最終話「特攻服を脱いだあとで」
会場の扉が開かれた。
陽菜と中井は、つないだ手を離さないまま歩き始めた。
二人を包む拍手は、入場したときよりも大きく、温かい。
陽菜は一歩進むたびに、左右の席へ目を向けた。
中井の両親と弟。
佳菜。
黒澤や神谷をはじめとする島川不動産の人たち。
陽菜が仕事を教えてきた陸と萌。
彩花や高村。
青柳と凛。
柚希と零。
佐藤。
そして、美園と樹里。
泣いている人がいた。
笑っている人もいた。
目が合うたびに、陽菜は笑った。
途中で歩幅が少しだけ狭くなると、中井も何も言わずに速度を落とす。
引っ張らない。
先にも行かない。
陽菜の隣で、同じ歩幅を選ぶ。
今日、何度も言葉にしたことを、中井はもう歩き方で示していた。
女性たちの席の前を通ったとき、美園が泣きながら手を振った。
陽菜も手を振り返す。
その隣では、樹里が立っていた。
目元には、まだ涙の跡が残っている。
それでも姿勢を崩さず、まっすぐに陽菜を見ていた。
『総長』
音楽と拍手に紛れ、声が届いたかは分からない。
だが、樹里の唇が動いた。
『おめでとう』
今度は、はっきりと分かった。
陽菜は笑いながら、何度も頷いた。
中井と二人で扉を抜ける。
背後で再び大きな拍手が起こり、ゆっくりと扉が閉じていった。
会場の外へ出た途端、陽菜は大きく息を吐いた。
『緊張した……』
「大丈夫ですか?」
『うん。でも、足がちょっと疲れた』
「こちらへ座りましょう」
『中井くん』
「はい」
『心配するのはいいけど、慌てないで』
「……すみません」
『謝らなくていいよ』
陽菜は中井の腕に手を添えた。
『一緒に座ろ』
「はい」
二人は廊下に用意された椅子へ並んで腰を下ろした。
中井はドレスの裾を踏まないように整え、陽菜の顔色を確かめる。
『大丈夫だって』
「分かっています。ただ、少し疲れているように見えたので」
『疲れてはいる。でも、幸せ』
「俺もです」
『中井くん、今日ずっと泣いてたよね』
「陽菜さんほどではありません」
『あたしは妊婦だから仕方ないの』
「それは関係あるんですか?」
『あることにして』
「分かりました」
二人は顔を見合わせて笑った。
中井が陽菜の頬へ手を添える。
「陽菜さん」
『何?』
「結婚してくれて、ありがとうございます」
『今さら?』
「今だから言いたくなりました」
『じゃあ、あたしも』
陽菜は中井の手に、自分の手を重ねた。
『あたしを選んでくれて、ありがとう』
「これからも選びます」
『あたしも選ぶよ。何回でも』
二人の額が触れる。
誰もいない廊下で、短く唇を重ねた。
やがて会場の扉が開き、披露宴を終えた人々が出てきた。
陽菜と中井は身支度を整え、出口で一人ずつ見送った。
中井の父は息子の肩を叩き、母は陽菜の手を両手で包んだ。
「無理だけはしないでね。何かあったら、いつでも頼ってちょうだい」
『ありがとうございます』
「母さんは今からでも毎日行きそうだから、遠慮なく断ってください」
中井の弟が言うと、母親がその腕を叩く。
「あなたは余計なことを言わないの」
「ほら、こうなるから」
陽菜が笑い、中井も困ったように笑った。
その後ろに、佳菜が立っていた。
控室で見たときよりも、少しだけ穏やかな顔をしている。
「陽菜」
『うん』
「今日は、呼んでくれてありがとう」
『こっちこそ、来てくれてありがと』
「……ちゃんと連絡するから」
『何を?』
「何でもいいでしょ。式の写真ができたときでも、その前でも」
『途中で分かんなくなって、やめないでよ』
「陽菜も返事してよ」
『するよ、たぶん』
「たぶんって何よ」
言い合いながら、二人とも僅かに笑っていた。
失われた時間が、今日だけですべて埋まるわけではない。
昔のような姉妹に戻ることもない。
