23話「反省会」
その夜。
店の看板を裏返したあとも、Roseのカウンターには3つのグラスが残っていた。
樹里はいつもの席に腰を下ろし、陽菜はその隣でカウンターに突っ伏している。
美園はグラスを磨きながら、時折、鏡越しに2人の様子を見ていた。
『……疲れた』
陽菜が頬をつけたまま呟く。
『当たり前だ。あれだけ勝手に動けば疲れる』
『総長にだけは言われたくないよ。校長先生、途中から顔が引きつってたじゃん』
『後ろめたいことがあるからだ』
『それでもだよ。あんなふうに詰められたら、私でも泣くと思う』
『陽菜は泣く前に噛みつく』
『噛みつかないよ』
陽菜が顔だけを樹里へ向ける。
『……たぶん』
『自信がないのか』
美園が小さく息を漏らした。
笑ったのだと気づき、陽菜が身体を起こす。
『美園さんも笑ってる場合じゃないからね』
『何が?』
『あの声』
『どの声よ』
『“人の話を聞けって言ってんだよ”って言ったときの声。私まで背筋が伸びたんだから』
『……忘れて』
『無理だよ。部屋の空気が一瞬で凍ったもん』
『陽菜と総長が好き勝手に動いて、最後に全部こっちへ回してきたからでしょ』
『私たちのせいなの?』
『他に誰がいるのよ』
美園は磨き終えたグラスを置き、代わりに自分のグラスを手に取った。
けれど、すぐには口をつけなかった。
『それで? 反省会をするんじゃなかったの?』
その言葉で、ささやかな笑いが止まる。
陽菜はカウンターへ視線を落とした。
『……私、やりすぎたよね』
『ああ』
樹里は即答した。
『少しくらい迷ってよ』
『迷った上で言っている。あの生徒たちに直接近づいたのは、やりすぎだ』
『うん』
陽菜は言い訳をしなかった。
『あの子たちが口裏を合わせてるのは分かった。誰が最初に嘘をついて、誰がそれに乗ったのかも、なんとなく見えた。だから……崩せると思った』
『実際、崩れた』
美園が静かに言う。
『でも、崩せたことと、やり方が正しかったことは別よ』
『……そうだね』
陽菜の指先が、グラスについた水滴をなぞった。
『あのときは、あの子たちが高村さんの息子さんを傷つけたことしか見えてなかった。怖がらせても、本当のことを言わせればいいって思ってた』
その声には、昼間の鋭さはなかった。
『でも、それじゃあ……私も、怖がらせて言うことを聞かせようとしただけだよね』
『同じではない』
樹里が言った。
陽菜が顔を上げる。
『同じではない。陽菜は誰かを楽しんで傷つけたわけじゃない。守ろうとした。そこまで同じに考える必要はない』
『総長……』
『ただ、守るためなら何をしてもいいという話でもない。次からは、私か学校の人間を必ずそばにつけろ。1人で先走るな』
『……はい』
『返事だけで終わらせるなよ』
『本当に反省してるもん』
『なら、次は気をつけろ』
『うん』
陽菜は静かに頷いた。
それを見届けてから、美園が樹里へ視線を移す。
『それで、総長は?』
『私?』
『陽菜だけ反省させて終わりじゃないでしょ』
『……分かっている』
樹里は腕を組み、背もたれに身体を預けた。
『私も喋りすぎた』
『珍しく自覚があるのね』
『余計なことを言うな』
樹里は美園を見たものの、すぐに視線を落とした。
『学校を動かすことばかり考えていた。高村さんが言うべきことまで、私が先に言いかけた』
高村が自分の声で、息子の苦しみを訴えたときの姿が脳裏に浮かぶ。
震えていた。
言葉にも何度か詰まっていた。
それでも、彼は最後まで自分で話した。
『私が全部言えば早い。向こうを黙らせるのも、責任を認めさせるのも、その方が簡単だと思った』
『総長は昔からそうだよね』
陽菜が呟く。
『誰かが傷ついてると、自分が前に立って、全部受け止めようとする』
『悪いか』
『悪くはないよ。でも、総長が前に立ちすぎると、その人が自分で立つ場所まで隠しちゃうことがある』
樹里は何も返せなかった。
陽菜の言葉は、思いのほか深く刺さった。
『高村さんは、あの場で自分の言葉を出せた』
美園が続ける。
『あれは総長が学校を黙らせたからじゃない。高村さん自身が、息子のために言わなければならないと思ったからよ』
『……ああ』
『総長がするべきだったのは、代わりに戦うことじゃない。あの人が話している間、誰にも遮らせないことだった』
