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25話「混ざり始める夜」

その日の仕事を終えたところで、神谷悠真が陽菜と凛を呼び止めた。


「櫻井さん、遠藤さん。今日、このあと予定はありますか?」


 陽菜と凛が顔を見合わせる。


『あたしは特にないですけど』


「私もありません」


「それなら、よかったら3人で食事に行きませんか。近くに、定食の美味しい店があるんです」


 普段から誰とでも気さくに話す神谷だが、自分から女性社員を食事に誘うのは珍しかった。


 もっとも、その表情に特別な含みはない。


 単純に、同じ部署の仲間として誘っているようだった。


『いいですよ。行こう、凛ちゃん』


「私も一緒でいいんですか?」


「もちろんです。むしろ、遠藤さんにも来てもらわないと、僕が櫻井さんを誘ったみたいに見えるので」


『何、その言い方』


「違うんですか?」


『違うでしょ』


 陽菜が笑い、凛もつられるように頬を緩めた。


 3人は会社を出ると、神谷の案内で駅とは反対方向へ歩き始めた。


     ◇


 神谷が連れてきたのは、古くから続いている小さな定食屋だった。


 決して広くはない。


 けれど店内は清潔に保たれ、炊きたての米と焼き魚の匂いが漂っている。


「美味しい……」


 一口食べた凛が、思わず呟いた。


「でしょう? 外回りの途中で偶然見つけたんです」


『神谷くん、こういう店知ってるんだ』


「櫻井さんは、僕が普段何を食べていると思ってるんですか」


『もっと洒落た店。量が少なくて、皿だけ大きいところ』


「偏見がひどくないですか?」


「私も少し、そう思ってました」


「遠藤さんまで……」


 神谷が肩を落とし、陽菜と凛が笑う。


 仕事の話から始まった会話は、次第に休日の過ごし方や最近気になっている店の話へ移っていった。


 凛は、納車されたばかりのAxisについて嬉しそうに話した。


 神谷はバイクに詳しくないながらも、凛の話を興味深そうに聞いている。


「遠藤さんがバイクに乗るとは、少し意外でした」


「よく言われます」


『凛ちゃん、見た目より行動力あるんだよ』


「まだ近所を走っただけです。陽菜さんが言うほどではありません」


『買うまで散々迷ってたけど、最後は自分で決めたじゃん。それで十分だよ』


「……はい」


 凛は照れたように笑った。


 食事は穏やかなまま終わった。


 会計を済ませて店を出ると、神谷が少しだけ迷うような様子を見せる。


「もう少しだけ、付き合ってもらってもいいですか?」


『まだ何かあるの?』


「この近くに、落ち着いて飲める店があるんです。時間が遅くならない程度に、1杯だけどうでしょう」


「スナック、ですか?」


 凛の顔に、わずかな戸惑いが浮かぶ。


「入りにくいような店ではありませんよ。前に見つけたお店で、女性のお客さんも多いです」


『へえ。神谷くん、スナックにも行くんだ』


「意外ですか?」


『少しね』


「ママが話しやすい人なんです。仕事で疲れたときに、たまに寄っています」


『店の名前は?』


「Roseです」


 陽菜の足が止まりかけた。


「どうかしましたか?」


『……何でもないよ』


 陽菜は平静を装いながら、歩き出した神谷の背中を追った。


(よりによって、美園さんの店なんだ)


