327話「これからを選ぶ」
陽菜は、マイクを両手で持っていた。
原稿はない。
話す内容を、細かく決めてもいなかった。
今日まで支えてくれた人へ、最後に自分から礼を伝えたい。
そう思い、中井と相談して加えた時間だった。
会場を見渡す。
自分たちのために集まった人たちがいる。
中井の両親と弟。
佳菜。
美園と樹里。
島川不動産の仲間たち。
昔の自分を知る者。
今の自分しか知らない者。
その全員が、陽菜の言葉を待っていた。
『今日は、あたしたちのために来てくれて、本当にありがとうございます』
陽菜は、ゆっくりと頭を下げた。
中井が、すぐ隣で見守っている。
『こういう場所で何を話せばいいのか、昨日まで考えてました』
一度、顔を上げる。
『でも、原稿は作ってません』
陽菜が樹里を見る。
『作っても読まない人がいるって、さっき分かったので』
会場に、柔らかな笑いが起こった。
樹里が目元を拭いながら、陽菜を睨む。
『私を見ながら言うな』
『総長のことだもん』
もう一度、笑いが広がる。
樹里も言い返しながら、僅かに口元を緩めていた。
陽菜は、マイクを握り直す。
『だから、今思ってることを、そのまま話します』
会場が静かになる。
陽菜は、最初に自分の腹部へ手を添えた。
その手の下で、子どもが僅かに動く。
『あたしは、十六歳のときに、両親を亡くしました』
陽菜の声から、笑みが消える。
『急に二人ともいなくなって、何をすればいいのか分かりませんでした』
会場のどこにもいない二人を探すように、ゆっくりと視線を動かす。
『悲しいって言うのも、寂しいって言うのも嫌でした。そう言ったら、本当に一人になったことを認めるみたいだったから』
中井は何も言わず、陽菜のそばに立っている。
『今日、お父さんとお母さんに、あたしのドレスを見てほしかったです』
陽菜の目に、涙が浮かぶ。
『中井くんを紹介したかった』
隣にいる中井を見る。
『この人と結婚するんだよって。お腹には、子どももいるんだよって、自分で話したかった』
唇が震える。
『お母さんには、どうやったら母親になれるのか聞きたかったです』
陽菜は、一度言葉を止めた。
腹部を撫でる。
『たぶん、そんなの自分で考えなさいって言われたと思うけど』
会場から、小さな笑いが起こる。
『お父さんには、中井くんを見て、どう思うか聞きたかった』
「緊張します」
中井が小さく答える。
『今さら?』
「今だからです」
『大丈夫。たぶん気に入ってたよ』
「そうでしょうか」
『あたしが選んだ人だから』
中井の目が、再び赤くなる。
陽菜は天井から差し込む光へ目を向けた。
『お父さん、お母さん』
会場が静まり返る。
『見えてる?』
返事はない。
それでも、陽菜は言葉を続けた。
『あたし、ちゃんと結婚できたよ』
涙が頬を伝う。
『家族ができたよ』
中井が、そっと陽菜の背中へ手を添える。
『二人に会えないのは、今でも寂しい』
陽菜は、涙を拭わなかった。
『でも、あたしはもう、一人じゃないから』
その言葉を、届くと信じて伝えた。
◇
『姉ちゃん』
陽菜が佳菜を見る。
佳菜は、すでに涙を流していた。
『お父さんとお母さんがいなくなってから、あたしたち、二人で暮らしたよね』
「うん」
『姉ちゃんも、何をすればいいか分からなかったと思う』
佳菜の表情が揺れる。
『あたしも分かんなかった』
陽菜は続ける。
『どうやって甘えればいいのか。何を話せばいいのか。姉ちゃんと、どのくらい近くにいればいいのか』
佳菜は、何度も頷いていた。
『喧嘩してたわけじゃない』
「うん」
『嫌いだったわけでもない』
「うん」
『でも、一緒にいても、ずっと遠かった』
佳菜が唇を噛む。
『あたしは十八歳で、姉ちゃんの家を出た』
陽菜が初めて樹里と出会ったのも、その頃だった。