そもそも二人には、戻れるほど近かった時期がなかった。
だから、これから作ればいい。
一度目の手伝いが、今日のベールだった。
次は、一通の連絡かもしれない。
その次は、顔を合わせて食事をすることかもしれない。
佳菜は陽菜の身体を気遣うように、力を込めずに抱き締めた。
「おめでとう、陽菜」
『……ありがとう、お姉ちゃん』
佳菜の腕が、一瞬だけ強くなる。
すぐに離れた二人は、それ以上何も言わなかった。
だが、今度はどちらも目を逸らさなかった。
佳菜を見送ったあと、彩花が小さな封筒を差し出した。
「櫻井さん、これ」
『何?』
「家に帰ってから読んで」
『今じゃ駄目?』
「駄目。目の前で読まれると恥ずかしいから」
『彩花さんでも、そういうことあるんだ』
「あるわよ。私を何だと思ってるの」
陽菜は封筒を受け取り、大切に鞄へ入れた。
『ありがとう。ちゃんと読む』
「返事はいらないから」
『じゃあ、感想を直接言う』
「それが一番いらない」
彩花はそう言いながら、陽菜の肩へそっと手を置いた。
「戻ってきたら、また一緒に働きましょう」
『うん』
「焦らなくていいから」
『……うん。待ってて』
「待ってる」
その隣で、高村も微笑んでいた。
「体調はいかがですか?」
『ちょっと疲れましたけど、大丈夫です』
「今夜は式のことを振り返るより、先に休んでくださいね」
『中井くんと同じこと言ってる』
「大切なことですから」
「高村さんからも言っていただけると助かります」
『二人で組まないでよ』
陽菜が頬を膨らませると、高村は小さく笑った。
「また会社でお待ちしています。ただし、戻る時期は身体と相談して決めてください」
『分かりました』
続いて、受付を終えた陸と萌が大きな紙袋や余った案内を抱えてやってきた。
「陽菜先輩、これ、どこへ運べばいいですか?」
『もうスタッフさんに任せていいよ。二人とも今日はありがと』
「最後までが受付の仕事です」
萌が答える横で、陸が彼女の持っている紙袋へ手を伸ばした。
「萌さん、それ、俺が持つよ」
「こっちは軽いから平気」
「軽い方を渡そうとしないで」
「気づいた?」
「気づくよ」
二人のやり取りを見て、陽菜が笑う。
『何か、いい感じじゃん』
「違います!」
萌がすぐに否定した。
陸は少し遅れてから、顔を赤くする。
「陽菜先輩、今日はそういう日だからって、何でも結びつけないでください」
『あたし、まだ何も言ってないけど』
「いい感じって言いました」
『言ったね』
陽菜が楽しそうに笑う横で、中井も口元を緩めていた。
『陸、萌。二人に任せられてよかった』
その一言で、二人の表情が変わる。
照れながらも、誇らしそうに頷いた。
「おめでとうございます、陽菜先輩」
「お幸せに」
『ありがとう』
二人は結局、荷物を分け合って会場を出ていった。
その後ろ姿の距離は、来たときよりも少しだけ近かった。
柚希と零は、合わせた色の衣装のまま並んでいた。
「陽菜さん、本当に綺麗だった」
『柚希ちゃんも零も可愛かったよ。二人で合わせてきたんでしょ?』
「うん。零ちゃんがなかなか決められなかったから、一緒に選んだの」
「柚希ちゃんの方が、途中から本気になってたっす」
「だって、せっかく一緒に出るんだから」
柚希が零の腕へ自分の腕を絡める。
零は少し照れながらも、離れようとはしなかった。
『零』
「何すか?」
『今日は来てくれてありがと』
「当然っす。陽菜さんと中井さんの式なんで」
『幸せになりなよ』
「……陽菜さんに言われなくても、そのつもりっす」
以前なら、零はそう答えられなかったかもしれない。
誰かの顔色をうかがい、自分の望みを口にすることを怖がっていた。
今は柚希の隣で、自分の意思として未来を語っている。
「じゃあね、陽菜さん。また連絡する」
『うん。柚希ちゃん、零をよろしく』
