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24話「初めての相棒」

休日の午前。


 中古バイク店の軒先で、凛は1台のスクーターを前に立ち尽くしていた。


 排気量は125cc。


 サイドに刻まれた車名は、Axis。


 大きな車体ではない。速さを競うためのものでも、誰かに見せつけるためのものでもない。


 それでも凛にとっては、何度も写真を眺め、値段と走行距離を比べ、悩み抜いた末に選んだ初めてのバイクだった。


「……本当に買っちゃった」


 納車されたばかりのAxisを見つめながら、凛が呟く。


「昨日からそれ、何回言った?」


 隣に立つ柚希が笑った。


「だって、まだ実感がないんだもん。私のだよ? これ」


「鍵も書類も凛ちゃんが持ってるんだから、間違いなく凛ちゃんのでしょ」


「そうなんだけど……」


 凛は鍵を握り締めたまま、恐る恐るシートへ触れた。


 店員からは、すでに一通りの説明を受けている。


 エンジンのかけ方。


 給油口の開け方。


 日常点検で確認する箇所。


 中古車だからこそ気をつけるべき消耗品の状態。


 そのすべてを聞き逃すまいと、凛は何度も頷いていた。


 しかし、いざ店員が離れ、自分だけでAxisと向き合うと、急に心細くなる。


「ねえ、柚希ちゃん」


「何?」


「最初って、どこまで乗ればいいと思う?」


「目的地も決めずに買ったの?」


「決めてたよ。でも、いざとなったら緊張してきて……」


「それなら、予定どおり零ちゃんのところに行けばいいじゃん。ガソリンも入れなきゃいけないんでしょ?」


「うん……」


 凛はヘルメットをかぶると、顎紐を締めた。


 グローブをはめ、ハンドルに手を置く。


 見慣れないミラーの中に、緊張で強張った自分の目が映っていた。


「凛ちゃん」


 柚希が声をかける。


「怖かったら、今日は押して帰ってもいいんだからね」


「それはもっと恥ずかしいよ」


「恥ずかしいかどうかじゃなくて、安全かどうかで決めなよ」


「……分かってる」


 凛は一度、深く息を吸った。


 そして鍵を回し、エンジンを始動させる。


 小さな車体が、低い振動とともに目を覚ました。


 その振動がハンドルから腕へ伝わり、胸の奥まで届く。


 凛の表情が、少しずつほどけていった。


「……動いた」


「そりゃ動くでしょ。バイクなんだから」


「そういうことじゃないの!」


 緊張と興奮の入り交じった声に、柚希が笑う。


「私は歩いて先に向かうから、焦らず来なよ。追いつこうとしなくていいからね」


「歩いてる柚希ちゃんに追いつかない方が問題じゃない?」


「そういう意味じゃない」


「分かってるよ」


 凛はもう一度、深く息を吐いた。


 ゆっくりとAxisを発進させる。


 最初の曲がり角では、身体ごと固まっていた。


 信号で停まるたびに、何度も足元を確認した。


 後ろから車が近づけば、必要以上に緊張した。


 それでも凛は、急がなかった。


 教わったことを1つずつ思い出しながら、自分の力で道を進んだ。


 風がヘルメットの横を流れていく。


 いつも見ている街が、ほんの少しだけ違って見えた。


 怖い。


 けれど、それ以上に嬉しい。


 自分で選び、自分で手に入れ、自分の手で走らせている。


 それだけのことが、凛にはたまらなく誇らしかった。


     ◇


 零の働くガソリンスタンドへ到着した頃には、先に着いていた柚希が敷地の端で待っていた。


 給油機のそばにいた零が、凛の姿に気づいて大きく手を振る。


「凛さん、こっちっす!」


 凛は誘導された場所へ、慎重にAxisを停めた。


 エンジンを切った瞬間、全身から一気に力が抜ける。


「つ、着いた……」


「お疲れさまっす」


 零が笑顔で迎える。


「初めてにしては、ちゃんと落ち着いてたっすよ」


「見てたの、零ちゃん?」


「最後のところだけっす。交差点から入ってくるところ、ずっと肩に力が入ってたっすけど」


「やっぱり分かる?」


「分かるっすよ。私も最初はそうだったんで」


 零は凛のAxisの周りを一周し、車体へ目を走らせた。


「うん。やっぱりこれにして正解だったと思うっす。足もちゃんと届いてますし、凛さんには扱いやすそうっす」


「零ちゃんに相談してよかった」


「私は候補を見ただけっす。最後に決めたのは凛さんでしょ」


「でも、1人だったら、見た目だけで選んでたかもしれない」


