エピローグ「新しい生命」
一年後。
島川不動産の営業部に、赤ん坊の泣き声が響いた。
電話を取ろうとしていた社員が手を止める。
書類へ目を落としていた者も、一斉に入口を振り返った。
『お久しぶりです』
陽菜が、赤ん坊を抱いて立っていた。
髪は以前よりも少し短くなっている。
ゆったりとした服の上からでも、出産前より身体が細くなったことが分かった。
だが、その表情は明るい。
陽菜の隣には、大きな鞄を肩に掛けた中井がいる。
「ご無沙汰しています」
「陽菜先輩!」
最初に席を立ったのは萌だった。
勢いよく近づこうとして、陽菜の腕の中にいる赤ん坊を見て足を緩める。
「ちっちゃい……」
『赤ちゃんだからね』
「それは分かっています」
陸も萌の後ろから覗き込んだ。
「陽菜先輩、本当にお久しぶりです」
『陸も元気そうじゃん』
「はい。陽菜先輩が戻ってきても困らないくらいには、仕事を覚えました」
『あたしが戻ったら困るの?』
「そういう意味ではありません」
「陸くん、言い方が悪い」
「萌さんも似たようなことを昨日言ってたよね」
「私は言ってない」
「言ってたよ」
二人が言い合う姿を見て、陽菜は懐かしそうに笑った。
『相変わらず仲いいね』
「仲がいいわけではありません」
「何で萌さんが先に否定するの?」
「陸くんが変なことを言うからでしょ」
営業部のあちこちから笑いが起こった。
陽菜の腕の中で、赤ん坊がその声に反応する。
大きな瞳がゆっくりと動き、見慣れない場所を見回した。
そこで、樹里が席を立った。
その動きは、普段と変わらず落ち着いている。
しかし、机の引き出しから除菌シートを取り出し、両手を拭きながら近づいてくる姿を見て、陽菜が呆れた顔をした。
『総長、来てすぐそれ?』
『外から来たばかりだろう』
『あたしじゃなくて、この子を触るためでしょ』
『当然だ』
『朝、家に来たときも消毒してたじゃん』
周囲がざわつく。
「日高さん、今朝も行かれたんですか?」
神谷が尋ねると、樹里は表情を変えずに答えた。
『様子を確認しただけです』
『朝の六時半にね』
「早いですね」
『中井さんの出勤前に、必要なものがないか確認しました』
「昨日も来てくださいました」
中井が付け加える。
『中井くん、余計なこと言わなくていいよ』
「ですが、事実ですから」
「一昨日も日高さんは定時で帰っていましたね」
佐藤まで口を挟んだ。
『一昨日も来たよ』
「三日連続ですか」
神谷が樹里を見る。
樹里は僅かに眉を寄せた。
『行ってはいけませんか?』
「いいえ。ただ、想像していた以上でした」
『何がですか』
「樹里さんが、赤ちゃんに夢中になる姿です」
神谷の口から出た名前に、周囲の視線が二人へ集まる。
樹里が無言で神谷を見た。
「あ……」
神谷も自分の失言に気づいたらしい。
黒澤が離れた席から笑い声を上げた。
「一年経っても、その辺りは相変わらずだな」
「黒澤総務部長。今のは忘れてください」
「無理だ。営業部長が職場で恋人の名前を呼んだんだからな」
「声が大きいです」
「結婚式の前から全員知っていたようなものだ。今さら隠しても仕方ないだろ」
『仕事中です』
樹里の低い声で、神谷と黒澤がそろって黙った。
陽菜は肩を揺らして笑っている。
『総長、顔赤いよ』
『赤くない』
『この子にも見てもらおうか?』
『話を逸らすな』
『総長が勝手に逸れただけじゃん』
陽菜は笑いながら、腕の中の赤ん坊を樹里へ近づけた。
『抱く?』
『そのつもりで来た』
『仕事中じゃなかったの?』
『今は休憩時間だ』
まだ休憩開始の時刻まで三分ほど残っている。
それを指摘できる者はいなかった。
樹里はもう一度両手が清潔であることを確かめ、陽菜の前へ立つ。
『頭を支えろ』
『もう首は据わってるよ』
『それでも支えた方が安全だ』
『はいはい』
『返事は一度でいい』
『総長、力入りすぎ』
『落とすよりいい』
『落とさないって』
陽菜から赤ん坊を受け取る。