「任せて」
「自分のことは自分で決めるっすよ」
「じゃあ、二人で決めようね」
柚希に笑いかけられ、零は敵わないというように息を吐いた。
二人は腕を組んだまま歩いていった。
凛と青柳も、並んで陽菜たちの前へ来た。
「陽菜さん、本日は本当におめでとうございます」
『ありがとう、凛ちゃん』
「とても素敵なお式でした」
青柳は凛へ一度目を向けてから、中井に向き直った。
「中井さん。これからもお二人で、今日と同じように歩いていってください」
「ありがとうございます」
『青柳さん、今日ずっと凛ちゃんのこと見てたでしょ』
「否定はしません。見ずにいる方が難しかったので」
「青柳さん」
凛が恥ずかしそうに名前を呼ぶ。
「本当のことです」
「そういうことを、皆さんの前で言わないでください」
「では、二人きりのときに改めてお伝えします」
青柳は最後まで落ち着いていたが、凛の頬は赤くなっていた。
『凛ちゃんも幸せそうでよかった』
「……はい」
凛は青柳を見上げ、静かに笑った。
「私も、そう思います」
黒澤は、最後まで部下たちと話してから二人の前へ来た。
「いい式だったな」
『黒澤部長、泣いてました?』
「泣いていない」
「乾杯の前から目が赤かったですよ」
中井が言うと、黒澤は顔をしかめた。
「神谷の隣にいたせいで、そう見えただけだ。あいつは朝から泣いていたからな」
少し離れたところで神谷が反応する。
「黒澤部長。その話はもういいでしょう」
「よくない。新しい営業部長が部下の結婚式で一番先に泣いたという事実は、後世まで残すべきだ」
「残さなくて結構です」
周囲に笑いが起きる。
黒澤も笑ったあと、中井と陽菜を順に見た。
「困ったときは、一人で抱えるな。家でも会社でも同じだ。周りにいる人間を使え」
『はい』
「中井。櫻井さんを支えろ。ただし、支えているつもりで身動きを取れなくするなよ」
「はい。気をつけます」
「それから櫻井さん」
『何ですか?』
「休んでいる間に営業部が回りすぎても、怒るなよ」
『それはちょっと複雑です』
「安心しろ。戻る場所は残しておく。仕事は残さないがな」
『……ありがとうございます』
黒澤は二人の肩を順に叩き、満足そうに会場をあとにした。
すべての客を見送り終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
会場に残っているのは、陽菜と中井、樹里、美園、神谷、佐藤だけだった。
中井は係の者と荷物を確認し、神谷と佐藤も少し離れた場所で待っている。
陽菜は、樹里の手に折り畳まれた紙があることに気づいた。
『総長、それ』
『何だ』
『原稿』
樹里は自分の手元を見る。
結局、最初の数行しか読まなかった原稿だった。
『もう必要ない』
『じゃあ、ちょうだい』
『なぜだ』
『欲しいから』
『読んでいない部分まで入っている』
『だから欲しいの』
『捨てるつもりだった』
『駄目』
陽菜が手を差し出す。
『総長が何週間も悩んで書いたやつでしょ』
『内容は、今日話したことと違う』
『分かってる。綺麗にまとめすぎて、あたしのことなのに他人みたいに書いてるんでしょ』
樹里が黙る。
美園が隣で小さく笑った。
『陽菜、よく分かったね』
『総長だから』
『どういう意味だ』
『そのままの意味』
陽菜は樹里の手から原稿を抜き取った。
樹里は抵抗しなかった。
最初の一枚には、何度も書き直した跡が残っている。
整った文章の間に、消された言葉があった。
家族。
大切な人。
妹のような存在。
救われた。
どれも書きかけで止まり、別の無難な表現へ置き換えられていた。
『これも総長の言葉じゃん』
『読まなくていい』
『家で全部読む』
『やめろ』
『中井くんにも見せる』
『それはやめろ』
『じゃあ、あたしだけで読む』
