323話「愛情の量」
会場の照明が、ウェディングケーキへ集まる。
白いクリームに果物と花が飾られた、大きなケーキ。
その前へ案内された陽菜と中井は、一本のナイフを二人で持った。
「それでは新郎新婦のお二人に、ウェディングケーキへご入刀いただきます」
司会者の声に合わせ、招待客が席を立つ。
スマートフォンやカメラが一斉に二人へ向けられた。
中井はナイフの柄へ手を添え、その上から陽菜の手を包む。
「陽菜さん、位置は大丈夫ですか?」
『大丈夫』
「無理に力を入れなくていいです」
『ケーキ切るだけだよ』
「ナイフが滑るかもしれません」
『あたし、子どもじゃないから』
「分かっています」
『じゃあ、もう少し笑って』
「笑っています」
『また顔固くなってるよ』
陽菜はカメラの方を向きながら、小さく笑う。
中井も息を吐き、ようやく表情を緩めた。
「それでは、お願いいたします」
二人は同時にナイフを下ろした。
柔らかなクリームへ刃が入り、会場から大きな拍手が起こる。
「陽菜先輩、こっち見てください!」
陸がカメラを構えながら声をかける。
『陸、ちゃんと撮ってね』
「任せてください」
「陸くん、手がぶれてる」
隣にいる萌が画面を覗き込む。
「拍手しながら撮ったから」
「どっちかにして」
「じゃあ、萌さんが撮って」
「今から?」
『二人とも、撮れてる?』
「撮れてます!」
陸が慌てて答える。
周囲から笑いが起こった。
陽菜と中井はナイフを入れたまま、招待客へ笑顔を向ける。
何度もシャッター音が鳴った。
樹里は自分では撮影せず、二人の姿を見つめていた。
隣では美園がスマートフォンを構えている。
『日高さん、撮らないんですか?』
『美園が撮っているだろう』
『自分でも撮ればいいのに』
『あとでもらいます』
『私が失敗してたら?』
『失敗しないだろう』
『信用してくれてるんだ』
『今は黙って撮れ』
美園は笑いながら、再び画面を二人へ向けた。
ケーキへナイフを入れた陽菜の背中は、白い布で完全に覆われている。
樹里も、美園も同じだった。
三人の背中にあるものは誰にも見えない。
それでも美園が撮った写真には、違う場所に立ちながら同じ時間を生きる三人が、確かに残っていた。
◇
ケーキ入刀が終わると、司会者が続ける。
「続きまして、お二人にはファーストバイトを行っていただきます」
陽菜の口元が、僅かに緩んだ。
中井は、その横顔を見逃さなかった。
「やはり、何か考えていますね」
『何も考えてないよ』
「昨日から、同じ顔をしています」
『どんな顔?』
「悪戯をするときの顔です」
『失礼だなぁ』
式場スタッフが、最初に中井へ小さなスプーンを渡した。
中井は切り分けられたケーキを見て、慎重に量を取る。
『少なくない?』
「ドレスへ落としたら大変です」
『もう少し食べられるよ』
「最初は、このくらいにしてください」
『中井くんらしい』
「口を開けてください」
『はい』
陽菜が口を開く。
中井はクリームを落とさないよう、ゆっくりとスプーンを運んだ。
陽菜が一口で食べる。
会場から拍手が起こった。
『おいしい』
「よかったです」
『もう一口』
「続きは、あとで食べましょう」
『けち』
「体調を考えているだけです」
『じゃあ、次はあたしね』
陽菜がスタッフへ手を差し出す。
スタッフが持ってきたのは、先ほど中井が使ったものとは比べものにならないほど大きなスプーンだった。
会場がどよめく。
中井の表情が止まった。
「陽菜さん」
『何?』
「そのスプーンは、どこから出てきたんですか?」
『用意してもらった』
「いつですか?」
『中井くんに内緒で』
「やはり、最初から考えていましたね」
『愛情の分だけ食べさせるんだって』
「それは、量を減らしても愛情は変わらないと思います」
『駄目』
「少し話し合いませんか?」
『もう始まってるよ』
陽菜は大きなスプーンで、ケーキをすくい始めた。
クリームだけではない。
スポンジと果物まで載せていく。
「陽菜さん、多くありませんか?」
『これくらい』
「明らかに一口ではありません」
『中井くんなら大丈夫』
「何を根拠に言っているんですか?」
会場のあちこちから笑い声が上がる。
「中井、覚悟を決めろ!」
黒澤が楽しそうに声をかけた。
「黒澤部長、助けてください」
「今日くらい諦めろ」
「何を諦めるんですか?」
「新婦には逆らえないってことだ」
『黒澤部長、分かってますね』
「櫻井さん、遠慮なくいけ」
「勧めないでください」
