325話「原稿の外」
樹里は、マイクの前に立っていた。
手には、昨夜まで何度も書き直した原稿がある。
会社の人間が聞いても不自然ではないように。
中井の家族が聞いても、失礼にならないように。
過去を知らない者へ、余計な疑問を抱かせないように。
一つずつ言葉を選び、順番を整え、最後まで完成させた。
樹里は一行目へ視線を落とした。
『ただいまご紹介にあずかりました、新婦の友人の日高樹里と申します』
いつもの、落ち着いた声だった。
『陽菜、中井さん。本日はご結婚、誠におめでとうございます』
「ありがとうございます」
『ありがとう、日高先輩』
『また、ご両家、ご親族の皆様にも、心よりお祝い申し上げます』
樹里は中井の家族へ向かって、丁寧に頭を下げた。
それから、再び原稿へ目を戻す。
紙を持つ指へ、僅かに力が入った。
まだ読める。
書いてきたとおりに話せばいい。
『新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり親しくさせていただいております』
文字を追う。
『櫻井さんは責任感が強く、誰に対しても明るく接する、信頼できる友人です』
そこで、樹里の声が止まった。
次の一文も覚えている。
仕事へ真摯に向き合い、周囲への気遣いを忘れない人物です。
そう続くはずだった。
間違ってはいない。
陽菜は責任感が強い。
仕事にも真摯に向き合う。
周囲への気遣いも忘れない。
それでも、目の前にいる陽菜のことを話しているとは思えなかった。
樹里は原稿から顔を上げた。
陽菜が、会場の正面から自分を見つめている。
佐藤のスピーチで流した涙が、まだ頬に残っている。
その目は笑っていた。
樹里が何を話すのか、心から待っている顔だった。
原稿へ視線を戻す。
整えられた文章。
その中には、十八歳で出会った陽菜がいない。
何度止めても、勝手に樹里の隣へ立った陽菜がいない。
突然消えた樹里を四年間探し続けた陽菜も。
再会した瞬間、喜ぶより先に怒った陽菜も。
傷つけられても、もう一度樹里を家族に選んだ陽菜もいない。
樹里の呼吸が浅くなる。
会場は静かだった。
誰も急かさない。
神谷は離れた席から、樹里の手を見ていた。
高槻興産の社長を前にしても震えなかった指が、今は紙の端を強く掴んでいる。
助けに行くことはできない。
代わりに言葉を選ぶこともできない。
今、樹里が向き合っているのは、樹里にしか話せないことだった。
美園も、何も言わずに待っている。
昨日、自分が伝えた言葉を思い出していた。
綺麗に書こうとしすぎると、何も残らない。
樹里は、もう一度次の一文を読もうとした。
『陽菜は――』
声が続かなかった。
樹里は目を閉じる。
短く息を吸い、原稿を下ろした。
『……すみません』
会場の視線が樹里へ集まる。
樹里は原稿を折らず、そのまま壇上へ置いた。
『少し、予定していたものと違う話をします』
陽菜の目から、笑みが消えた。
心配そうに、樹里を見つめている。
樹里は原稿を見なかった。
マイクの前で、陽菜だけを見る。
『陽菜と初めて出会ったのは、あいつが十八歳のときでした』
声は、まだ震えていた。
『今より幼くて、今より無鉄砲で、今と同じように人の話を聞かない人間でした』
会場に、小さな笑いが起こる。
陽菜は涙を浮かべたまま、僅かに頬を膨らませた。
『私は、そんな陽菜を守らなければならないと思っていました』
樹里の目に、かつての陽菜が浮かぶ。
自分の後ろを走っていた、小さな背中。
傷つくことを恐れず、誰かのためなら迷わず前へ出ようとした姿。
『私が先に歩き、危ないものを遠ざけ、陽菜が傷つく前に止める。それが、あいつを守ることだと思っていました』
樹里は、そこで僅かに息を止めた。