陽菜は原稿を胸元へ抱えた。
『今日言ってくれたことも、言えなくて消したことも、どっちも貰う』
樹里はしばらく陽菜を見つめ、やがて諦めたように息を吐いた。
『好きにしろ』
『うん。好きにする』
三人は顔を見合わせた。
陽菜のウェディングドレスも、樹里と美園の衣装も、背中まで布で覆われている。
かつて三人が背負ったものは、今日、誰の目にも触れなかった。
『三人とも、見えなかったね』
陽菜が言った。
美園は、自分の背中へ僅かに手を回す。
『そうだね』
『見せるものではない』
樹里が淡々と答えた。
『でも、なくなったわけじゃない』
陽菜の言葉に、樹里が目を向ける。
『あたし、特攻服を脱いだとき、全部終わったと思ってた』
誰より速く走ることも。
三人の名前を背負うことも。
同じ場所へ集まり、同じ敵を見ていた日々も。
あの服を脱いだ瞬間に、すべて過去になったと思っていた。
『終わったものもある』
樹里が答える。
『うん。チームは終わった』
陽菜は頷いた。
『でも、三人は残った』
『残ったんじゃなくて、何度も選び直したんじゃない?』
美園が穏やかに言った。
離れた時間があった。
話せないことがあった。
傷つけ合ったことも、互いのためだと思い込んで突き放したこともあった。
それでも、三人はそのたびに戻った。
昔の形へ戻ったのではない。
変わってしまった互いを見て、それでも隣にいることを選び直した。
『そうかもしれない』
樹里が認めた。
陽菜は笑う。
『今は、三人だけじゃないしね』
『増えたね』
美園が佐藤を見る。
佐藤は少し離れた場所で待ちながら、美園へ微笑み返した。
陽菜は中井を見る。
中井は荷物を受け取り、陽菜の上着を持ってこちらへ戻ってくるところだった。
樹里の視線の先には、神谷がいる。
急かさず、ただ樹里が来るのを待っていた。
『総長も増えたね』
『うるさい人間が増えただけだ』
『その割に嬉しそう』
『見間違いだ』
『今日、あんなに泣いた人が言っても説得力ないよ』
『陽菜』
『何?』
『原稿を返せ』
『絶対に嫌』
美園が声を上げて笑った。
その笑いにつられ、陽菜も笑う。
樹里だけは不満そうな顔をしていたが、二人から原稿を取り返そうとはしなかった。
佐藤が美園のもとへ歩いてきた。
「美園さん。そろそろ帰りましょうか」
『うん』
「疲れていませんか?」
『少しだけ。でも、今日は最後までいたいって決めてたから』
「では、帰ったらゆっくり休んでください」
『佐藤くんもね』
佐藤が手を差し出す。
美園はその手を見てから、迷わず自分の手を重ねた。
以前の美園なら、佐藤の未来を考えるふりをして、その手を離していた。
今は、怖さも迷いも隠さず、二人で選ぶためにつないでいる。
『陽菜、おめでとう』
『ありがとう、美園さん』
『中井くんと、ちゃんと話すんだよ』
『美園さんもね』
『分かってる』
美園は樹里へ目を向けた。
『総長。またRoseで』
『ああ』
佐藤と美園が、手をつないで歩きだす。
美園は一度だけ振り返り、陽菜と樹里へ笑いかけた。
陽菜が大きく手を振る。
樹里も僅かに手を上げた。
中井が陽菜の肩へ上着を掛ける。
「冷えてきました」
『ありがと』
「体調は本当に大丈夫ですか?」
『大丈夫。ちょっと座りたいけど』
「車を近くまで回してきます」
『一緒に行く』
「ですが――」
『中井くん』
「……はい」
『一人で全部やらない』
中井は一瞬黙ったあと、表情を緩めた。
「分かりました。一緒に行きましょう」
『うん』
陽菜は中井の腕へ身体を預けた。
守られるだけではない。
寄りかかることも、支えることも、その日のどちらが苦しいかを伝えることも、これから二人で覚えていく。
神谷が樹里の前へ来た。
「日高さん。お疲れさまでした」
まだ会場の係が近くにいる。