美園の言葉に、樹里はゆっくりと頷いた。
『次は気をつける』
『次なんてない方がいいんだけどね』
『そうだな』
樹里はグラスを持ち上げたが、口をつけずに美園を見る。
『美園もだ』
『私も?』
『あの言い方は怖すぎる』
『総長にだけは言われたくない』
『私もそう思う』
『陽菜はどちらの味方だ』
『今は美園さん』
陽菜が即答すると、美園は呆れたように息をついた。
『……確かに、言葉は悪かったわ』
『認めた』
『でも、あのままじゃ誰も子供たちの話を聞かなかったでしょ。親同士で責任を押しつけ合って、当人たちは置き去り。見ていられなかったのよ』
『分かってるよ』
陽菜の声が柔らかくなる。
『美園さんが止めてくれたから、あの子たちは自分の言葉で話せたんだと思う』
『それでもよ』
美園は自分のグラスへ目を落とした。
『私がああいう声を出せば、大抵の人間は黙る。でも、黙った理由が“話を聞こうと思ったから”なのか、“私が怖かったから”なのかは、分からない』
樹里も陽菜も、口を挟まなかった。
『場を静かにすることと、相手を支配することは違う。そこを間違えたら、私も同じよ』
美園はそう言って、ようやくグラスに口をつけた。
しばらく、3人の間に沈黙が流れた。
重苦しいものではなかった。
自分たちのしたことを肯定するためでも、責め合うためでもない。
次に同じような誰かと出会ったとき、今度はもっと正しく手を差し伸べるための時間だった。
『……でもさ』
陽菜が、ぽつりと言った。
『ちょっとだけ、嬉しかった』
『何がだ』
『3人で、同じ方向を向けたこと』
樹里が眉を上げる。
『楽しかったって意味じゃないよ。息子さんが苦しんでるのに、そんなことは思ってない』
『分かっている』
『ただ……また3人で、誰かのために動けたことが、少しだけ嬉しかった』
美園は何も言わず、目元をわずかに緩めた。
樹里は照れを隠すようにグラスを傾ける。
『陽菜は昔から、そういうことを恥ずかしげもなく言うな』
『いいじゃん。本当のことなんだから』
『聞いている方が恥ずかしくなる』
『総長、顔が赤いよ』
『酒のせいだ』
『まだほとんど飲んでないじゃん』
『うるさい』
陽菜が笑う。
その笑い声につられ、美園も小さく笑った。
『それにしても、美園さんのあの声、本当に久しぶりに聞いたなあ』
『まだ言うの?』
『だって、前に私が怒られたときと同じだったから』
『陽菜が余計なことをしたからでしょ』
『あれは良かれと思って――』
『言い訳しない』
『……はい』
反射的に背筋を伸ばした陽菜を見て、樹里が吹き出した。
『身体が覚えているじゃないか』
『総長だって、美園さんが本気で怒ったら黙るでしょ』
『黙らない』
『嘘。目を逸らすじゃん』
『逸らしていない』
『今、逸らしたよ』
『陽菜』
『何?』
『少し静かにしろ』
『ほら、そうやって誤魔化す』
『2人とも、店の中で騒がない』
『はい』
『……分かった』
今度は樹里まで返事をした。
陽菜が堪えきれずに笑い、美園も肩を揺らす。
ひとしきり笑ったあと、陽菜はグラスを持ち上げた。
『じゃあ、一件落着ってことで』
『違う』
樹里と美園の声が重なった。
陽菜は目を瞬かせる。
『……息ぴったりだね』
『学校がいじめを認めただけだ』
樹里は静かに言った。
『息子さんの傷が消えたわけじゃない。明日から急に教室へ戻れるわけでもない』
『学校が約束した対応を続けるかも、見ていかないとね』
美園が続ける。
『そっか』
陽菜は持ち上げていたグラスを一度下ろした。
『じゃあ、何に乾杯する?』
『別にしなくていい』
『せっかく3人いるんだから、したい』
『子供か』
『いいから考えてよ、総長』
陽菜に急かされ、樹里はしばらく黙り込んだ。
やがて、自分のグラスを持ち上げる。
『……最初の1歩に』
陽菜の表情が柔らかくなる。
美園も無言でグラスを掲げた。
『息子さんが、これから自分の足で歩けるように』
『今度は、誰にも邪魔されないようにね』
3つのグラスが、静かに触れ合った。
高らかな音ではなかった。
それでもその音は、誰もいない店内に長く残った。
◇
数日後。
島川不動産の営業部で書類を整理していた樹里のもとへ、高村がやってきた。
「日高さん、今、少しよろしいですか」
『はい』
樹里は手を止め、椅子ごと高村へ向き直った。
