326話「怖いまま、隣に」
樹里は、涙を拭うこともできないまま、壇上を下りた。
手には、ほとんど読まなかった原稿がある。
何週間もかけて言葉を選び、何度も白紙へ戻し、ようやく完成させたものだった。
今となっては、その紙に何を書いたのかさえ、樹里には思い出せなかった。
席へ戻る途中、神谷のそばを通る。
「日高さん」
神谷が呼び止めた。
会社の人間たちが見ている。
神谷は樹里へ近づかず、自分の席から、折り畳んだハンカチを差し出した。
「よろしければ」
樹里は足を止める。
神谷の目も、樹里に負けないほど赤くなっていた。
『神谷さんが使うのでは?』
「もう一枚あります」
『二枚持ってきたんですか?』
「念のためです」
『泣かないと言っていたでしょう』
「日高さんもです」
樹里は言い返せなかった。
神谷からハンカチを受け取る。
『ありがとうございます』
「どういたしまして」
それ以上の言葉は交わさない。
触れることもない。
それでも、神谷が自分を見ていることは分かった。
樹里は席へ戻った。
隣に座る美園も、涙で化粧が僅かに崩れている。
『顔、ひどいぞ』
『総長に言われたくない』
周囲の笑い声に紛れるほどの、小さな声だった。
美園はテーブルの下へ手を伸ばし、樹里の手を握った。
『言えたね』
『……ああ』
『ちゃんと、全部届いたよ』
『全部ではない』
『まだあるの?』
『言葉にできないものは残っている』
『それでいいんじゃない?』
樹里は、美園の手を握り返した。
会場の正面を見る。
陽菜はまだ泣いていた。
中井が渡したハンカチを目元へ当てながら、それでも樹里を見て笑っている。
樹里は神谷から受け取ったハンカチで、自分の涙を拭った。
原稿には書けなかった。
だが、言葉にはできた。
それだけで、今は十分だった。
◇
会場に残っていた笑いと拍手が、少しずつ静まっていく。
司会者がマイクを手に取った。
「日高様、心のこもったお祝いのお言葉を、ありがとうございました」
樹里が席から小さく頭を下げる。
「続きまして、新郎の中井様より、皆様へご挨拶がございます」
中井が椅子から立ち上がった。
陽菜も顔を上げる。
『中井くん』
「はい」
『泣いてる?』
「泣いていません」
『その言い訳、今日何回目?』
「数えていません」
『目、真っ赤だよ』
「陽菜さんもです」
『あたしは総長のせい』
「俺も同じです」
中井が困ったように笑う。
陽菜はテーブルの下で、その手を握った。
『頑張って』
「はい」
『あたしのこと、変に言わないでね』
「何を話すかは決めています」
『本当に?』
「はい」
『不安になってきた』
「先ほどまで、俺も同じ気持ちでした」
中井は陽菜の手を握り返したあと、ゆっくりと離した。
司会者からマイクを受け取る。
会場へ向き直り、深く頭を下げた。
「皆様、本日は、俺たちのためにお集まりいただき、本当にありがとうございます」
中井の声には、まだ僅かな震えが残っていた。
それでも、言葉ははっきりと会場へ届いている。
「今日、この場所で挙式と披露宴を迎えられたのは、ここにいる皆様のお力があったからです」
最初に、自分の家族を見る。
「父さん、母さん」
中井の両親が顔を上げる。
「今まで育ててくれて、ありがとうございました」
母の目から、また涙がこぼれる。
「俺は、自分のことは自分で決めてきたつもりでした。ですが、振り返ると、何を選んでも帰れる場所があったから、迷うことができたのだと思います」
父が、静かに頷く。
「これからは、陽菜さんと、この子にとっての帰れる場所を作ります」
中井は陽菜の腹部へ目を向けた。
「分からないことがあれば、これからも頼らせてください」
「当たり前でしょう」
母が涙を拭いながら答える。
「いつでも来なさい」
「ありがとうございます」
続いて、弟を見る。
「今日まで、いろいろと手伝ってくれてありがとう」
「写真も撮ったよ」
「ケーキの写真以外を送ってくれ」
「全部送る」
会場から笑いが起こる。
「それから、兄貴」
弟の表情が、僅かに真面目になる。
「結婚、おめでとう」
「ありがとう」