神谷はいつもどおりの呼び方をした。
『神谷さんも、お疲れさまでした』
「送ります」
『一人で帰れます』
「知っています。それでも送らせてください」
樹里は一度だけ神谷を見つめた。
『では、お願いします』
会場を出て、人の姿がなくなったところで、樹里は足を止めた。
手には、披露宴の途中で神谷から借りたハンカチがある。
『悠真さん』
「はい」
『これを』
樹里が差し出すと、神谷は受け取らずに笑った。
「今日は持っていてください」
『洗って返します』
「では、次に会う理由にします」
『会社で毎日会うでしょう』
「仕事以外で会う理由です」
樹里は何も言わなかった。
代わりに、差し出していた手を少し下げる。
神谷の指先が、その手に触れた。
樹里は僅かに迷ってから、自分の指を絡める。
「樹里さん」
『何ですか』
「一緒に帰りましょう」
『はい』
二人が並んで歩き始める。
神谷が樹里に合わせて歩幅を少し狭くした。
樹里も、それに気づいて自分の歩幅を調整する。
どちらかが一方に合わせ続けるのではない。
互いに迷いながら、少しずつ近づけていく。
陽菜と中井が待つ場所へ向かう途中で、樹里は一度だけ後ろを振り返った。
佐藤と美園は、もう遠くまで歩いている。
美園の横には佐藤がいた。
隣では、神谷が樹里の手を握っている。
前では、中井に上着を掛けられた陽菜が、こちらを待っていた。
『総長、遅い!』
『走らせるな。お前は妊娠中だろう』
『走ってないよ。待ってるだけ』
『なら黙って待て』
『今日くらい優しくしてよ』
『十分した』
『どこが?』
『スピーチをした』
『あれは優しさじゃなくて、号泣』
『陽菜』
陽菜が笑う。
隣で中井も笑っていた。
神谷は声を立てずに笑い、樹里は不満そうに眉を寄せる。
少し離れた場所では、美園も振り返っていた。
声は届かなくても、何を話しているのか分かっているように笑っている。
『またRoseで』
陽菜が言った。
美園が遠くから手を振る。
『いつでも』
樹里が陽菜を見る。
『体調がいい日にしろ。時間も先に連絡しろ』
『分かってるって』
『酒は飲むな』
『分かってる』
『長居もするな』
『総長、今からそんなこと言ってたら、生まれたあと大変だよ』
『必要なことを言っているだけだ』
『はいはい』
『返事は一度でいい』
『お母さんみたい』
『誰がお母さんだ』
陽菜は声を上げて笑った。
笑いながら、中井の腕を取る。
樹里は神谷と歩く。
美園は佐藤と帰っていく。
三人が向かう場所は、それぞれ違っていた。
もう、同じ特攻服を着ることはない。
同じ名を背負い、同じ道だけを走ることもない。
陽菜には、中井と生まれてくる子どもがいる。
美園には、未来を一緒に選ぶ佐藤がいる。
樹里には、歩幅を合わせようとする神谷がいる。
仕事がある。
仲間がいる。
後輩がいる。
失った家族と、これから作り直していく家族がいる。
帰る場所は、一つでなくていい。
大切な人が増えたからといって、昔からのつながりが薄れるわけでもない。
三人の背中には、今日も消えないものがあった。
衣装の下に隠れ、誰の目にも見えなくても、それは確かに残っている。
傷も。
名前も。
共に走った時間も。
ただ、それだけが三人のすべてではなくなった。
終わったのではない。
置き去りにしたのでもない。
あの日々を背負ったまま、それぞれの幸福へ歩き始めただけだった。
陽菜がもう一度振り返る。
樹里がいる。
美園がいる。
二人も、陽菜を見ていた。
三人は笑った。
かつてのように同じ場所へ集まるためではない。
それぞれの隣にいる人と、次の場所へ進むために。
特攻服を脱いだあとで。
三人はもう、同じ道を走る必要はなかった。
違う道の先から、何度でも互いの隣へ戻れると知っていたから。