『ですが、何度振り返っても、陽菜は私の後ろにはいませんでした』
陽菜の涙が、一筋落ちる。
『いつも勝手に、私の隣へ来ました』
会場に、再び小さな笑いが広がった。
『来るなと言っても来ました。待っていろと言っても、待ちませんでした。私が一人で行こうとすれば、怒りながら追いかけてきました』
美園が、泣きながら笑う。
あの頃の陽菜を知っている。
樹里の背中を追いかけ、追いつけば当然のように隣へ立った。
どれほど叱られても、次の日にはまた樹里のそばにいた。
『私は、それを迷惑だと思っているふりをしていました』
樹里の声が、少しだけ低くなる。
『本当は、陽菜が隣にいることに救われていました』
陽菜が唇を噛む。
『それでも私は、四年前、何も言わずに陽菜の前から消えました』
会場の空気が変わった。
会社の人間たちは、樹里と陽菜が同じ職場で再会したことは知っている。
だが、その前に何があったのかは知らない。
樹里は、過去の名前を口にしなかった。
自分たちがどこで、何をしていたのかも話さない。
それでも、陽菜と美園には、どの朝のことか分かっていた。
『私がいなくなれば、陽菜を守れると思いました』
樹里の手が、壇上の端を掴む。
『私から離れれば、あいつは危ない目に遭わずに済む。私のことを忘れて、別の人生を歩ける。そう思いました』
陽菜は、涙を拭わなかった。
あの朝。
何の前触れもなく、樹里が消えた。
電話はつながらなかった。
住んでいた部屋からも、バイクも、衣服も、樹里がいた痕跡も消えていた。
陽菜は何度も探した。
樹里が行きそうな場所を回り、知っている人間へ聞き、見つからないまま四年を過ごした。
『私は、それが正しいと思っていました』
樹里は、陽菜から目を逸らさなかった。
『違いました』
短い言葉だった。
だが、樹里がそれを認めるまでに、何年もかかっていた。
『陽菜は、四年間、私を探しました』
樹里の声が掠れる。
『忘れてほしいと思った私を、忘れませんでした』
陽菜の肩が震える。
中井が、陽菜の手を握った。
『再会したとき、陽菜は喜ぶより先に怒りました』
会場から、僅かに笑いが起こる。
『当然です』
樹里の口元にも、ごく僅かな笑みが浮かんだ。
『私は陽菜を守ったつもりで、陽菜に一番長い傷を残しました』
その笑みが消える。
『それでも陽菜は、もう一度、私の隣に立ってくれました』
陽菜は何度も首を横へ振った。
違うと言いたかった。
自分だけが樹里の隣へ戻ったのではない。
樹里もまた、自分を受け入れるために何度も迷った。
それでも、声にできなかった。
『許してもらえたとは、今でも思っていません』
『総長……』
陽菜の口から、小さく呼び名が漏れた。
会場の大半には、その意味が分からない。
だが、美園には分かる。
零にも、柚希にも、凛にも分かる。
陽菜が、何年経っても捨てられなかった呼び名だった。
『何度も怒られました。何度も泣かせました。それでも、陽菜は離れませんでした』
樹里は一度、息を整えた。
『そして、美園』
名前を呼ばれ、美園が顔を上げる。
『私と陽菜が、もう一度同じ場所に立てたのは、美園が、私たちの帰れる場所を残してくれたからです』
美園の目から、涙がこぼれる。
『私が言葉にできないことを、美園はいつも先に分かっていました。陽菜が真っ直ぐ走りすぎれば止め、私が一人で抱えようとすれば、何度でも引き戻しました』
美園は、泣きながら首を横へ振る。
自分だけが二人をつないだとは思っていない。
陽菜が諦めなかったから。
樹里も、本当は二人を忘れられなかったから。
三人は、もう一度同じ場所へ戻れた。
『美園がいなければ、今の三人はありません』
樹里は、美園へ向かって頭を下げた。
『今まで、私たちをつないでくれて、ありがとう』
『……総長』
美園の声は、誰にも届かないほど小さかった。