黒澤の隣で、神谷も笑っていた。
「中井さん。ここまで来たら、受け入れるしかないと思います」
「神谷部長まで、そちら側ですか?」
「俺も止められる自信がありません」
『神谷さんにも、あとで一口あげますね』
「申し訳ありません。遠慮します」
再び笑いが広がる。
陽菜は大きなスプーンを持ち上げた。
『中井くん、口開けて』
「本当に全部ですか?」
『あたしの愛情、受け取ってくれるんでしょ』
「その言い方は、断れません」
『じゃあ、早く』
中井は諦めたように、陽菜の前へ顔を近づけた。
「できるだけ、ゆっくりお願いします」
『分かった』
「顔にはつけないでください」
『分かったって』
「今、目を逸らしましたよね」
『口開けて』
中井が口を開く。
陽菜は、最初だけは慎重にスプーンを近づけた。
中井がケーキを食べようとした瞬間、陽菜がもう一歩踏み込む。
大きなスプーンが、中井の口元へ押し込まれた。
食べきれなかったクリームが、頬と鼻の先まで広がる。
中井が目を閉じる。
陽菜は最後にスプーンを僅かに横へ動かし、さらに頬へクリームをつけた。
会場全体が、大きな笑いと拍手に包まれた。
『できた』
陽菜が満足そうに笑う。
中井は、口の中のケーキをゆっくりと食べた。
目を開く。
鼻と両頬が、白いクリームに覆われていた。
「陽菜さん」
『何?』
「最初から、顔につけるつもりでしたね」
『何のこと?』
「笑いながら言っても、誤魔化せません」
『ちゃんと食べられたでしょ』
「食べました」
『おいしかった?』
「おいしかったです」
『じゃあ成功』
「顔まで使う必要はなかったと思います」
『愛情が多すぎたんだよ』
「昨日、量を減らしても愛情は変わらないと言いました」
『それは中井くんの考えでしょ』
陽菜が笑う。
中井は困ったように息を吐きながらも、怒ってはいなかった。
スタッフから渡されたナプキンを受け取ろうとする。
『待って』
陽菜が先にナプキンを取り、中井の鼻先へついたクリームを拭った。
「自分でできます」
『あたしがやったんだから、あたしが拭く』
「では、お願いします」
『目閉じて』
「また何かしませんか?」
『しないよ』
「信用していいですか?」
『たぶん』
「たぶんですか?」
陽菜は笑いながら、中井の頬を丁寧に拭いていく。
すべてを拭き取ったあと、顔を確認する。
『綺麗になった』
「ありがとうございます」
『怒ってる?』
「怒っていません」
『本当に?』
「陽菜さんが楽しそうなので」
『中井くんも楽しかったでしょ』
「ケーキはおいしかったです」
『そこだけ?』
「陽菜さんらしいと思いました」
『褒めてる?』
「もちろんです」
陽菜は嬉しそうに笑った。
その姿へ、会場からもう一度拍手が送られる。
◇
「兄貴、最高だった」
中井の弟が、撮影した写真を母へ見せる。
画面には、顔中を白いクリームで覆われた中井が写っていた。
「あとで送って」
「母さんまで?」
「記念でしょう」
「削除してください」
戻ってきた中井が言う。
「嫌だよ」
『あたしにも送って』
「義姉さんには全部送ります」
「陽菜さん」
『この子が大きくなったら見せるんだから』
「挙式の写真だけで十分では?」
『駄目。結婚式でお父さんがケーキまみれにされたんだよって教える』
「今から決めないでください」
『嫌なの?』
「……嫌ではありません」
『じゃあ決まり』
中井の家族が笑う。
父も画面を見て、声を出さずに肩を揺らしていた。
◇
女性たちのテーブルでも、笑いが収まっていなかった。
「陽菜先輩、やると思いました」
萌が言う。
「昨日から狙ってた顔だったよね」
柚希も笑う。
「中井さん、全然怒らなかったっすね」
「怒れないんじゃない?」
凛が答える。
「櫻井さんらしいね」
彩花が撮影した写真を確認している。
「顔へつける瞬間も、綺麗に撮れました」
高村が画面を見せた。
『高村さんまで撮っていたんですか?』
樹里が尋ねる。
「はい。櫻井さんが何かすると思ったので」
『全員、分かっていたんですね』
「日高は分からなかったの?」
『分かっていました』
「止めなかったんだ」
『止める理由がありません』
『総長、笑ってたもんね』
美園が小さな声で言った。
周囲の笑い声に紛れ、ほかの者には聞こえていない。
樹里が美園を見る。
『笑っていない』
『口元、隠してたよ』
『ケーキが飛ぶかもしれないと思っただけだ』
『ここまで飛ばないでしょ』
「日高さんも笑っていましたよ」
神谷が、近くを通りながら会話へ加わる。