 神谷がRoseへ通っていることは知らなかった。


 美園から聞いたこともない。


 だが、美園が客の話を軽々しく他人へ漏らすはずもなかった。


「陽菜さん、知ってる店なんですか?」


 凛に尋ねられ、陽菜は一瞬だけ迷った。


『うん。少しだけね』


「そうなんですね」


『変な店じゃないから、安心していいよ』


「変な店だとは思ってません」


『顔に書いてあったよ』


「……そんなに分かりやすいですか?」


『凛ちゃんは、かなり分かりやすい』


 陽菜は笑いながら答えた。


 その一方で、胸の奥には妙な落ち着かなさがあった。


 会社の人間と一緒に、美園の店へ入る。


 自分の今と過去が、同じ場所で顔を合わせるような感覚だった。


     ◇


 スナックRose。


 神谷が扉を開けると、控えめなベルの音が店内に響いた。


「こんばんは」


 カウンターの中でグラスを拭いていた美園が、顔を上げる。


『いらっしゃい、神谷くん』


 美園の視線が、その後ろに立つ陽菜へ移る。


 ほんの一瞬だけ、目が細くなった。


 だが、美園はすぐに普段どおりの穏やかな表情へ戻る。


『今日は珍しい連れがいるのね』


「はい。会社の方です」


 神谷が店内へ入り、陽菜と凛も後に続く。


 照明は暗すぎず、カウンターの木目を柔らかく照らしていた。


 棚にはさまざまな酒瓶が並び、奥に置かれたテレビからは小さな音量でニュースが流れている。


 微かに残る煙草の匂いも、不思議と店の落ち着いた空気に馴染んでいた。


(……思ってたより、普通の店だ)