それでも、樹里には聞こえたような気がした。
樹里が顔を上げる。
『私は、二人を守っているつもりでした』
陽菜と美園を交互に見る。
『私が前に立たなければならないと思っていました。私が決め、私が背負い、二人を後ろへ置くことが、守ることだと思っていました』
声が少しずつ崩れていく。
『ですが、本当は違います』
樹里の目から、初めて涙が落ちた。
『私は、二人に救われていました』
会場が静まり返る。
『陽菜が隣へ来てくれたから、一人でなくなりました』
もう一滴、涙が頬を伝う。
『美園が帰れる場所を残してくれたから、私は戻ることができました』
樹里は涙を拭わなかった。
『二人がいなければ、私は今日、ここにいません』
陽菜が声を押し殺して泣いている。
美園も、両手で口元を覆っていた。
三人が見ている時間は、それぞれ違っていた。
美園は、樹里が誰にも頼らず、一人で走り続けた夜を知っている。
傷だらけになっても弱音を吐かず、すべてを背負おうとした樹里を知っている。
陽菜は、樹里が消えた朝を知っている。
昨日まで確かにあった背中が、何の言葉も残さず消えていた絶望を知っている。
そして樹里は知っている。
二人がいなければ、自分が今ここに立っていないことを。
それを、初めて人前で認めていた。
◇
神谷は、樹里から目を離せなかった。
いつも冷静に言葉を選ぶ人。
仕事では、数字と記録を積み重ね、感情を表へ出さずに正しい答えを探す人。
神谷が知っている樹里の奥に、陽菜と美園がいる。
その二人と過ごした時間を、神谷はすべて知ることはできない。
それでも、その時間が樹里をここまで生かしてきたことは分かった。
神谷は二枚目のハンカチを取り出し、目元を押さえた。
黒澤も、今度はからかわなかった。
彩花は、会社で一度も見たことのない樹里の涙に、言葉を失っていた。
高村も、静かに涙を拭っている。
佐藤は、美園が泣く姿を見つめていた。
佳菜は、樹里の言葉を聞きながら、陽菜へ目を向ける。
自分が埋められなかった場所に、樹里と美園がいた。
それを悲しいとは思わなかった。
陽菜を一人にしなかった二人へ、今は感謝しかなかった。
◇
『陽菜』
樹里が、もう一度名前を呼ぶ。
陽菜は涙で濡れた顔を上げた。
『お前は、もう私がいなくても歩けます』
陽菜の表情が僅かに揺れる。
『守られるだけの人間ではありません。自分で考え、自分で決め、自分の足でここまで来ました』
樹里は、陽菜の腹部へ目を向ける。
『今は、自分の中にいる命まで守ろうとしています』
陽菜が腹部へ手を添える。
『中井さんと出会って、陽菜は変わりました』
中井が、樹里を見る。
『一人で平気なふりをすることをやめました。怖いときには怖いと言い、できないことを誰かへ任せ、人に支えられることを受け入れました』
樹里の涙が、止まらなくなる。
『そして、誰かに愛されることから逃げなくなりました』
陽菜が中井の手を握る。
『私は、それが何より嬉しいです』
声が震える。
『陽菜』
樹里は、何度も言葉を探した。
原稿にはない。
これまで一度も、陽菜へ伝えたことのない言葉だった。
『私は、お前の姉ではありません』
佳菜が、樹里を見る。
『血もつながっていません』
一度、息を吸う。
『友人という言葉だけでも、私たちの関係を説明できないと思っています』
陽菜の目から、また涙が落ちる。
『それでも、今なら言えます』
樹里の声が掠れた。
『陽菜』
もう一度、名前を呼ぶ。
『私は、お前を家族として愛しています』
陽菜が顔を覆った。
肩を震わせ、声を押し殺すこともできずに泣いた。
中井は、その背中へ手を添える。
美園も俯き、涙を拭う。
樹里は、美園へ顔を向けた。
『美園もです』
美園が顔を上げる。
『お前も、私の家族です』