「見た目も大事っすよ。気に入ってないと、乗りたくならないっすから」


 零はそう言いながら、給油機の操作方法を説明した。


 凛は店員から聞いたばかりの内容を思い出しながら、慎重に給油口を開ける。


「これで合ってる?」


「合ってるっす。ノズルは奥まで入れすぎないでください。勢いも最初は弱めでいいっすよ」


「うん」


「給油が終わったら、キャップを閉めたか必ず確認してくださいね。焦って出発しないことっす」


「うん」


「それと、バイクから離れるときは鍵を――」


「零ちゃん」


 柚希が横から口を挟んだ。


「お母さんみたいになってるよ」


「なってないっすよ!」


「なってる。店を出る前の店員さんと同じくらい説明してる」


「心配なんだから仕方ないじゃないっすか」


 零は少し頬を膨らませた。


「凛さんは真面目だから、気をつけすぎて逆に周りが見えなくなりそうっすし」


「……否定できない」


「凛さんまで納得しないでほしいっす」


 3人の間に笑い声が広がる。


 給油を終えた凛が、キャップを確かめてから鍵を抜いた。


 そのときだった。


 柚希が、敷地の隅へ目を向ける。


「ねえ、あのバイク、すごくない?」


 屋根の下に、1台の大型バイクが停められていた。


 艶を抑えた黒い車体。


 存在感のある燃料タンク。


 剥き出しになった大きなエンジンと、重厚な車体。


 サイドには、CB1100の文字が刻まれている。


 凛のAxisと比べるまでもなく大きい。


 派手な装飾はない。


 それでも、長い時間を走ってきたものだけが持つ迫力を放っていた。


「大きい……」


 凛も思わず見入った。


「これ、零ちゃんの?」


「違うっす。これは樹里さんの――」


 そこまで言って、零の声が止まった。


 柚希が瞬きをする。


 凛も零の顔を見た。


「……樹里さん?」


「いや、その……」


 零の視線が宙を泳ぐ。


「もしかして、島川不動産の日高先輩?」


 凛に尋ねられ、零の身体が目に見えて固まった。


「えっと……同じ名前の別人かもしれないっす」


「零ちゃん、今、自信がなくなったよね」


「なってないっすよ」


「目が泳いでる」


 柚希の指摘に、零は慌てて顔を背けた。


「日高先輩って、バイクに乗るんだ……」


 凛は黒いCB1100を、あらためて見つめた。


 会社にいる樹里からは想像できない姿だった。


 落ち着いた制服。


 控えめな化粧。


 丁寧な話し方。


 仕事は正確で、困っている人がいれば黙って手を貸す。


 そんな樹里が、この大きなバイクに跨っている。


「……格好いい」


 凛の口から、素直な感想がこぼれた。


「乗ってるところ、見てみたいな」


「凛さん」


 零が恐る恐る声をかける。


「今の話、樹里さんには……」


「聞いたら駄目なの?」


「駄目というか、駄目じゃないというか……」


「どっち?」


「できれば、私から聞いたとは言わないでほしいっす」


「どうして?」


「それは……」


 零は答えに詰まった。


 その様子を見ていた柚希が、静かに口を開く。


「凛ちゃん」


「何?」


「たぶん、聞かない方がいいことだよ」


「でも――」


「零ちゃんが困ってる」


 そう言われ、凛は零の表情を見た。


 明らかに焦っている。


「……分かった」


 凛は頷いた。


「日高先輩には言わない」


「ありがとうっす。本当にありがとうっす、凛さん」


 零は胸を撫で下ろした。


 けれど柚希は、凛の横顔を見ながら小さく息をつく。


「凛ちゃん、その顔は絶対に聞く顔だよ」


「聞かないよ」


「気になって仕方ないって書いてある」


「書いてない」


「書いてあるよ。顔中に」


「大丈夫。ちゃんと約束は守るから」


 凛はそう答えた。


 少なくとも、そのときは本気だった。


     ◇


 翌朝。


 島川不動産の営業部で、樹里はいつもどおりパソコンへ向かっていた。


 始業前の事務所では、それぞれが書類を整え、その日の予定を確認している。


 凛も自分の席で仕事の準備をしていた。


 しかし、時折、樹里へ視線を向けている。


 昨日見た、黒いCB1100。


 その車体に跨る樹里の姿を、どうしても想像してしまう。


 視線に気づいた樹里が顔を上げた。


『何か用ですか、遠藤さん』


「いえ、何でもありません」


『そうですか』


 樹里は再び画面へ視線を戻した。