 凛は少しだけ肩の力を抜いた。


『好きな席に座って。何を飲む?』


 3人がカウンターに並ぶ。


 美園が酒の好みを聞き、それぞれの前へグラスを用意した。


 神谷が美園と陽菜を交互に見る。


「ママ、櫻井さんのことを知ってるんですか?」


 美園は手を止めなかった。


『昔からの知り合いなの。妹みたいなものよ』


「へえ、そうだったんですか」


 神谷は素直に納得している。


 陽菜はグラスを受け取りながら笑った。


『まあ、そういうことにしておいて』


「どういうことですか?」


『深い意味はないよ』


 美園が、笑いを堪えるように陽菜を見る。


『陽菜、相変わらず誤魔化すのが下手ね』


『美園さん、余計なこと言わないで』


「ずいぶん仲がいいんですね」


『昔から、放っておけない子だったのよ』


『あたし、そんなに世話をかけてないでしょ』


『どの口が言ってるの?』


 美園に見つめられ、陽菜がグラスへ口をつける。


 神谷は笑い、凛は少し驚いたように2人を見ていた。


 会社での陽菜は明るく、人との距離を縮めるのが上手い。


 だが、美園の前では少し違う。


 親しさだけではない。


 甘えと信頼が、言葉の端々に滲んでいる。


 美園が、今度は凛へ視線を向けた。


『初めて見る子ね。お名前は?』


「遠藤凛です」


『凛ちゃんね。私は中村美園。よろしく』


「よろしくお願いします、美園さん」


『そんなに緊張しなくていいよ。ここは取って食ったりしないから』


「緊張しているように見えますか?」


『少しね』


 美園が笑い、凛の前へビールを置いた。


『ビールでよかった?』


「はい。ありがとうございます」


 凛は小さく頭を下げ、グラスに口をつけた。


 そんな凛を、美園は興味深そうに見ている。


『眼鏡、似合ってるね。普段からかけてるの?』


「はい。目が悪いので」


『仕事も真面目そう』


『真面目だよ』


 陽菜が横から口を挟む。


『凛ちゃん、仕事もすごく丁寧なの。少し融通が利かなすぎるくらい』


「陽菜さん」


 凛が抗議するように陽菜を見る。


『褒めてるんだよ』


「最後の一言がなければ、そう聞こえました」


『でも、本当でしょ?』


「否定はしませんけど……」


 美園が声を立てずに笑った。


『いいじゃない。私は、そういう子は嫌いじゃないよ』


「ありがとうございます」


『彼氏は?』


「え?」


 唐突な質問に、凛の手が止まる。


「いません」


『そう。好きな人は?』


「いません」


『本当に?』


「本当です」


 凛は困ったように眼鏡の位置を直した。


 美園はその反応を眺めてから、申し訳なさそうに笑う。


『ごめんね。初対面なのに聞きすぎた』


「いえ……スナックでは、こういう話をするものなんですか?」


『人によるかな。話したくないことは、話さなくていいのよ』


「そうなんですね」


『ここでは、会社で言えないことを話す人もいるし、何も話さずに飲んで帰る人もいる。好きに過ごしてくれれば、それでいいの』


 凛は店内を見回した。


 神谷が、この店を落ち着けると言った理由が少しだけ分かった気がした。


 美園は次々と質問をするが、相手が本当に触れられたくない場所には踏み込まない。


 軽い会話の中で、どこまで近づいていいのかを見極めている。


(この人、私の顔を見ながら、全部分かってるみたい)