樹里の腕は、不自然なほど固まっていた。
慣れていないわけではない。
生まれてから何度も抱いている。
それでも、腕の中にある小さな身体を傷つけることが怖くて、毎回同じように緊張する。
赤ん坊は樹里の顔を見上げた。
瞬きを繰り返したあと、小さな手を伸ばす。
その指が、樹里の頬に触れた。
『……どうした』
普段よりもずっと柔らかな声だった。
『まだ喋れないよ』
『分かっている』
『総長、会社でそんな声出せるんだね』
『陽菜』
『怒ると、この子が泣くよ』
樹里が黙る。
腕の中の赤ん坊は泣くどころか、樹里の頬を何度も触っている。
やがて、その手が樹里の髪を掴んだ。
『痛い』
『気に入られたんじゃない?』
樹里は赤ん坊を見下ろした。
『離してください』
もちろん、手は離れない。
『敬語使ってる』
陽菜が吹き出す。
彩花も席から立ち、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「日高が誰かに髪を引っ張られて、何もできないなんて初めて見た」
『彩花。見ていないで外してくれ』
「嫌よ。もう少し見ていたい」
『写真を撮るな』
「まだ撮ってない」
『スマートフォンを構えているだろう』
「森下さん、あとで送ってください」
神谷が言った。
『悠真さん』
「申し訳ありません」
謝りながらも、神谷は笑っている。
高村が赤ん坊の手をそっと開き、樹里の髪を解放した。
「元気な証拠ですね」
『頭皮ごと取られるかと思いました』
『そんなに力ないよ』
陽菜が樹里へ手を伸ばす。
だが、樹里は赤ん坊を渡そうとしなかった。
『もう少し私が抱いている』
『仕事は?』
『休憩時間だと言っただろう』
『まだ一分あるけど』
『細かいことを気にするな』
『総長がそれ言う?』
赤ん坊を抱いたまま答える樹里に、再び笑いが起こった。
陽菜は営業部を見回す。
自分が使っていた席には、別の社員が座っている。
机の配置も少し変わった。
神谷が営業部長となり、樹里は特別案件統括担当として複数の案件を同時に見ている。
陸と萌は、もう陽菜の指示を待っているだけの後輩ではない。
陽菜がいない間も、会社は動き続けていた。
置いていかれたとは思わなかった。
自分が帰るために、同じ場所で止まっていてほしいとも思わない。
変わっていく場所へ、自分もまた変わって戻ればいい。
「櫻井さん」
神谷が声を掛けた。
「復帰時期については、まだ急いで決めなくて構いませんから」
『ありがとうございます』
「戻られるときは、改めて相談しましょう」
『はい。でも、みんなの顔を見たら、早く戻りたくなりました』
「その気持ちだけで十分です」
『あたしの戻る場所、残ってますよね?』
「もちろんです」
神谷が答えるより早く、樹里が口を開いた。
『戻る場所はあります。ただし、保育先や勤務時間を先に調整してください』
『分かってる』
『熱がある場合は無理に出勤しないこと。睡眠が取れていない日も――』
『総長』
『何だ』
『あたしの上司? お母さん?』
『上司だ』
『じゃあ、この子を返して』
『それとこれは別だ』
赤ん坊を腕に抱いたまま答える樹里に、また笑いが起こった。
休憩時間に入ると、一同は会議室へ移動した。
陽菜が会社へ来ることを聞きつけた美園たちも、昼休みに合わせて顔を出した。
扉が開き、美園が中へ入ってくる。
その後ろには、飲み物を持った佐藤がいた。
『来たよ』
『美園さん』
樹里の腕に抱かれた赤ん坊を見た途端、美園の顔が緩んだ。
『また総長が抱いてるの?』
『問題があるか』
『陽菜に返してあげなよ』
『陽菜は毎日抱いている』
『そういう問題じゃないでしょ』
『美園さん、言ってやって。全然返してくれないの』
『総長』
『あと少しだ』
『昨日もそう言って、一時間抱いてたよね』
樹里は聞こえなかったように赤ん坊へ視線を落とした。
美園は呆れながらも、その隣へ座る。
佐藤は美園の前へ飲み物を置いた。