 凛も手元の書類へ目を落とす。


 しかし、数秒後にはまた樹里を見ていた。


『……やはり何かありますよね』


「ありません」


『では、なぜこちらを見ているんですか』


「見てません」


『目が合いましたが』


「偶然です」


 近くで聞いていた陽菜が、パソコンの陰から凛を見た。


『凛ちゃん、朝から変だよ』


「陽菜さんまで……本当に何でもありません」


 凛は慌てて書類を整えた。


 聞かないと約束した。


 だから、聞いてはいけない。


 そう思えば思うほど、疑問は膨らんでいく。


 樹里はどんな格好で乗るのだろう。


 どれくらい前から乗っているのだろう。


 自分と同じように、最初は小さなバイクから始めたのだろうか。


「あの、日高先輩」


 気づけば、凛は口を開いていた。


『はい』


「日高先輩って、バイクに乗るんですか?」


 樹里の指が止まった。


 キーボードを打つ音が、そこで途切れる。


 陽菜も、ゆっくりと凛へ顔を向けた。


『……なぜ、そう思ったんですか』


「いえ、なんとなくです」


『なんとなくで、私にバイクの話を?』


「昨日、私のAxisが納車されまして」


『それは聞きました』


「それで、バイクを見ていたら、日高先輩も似合いそうだなと思って……」


 樹里は凛を見つめた。


 凛は笑顔を作っている。


 だが、明らかに何かを知っている顔だった。


『誰から聞きました』


「聞いてません」


『遠藤さん』


「……零ちゃんです」


 あまりにも早い白状だった。


 陽菜が口元を手で覆い、樹里から顔を逸らす。


『櫻井さん』


『ごめんなさい。まだ笑ってませんよ、日高先輩』


『“まだ”とは何ですか』


『何でもないです』


 樹里は小さく息を吐くと、凛へ向き直った。


『どこまで聞きましたか』


「日高先輩のCB1100を見ただけです。零ちゃんが、日高先輩のものだって……途中まで言いました」


『途中まで』


「そのあと、同じ名前の別人かもしれないと言ってました」


『……そうですか』


「日高先輩」


『はい』


「本当に、あのCB1100に乗ってるんですか?」


 凛の目は、純粋な好奇心で輝いていた。


 疑っているわけでも、過去を探ろうとしているわけでもない。


 ただ、自分より先を走っている人間として、樹里を見ていた。


『……乗っています』


「やっぱり!」


 凛の顔が一気に明るくなる。


「すごく格好いいバイクでした。私のAxisとは大きさが全然違って、近くで見るだけでも迫力があって」


『そうですか』


「日高先輩は、いつから乗ってるんですか?」


『かなり前からです』


「最初から大型だったんですか?」


『違います』


「今度、乗り方を教えてもらえませんか?」


『それは――』


「凛ちゃん」


 陽菜が助け舟を出す。


『日高先輩も困ってるから、質問はそのくらいにした方がいいよ』


「あ……すみません。嬉しくなってしまって」


 凛は申し訳なさそうに頭を下げた。


「でも、日高先輩もバイクに乗るって知って、少し安心しました」


『安心?』


「私、周りにバイクのことを相談できる人があまりいなかったので。零ちゃんは詳しいですけど、日高先輩にも聞けると思ったら心強くて」


 樹里は何も答えられなかった。


 凛の言葉には、裏も悪意もない。


 隠し続けてきた過去の扉を開こうとしているわけでもない。


 ただ、同じものを好きな先輩を見つけて喜んでいるだけだった。


「それでは、仕事の邪魔をしてすみませんでした」


 凛はもう一度頭を下げ、自分の席へ戻った。


 樹里はしばらく動かなかった。


 やがて、隣から陽菜の声が飛んでくる。


『よかったですね。後輩ができて』


『何もよくありません』


『バイクに乗ってることくらい、隠さなくてもいいじゃないですか』


『そこだけで終わればいいですが』


『凛ちゃんは、日高先輩が思ってるほど人の過去を探ったりしませんよ』


『……そういう問題ではありません』


 樹里は額へ手を当てた。


『今夜、零をRoseに呼びます』


『怒るんですか?』


『話をするだけです』


 声は穏やかだった。


 しかし陽菜には、それが怒っているときの樹里の言い方だと分かっていた。


     ◇


 その夜。


 Roseのカウンター前で、零は背筋を伸ばして立っていた。


 正面の椅子には樹里が座り、その隣には陽菜がいる。


 カウンターの中では、美園がいつもどおりグラスを磨いていた。