『神谷さん』
「はい」
『自分の席へ戻ってください』
「飲み物を取りに来ただけです」
「神谷部長、また日高見てたでしょう」
彩花が言う。
「見ていません」
「今、話しかけてましたよ」
「会話が聞こえたので」
「今日は言い訳が多いですね」
「森下さんまで、俺をからかわないでください」
神谷は飲み物を手に取り、自分の席へ戻っていく。
黒澤がその姿を見て、何かを察したように笑っていた。
樹里は視線を落とし、料理へ手を伸ばした。
『顔、少し赤いよ』
美園が囁く。
『黙って食べろ』
『はいはい』
◇
切り分けられたウェディングケーキが、それぞれのテーブルへ運ばれた。
二度目の歓談が始まる。
佐藤は自分の席に座ったまま、胸元の内ポケットへ何度も手を当てていた。
スピーチ原稿が入っている。
内容は覚えている。
昨日もRoseで何度も読み返した。
それでも、会場の広さと招待客の数を見ていると、書いた言葉が急に頼りなく思えてくる。
「佐藤くん」
美園が、佐藤の席へ来ていた。
「美園さん」
『緊張してる?』
「少しだけです」
『嘘』
「かなり緊張しています」
『正直でよろしい』
「原稿を忘れた方が、自然に話せるでしょうか」
『今、それをしたら何も出てこないと思う』
「やはり、そうですよね」
『書いてきたものを読めばいいよ』
「硬いと言っていませんでしたか?」
『佐藤くんが書いたなら、それも佐藤くんでしょ』
佐藤は胸元から手を離した。
「失敗したら、どうしますか?」
『戻ってくればいいよ』
「どこへですか?」
『私の隣』
佐藤が美園を見る。
美園は、何でもないことのように笑っていた。
『終わったら、ここに戻ってきて』
「はい」
『ちゃんと待ってるから』
「分かりました」
佐藤の表情から、僅かに緊張が抜ける。
「では、行ってきます」
『まだ呼ばれてないよ』
「気持ちだけです」
『早い』
二人が笑う。
美園は佐藤のネクタイへ手を伸ばし、僅かに位置を整えた。
『これで大丈夫』
「曲がっていましたか?」
『少しだけ』
「ありがとうございます」
『いつもの佐藤くんで話してきて』
「はい」
美園は自分の席へ戻っていく。
佐藤はその背中を見送り、ゆっくりと息を吐いた。
◇
同じ頃。
樹里は鞄から、スピーチ原稿の入った封筒を取り出していた。
封を開き、折り畳んだ紙を広げる。
一行目。
「新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり親しくさせていただいております」
二行目。
「責任感が強く、誰に対しても明るく接する、信頼できる友人です」
整っている。
失礼な表現もない。
友人代表として、披露宴で読む内容としては間違っていない。
樹里は、会場の正面を見る。
陽菜は中井の家族に囲まれ、先ほどの写真を見ながら笑っていた。
白いドレスを着ていても。
大勢の視線を集めていても。
中井の顔をケーキまみれにして笑う陽菜は、いつもの陽菜だった。
原稿に書かれた「櫻井陽菜さん」と、目の前にいる陽菜が重ならない。
『日高さん』
神谷が、樹里の隣へ来た。
『何ですか?』
「お水を持ってきました」
『ありがとうございます』
神谷はグラスをテーブルへ置く。
原稿へは目を向けない。
「緊張していますか?」
『していません』
「聞いていません」
樹里が神谷を見る。
「水を持ってきたと言っただけです」
『そうでしたか』
「はい」
神谷は、樹里の手にある原稿を見ないまま続ける。
「読む前に、一口飲んでください」
『まだ私の番ではありません』
「分かっています」
『神谷さんは心配しすぎです』
「そうかもしれません」
樹里はグラスを持ち、一口だけ水を飲んだ。
『ありがとうございます』
「どういたしまして」
『もう戻ってください』
「はい」
神谷は何も尋ねず、自分の席へ戻っていった。
樹里は再び原稿へ視線を落とす。
紙に書かれた文字は、変わらない。
違和感も、消えなかった。
◇
歓談の時間が終わりに近づく。
照明が僅かに落ち、司会者がマイクを手に取った。
「皆様、ご歓談中ではございますが、ここで新郎の新婦のお二人へ、ご友人からお祝いの言葉を頂戴したいと思います」
会場の話し声が静まっていく。
佐藤は一度、美園の方を見た。
美園が小さく頷く。
「まずは新郎ご友人を代表いたしまして、佐藤様にお願いいたします」
拍手が起こる。
佐藤は原稿を手に取り、席を立った。
美園の隣へ戻ってくる。
その約束を胸に、会場の前方へ歩き始めた。