「温かいものにしました」
『ありがとう、佐藤くん』
「熱いので気をつけてください」
『うん』
美園が佐藤へ向ける表情は、一年前よりも穏やかだった。
さらに、柚希と零が現れる。
「お邪魔します」
「失礼します」
『柚希ちゃん、零』
「陽菜さん、久しぶり」
「お久しぶりっす」
続いて、凛と青柳も姿を見せた。
「陽菜さん、お久しぶりです」
『凛ちゃん。青柳さんも』
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
『会社に来ただけだから、そんなにかしこまらなくていいよ』
「青柳さん、朝から服を選んでいました」
「凛さん。それは言わない約束ではありませんでしたか?」
「すみません。でも、楽しみにしていたのは私だけではないと伝えたくて」
「それでしたら、否定はしません」
青柳は凛へ目を向け、柔らかく笑った。
会議室の中央では、樹里が赤ん坊を抱き続けている。
柚希が近づこうとすると、樹里は僅かに身体の向きを変えた。
「日高さん、見せてください」
『見るだけにしてください』
「抱かせてもらうのは駄目ですか?」
『先に手を洗ってください』
「洗ってきました」
『体調に問題はありませんか』
「ありません」
『今朝の体温は』
「測っていません」
『では、念のため――』
『総長』
陽菜が低い声で呼ぶ。
樹里は口を閉じた。
『このままだと誰にも抱いてもらえないでしょ』
『大勢に抱かせる必要はない』
『この子、総長の子じゃないからね』
『分かっている』
『本当に?』
『当然だ』
答えながらも、赤ん坊を抱く腕には力が入っている。
美園が横から赤ん坊の頬へ触れた。
『総長、そろそろ私に渡して』
『なぜだ』
『腕が疲れてるでしょ』
『疲れていない』
『さっきから右腕を動かしてないよ』
『安全のためだ』
『いいから』
美園が手を差し出す。
樹里はしばらく迷った末、慎重に赤ん坊を預けた。
『頭を――』
『首は据わってる』
『背中も支えろ』
『分かってる』
『急に立つな』
『総長より抱き方は慣れてるから』
美園の腕へ移った赤ん坊は、安心したように身体を預けた。
『可愛いね』
美園が顔を近づける。
赤ん坊はその声を聞き、口元を緩めた。
『笑った』
『私のときは笑わなかった』
『総長、張り合わないの』
『張り合っていない』
『顔に出てるよ』
陽菜は二人の姿を見ながら、出産前のことを思い出していた。
名前をどうするか。
中井と二人で候補を挙げても、なかなか決められなかった頃。
陽菜はRoseで、樹里と美園を前に一つの名前を口にした。
『美樹ってどうかな』
美園の美。
樹里の樹。
二人から一文字ずつをもらった名前だった。
陽菜は、二人なら喜んでくれると思っていた。
だが、美園は少しも笑わなかった。
『駄目』
『何で?』
『その子は、私と総長の子どもじゃない』
『分かってるよ。でも、二人はあたしの家族だから――』
『それでも駄目』
美園は陽菜をまっすぐ見つめた。
『大切に思ってくれるのは嬉しいよ。でも、その子は陽菜と中井くんの子どもでしょ』
『うん』
『私たち三人をつなぎ留めるための名前にしないで』
『そんなつもりじゃない』
『分かってる。でも、名前はその子が一生持っていくものだから』
樹里は何も言わなかった。
反対も賛成もしない。
陽菜と美園の話を、黙って聞いていた。
『違う名前を考えなさい』
『美園さんの字、入れたかったのに』
『入れなくていい』
『寂しくない?』
『私が名前に入らなくても、その子のそばにはいられるでしょ』
美園は笑った。
『名前に入れてもらわないと家族になれないほど、私たちは弱くないよ』
陽菜はすぐには納得できなかった。
その夜、自宅へ戻ってからも考え続けた。
紙にいくつもの名前を書く。
中井も隣に座り、陽菜が書いた文字を一つずつ見ていた。
陽菜はしばらくペンを動かしたあと、新たな二文字を書いた。
『じゃあ、これは?』
