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324話「隣を選ぶ」

拍手の中、佐藤は会場の前方へ歩いていった。


 手には、何度も読み直したスピーチ原稿がある。


 壇上へ上がる直前、もう一度だけ美園を見る。


 美園は女性たちのテーブルに座り、穏やかに笑っていた。


 終わったら、私の隣へ戻ってきて。


 先ほど言われた言葉を思い出し、佐藤はマイクの前へ立った。


 会場を見渡す。


 会社で顔を合わせている者。


 今日、初めて会う中井の家族。


 そして、会場の正面に並んで座る陽菜と中井。


 中井は、佐藤以上に緊張した表情でこちらを見ていた。


「ただいまご紹介にあずかりました、新郎の友人で、同じ島川不動産に勤務しております佐藤と申します」


 佐藤は一礼し、原稿へ視線を落とした。


「中井さん、櫻井さん。本日は誠におめでとうございます」


「ありがとうございます」


『ありがとう、佐藤くん』


「ご両家、ご親族の皆様にも、心よりお祝い申し上げます」


 もう一度、丁寧に頭を下げる。


 中井の両親も、それに応えた。


「ここからは、普段どおり中井さん、櫻井さんと呼ばせていただきます」


 佐藤は一度息を整えた。


「中井さんと俺は、同じ営業部で働いています」


 原稿を読みながら、会社で過ごした時間を思い出す。


「初めて会った頃の中井さんは、とても真面目で、隙のない人に見えました。仕事は正確で、約束の時間は必ず守り、書類の確認も怠りません」


 黒澤が、席から大きく頷く。


「そのとおりだな」


 小さな笑いが起こった。


「ただ、真面目すぎるところがあります。自分が納得するまで何度も確認するため、周囲から見ると、少し心配しすぎではないかと思うこともあります」


 佐藤は原稿から顔を上げ、陽菜を見る。


「特に、櫻井さんのことになると」


 会場から笑いが広がった。


 中井が僅かに俯く。


 陽菜は隣にいる中井を見て、楽しそうに笑っている。


「櫻井さんが大丈夫だと言っても、もう一度尋ねます」


『一回じゃないよ』


 陽菜が口を挟む。


『最低でも三回』


 会場の笑い声が大きくなった。


「陽菜さん」


『本当でしょ』


「大切なことなので」


「今の言葉で、俺の話が間違っていないことを証明していただきました」


「佐藤さん」


 今度は中井が呼ぶ。


 佐藤も思わず笑った。


「ですが、中井さんが心配するのは、相手を信用していないからではありません」


 会場の笑いが、少しずつ静まる。


「自分が気づかなかったことで、誰かが困ることを恐れているからです」


 佐藤は、原稿へ視線を戻した。


「仕事でもそうです。誰かが見落としたことを責めるより、先に自分が確認します。困っている人がいれば、自分の予定を変えてでも手を貸します」


 中井は黙って聞いている。


「そのため、ときどき自分のことを後回しにします。何も言わずに考え込み、一人で正しい答えを探そうとします」


 陽菜の笑顔が、僅かに変わった。


 数か月前。


 父親になることを恐れ、自分ではない人間の方が陽菜を幸せにできるのではないかと、中井が一人で考えていた夜。


 そのことを、佐藤は知らない。


 だが、今語られているのは、確かに中井のことだった。


「仕事には、契約書があります」


 佐藤は、島川不動産の社員たちへも視線を向ける。


「条件が書かれ、誰が何をするのかが決められています。それでも、書かれていないことが起きます。俺たちは、そのたびに話し合い、相手の事情を聞き、答えを探します」


 神谷と樹里が、静かに佐藤を見ていた。


 高槻興産の案件でも、数字と契約だけでは解決できないことがあった。


 互いの正しさをぶつけ、一度は対立し、それでも同じ場所へ戻って話し合った。


「家庭には、契約書すらありません」


 会場に、穏やかな笑いが起こる。


「何が正しいのか、最初から書かれたものはないと思います。どちらが何をするのかも、生活が変われば変わっていきます」


 佐藤は陽菜の腹部へ目を向けた。


「これからお子さんが生まれれば、二人の予定どおりに進まないことは、きっと今より増えます」


