↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
325/329

325話「原稿の外」

樹里は、マイクの前に立っていた。


 手には、昨夜まで何度も書き直した原稿がある。


 会社の人間が聞いても不自然ではないように。


 中井の家族が聞いても、失礼にならないように。


 過去を知らない者へ、余計な疑問を抱かせないように。


 一つずつ言葉を選び、順番を整え、最後まで完成させた。


 樹里は一行目へ視線を落とした。


『ただいまご紹介にあずかりました、新婦の友人の日高樹里と申します』


 いつもの、落ち着いた声だった。


『陽菜、中井さん。本日はご結婚、誠におめでとうございます』


「ありがとうございます」


『ありがとう、日高先輩』


『また、ご両家、ご親族の皆様にも、心よりお祝い申し上げます』


 樹里は中井の家族へ向かって、丁寧に頭を下げた。


 それから、再び原稿へ目を戻す。


 紙を持つ指へ、僅かに力が入った。


 まだ読める。


 書いてきたとおりに話せばいい。


『新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり親しくさせていただいております』


 文字を追う。


『櫻井さんは責任感が強く、誰に対しても明るく接する、信頼できる友人です』


 そこで、樹里の声が止まった。


 次の一文も覚えている。


 仕事へ真摯に向き合い、周囲への気遣いを忘れない人物です。


 そう続くはずだった。


 間違ってはいない。


 陽菜は責任感が強い。


 仕事にも真摯に向き合う。


 周囲への気遣いも忘れない。


 それでも、目の前にいる陽菜のことを話しているとは思えなかった。


 樹里は原稿から顔を上げた。


 陽菜が、会場の正面から自分を見つめている。


 佐藤のスピーチで流した涙が、まだ頬に残っている。


 その目は笑っていた。


 樹里が何を話すのか、心から待っている顔だった。


 原稿へ視線を戻す。


 整えられた文章。


 その中には、十八歳で出会った陽菜がいない。


 何度止めても、勝手に樹里の隣へ立った陽菜がいない。


 突然消えた樹里を四年間探し続けた陽菜も。


 再会した瞬間、喜ぶより先に怒った陽菜も。


 傷つけられても、もう一度樹里を家族に選んだ陽菜もいない。


 樹里の呼吸が浅くなる。


 会場は静かだった。


 誰も急かさない。


 神谷は離れた席から、樹里の手を見ていた。


 高槻興産の社長を前にしても震えなかった指が、今は紙の端を強く掴んでいる。


 助けに行くことはできない。


 代わりに言葉を選ぶこともできない。


 今、樹里が向き合っているのは、樹里にしか話せないことだった。


 美園も、何も言わずに待っている。


 昨日、自分が伝えた言葉を思い出していた。


 綺麗に書こうとしすぎると、何も残らない。


 樹里は、もう一度次の一文を読もうとした。


『陽菜は――』


 声が続かなかった。


 樹里は目を閉じる。


 短く息を吸い、原稿を下ろした。


『……すみません』


 会場の視線が樹里へ集まる。


 樹里は原稿を折らず、そのまま壇上へ置いた。


『少し、予定していたものと違う話をします』


 陽菜の目から、笑みが消えた。


 心配そうに、樹里を見つめている。


 樹里は原稿を見なかった。


 マイクの前で、陽菜だけを見る。


『陽菜と初めて出会ったのは、あいつが十八歳のときでした』


 声は、まだ震えていた。


『今より幼くて、今より無鉄砲で、今と同じように人の話を聞かない人間でした』


 会場に、小さな笑いが起こる。


 陽菜は涙を浮かべたまま、僅かに頬を膨らませた。


『私は、そんな陽菜を守らなければならないと思っていました』


 樹里の目に、かつての陽菜が浮かぶ。


 自分の後ろを走っていた、小さな背中。


 傷つくことを恐れず、誰かのためなら迷わず前へ出ようとした姿。


『私が先に歩き、危ないものを遠ざけ、陽菜が傷つく前に止める。それが、あいつを守ることだと思っていました』