中井は、紙に書かれた名前をじっと見つめた。
「いい名前だと思います」
『本当に?』
「はい」
『中井くんの字、入ってないけど』
「名前に俺の字がなくても、この子が俺たちの子どもであることは変わりません」
中井は、紙に並んだ二文字を指でなぞった。
「しっかりと根を張って、自分の力で芽吹いていけるような名前に見えます」
『強い子になってほしい』
「はい」
『でも、一人で何でも背負う子にはなってほしくない』
「それは本人にも伝えておきましょう」
『生まれてすぐ説教するの?』
「日高さんより先に言わないと、何を教えられるか分かりませんから」
『それはあるね』
二人で笑った。
翌日、陽菜は同じ紙をRoseへ持っていった。
『今度は、これにしようと思う』
美園は、紙に書かれた二文字へ目を落とした。
何度か心の中で読んだあと、穏やかに笑う。
『うん。いいと思う』
『今度は反対しない?』
『しないよ』
『美園さんの字は入ってないけど』
『だからいいの』
『何で?』
『私は、その子に名前じゃないものを残すから』
『何を?』
『それは、これから考える』
美園は陽菜のお腹へ手を当てた。
『名前に入っていなくても、総長と陽菜と、その子のそばにいる。それで十分だよ』
樹里は、しばらく紙を見つめていた。
陽菜の書いた二文字が、いつか生まれてくる子どもの人生についていく。
その意味を考えるように、長く黙っている。
『悪くない』
『総長、嬉しいんでしょ』
『名前は中井さんと二人で決めろ』
『中井くんは賛成してる』
『そうか』
『この名前でいい?』
樹里は、すぐには答えなかった。
紙の上の二文字から、陽菜のお腹へ視線を移す。
そこにいる小さな命が、いつかこの名前を持ち、自分の足で生きていく。
やがて樹里は、僅かに目を細めた。
『……好きにしろ』
結局、樹里はそれしか言わなかった。
だが、出産後、誰より早く病院へ駆けつけた。
保育用品を調べ、必要なものを買いそろえ、頼まれてもいないのに自宅の危険箇所を確認した。
赤ん坊が泣けば病気ではないかと疑い、眠れば息をしているか確認する。
陽菜よりも、中井よりも、時には美園よりも心配していた。
そして一年後の今も、その過保護ぶりは変わっていない。
『美園。首元が冷えている』
『大丈夫だよ』
『念のため、これを使え』
樹里は自分の鞄から、小さなブランケットを取り出した。
『何で会社に赤ちゃん用のブランケット持ってきてるの?』
『必要になると思った』
『紙おむつも入ってる?』
『三枚ある』
『着替えは?』
『一組』
『哺乳瓶は?』
『衛生上、私が持つものではない』
『線引きが分かんないよ』
会議室に笑い声が広がる。
中井が飲み物を配り終え、陽菜の隣へ戻ってきた。
『中井くん、ありがとう』
「どういたしまして」
柚希が二人を見た。
「陽菜さん」
『何?』
「結婚して一年経つのに、今も中井くんって呼ぶんだね」
凛も頷く。
「陽菜さんも中井姓になったんですよね?」
『そうだよ』
「でしたら、ご主人を中井くんと呼ぶと、どちらのことか分からなくなるときはありませんか?」
『ないよ』
「家の中で中井くんって呼んだら、陽菜さんも振り返ることになるっすね」
零が言うと、陽菜は笑った。
『振り返らないよ』
「でも、同じ名字ですよね」
柚希が不思議そうに首を傾げる。
陽菜は隣にいる中井を見た。
夫になった。
子どもの父親になった。
住む場所も、家族の形も変わった。
それでも、陽菜が初めて好意を向けられたときから、隣にいる人は変わらない。
『中井くんは中井くんだから』
陽菜が笑って答える。
中井も、同じように笑った。
「俺も、陽菜さんは陽菜さんです」
「そこも変わってないんですね」
柚希が笑う。
『変えなくていいものまで変える必要ないでしょ』
「確かにそうですね」
凛が頷いた。
美園の腕の中で、赤ん坊が小さな声を出した。
その声だけで、全員の視線が集まる。
「俺にも抱かせてもらえますか?」