 陽菜が腹部へ手を添える。


 中井も、その手へ自分の手を重ねた。


「中井さん。一人で正しい答えを出そうとしないでください」


 中井が顔を上げる。


「櫻井さんが隣にいます」


 佐藤は陽菜を見る。


「櫻井さん。中井さんが一人で考え込み始めたら、今までどおり声をかけてあげてください」


『怒ってもいい?』


「加減してあげてください」


『努力する』


「そこは約束していただけませんか?」


『無理かも』


 また会場が笑いに包まれる。


 中井も、困ったように笑っていた。


「その笑顔を見ていると、大丈夫だと思います」


 佐藤は原稿を一度見たあと、紙から顔を上げた。


 次に話す言葉は、原稿へ書き加えるか、最後まで迷ったものだった。


「俺自身、大切な人から、俺のためを思って別の未来を選ばれたことがあります」


 美園の表情が、僅かに止まる。


 佐藤は、美園を見なかった。


 今見れば、続きが言えなくなる気がした。


「その人はきっと、自分がそばにいることで、俺の未来を狭くしてしまうと思ったのだと思います」


 美園が、膝の上で両手を握る。


「もっと相応しい相手がいる。自分と一緒にいない方が、俺は幸せになれる。そう考えて、俺の前から離れようとしました」


 佐藤の声は、穏やかだった。


 責める響きはない。


「ですが、置いていかれた俺には、その未来が本当に幸せなのかを選ぶ機会すらありませんでした」


 樹里の指が、膝の上で僅かに動いた。


 同じことを、自分もした。


 陽菜を守るつもりで、何も告げずに姿を消した。


 その結果、陽菜へ四年間も自分を探させた。


 中井もまた、自分ではない人間の方がいいのではないかと考えた。


 三人とも、相手のためという言葉の中へ、自分の恐れを隠そうとした。


「だから俺は、その人に伝えました」


 佐藤は、そこで初めて美園を見た。


 美園の目には、涙が浮かんでいる。


 それでも、美園は佐藤から目を逸らさなかった。


「俺の未来を、勝手に決めないでほしいと」


 美園の唇が、僅かに震える。


「誰かを大切に思うなら、その人の未来を、自分一人の中で決めてはいけないのだと思います」


 佐藤の声は、もう震えていなかった。


「自分が隣にいることで、本当に相手を不幸にするのか。相手が何を望んでいるのか。怖くても、本人へ聞かなければ分かりません」


 佐藤は、言葉を区切った。


「そして、聞かれた側にも、自分で選ぶ権利があります」


 美園は涙を拭わなかった。


 佐藤があの日、閉店後のRoseで自分へ伝えた言葉を思い出していた。


 僕の未来を、勝手に決めないでください。


 美園は佐藤から、その選択を奪おうとした。


 傷つけられることを恐れ、佐藤に選ばせる前に、一人で終わらせようとした。


「大切な人のために離れることが、いつも優しさになるとは限りません」


 佐藤は中井へ向き直る。


「中井さん。これから何かに迷ったときは、一人で答えを決めず、櫻井さんへ話してください」


「はい」


 中井が、はっきりと答える。


「自分ではない誰かの方がいいとは、考えないでください」


 中井の目が僅かに見開かれる。


 佐藤は知らないはずだった。


 だが、その言葉は、かつて中井が樹里と美園の前で口にしたものと同じだった。


「はい」


 中井はもう一度答えた。


「もう、考えません」


 陽菜が中井を見る。


 中井も陽菜へ顔を向けた。


 二人の手は、腹部の上で重なったままだった。


「櫻井さんが選んだ人は、中井さんです」


 佐藤は続ける。


「そして、中井さんが選んだ人は、櫻井さんです」


 陽菜の目に、涙が浮かぶ。


「その選択を、これから何度でも二人で確かめ合ってください」


 佐藤は、二人の中にいる命へ向けるように、言葉を続けた。


「これから生まれてくるお子さんへ」


 会場が静まる。


「お父さんは、少し心配性です。たぶん、転ぶ前から手を差し出し、風邪を引く前から体温を測ろうとします」


 中井が僅かに俯く。


 陽菜は涙を浮かべながら笑っていた。