 樹里は、そこで僅かに息を止めた。


『ですが、何度振り返っても、陽菜は私の後ろにはいませんでした』


 陽菜の涙が、一筋落ちる。


『いつも勝手に、私の隣へ来ました』


 会場に、再び小さな笑いが広がった。


『来るなと言っても来ました。待っていろと言っても、待ちませんでした。私が一人で行こうとすれば、怒りながら追いかけてきました』


 美園が、泣きながら笑う。


 あの頃の陽菜を知っている。


 樹里の背中を追いかけ、追いつけば当然のように隣へ立った。


 どれほど叱られても、次の日にはまた樹里のそばにいた。


『私は、それを迷惑だと思っているふりをしていました』


 樹里の声が、少しだけ低くなる。


『本当は、陽菜が隣にいることに救われていました』


 陽菜が唇を噛む。


『それでも私は、四年前、何も言わずに陽菜の前から消えました』


 会場の空気が変わった。


 会社の人間たちは、樹里と陽菜が同じ職場で再会したことは知っている。


 だが、その前に何があったのかは知らない。


 樹里は、過去の名前を口にしなかった。


 自分たちがどこで、何をしていたのかも話さない。


 それでも、陽菜と美園には、どの朝のことか分かっていた。


『私がいなくなれば、陽菜を守れると思いました』


 樹里の手が、壇上の端を掴む。


『私から離れれば、あいつは危ない目に遭わずに済む。私のことを忘れて、別の人生を歩ける。そう思いました』


 陽菜は、涙を拭わなかった。


 あの朝。


 何の前触れもなく、樹里が消えた。


 電話はつながらなかった。


 住んでいた部屋からも、バイクも、衣服も、樹里がいた痕跡も消えていた。


 陽菜は何度も探した。


 樹里が行きそうな場所を回り、知っている人間へ聞き、見つからないまま四年を過ごした。


『私は、それが正しいと思っていました』


 樹里は、陽菜から目を逸らさなかった。


『違いました』


 短い言葉だった。


 だが、樹里がそれを認めるまでに、何年もかかっていた。


『陽菜は、四年間、私を探しました』


 樹里の声が掠れる。


『忘れてほしいと思った私を、忘れませんでした』


 陽菜の肩が震える。


 中井が、陽菜の手を握った。


『再会したとき、陽菜は喜ぶより先に怒りました』


 会場から、僅かに笑いが起こる。


『当然です』


 樹里の口元にも、ごく僅かな笑みが浮かんだ。


『私は陽菜を守ったつもりで、陽菜に一番長い傷を残しました』


 その笑みが消える。


『それでも陽菜は、もう一度、私の隣に立ってくれました』


 陽菜は何度も首を横へ振った。


 違うと言いたかった。


 自分だけが樹里の隣へ戻ったのではない。


 樹里もまた、自分を受け入れるために何度も迷った。


 それでも、声にできなかった。


『許してもらえたとは、今でも思っていません』


『総長……』


 陽菜の口から、小さく呼び名が漏れた。


 会場の大半には、その意味が分からない。


 だが、美園には分かる。


 零にも、柚希にも、凛にも分かる。


 陽菜が、何年経っても捨てられなかった呼び名だった。


『何度も怒られました。何度も泣かせました。それでも、陽菜は離れませんでした』


 樹里は一度、息を整えた。


『そして、美園』


 名前を呼ばれ、美園が顔を上げる。


『私と陽菜が、もう一度同じ場所に立てたのは、美園が、私たちの帰れる場所を残してくれたからです』


 美園の目から、涙がこぼれる。


『私が言葉にできないことを、美園はいつも先に分かっていました。陽菜が真っ直ぐ走りすぎれば止め、私が一人で抱えようとすれば、何度でも引き戻しました』


 美園は、泣きながら首を横へ振る。


 自分だけが二人をつないだとは思っていない。


 陽菜が諦めなかったから。


 樹里も、本当は二人を忘れられなかったから。


 三人は、もう一度同じ場所へ戻れた。


『美園がいなければ、今の三人はありません』


 樹里は、美園へ向かって頭を下げた。


『今まで、私たちをつないでくれて、ありがとう』


『……総長』


 美園の声は、誰にも届かないほど小さかった。


 それでも、樹里には聞こえたような気がした。