佐藤が尋ねる。
『もちろん』
美園が赤ん坊を渡そうとすると、樹里が立ち上がった。
『佐藤さん。腕時計を外してください』
「はい」
『胸元のペンも危険です』
「分かりました」
『座ったまま受け取ってください』
「日高さん」
神谷が樹里の肩へ手を置いた。
「少し落ち着いてください」
『私は落ち着いています』
「皆さんも気をつけていますから」
『万が一があります』
『総長』
陽菜が呼ぶ。
『この子は、これからいろんな人に抱かれて生きていくんだよ』
『だから何だ』
『総長一人で、全部から守るのは無理』
『分かっている』
『本当に?』
樹里は口を閉じた。
赤ん坊を見つめる。
傷つくこともある。
転ぶことも、泣くこともある。
間違った道へ進みそうになる日も、誰かに裏切られる日もあるかもしれない。
そのすべてを先回りして防ぐことはできない。
かつての樹里は、陽菜に対してそれをしようとした。
自分がいなくなれば守れると考え、陽菜の未来を勝手に決めた。
今は、同じ間違いをしたくなかった。
『……分かっている』
樹里はもう一度答えた。
今度は先ほどよりも、少しだけ静かな声だった。
『でも、守れるときは守る』
『それはいいよ』
『困ったときは、必ず私へ連絡しろ』
『中井くんがいるから』
『中井さんがいてもだ』
「俺からも連絡します」
『中井くん、総長を甘やかさないで』
「ですが、頼れる人が多い方が安心です」
『もう』
陽菜は呆れながらも笑っていた。
美園が佐藤へ赤ん坊を預ける。
佐藤は緊張した顔で、小さな身体を抱き締めた。
「軽いですね」
『生まれたときより、ずっと重くなってるよ』
「そうなんですか」
『佐藤くん、顔が固い』
「緊張しています」
『大丈夫。ちゃんと抱けてるよ』
美園が隣から佐藤の腕を支える。
二人は同じものを見つめ、同じように笑っていた。
自分たちに子どもがいなくても、二人で作れる幸せがある。
誰かの子どもの成長を、隣で見守ることもできる。
美園はもう、佐藤の未来を一人で決めない。
佐藤も、美園が怖くなったときに手を離さない。
赤ん坊は佐藤の腕の中で、小さな欠伸をした。
「眠そうです」
『たくさん人がいるから、疲れたのかも』
陽菜が受け取ろうと近づく。
だが、その前に樹里がブランケットを広げた。
『帰った方がいい』
『まだ来て一時間も経ってないよ』
『疲れているなら休ませろ』
『総長がずっと抱いてたからでしょ』
『私の腕の中では眠りかけていた』
『美園さんの腕でも寝てたよ』
『それは関係ない』
美園が笑う。
『総長、本当にこの子のことになると余裕なくなるね』
『何の話だ』
『私たちが子どもの頃にも、これくらい素直だったらよかったのに』
『余計なことを言うな』
『陽菜には随分前からばれてるよ』
『何が?』
『総長が、誰より私たちのことを大切にしてたこと』
樹里は答えなかった。
陽菜が佐藤から赤ん坊を受け取る。
その小さな身体を胸へ抱き、背中を優しく叩いた。
赤ん坊は陽菜の服を握り、安心したように目を閉じる。
中井が二人を包むように立った。
その周りには、樹里と美園がいる。
神谷と佐藤がいる。
島川不動産の仲間たちがいる。
凛、柚希、零、青柳もいる。
一年前、結婚式で陽菜が語った未来が、そこにあった。
三人だけで生きていた時間は、もう終わっている。
だが、三人のつながりが終わったわけではない。
一人増え、二人増え、守りたいものが増えていくたびに、三人の世界も広がっていった。
赤ん坊が、ゆっくりと目を開けた。
陽菜を見上げたあと、周囲に集まる人々へ視線を動かす。
「そういえば」
凛が、その顔を覗き込みながら言った。
「どうせなら皆さんに、名前を教えてあげたらどうですか?」
陽菜は腕の中にいる娘を見つめた。
中井が隣で微笑んでいる。
美園も、樹里も、その名前が呼ばれるのを待っていた。
陽菜は顔を上げ、集まった全員へ笑いかけた。
『この子の名前は……樹菜』