『自分で決めたことだけど、姉ちゃんから離れたかったのか、一人になりたかったのか、今でもよく分かんない』
「ごめんね」
佳菜が、小さな声で言う。
『謝らないで』
陽菜は首を横へ振った。
『あたしも、何も言わなかったから』
「それでも、私は姉だったのに」
『あたしだって、妹だったよ』
佳菜が顔を上げる。
『どっちかだけが悪かったことにしたら、また話せなくなるでしょ』
佳菜の涙が、新しく落ちる。
『姉ちゃんが島川不動産の求人を教えてくれなかったら、あたしはあの会社に入ってなかった』
陽菜が樹里を見る。
『総長とも、再会できなかった』
樹里も佳菜へ目を向けた。
『あのとき、どうしてあの会社を勧めたのか。まだちゃんと聞いてない』
佳菜が僅かに息を止める。
『だから、今度教えて』
「……うん」
『明日から急に、何でも話せる姉妹にはなれないと思う』
「分かってる」
『連絡しても、何を話せばいいか分かんなくなるかもしれない』
「私もだと思う」
『じゃあ、分かんないまま話そう』
佳菜は、涙を拭いながら笑った。
「うん」
『今日、控室でベール直してくれたのが一回目だから』
「一回目?」
『姉ちゃんらしいこと』
佳菜が言葉を失う。
『二回目も、三回目も、これから作ればいいでしょ』
佳菜は、声を出せなかった。
ただ何度も頷いた。
『姉ちゃん』
陽菜も泣きながら笑う。
『今日、来てくれてありがとう』
「呼んでくれて、ありがとう」
『うん』
二人の間に失われた時間は戻らない。
だが、これから話す時間は残っている。
陽菜は、過去へ戻ろうとはしなかった。
佳菜と一緒に、新しい姉妹の形を作ろうとしていた。
◇
『美園さん』
美園が顔を上げる。
『美園さんは、ずっとあたしたちの真ん中にいてくれました』
美園の目に、また涙が浮かぶ。
『総長は、自分のことを全然話さない』
樹里が僅かに眉を寄せる。
『陽菜』
『本当でしょ』
会場から小さな笑いが起こる。
『あたしは、考える前に走る』
今度は美園が笑う。
『それも本当だね』
『美園さんだけが、二人の言葉をちゃんと聞いてくれました』
陽菜は続ける。
『総長が黙ってるときは、代わりに何を考えてるのか教えてくれた』
『たまに外れたけどね』
『ほとんど当たってたよ』
樹里が、美園を見る。
『私の考えを勝手に決めるな』
『総長は言わないから仕方ないでしょ』
涙の中に、再び笑いが混じる。
『あたしが間違った方向へ走ったときは、何度も止めてくれた』
陽菜の声が柔らかくなる。
『それから、あたしたちが帰れる場所を、ずっと残してくれた』
美園が唇を噛む。
樹里が姿を消し、陽菜とも会わなくなったあと。
美園はRoseという名前を、自分の店へ残した。
失われた場所と同じではない。
それでも三人が再び集まり、同じグラスを並べられる場所を作った。
『美園さんがいなかったら、あたしと総長は再会しても、またすぐに離れてたかもしれない』
『そんなことないよ』
『あるよ』
陽菜は迷わず答える。
『二人とも、意地張るから』
『陽菜もでしょ』
『あたしもだけど』
美園は泣きながら笑った。
『美園さん』
『うん』
『今まで、あたしたちを離さないでいてくれて、ありがとう』
陽菜の声が震える。
『美園さんが、あたしたちの真ん中にいてくれてよかった』
『……うん』
『これからも、いてね』
美園は涙を拭いながら、何度も頷く。
『いるよ』
『絶対?』
『絶対』
『勝手にいなくならない?』
『いなくならない』
佐藤が、離れた席から美園を見ている。
美園も佐藤へ一度だけ目を向けた。
『一人で決めない』
誰へ向けた言葉なのか、陽菜には分かった。
『うん』
『怖くなったら、ちゃんと話す』
『佐藤くんに?』
『みんなに』
美園は、樹里と陽菜を見る。
『もう、先に離れたりしないよ』
陽菜は泣きながら笑った。
『約束ね』
『うん』