中井も、穏やかに笑った。
次に、佳菜へ顔を向ける。
「佳菜さん」
「はい」
「今日、陽菜さんの姉として、この場所にいてくださり、ありがとうございます」
佳菜の目が揺れる。
「俺は、陽菜さんと佳菜さんが過ごしてきた時間のすべてを知っているわけではありません」
中井は、慎重に言葉を選ぶ。
「二人の間にあるものを、分かったつもりになることもできません」
佳菜は黙って聞いている。
「ですが、陽菜さんが今日、佳菜さんに来てほしいと思ったことは知っています」
陽菜が佳菜を見る。
佳菜も、陽菜へ視線を向ける。
「これから先も、俺が二人の関係へ答えを出すことはしません」
中井は続ける。
「ただ、陽菜さんが佳菜さんへ何かを伝えたいと思ったとき、その言葉を諦めなくて済むよう、隣にいたいと思っています」
佳菜の目から、涙が落ちた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございます」
中井は佳菜へ頭を下げた。
◇
「黒澤部長、神谷部長。そして、島川不動産の皆さん」
中井が会社関係者の席を見る。
「仕事だけではなく、俺たちの生活や、陽菜さんの体調まで支えていただきました」
黒澤は腕を組みながら、中井を見ている。
神谷も静かに頷いた。
「陽菜さんの妊娠が分かってから、外回りや担当業務を調整していただきました。陽菜さんは最初、自分が戦力ではなくなったように感じていました」
『それ、言うの?』
陽菜が恥ずかしそうに口を挟む。
「大切なことなので」
『中井くん、今日そればっかり』
会場に小さな笑いが起こる。
「ですが、仕事を奪われたのではありませんでした」
中井は陸と萌を見る。
「陽菜さんが教えてきた人たちへ、仕事が引き継がれていきました」
陸と萌が、僅かに姿勢を正す。
「山本さん、川原さん。陽菜さんが安心して休めるよう、仕事を引き継いでくださり、ありがとうございます」
「はい」
「任せてください」
二人が答える。
陽菜は涙を浮かべながら、嬉しそうに笑った。
「森下さん、高村さん、佐藤さん、遠藤さん。ほかの皆さんにも、何度も助けていただきました」
呼ばれた者たちが、それぞれ頷く。
「俺たちは、二人だけでここまで来たわけではありません」
中井は会場全体を見る。
「これからも、助けていただくことがあると思います。そのときは、よろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
会社関係者から、温かい拍手が送られた。
◇
「美園さん」
名前を呼ばれ、美園が中井を見る。
「陽菜さんのそばに、ずっといてくださり、ありがとうございます」
『私は、好きでいるだけだよ』
「それが、陽菜さんにとって大切なことだと思います」
美園の目が、また潤む。
「俺が迷ったときも、話を聞いてくださり、ありがとうございました」
『うん』
「自分ではない誰かの方がいいと考えることが、相手のためになるわけではないと教えていただきました」
美園は、佐藤を見る。
佐藤も、自分の席から美園を見ていた。
『私も、佐藤くんに教えてもらったから』
その声はマイクを通していない。
それでも、近くにいる樹里には聞こえた。
中井は美園へ頭を下げた。
「ありがとうございました」
『これからも陽菜をよろしくね』
「はい」
中井は、次に樹里を見る。
「日高さん」
樹里の手が止まる。
「陽菜さんのことを、俺へ託してくださり、ありがとうございます」
『私は、陽菜を所有していたわけではありません』
樹里が席から答える。
「はい」
「陽菜さんが俺を選んだことを、認めてくださったという意味です」
樹里は何も言わず、中井を見つめた。
「俺が父親になることを怖いと口にしたとき、日高さんから言われました」
会場が静かになる。
「俺の何十倍も、陽菜さんは怖いのだと」
陽菜が樹里を見る。
樹里は視線を逸らさなかった。
「不器用でも、失敗してもいい。ただ、絶対に逃げるなと」
中井の声に、力が込められる。
「怖いなら、怖いまま隣にいろと言われました」
樹里の目に、再び涙が浮かぶ。