 凛は、美園の前で下手な嘘はつけないような気がした。


 不思議な緊張感がある。


 それなのに、居心地は悪くなかった。


     ◇


 しばらくして、店の扉が開いた。


 ベルの音に美園が顔を上げる。


『いらっしゃい』


 入ってきた樹里は、カウンターに並ぶ3人を見て足を止めた。


 神谷。


 陽菜。


 凛。


 会社で毎日のように顔を合わせている3人が、美園の店で酒を飲んでいる。


 樹里の目が、わずかに見開かれた。


『……皆さん、ここで何をしているんですか』


『たまたまですよ、日高先輩』


 陽菜が何事もないように答える。


『神谷くんに連れてきてもらったんです』


『そうですか』


 樹里が美園を見る。


 美園は、楽しそうに目を細めていた。


『日高さんも飲んでいくでしょ?』


『私は――』


『どうぞ。ここ、空いてるから』


 美園が示したのは、陽菜の隣の席だった。


 樹里は一瞬だけ迷ったが、ここで断れば余計に不自然になる。


『……では、少しだけ』


 樹里が腰を下ろすと、美園は何も聞かずにグラスを用意した。


 その手際を見て、神谷が首を傾げる。


「日高さんも、こちらのお店をご存じだったんですね」


『はい。以前から』


「すごい偶然ですね。櫻井さんもママの知り合いだったそうです」


『そうですね』


 樹里の返事は短かった。


 陽菜は笑いを堪えるようにグラスへ口をつける。


 美園は平然と酒を注いでいるが、その目は明らかに面白がっていた。


『今日は珍しい組み合わせね。神谷くんに、陽菜に、凛ちゃん。それに日高さんまで』


『本当に、たまたまです』


 樹里は念を押すように答えた。


「日高先輩も、よくこちらへ来るんですか?」


 凛が尋ねる。


『時々です』


『時々?』


 美園が小さく呟く。


 樹里が無言で美園を見る。


『何でもない』


 美園は涼しい顔でグラスを拭き始めた。


「日高先輩」


『はい』


「昨日は、バイクのことを教えてくれると言ってくださって、ありがとうございました」


「バイク?」


 神谷が反応する。


「日高さん、バイクに乗るんですか?」


『……乗ります』


「何に乗ってるんです?」


『CB1100です』


 神谷が驚いたように樹里を見る。


「大型じゃないですか。意外ですね」


『よく言われます』


「遠藤さんも、昨日バイクが納車されたと言っていましたよね」


「はい。私はAxisです」


「それで日高さんに教えてもらうんですか」


「いつか一緒に走れたらと思って」


 凛は嬉しそうに答えた。


 樹里はグラスを持ったまま、わずかに視線を逸らす。


 その横顔を見て、陽菜が小さく笑った。


『日高先輩、後輩ができてよかったですね』


『櫻井さんまで、その言い方はやめてください』


『いいじゃないですか。凛ちゃん、すごく嬉しそうですよ』


「はい。心強いです」


 凛に真っ直ぐ見つめられ、樹里は何も言えなくなる。


 美園がカウンターの中から、その様子を穏やかに眺めていた。


『日高さん、ちゃんと教えてあげなさいよ』


『美園まで言わないでくれ』


『凛ちゃんを1人で走らせる方が心配でしょ?』


『それは、そうだが……』


「無理にお願いするつもりはありません」


 凛が慌てて言う。


『遠藤さん』


「はい」


『まずはAxisに慣れてください。近所の道を落ち着いて走れるようになったら、その先を考えましょう』


「はい!」


 凛の返事は、店内に響くほど明るかった。


 神谷が笑う。


「遠藤さん、今日一番いい返事ですね」


「そんなことありません」


『そんなことあるよ、凛ちゃん』


「陽菜さんまで……」


 凛は恥ずかしそうにグラスへ口をつけた。


 樹里も、諦めたように小さく息を吐く。


 それでも、その表情はどこか柔らかかった。


     ◇


 夜が深くなるにつれ、4人の会話は少しずつ自然なものへ変わっていった。


 神谷が仕事の失敗談を話し、陽菜が笑う。


 凛が真面目に意見を返し、神谷が困った顔をする。


 美園は必要なときだけ会話へ入りながら、それぞれのグラスが空になる前に手を伸ばす。


 樹里は普段より口数が少なかったが、店を出ようとはしなかった。


 会社での関係。


 Roseでの関係。


 今の自分たちと、誰にも話していない過去。


 それらはこれまで、決して交わらないように分けられていた。


 だが今夜、その境界がほんの少しだけ曖昧になった。


 陽菜はグラスを傾けながら、隣に座る樹里を見る。


 会社では、日高先輩。


 ここで2人きりなら、総長。


 どちらも同じ樹里なのに、呼び方1つで住む世界が変わる。


 けれど、今夜の樹里は、その2つの世界の間に座っていた。


(……ちょっとずつ、混ざってきてる)


 以前なら、不安に感じたかもしれない。


 過去を隠しきれなくなることが。


 今の生活が壊れてしまうことが。


 それでも今は、悪いことばかりではないように思えた。


 凛は美園と話し、笑っている。


 神谷も、何も知らないままこの店を気に入っている。


 樹里も困った顔をしながら、その場から逃げてはいない。


(……まあ、楽しいからいいか)


 陽菜は小さく笑い、グラスに残った酒を飲み干した。


 凛も、カウンターの木目を眺めながら静かに息を吐く。


 最初は、少し怖い店だと思っていた。


 初対面なのに、自分の内側まで見透かしてきそうな美園。


 いつもと違う表情を見せる陽菜。


 大型バイクに乗り、この店へ通っている樹里。


 知らなかった一面ばかりだった。


 けれど、不思議と居心地は悪くない。


(変な店。でも……また来たいかも)


 凛は顔を上げる。


「美園さん」


『何?』


「今度は、柚希ちゃんも連れてきていいですか?」


『もちろん。いつでも連れておいで』


「ありがとうございます」


 美園が微笑む。


 その笑顔を見て、凛もようやく緊張のない笑みを返した。


     ◇


 店を出たあと、陽菜は駅へ向かいながらスマートフォンを取り出した。


 今日の夜を過ごしたことで、ふと思い浮かんだ顔があった。


 ガソリンスタンドでは少し話せるようになった。


 それでも、まだ陽菜を前にすると身体を固くしてしまう相手。


 陽菜は立ち止まり、零へ短いメッセージを送った。


 ――今度、あたしとご飯に行かない?


 返事は、すぐには来なかった。


 突然の誘いに驚いているのだろう。


 陽菜が再び歩き出したところで、スマートフォンが震える。


 ――自分でよければ、ぜひっす。


 その下には、何度も打ち直したのか、妙に丁寧なお辞儀の絵文字が添えられていた。


 陽菜は思わず笑う。


 過去と今が交わることは、まだ少し怖い。


 けれど、交わらなければ取り戻せないものもある。


 今夜、混ざり始めたものが何につながるのか。


 陽菜にも、まだ分からなかった。

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