◇
陽菜は、最後に樹里を見た。
『総長』
会社の人間たちには、今もその呼び名の意味は分からない。
それでも、先ほどの樹里のスピーチを聞いたあとでは、誰も不思議そうな顔をしなかった。
陽菜にとって、日高樹里という人間を表す大切な呼び名なのだと分かっていた。
『さっき、あたしのこと、家族として愛してるって言ったよね』
『言った』
『みんなの前で』
『そうだな』
『もう取り消せないよ』
『取り消すつもりはない』
『あとで恥ずかしくなっても?』
『陽菜』
『だって総長、絶対あとで後悔するから』
『しない』
『本当に?』
『話を続けろ』
樹里は涙を拭いながらも、いつものように陽菜を睨んだ。
陽菜は僅かに笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
『あたし、総長が勝手にいなくなったこと、まだ許してないから』
樹里の顔が止まる。
『四年間、探した』
『……ああ』
『どこに行ってもいなかった』
『ああ』
『電話もつながらなかった。家にもいなかった。総長がいたもの、全部なくなってた』
陽菜の手が、マイクを強く握る。
『あたしを守るためだったって、あとから聞いた』
樹里は陽菜から目を逸らさない。
『でも、あたしは守られたなんて思わなかった』
『分かっている』
『一人にされたって思った』
『……ああ』
『だから、一生許さない』
会場が静まり返る。
陽菜は、涙を流しながら樹里を見つめていた。
『許さないまま、一生、家族でいる』
樹里の目から、また涙が落ちる。
『勝手にいなくなったこと、ずっと怒るから』
『分かった』
『忘れた頃に、また言うから』
『しつこいな』
『知ってるでしょ』
『ああ』
陽菜は、泣きながら笑った。
『総長は、あたしがもう一人で歩けるって言ったよね』
『言った』
『歩けるよ』
陽菜は、はっきりと答えた。
『総長がいなくても、あたしは歩ける』
樹里は黙って聞いている。
『でも、総長がいらないわけじゃない』
樹里の唇が、僅かに震える。
『一人で歩けることと、一人で歩きたいことは違うから』
陽菜は美園を見る。
『あたしは、総長と美園さんに守られるだけの人間じゃなくなった』
腹部へ手を添える。
『この子を守る』
中井を見る。
『中井くんも守る』
「俺もですか?」
『当たり前でしょ』
「ありがとうございます」
『美園さんが困ってたら、また何回でもRoseに行く』
『ほどほどにして』
『嫌』
最後に、樹里を見る。
『総長がまた一人で何かを背負おうとしたら、今度は絶対に止める』
『もうしない』
『信用ない』
『努力する』
『約束してよ』
会場に、僅かな笑いが起こる。
樹里は一度、美園を見る。
次に、神谷を見る。
自分が一人で背負おうとしたとき、今は止めてくれる人たちがいる。
『約束する』
『うん』
陽菜は、満足そうに頷いた。
『総長』
『何だ』
『あたしも、総長を家族として愛してる』
樹里は答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
『美園さんも』
『うん』
『二人とも、あたしの家族』
美園が再び涙を流す。
樹里は声を出せないまま、何度も頷いた。
◇
陽菜は、島川不動産の者たちへ身体を向けた。
『黒澤部長、神谷さん。会社のみんな』
呼ばれた者たちが、陽菜を見る。
『あたしは、入社したばかりの頃、何もできませんでした』
彩花の口元が、僅かに緩む。
『制服を着るのも嫌だったし、敬語も分かんなかったし、電話も取れなかった』
「今は取りすぎるくらいです」
黒澤が言う。
『黒澤部長、それ褒めてます?』
「褒めてる」
『なら受け取っておきます』
会場から笑いが起こる。
『最初は、仕事なんて続かないと思ってました』
陽菜は続ける。