美園の涙に濡れた顔が、泣き笑いへ変わる。
『今さらだよ、総長』
マイクから離れた樹里には、美園の声が聞こえた。
『ああ』
樹里も、小さく頷いた。
◇
樹里は中井へ目を向けた。
『中井さん』
「はい」
中井は席から立ち上がった。
『最初は、あなたが陽菜の隣に立つことを、簡単には認められませんでした』
「はい」
『陽菜を守れるのか。傷つけないのか。途中で逃げないのか。私は、そればかり見ていました』
中井は、樹里から目を逸らさない。
『ですが、いつの間にか陽菜は、私たちにも見せなかった顔を、あなたの前で見せるようになりました』
陽菜が涙の間から中井を見る。
『あなたは、陽菜の強さを奪おうとしませんでした』
樹里は続ける。
『陽菜が弱さを見せたときも、その弱さを理由に何かを取り上げようとはしませんでした』
中井の目にも涙が浮かぶ。
『あなた自身が怖いときも、最後には逃げず、陽菜の隣にいると決めてくれました』
「はい」
『陽菜が、怖いと言える場所になってくれました』
樹里は中井へ向かって、深く頭を下げた。
『ありがとうございます』
「頭を上げてください」
中井の声も震えていた。
樹里は、すぐには顔を上げられなかった。
何度も呼吸を整え、ようやく身体を起こす。
『陽菜はもう、自分の足で歩けます』
「はい」
『ですから、守ってくださいとは言いません』
中井が頷く。
『ただ、陽菜が立ち止まったときは、隣で待っていてください』
「はい」
『中井さんが立ち止まったときは、陽菜を頼ってください』
「はい」
『どちらかが先に行くのでも、どちらかが待ち続けるのでもなく――』
樹里は一度、言葉を止めた。
神谷と二人で歩くと決めた夜を思い出す。
『二人で歩幅を合わせて、同じ方向へ歩いていってください』
「はい」
中井は、はっきりと答えた。
「二人で歩いていきます」
樹里の口元が、僅かに緩む。
最後の言葉を伝えようとする。
『中井さん』
「はい」
『これからも――』
声が詰まった。
樹里は口元へ手を当てる。
涙が止まらない。
何度息を吸っても、言葉にならなかった。
陽菜は泣きながら、樹里を見つめている。
美園も、席から樹里へ向かって何度も頷いていた。
樹里は壇上の端を掴み、もう一度声を出そうとした。
『……これからも』
完全に声が崩れる。
それでも、逃げなかった。
『陽菜のことを、よろしくお願いします』
中井は、深く頭を下げた。
「はい」
涙を流しながら顔を上げる。
「陽菜さんと、これから生まれてくる子どもと、三人で歩いていきます」
樹里は頷いた。
それ以上、何も言えなかった。
会場全体から拍手が起こる。
最初は静かに。
やがて、樹里を包むように大きくなっていく。
神谷は涙を拭いながら拍手を送っていた。
黒澤も、何度も頷いている。
彩花と高村。
佐藤と青柳。
陸と萌。
凛と柚希と零。
中井の家族。
佳菜。
全員が涙を浮かべながら、樹里へ拍手を送っていた。
樹里は壇上に置いた原稿を見る。
最後まで整えた文章。
何度も書き直した言葉。
結局、最初の数行しか読まなかった。
樹里は原稿を手に取り、もう一度陽菜を見る。
陽菜は泣きながら笑っていた。
『……総長』
静かになりかけた会場へ、陽菜の声が届く。
会社の人間たちが、聞き慣れない呼び名に僅かに首を傾げる。
だが、陽菜は気にしなかった。
『原稿、一文字も読めてないじゃん』
会場に、一瞬の沈黙が落ちる。
次の瞬間、美園が泣きながら吹き出した。
零も顔を伏せて笑い、柚希と凛が涙を拭いながら口元を緩める。
会社の人間たちからも、少しずつ笑いが広がった。
樹里は涙に濡れた目で、陽菜を睨む。
まだマイクの前に立っている。
『うるさい』
その声が、会場中へ響いた。
温かい笑いと拍手が、もう一度樹里を包んだ。