「今も、怖くないとは言えません」
中井は、自分の胸元へ手を添えた。
「この子が無事に生まれてくるのか。俺が父親として何をすればいいのか。陽菜さんが苦しいとき、俺が本当に支えられるのか」
言葉を区切る。
「分からないことばかりです」
陽菜は、中井を見つめていた。
「俺は一度、その怖さから逃げるために、陽菜さんへ聞かず、陽菜さんの未来を決めようとしました」
中井の両親が、静かに息子の言葉を聞いている。
「俺ではない人間の方が、陽菜さんとこの子を幸せにできるのではないかと考えました」
会場の正面で、陽菜の目から涙が落ちる。
「それは、陽菜さんが俺を選んでくれたことを、俺自身が否定することでした」
中井は陽菜へ身体を向けた。
「陽菜さん」
『うん』
「申し訳ありませんでした」
『もう謝ったでしょ』
「それでも、もう一度伝えたかったので」
『うん』
「二度と、陽菜さんの未来を一人で決めません」
『うん』
「怖くても、隠さずに話します」
『うん』
「分からないことは、分からないと言います」
陽菜が何度も頷く。
「そして、絶対に逃げません」
『うん』
中井の声は、もう震えていなかった。
「俺は、陽菜さんとこの子のすべてを、一人で守れるとは言いません」
樹里が僅かに目を見開く。
「一人で背負おうとすれば、また同じ間違いをすると思います」
黒澤が、ゆっくりと頷いた。
「だから、陽菜さんと一緒に守ります」
中井は、陽菜の腹部へ目を向ける。
「二人で分からないときは、今日ここにいる皆さんを頼ります」
陽菜が、自分の腹部へ手を添えた。
「俺たちだけで、この子の未来まで決めません」
中井は言葉を続ける。
「この子が大きくなり、自分で何かを選べるようになったら、その選択を聞きます」
『心配しすぎて止めそう』
陽菜が涙の間から言う。
「そのときは、陽菜さんが止めてください」
『分かった』
「俺も、努力します」
『約束じゃないんだ』
「簡単に約束できる自信がありません」
『正直でよろしい』
会場に、穏やかな笑いが広がった。
◇
中井は、陽菜だけを見る。
「陽菜さん」
『何?』
「俺を選んでくれて、ありがとうございます」
陽菜の唇が震える。
「一緒に暮らすことも、結婚することも、この子を迎えることも、俺と選んでくれて、ありがとうございます」
『あたしが選びたかったから』
「はい」
『中井くんじゃなきゃ、嫌だったから』
「はい」
『だから、もう勝手にいなくならないでね』
「いなくなりません」
『一人で決めないで』
「決めません」
『ちゃんと、あたしに言って』
「はい」
中井の目から、涙が落ちた。
「陽菜さんを、愛しています」
陽菜は泣きながら笑った。
『うん』
一度、涙を拭う。
『あたしも、中井くんを愛してる』
会場から、温かい拍手が起こった。
中井は涙を隠さず、陽菜へ笑い返す。
「これから、三人で家族になります」
陽菜の腹部へ、そっと手を重ねる。
「完璧な夫にも、完璧な父親にもなれないと思います」
陽菜の手が、その上へ重なる。
「それでも、何度間違えても話し合い、三人が帰れる場所を、陽菜さんと一緒に作っていきます」
中井は会場へ向き直った。
「これからも、俺たち三人をよろしくお願いいたします」
深く頭を下げる。
会場全体から、大きな拍手が送られた。
中井はしばらく頭を下げたまま、その拍手を受け止めていた。
◇
中井が顔を上げる。
司会者へマイクを返そうとしたとき、陽菜が席から立ち上がった。
すぐに中井が手を伸ばす。
『大丈夫』
「ゆっくり立ってください」
『うん』
陽菜は中井の手を借りて立ち上がる。
大きくなった腹部へ手を添え、姿勢を整えた。
司会者が新しいマイクを用意する。
「最後に、新婦の櫻井陽菜様より、皆様へご挨拶がございます」
会場の拍手が静まっていく。
陽菜はマイクを受け取った。
原稿は持っていない。
最初に中井を見る。
次に、佳菜。
美園。
そして樹里を見る。
樹里は神谷のハンカチを握ったまま、陽菜を見つめ返していた。
陽菜は一度、自分の腹部を撫でる。
何度も息を整えたあと、会場へ向き直った。