『嫌になったら、また辞めればいいって思ってた』
樹里と再会したことだけが、会社に残った理由ではない。
彩花に仕事を教えられた。
黒澤に叱られた。
神谷や佐藤と同じ案件を追った。
高村に体調の変化を見抜かれた。
凛や柚希と笑った。
陸と萌へ、自分が覚えた仕事を渡した。
中井と出会った。
『でも、今は戻りたいと思ってます』
陽菜が陸と萌を見る。
『しばらく休むけど、ちゃんと戻るから』
「はい」
陸が答える。
「待っています」
萌も続く。
『その間、あたしの仕事お願いね』
「任せてください」
「戻ってきたとき、驚かせます」
『あたしの仕事、全部取らないでよ』
「少しは残します」
『少しなの?』
陽菜が笑う。
『でも、二人なら大丈夫だと思ってる』
陸と萌が、そろって顔を上げる。
『陸、萌。今まで支えてくれてありがとう』
二人の目に涙が浮かんだ。
『これからもよろしくね』
「はい」
二人の声が重なる。
陽菜は、ほかの社員たちにも目を向けた。
『あたしに仕事を教えてくれた人も、一緒に仕事をしてくれた人も、体調を心配してくれた人も、本当にありがとうございました』
高村が涙を拭い、彩花がその隣で頷く。
黒澤と神谷も、穏やかな表情で陽菜を見ていた。
『あたしが戻れる場所を残してくれて、ありがとうございます』
社員たちから、温かい拍手が送られた。
◇
陽菜は、中井へ顔を向けた。
『中井くん』
「はい」
『あたし、家族を作るのが怖かった』
中井は、黙って陽菜の言葉を待った。
『一度なくしたから』
十六歳で、突然失った父と母。
残された佳菜とも、家族としてどう向き合えばいいのか分からなかった。
『家族って、ずっといるものだと思ってた』
陽菜の声が震える。
『でも、急にいなくなることがあるって知った』
中井が陽菜の手を取る。
『だから、大切な人が増えるほど、また失うのが怖くなった』
「はい」
『中井くんを好きになったときも、怖かった』
「知っています」
『あたし、何回も逃げようとしたよね』
「はい」
『そこは少し否定してよ』
「事実なので」
『そうだけど』
会場に柔らかな笑いが起こる。
『それでも、中井くんは離れなかった』
陽菜は続ける。
『あたしが何者だったのか知っても、過去のあたしをなかったことにしなかった』
陽菜の背中には、白い布で覆われた文字と薔薇がある。
会場の多くの者には見えない。
だが、中井はその存在を知っている。
『強いところだけじゃなくて、情けないところも、怖がってるところも見て、それでも好きだって言ってくれた』
「はい」
『毎日何回も体調を聞くし、何でも先に持とうとするし、ちょっと心配しすぎだけど』
「気をつけます」
『全部やめなくていいよ』
「いいんですか?」
『うん』
陽菜は中井の手を握る。
『中井くんが、あたしのことを大切にしてくれてるって分かってるから』
「はい」
『でも、一人で我慢しないで』
「はい」
『あたしのためって言って、勝手に自分のことを後回しにしないで』
「はい」
『あたしは、中井くんに守られるだけの妻にはならない』
陽菜は、はっきりと告げた。
『中井くんが怖いときは、あたしが隣にいる』
中井の目から、涙が落ちる。
『疲れたら、あたしに言って』
「はい」
『失敗したら、一緒に怒られよ』
「誰にですか?」
『総長とか、美園さんとか』
『なぜ私が怒る前提なんだ』
樹里の言葉に、会場から笑いが起こる。
『絶対怒るでしょ』
『内容による』
『ほら、怒ることは否定しない』
陽菜が笑う。
それから、中井へ向き直った。
『中井くん』
「はい」
『あたしが帰れる場所になってくれて、ありがとう』
「陽菜さん」
『今度は、あたしも中井くんが帰れる場所になる』
中井の手を、さらに強く握る。
『どっちかだけが守るんじゃなくて、二人で守ろう』
「はい」
『二人で家族になろう』
「はい」