「ですが、あなたのことを誰よりも見て、何度でも名前を呼んでくれる人です」


 佐藤の声が、少しだけ柔らかくなる。


「お母さんは、明るく、強く、少しだけ悪戯好きです」


『少しだけ?』


 陽菜が尋ねる。


「今日のケーキを見る限り、かなり、かもしれません」


 笑いが起こる。


「ですが、誰かが傷ついたとき、その痛みを自分のことのように感じられる人です」


 陽菜の笑顔から、僅かに力が抜ける。


「二人とも、完璧ではありません」


 佐藤は、ゆっくりと言葉を結んでいく。


「それでも、二人なら、分からないことを分からないまま話し合い、あなたと一緒に家族になっていけると、俺は思っています」


 佐藤は原稿を閉じた。


「中井さん、櫻井さん」


 二人をまっすぐに見る。


「これからも、隣にいる人の言葉を聞いてください」


 中井が頷く。


 陽菜も、涙を拭わずに頷いた。


「お二人と、これから生まれてくるお子さんの幸せを、心から願っています」


 佐藤は深く頭を下げた。


「本日は、本当におめでとうございます」


 会場全体から、温かい拍手が起こった。


     ◇


 中井は席を立った。


 陽菜も立とうとしたが、中井が腹部へ負担がかからないよう手を添える。


 二人は並び、佐藤へ向かって頭を下げた。


「佐藤さん。ありがとうございます」


『ありがとう、佐藤くん』


 佐藤も、もう一度頭を下げた。


 壇上を下りる。


 緊張が解けた途端、足元が僅かに頼りなく感じた。


 自分の席へ戻る前に、美園が座るテーブルのそばを通る。


 美園が手を差し出した。


 佐藤は足を止め、その手を取る。


『おかえり』


「ただいま戻りました」


『よかったよ』


「硬くありませんでしたか?」


『佐藤くんらしかった』


「途中、原稿にないことも話しました」


『分かった』


「嫌でしたか?」


『ううん』


 美園は佐藤の手を握ったまま、首を横へ振る。


『話してくれて、嬉しかった』


「美園さん」


『私も、もう勝手に決めないから』


「はい」


『怖くなったら、ちゃんと佐藤くんに聞く』


「何度でも答えます」


『うん』


 美園は名残惜しそうに、佐藤の手を離した。


『席、戻らないと』


「はい」


『あとでね』


「あとで」


 佐藤は、自分の席へ戻っていく。


 美園はその後ろ姿を見つめながら、目元をそっと拭った。


     ◇


 拍手が静まる。


 司会者が、次の進行を確認する。


「佐藤様、心温まるお祝いのお言葉をありがとうございました」


 佐藤が席から、もう一度頭を下げる。


 司会者は手元の進行表へ視線を落とした。


「続きまして、新婦ご友人を代表いたしまして――」


 樹里の手が、鞄の上で止まる。


 美園が隣から樹里を見る。


 神谷も、離れた席から視線を向けた。


 陽菜は涙を拭いながら、樹里だけを見つめている。


「日高樹里様より、お祝いのお言葉を頂戴いたします」


 会場から拍手が起こった。


 樹里は鞄を開き、封筒を取り出す。


 指先に、僅かに力が入っていた。


『日高さん』


 美園が、周囲にだけ聞こえる声で呼ぶ。


 樹里が横を見る。


『何だ』


『行ってらっしゃい』


 樹里は一瞬だけ黙り、小さく頷いた。


『行ってくる』


 椅子から立ち上がる。


 深い紺色のドレスに身を包んだ樹里へ、会場中の視線が集まった。


 会社では、誰よりも冷静で、どれほど大きな案件でも迷わない人間に見える。


 高槻興産の社長を前にしても、樹里の手が震えることはなかった。


 だが今、その手に持たれた封筒の端は、僅かに揺れていた。


 神谷だけが、その震えに気づいている。


 樹里は会場の前方へ向かう。


 一歩ずつ。


 陽菜の前へ近づいていく。


 マイクの前へ立つ。


 封筒から、最後まで整えた原稿を取り出した。


 紙を開く。


 最初の行へ視線を落とす。


 陽菜は、泣きながら笑っていた。


 樹里は一度息を吸い、マイクへ顔を近づけた。

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