 まどかの声から、ふざけた響きが消える。


「嘘をつく理由もない。今さらお前らと争う気もないからな」


『だったら、どうして今その話をしたの』


「お前が、何も知らない顔をしてたからだ」


 陽菜の胸の奥がざわつく。


 まどかは一歩だけ陽菜へ近づいた。


「お前の総長が黙ってるなら、それなりの理由があるんだろ。下手に掘り返せば、また同じものに目をつけられるかもしれねえ」


『だから、深入りするなって?』


「ああ」


『まどかに心配されるとは思わなかった』


「勘違いするな。私はもうアネモネの総長じゃない。今さら昔の敵が面倒事に巻き込まれるのを見たいほど、暇でもないだけだ」


 まどかは陽菜の横を通り過ぎる。


 数歩進んだところで、振り返らずに言った。


「次に会うときは、昔の肩書き抜きで話そうぜ」


『できるの?』


「お前次第だな」


『そっちこそ』


 まどかは片手を軽く上げ、そのまま歩き去った。


 陽菜は、遠ざかっていく背中を見つめていた。


 その姿が人混みへ消えても、しばらく動けなかった。


「……陽菜さん」


 零が小さく呼ぶ。


『何?』


「大丈夫っすか?」


『うん。大丈夫だよ』


 陽菜はそう答えた。


 けれど、自分でも分かるほど声が硬かった。


「自分、今の話は誰にも言わないっす」


『……ありがとう』


「樹里さんにも、っすか?」


 陽菜は答えに迷った。


 樹里へ聞けば、また何も言わずに距離を取られるかもしれない。


 それでも、知らないままにはできなかった。


『少しだけ、考えさせて』


「分かったっす」


 零はそれ以上、何も聞かなかった。


 陽菜が話せるようになるまで、ただ隣に立っていた。


 その距離は、カフェにいたときよりも少しだけ近くなっていた。


     ◇


 その夜。


 陽菜はRoseのカウンターに座っていた。


 店にはまだ客がいない。


 美園は開店の準備をしながら、陽菜の前へ水を置いた。


『今日は飲まないの?』


『今はいい』


 陽菜の声を聞き、美園が手を止める。


『何かあった?』


『今日、まどかに会った』


 美園の表情は変わらなかった。


 だが、手にしていたグラスを置く動作が、ほんの少しだけ遅れた。


『鈴原まどか?』


『うん』


『何を話したの』


『あたしのこと。零のこと。それから……総長のこと』


 美園は黙って陽菜を見た。


『まどかが言ってた。総長が消えたのは、普通の喧嘩やチーム同士の因縁が原因じゃないって』


『……そう』


『相当面倒な相手に目をつけられたらしいって。深入りしない方がいいとも言われた』


 陽菜は、美園の目から逃げなかった。


『美園さん、知ってるでしょ』


 店内に、短い沈黙が落ちる。


 美園は否定しなかった。


『全部ではない』


『でも、まどかよりは知ってる』


『そうね』


『どうして、あたしには何も言わなかったの』


 美園はすぐには答えなかった。


『総長に止められてたから?』


『それもある』


『他には?』


『私が、陽菜には話さないと決めたから』


 陽菜の指先に力が入る。


『……どうして』


『当時の陽菜が知ったら、必ず追いかけたから』


『当たり前でしょ』


『そう。だから言えなかった』


『あたしが危ない目に遭うから?』


『それだけじゃない』


 美園は陽菜の正面へ立った。


『陽菜なら、自分が傷つくことなんて考えずに総長を連れ戻そうとした。総長が何から離れようとしているのかも、なぜ私たちの前から消えたのかも聞かずに』


『それの何が悪いの』


『総長が望んでいなかった』


 陽菜の唇が、わずかに震えた。


『あたしたちは家族じゃないの?』


『家族よ』


『だったら、どうして何も教えてくれなかったの』


『家族だからって、本人が隠している傷を勝手に開いていい理由にはならない』


 美園の声は穏やかだった。


 けれど、逃げるような曖昧さはなかった。


『陽菜が置いていかれたと感じていたことも分かってる。何も知らされないまま、4年間待つことになった。それが正しかったとは言わない』


『……美園さんは知ってたんでしょ』


『知っていたのは一部だけ。総長が生きていることも、今すぐ戻れないことも知っていた』


『それなのに、あたしが総長を捜してるのを見てたの?』


『見てた』


『止めもしないで?』


『止めても、陽菜はやめなかったから』


『……ひどいよ』


『そうね』


 美園は言い訳をしなかった。


『恨んでもいい。あのときの私には、あれ以外の方法を選べなかった』


 陽菜は俯いた。


 怒りたい。


 どうして自分だけ何も知らされなかったのかと、責めたかった。


 けれど美園の顔にも、この4年間が刻まれていることを知っていた。


 何も感じずに黙っていたわけではない。


 きっと美園も、言えないものを抱え続けてきた。


『……今なら話せる?』


 陽菜が尋ねる。


 美園は、ゆっくりと首を振った。


『私の口から話すことじゃない』


『まだ、あたしに黙ってろって言うの?』


『知らないふりをしてほしい』


『いつまで?』


『総長が、自分で話すまで』


『総長が一生話さなかったら?』


『そのときは、私が話す』


 美園は迷わず答えた。


『でも、今の総長は、昔とは違う。少しずつだけど、自分から私たちの方へ戻ろうとしてる』


 陽菜は前夜の樹里を思い出した。


 会社の仲間たちに囲まれ、困った顔をしながらも、Roseから逃げなかった樹里。


 凛にバイクを教える約束までしていた。


『無理に傷を開けば、また閉じるかもしれない』


『……分かってる』


『陽菜』


『でも、いつまでも待てるとは言えない』


 陽菜は顔を上げた。


『あたしだって、総長のそばにいたかった。4年前に何があったのかを知る権利があるとは言わない。でも、心配することまで止められたくない』


『うん』


『だから、今は聞かない。でも、総長が苦しんでるのに、また1人で何とかしようとしたら、そのときは止める』


『分かった』


『美園さんも、もう1人で抱え込まないで』


 今度は美園が言葉を失った。


『総長のことを守ろうとして、美園さんまで何も言わなくなったら、あたしはまた置いていかれる』


『……そうね』


 美園は小さく息を吐いた。


『約束する』


『うん』


『今は、知らないふりをしておいて』


 陽菜はしばらく黙っていた。


 完全に納得したわけではない。


 胸の奥には、まだ聞きたいことがいくつも残っている。


 それでも、今ここで美園を問い詰めても、樹里の口から言葉が出てくるわけではない。


『……分かった。今は知らないふりをする』


 美園は陽菜の前へ、酒ではなく温かいお茶を置いた。


『今日は、こっちにしておきな』


『子供扱いしないでよ』


『今の陽菜に酒を出したら、余計なことを考えるでしょ』


『もう考えてる』


『だったら、なおさらよ』


 陽菜は小さく息をつき、湯気の立つカップを両手で包んだ。


『ねえ、美園さん』


『何?』


『総長は、いつか話してくれると思う?』


 美園は少しだけ考えた。


『話したいとは思ってるはずよ』


『どうして分かるの』


『話したくない人間は、私たちの前に戻ってこないから』


 陽菜は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 総長が、自分で話すまで。


 それがどれだけ先になるのかは分からない。


 けれど今度は、ただ置き去りにされたまま待つのではない。


 樹里が振り返ったとき、そこにいるために待つ。


 陽菜は湯気の向こうにいる美園を見つめ、小さく頷いた。

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