『明日も、その次の日も、中井くんを選ぶ』
中井は涙を拭わなかった。
「俺も、何度でも陽菜さんを選びます」
『うん』
「愛しています」
『あたしも愛してる』
二人は、会場の視線を忘れたように見つめ合った。
やがて陽菜が照れたように笑い、腹部へ手を添える。
◇
『それから、ここにいるあたしたちの子へ』
中井も、陽菜の腹部へ手を重ねた。
『お父さんとお母さんは、二人とも親になる方法を知りません』
「これから覚えます」
『うん。二人で覚える』
陽菜が、自分の中にいる命へ話しかける。
『失敗もすると思う』
腹部が、僅かに動いた。
『また、お父さんが心配しすぎると思う』
「努力します」
『お母さんが怒りすぎることもあるかも』
「それは俺が止めます」
『止められる?』
「努力します」
『そこは約束してよ』
笑い声が広がる。
陽菜は、自分の腹部を優しく撫でた。
『でも、何があっても、勝手にあなたの未来を決めないようにする』
中井も頷く。
『何が好きなのか。どこへ行きたいのか。誰と一緒にいたいのか。自分で選べるようになったら、ちゃんと聞くから』
陽菜の声が、柔らかくなる。
『生まれてきたら、今日の写真を見せるね』
「ケーキの写真もですか?」
『もちろん』
「それは必要でしょうか」
『必要』
陽菜は笑いながら、涙を拭った。
『お父さんが、どれだけお母さんに愛されてるか分かるから』
「別の写真でも伝わると思います」
『これが一番分かりやすい』
「そうですか」
『そうだよ』
もう一度、腹部へ目を向ける。
『三人で、家族になろうね』
その言葉に応えるように、陽菜の手の下で小さな命が動いた。
◇
陽菜は、最後に会場全体を見渡した。
『昔のあたしは、一つの場所を失ったら、何も残らないと思ってました』
樹里と美園が、陽菜を見つめる。
『でも、違いました』
陽菜は続ける。
『離れても、消えないものがありました』
白いドレスの下。
背中に刻まれた文字と薔薇。
今は誰にも見えない。
それでも、消えたわけではない。
『失ったあとに、出会えた人もいました』
中井を見る。
島川不動産の仲間たちを見る。
『昔のままじゃなくても、もう一度つながれる人もいました』
佳菜を見る。
『三人だけで生きなくても、三人でいられるって分かりました』
樹里と美園を見る。
二人とも、泣きながら笑っている。
『これからあたしたちは、それぞれ違う場所へ帰ります』
陽菜は中井の手を握る。
『あたしは中井くんと、この子と一緒に帰る』
美園の隣には佐藤がいる。
樹里を見守る神谷がいる。
柚希の隣には零がいる。
凛の隣には青柳がいる。
誰も、かつての三人を奪ったわけではない。
それぞれの隣に、新しい人が増えただけだった。
『でも、離れるわけじゃない』
陽菜の声が、会場へ真っ直ぐに届く。
『これからも、みんなと一緒に生きていきたいです』
一度、深く息を吸う。
『今日は、本当にありがとうございました』
陽菜は中井と並び、会場へ向かって深く頭を下げた。
大きな拍手が湧き起こる。
佳菜が涙を流しながら手を叩く。
美園も、佐藤の方へ身体を寄せながら拍手を送った。
樹里は泣くことを隠さず、陽菜を見つめている。
神谷は、その樹里の姿を静かに見守っていた。
中井の両親と弟。
黒澤。
彩花と高村。
佐藤と青柳。
陸と萌。
凛と柚希と零。
島川不動産の社員たち。
全員の拍手が、陽菜と中井を包んでいた。
陽菜と中井が、ゆっくりと顔を上げる。
司会者が、涙を堪えながらマイクを手に取った。
「それでは皆様、新郎新婦の新たな門出を、盛大な拍手でお送りください」
会場後方の扉が開く。
陽菜と中井は顔を見合わせた。
『行こっか』
「はい」
二人は手を取り合う。
その間には、まだ姿の見えない小さな命がいる。
三人で、開かれた扉へ向かって歩き始めた。