 樹里が顔を上げる。


『私は、二人を守っているつもりでした』


 陽菜と美園を交互に見る。


『私が前に立たなければならないと思っていました。私が決め、私が背負い、二人を後ろへ置くことが、守ることだと思っていました』


 声が少しずつ崩れていく。


『ですが、本当は違います』


 樹里の目から、初めて涙が落ちた。


『私は、二人に救われていました』


 会場が静まり返る。


『陽菜が隣へ来てくれたから、一人でなくなりました』


 もう一滴、涙が頬を伝う。


『美園が帰れる場所を残してくれたから、私は戻ることができました』


 樹里は涙を拭わなかった。


『二人がいなければ、私は今日、ここにいません』


 陽菜が声を押し殺して泣いている。


 美園も、両手で口元を覆っていた。


 三人が見ている時間は、それぞれ違っていた。


 美園は、樹里が誰にも頼らず、一人で走り続けた夜を知っている。


 傷だらけになっても弱音を吐かず、すべてを背負おうとした樹里を知っている。


 陽菜は、樹里が消えた朝を知っている。


 昨日まで確かにあった背中が、何の言葉も残さず消えていた絶望を知っている。


 そして樹里は知っている。


 二人がいなければ、自分が今ここに立っていないことを。


 それを、初めて人前で認めていた。


     ◇


 神谷は、樹里から目を離せなかった。


 いつも冷静に言葉を選ぶ人。


 仕事では、数字と記録を積み重ね、感情を表へ出さずに正しい答えを探す人。


 神谷が知っている樹里の奥に、陽菜と美園がいる。


 その二人と過ごした時間を、神谷はすべて知ることはできない。


 それでも、その時間が樹里をここまで生かしてきたことは分かった。


 神谷は二枚目のハンカチを取り出し、目元を押さえた。


 黒澤も、今度はからかわなかった。


 彩花は、会社で一度も見たことのない樹里の涙に、言葉を失っていた。


 高村も、静かに涙を拭っている。


 佐藤は、美園が泣く姿を見つめていた。


 佳菜は、樹里の言葉を聞きながら、陽菜へ目を向ける。


 自分が埋められなかった場所に、樹里と美園がいた。


 それを悲しいとは思わなかった。


 陽菜を一人にしなかった二人へ、今は感謝しかなかった。


     ◇


『陽菜』


 樹里が、もう一度名前を呼ぶ。


 陽菜は涙で濡れた顔を上げた。


『お前は、もう私がいなくても歩けます』


 陽菜の表情が僅かに揺れる。


『守られるだけの人間ではありません。自分で考え、自分で決め、自分の足でここまで来ました』


 樹里は、陽菜の腹部へ目を向ける。


『今は、自分の中にいる命まで守ろうとしています』


 陽菜が腹部へ手を添える。


『中井さんと出会って、陽菜は変わりました』


 中井が、樹里を見る。


『一人で平気なふりをすることをやめました。怖いときには怖いと言い、できないことを誰かへ任せ、人に支えられることを受け入れました』


 樹里の涙が、止まらなくなる。


『そして、誰かに愛されることから逃げなくなりました』


 陽菜が中井の手を握る。


『私は、それが何より嬉しいです』


 声が震える。


『陽菜』


 樹里は、何度も言葉を探した。


 原稿にはない。


 これまで一度も、陽菜へ伝えたことのない言葉だった。


『私は、お前の姉ではありません』


 佳菜が、樹里を見る。


『血もつながっていません』


 一度、息を吸う。


『友人という言葉だけでも、私たちの関係を説明できないと思っています』


 陽菜の目から、また涙が落ちる。


『それでも、今なら言えます』


 樹里の声が掠れた。


『陽菜』


 もう一度、名前を呼ぶ。


『私は、お前を家族として愛しています』


 陽菜が顔を覆った。


 肩を震わせ、声を押し殺すこともできずに泣いた。


 中井は、その背中へ手を添える。


 美園も俯き、涙を拭う。


 樹里は、美園へ顔を向けた。


『美園もです』


 美園が顔を上げる。


『お前も、私の家族です』


 美園の涙に濡れた顔が、泣き笑いへ変わる。


『今さらだよ、総長』


 マイクから離れた樹里には、美園の声が聞こえた。