『零』


「はい」


『どうして遠藤さんに私のことを話した』


「……申し訳ないっす」


『謝る前に、理由を聞いている』


「凛さんが総長のCB1100を見て、格好いいって言ったもんで……つい」


『“つい”で話すな』


「はい」


『私は会社で過去を隠している。それは知っているな』


「はい」


『私がバイクに乗ること自体は問題ではない。ただ、零とのつながりを辿られれば、そこから別のことまで知られる可能性がある』


「そこまでは何も話してないっす。本当に、CB1100が総長のものだと言いかけただけっす」


『言いかけた時点で十分だ』


「……はい」


 零は肩を落とした。


 しばらく黙って聞いていた陽菜が、樹里の袖を軽く引く。


『総長、そのくらいでいいんじゃない?』


『まだ話は終わっていない』


『でも、凛ちゃんは総長がバイクに乗ってるって知っただけだよ。元ヤンだったなんて思ってないって』


『零は隠し事に向いていない』


「それは……否定できないっす」


『そこは否定しなさいよ』


 美園が呆れた声を出した。


「でも、自分が否定しても説得力がないっす」


『自覚があるなら気をつけろ』


「はい。本当にすみませんっす」


 零が深く頭を下げる。


 美園は磨いていたグラスを置き、樹里を見る。


『総長も、少し考えすぎじゃない?』


『美園まで何だ』


『バイクに乗っていることと、昔のことは別でしょ。凛ちゃんが興味を持ったからって、すぐに全部知られるわけじゃない』


『可能性の話をしている』


『それなら、隠そうとしすぎる方が不自然よ』


 樹里は黙り込んだ。


『普通に答えればいいのよ。昔からバイクが好きで、今も乗っている。それだけでしょ』


『それだけではない』


『凛ちゃんにとっては、それだけよ』


 美園の言葉に、樹里は視線を落とした。


 自分がCB1100に乗っていると知られたとき、凛の目に浮かんでいたもの。


 恐怖でも、軽蔑でもない。


 憧れに近い、真っ直ぐな輝きだった。


『総長』


 陽菜が柔らかい声で呼ぶ。


『凛ちゃん、嬉しそうだったでしょ』


『……ああ』


『だったら、今度少しくらい教えてあげればいいじゃん』


『簡単に言うな』


『総長なら教えられるよ。昔、私たちにも散々言ってたじゃん。怖いなら無理に速度を出すな、自分で扱える範囲を知れって』


『陽菜』


『何?』


『余計なことを思い出すな』


『大事なことだよ』


 陽菜が笑う。


 美園も、わずかに口元を緩めた。


 そのとき、カウンターの上に置いていた樹里のスマートフォンが震えた。


 画面には、凛からのメッセージが表示されている。


『何?』


 陽菜が横から覗き込む。


『勝手に見るな』


『もう見えたよ』


 メッセージには、こう書かれていた。


 ――今日は急に質問して、すみませんでした。


 続けて、もう1件。


 ――迷惑でなければ、今度バイクのことを教えてください。


 さらに数秒後。


 ――いつか一緒に走れたら嬉しいです。


 樹里は画面を見つめたまま、動かなかった。


 陽菜が隣で笑みを浮かべる。


『後輩ができたね、総長』


『まだ何も決まっていない』


『断るの?』


『……考える』


『それ、総長が断らないときの言い方じゃん』


『陽菜』


『はいはい。分かったよ』


 陽菜は楽しそうにグラスへ手を伸ばした。


 零も安堵したように息を吐く。


「じゃあ、自分は許してもらえたってことで……」


『零はまだ反省しろ』


「はい……」


 美園が声を立てずに笑った。


 樹里はもう一度、凛から届いたメッセージへ目を落とす。


 バイクに乗ることは、樹里にとって単なる趣味ではなかった。


 風の匂いも。


 エンジンの振動も。


 夜の道路を照らすヘッドライトも。


 すべてが、隠してきた過去へつながっている。


 それでも凛は、樹里の過去ではなく、これから一緒に走れる未来を見ていた。


 樹里はしばらく迷った末、短い返事を打ち込んだ。


 ――まずは、Axisに慣れてからです。


 送信すると、ほとんど間を置かずに返信が届く。


 ――はい! よろしくお願いします、日高先輩!


 画面いっぱいに並んだ感嘆符を見て、樹里は小さく息をついた。


 けれど、その表情はほんの少しだけ柔らかかった。

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