高村は両手で封筒を持っていた。
「学校から、今後の対応について書面が届きました」
加害行為をした生徒たちとの接触を避けること。
担任だけでなく、学年主任と養護教諭が情報を共有すること。
本人が望む場合は、相談室や保健室から登校を始められること。
定期的に学校側から家庭へ連絡し、状況を報告すること。
すべて、先日の話し合いで求めた内容だった。
『息子さんは、読みましたか』
「はい」
高村は封筒を見つめ、ゆっくりと頷いた。
「最初に聞かれました。“学校は、僕の話を信じたの”と」
樹里の胸の奥が、わずかに痛んだ。
その問いを口にするまでに、彼は何度、自分の受けた苦しみを疑われてきたのだろう。
「信じたんだよ、と答えました。お前は悪くなかった。学校も、それを認めたんだと」
『……それで?』
「しばらく何も言いませんでした」
高村は一度、言葉を止めた。
「でも、そのあと……泣きました」
息子の前では気丈に振る舞ったのだろう。
だが、今の高村の声も、かすかに震えていた。
「声を出さずに、ずっと泣いていました。私は隣にいることしかできなくて……」
『それでいいんです』
「何も言ってやれませんでした」
『言葉が必要なときばかりではありません。逃げずに隣にいた。それで十分です』
高村は唇を引き結び、何度か頷いた。
「息子が、言ったんです」
『何を?』
「いきなり教室へ行くのは、まだ怖い。でも、放課後なら……誰もいない時間なら、相談室へ行ってみてもいいって」
樹里は静かに息を吐いた。
『そうですか』
「こんなに時間がかかってしまっても、いいんでしょうか」
『時間を決めるのは、周りではありません』
樹里ははっきりと言った。
『教室に戻ることだけが、学校へ戻ることではない。相談室でも、保健室でも、校門の前まででもいい。どこまで行くかは、息子さんが自分で決めればいいんです』
「でも、他の子たちは普通に――」
そこまで聞いて、樹里は言葉を返しかけた。
しかし、口を開く直前で止まる。
あの夜の反省会を思い出した。
自分が正しいと思う答えを、先に押しつけてはいけない。
樹里は声を少しだけ和らげた。
『……高村さんは、どう思っていますか』
「私、ですか」
『はい。息子さんが相談室から始めたいと言ったことを、どう思いましたか』
高村は戸惑いながら、しばらく考えた。
「私は……嬉しかったです」
やがて、自分の言葉を探すように答えた。
「教室へ戻れなくてもいい。あの子が自分から“行ってみる”と言ってくれたことが、嬉しかったです」
『なら、その気持ちを伝えてあげてください』
「……はい」
『それと、焦らなくていいとも』
「はい」
高村の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ありがとうございます、日高さん」
『私は何もしていません』
「そんなことは――」
『学校に話したのは高村さんです。行ってみると決めたのは息子さんです。私は、横にいただけですよ』
それは謙遜ではなかった。
今度こそ樹里は、心からそう思っていた。
誰かを無理やり立たせることはできない。
代わりに歩くこともできない。
できるのは、その人が自分で立ち上がろうとしたとき、足元を塞ぐものを退けることだけだ。
「それでも」
高村は深く頭を下げた。
「横にいてくれて、本当にありがとうございました」
樹里は返事をせず、照れを隠すように書類へ目を落とした。
高村が自分の席へ戻ったあと、斜め前から視線を感じる。
顔を上げると、陽菜がこちらを見ていた。
『聞いていたのか』
『聞こえただけだよ』
『仕事をしろ』
『してるよ』
陽菜は小さく笑った。
『よかったね』
『まだ始まったばかりだ』
『うん』
陽菜は素直に頷き、パソコンの画面へ向き直る。
『でも、最初の1歩は踏み出せた』
『……ああ』
それで十分だった。
傷が消えたわけではない。
奪われた日々が戻るわけでもない。
それでも少年は、自分の足で次に立つ場所を選んだ。
誰かに引きずられたのではなく。
誰かに決められたのでもなく。
自分の意思で、ほんの少しだけ前へ進もうとしている。
それはまだ、誰の目にも見えないほど小さな1歩だった。
けれど樹里たちにとっては、どんな勝利よりも確かな1歩だった。