『ああ』


 樹里も、小さく頷いた。


     ◇


 樹里は中井へ目を向けた。


『中井さん』


「はい」


 中井は席から立ち上がった。


『最初は、あなたが陽菜の隣に立つことを、簡単には認められませんでした』


「はい」


『陽菜を守れるのか。傷つけないのか。途中で逃げないのか。私は、そればかり見ていました』


 中井は、樹里から目を逸らさない。


『ですが、いつの間にか陽菜は、私たちにも見せなかった顔を、あなたの前で見せるようになりました』


 陽菜が涙の間から中井を見る。


『あなたは、陽菜の強さを奪おうとしませんでした』


 樹里は続ける。


『陽菜が弱さを見せたときも、その弱さを理由に何かを取り上げようとはしませんでした』


 中井の目にも涙が浮かぶ。


『あなた自身が怖いときも、最後には逃げず、陽菜の隣にいると決めてくれました』


「はい」


『陽菜が、怖いと言える場所になってくれました』


 樹里は中井へ向かって、深く頭を下げた。


『ありがとうございます』


「頭を上げてください」


 中井の声も震えていた。


 樹里は、すぐには顔を上げられなかった。


 何度も呼吸を整え、ようやく身体を起こす。


『陽菜はもう、自分の足で歩けます』


「はい」


『ですから、守ってくださいとは言いません』


 中井が頷く。


『ただ、陽菜が立ち止まったときは、隣で待っていてください』


「はい」


『中井さんが立ち止まったときは、陽菜を頼ってください』


「はい」


『どちらかが先に行くのでも、どちらかが待ち続けるのでもなく――』


 樹里は一度、言葉を止めた。


 神谷と二人で歩くと決めた夜を思い出す。


『二人で歩幅を合わせて、同じ方向へ歩いていってください』


「はい」


 中井は、はっきりと答えた。


「二人で歩いていきます」


 樹里の口元が、僅かに緩む。


 最後の言葉を伝えようとする。


『中井さん』


「はい」


『これからも――』


 声が詰まった。


 樹里は口元へ手を当てる。


 涙が止まらない。


 何度息を吸っても、言葉にならなかった。


 陽菜は泣きながら、樹里を見つめている。


 美園も、席から樹里へ向かって何度も頷いていた。


 樹里は壇上の端を掴み、もう一度声を出そうとした。


『……これからも』


 完全に声が崩れる。


 それでも、逃げなかった。


『陽菜のことを、よろしくお願いします』


 中井は、深く頭を下げた。


「はい」


 涙を流しながら顔を上げる。


「陽菜さんと、これから生まれてくる子どもと、三人で歩いていきます」


 樹里は頷いた。


 それ以上、何も言えなかった。


 会場全体から拍手が起こる。


 最初は静かに。


 やがて、樹里を包むように大きくなっていく。


 神谷は涙を拭いながら拍手を送っていた。


 黒澤も、何度も頷いている。


 彩花と高村。


 佐藤と青柳。


 陸と萌。


 凛と柚希と零。


 中井の家族。


 佳菜。


 全員が涙を浮かべながら、樹里へ拍手を送っていた。


 樹里は壇上に置いた原稿を見る。


 最後まで整えた文章。


 何度も書き直した言葉。


 結局、最初の数行しか読まなかった。


 樹里は原稿を手に取り、もう一度陽菜を見る。


 陽菜は泣きながら笑っていた。


『……総長』


 静かになりかけた会場へ、陽菜の声が届く。


 会社の人間たちが、聞き慣れない呼び名に僅かに首を傾げる。


 だが、陽菜は気にしなかった。


『原稿、一文字も読めてないじゃん』


 会場に、一瞬の沈黙が落ちる。


 次の瞬間、美園が泣きながら吹き出した。


 零も顔を伏せて笑い、柚希と凛が涙を拭いながら口元を緩める。


 会社の人間たちからも、少しずつ笑いが広がった。


 樹里は涙に濡れた目で、陽菜を睨む。


 まだマイクの前に立っている。


『うるさい』


 その声が、会場中へ響いた。


 温かい笑いと拍手が、もう一度樹里を包んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。