322話「温かい拍手」
「新郎新婦のご入場です」
司会を務める式場スタッフの声が響く。
閉じていた扉が開き、眩しいほどの光が会場へ差し込んだ。
その中に、陽菜と中井が並んで立っている。
会場全体から、温かい拍手が湧き起こった。
中井は礼服姿で、陽菜の歩幅に合わせるように僅かに身体を向けている。
陽菜は白いウェディングドレスを身につけ、大きくなった腹部へ片手を添えていた。
長いベールは外されている。
背中は、首元から腰まで不透明な白い布に覆われていた。
その下に何が刻まれているのか、会社の人間には分からない。
それでも、樹里と美園には見えている気がした。
三人で生きていた時間を抱えたまま、陽菜が中井の隣を歩いてくる。
「陽菜さん」
中井が小さな声で呼ぶ。
『何?』
「ゆっくりで大丈夫です」
『分かってる』
「足元は見えていますか?」
『見えてるって』
「裾を踏みそうになったら、すぐに言ってください」
『中井くん』
「はい」
『みんな見てるよ』
「分かっています」
『なら、もう少し笑って』
「笑っています」
『顔、固い』
陽菜が笑う。
その笑顔を見て、中井の表情からも僅かに緊張が抜けた。
二人は拍手に包まれながら、会場の中央をゆっくりと進んでいく。
◇
「陽菜先輩、すごく綺麗」
女性たちのテーブルで、萌が呟いた。
隣に座る零も、陽菜の姿を見つめている。
「本当に綺麗っすね」
「うん」
柚希が何度も頷く。
「お腹も、前に会ったときより大きくなってる」
「三人で歩いてるみたい」
凛が言った。
その隣のテーブルでは、青柳が静かに拍手を送っている。
佐藤は、普段の会社では見せない陽菜と中井の姿を目で追いながら、穏やかに笑っていた。
陸は二人が近くを通ると、拍手をさらに強くする。
「陽菜先輩!」
呼びかける。
陽菜が陸の方を見る。
『陸、声大きい』
「おめでとうございます!」
『ありがとう!』
陽菜の返事に、会場から笑いが起きた。
陸は照れたように席へ座り直す。
萌が隣のテーブルから顔を向けた。
「今の、会場中に聞こえたよ」
「聞こえるように言ったから」
「陽菜先輩、驚いてた」
「喜んでた」
「そうかな」
「笑ってたから」
陸はそう言いながら、もう一度二人へ拍手を送った。
◇
彩花は、近づいてくる陽菜を見ながら目を細めた。
「櫻井さん、本当に結婚したんですね」
「まだ信じられませんか?」
高村が尋ねる。
「信じています。ただ、会社で見ている姿と違いすぎて」
「綺麗ですね」
「はい」
彩花の視線は、陽菜の隣にいる中井へ移る。
中井は会場へ手を振る余裕もなく、陽菜の足元と前方を交互に確認している。
「あれは会社と変わりませんね」
「何がですか?」
「中井さんです。結婚式でも櫻井さんの心配しかしていません」
「中井さんらしいですね」
二人が笑う。
陽菜がその声に気づき、彩花と高村の方を見る。
『彩花さん、高村さん、来てくれてありがとうございます』
「おめでとうございます、櫻井さん」
「とても綺麗です」
『ありがとうございます』
陽菜は嬉しそうに笑い、中井とともに進んでいった。
高村は陽菜の歩き方や表情を見て、体調に問題がないことを確かめるように小さく頷いた。
◇
中井の家族が座る席の前を通る。
母は、挙式で使ったハンカチを再び目元へ当てていた。
「さっきも見たのに、また泣いてる」
弟が言う。
「何度見ても同じよ」
「兄貴より、陽菜さんしか見てないだろ」
「今日くらいいいでしょう」
「俺もいるんだけど」
近くを通った中井が言う。
「ちゃんと見てるわよ」
「ついでみたいに言わないでくれ」
陽菜が笑う。
『あたしを見てもらえる方が嬉しいでしょ』
「それはそうですが」
「兄貴、今日も勝てなさそうだな」
『今日だけじゃないよ』
「陽菜さん」
『何?』
家族の間に笑いが起こる。
中井の父も、笑いながら二人へ拍手を送っていた。
◇
佳菜は、席から立ったまま陽菜を見つめていた。
陽菜が近くを通る。
控室では交わせなかった言葉を、もう一度探そうとする。
だが、声が出るより先に、陽菜から笑いかけた。
『姉ちゃん』
「うん」
『ちゃんと見てる?』
「見てるよ」
『最後まで見ててね』
「うん」
佳菜は涙を拭いながら、何度も頷いた。
「おめでとう」
『ありがとう』
二人の間で交わされた言葉は、それだけだった。
それでも、これまで必要な連絡しかできなかった姉妹にとっては、十分に長い会話だった。
中井も佳菜へ頭を下げる。
佳菜はそれに応え、二人が前へ進む姿を見送った。
◇
樹里と美園が座るテーブルへ近づく。
陽菜は、二人の前で歩く速度を僅かに落とした。
会社の人間たちと同じテーブルにいるため、声をかけるときの呼び方は変わる。
『日高先輩、美園さん』
『綺麗だよ、陽菜』
美園が笑う。
『さっきも聞いた』
『何回でも言うって約束したでしょ』
『そうだった』
陽菜は樹里を見る。
樹里は拍手を止めず、陽菜の姿を見つめていた。
『日高先輩も、ちゃんと見てますか?』
『見ています』
『途中で目逸らさないでくださいね』
『何の話ですか?』
『スピーチ』
樹里の手が、一瞬だけ止まりかける。
『まだ先です』
『楽しみにしてます』
『期待しないでください』
『もう遅いです』
昨夜、神谷が樹里へ送った言葉と同じだった。
樹里が僅かに眉を寄せる。
隣にいる神谷は、そのことに気づいたらしい。
だが、今は何も言わず、二人へ拍手を送っていた。
陽菜と中井は、会場の正面に用意された席へたどり着く。
二人で参列者の方を向き、深く頭を下げた。
拍手が、さらに大きくなる。
◇
陽菜が椅子へ座ろうとすると、中井がすぐに手を添えた。
『大丈夫』
「ドレスの裾があります」
『じゃあ、お願い』
陽菜は中井の手を借り、ゆっくりと腰を下ろす。
中井も隣へ座った。
テーブルの下で、陽菜が中井の手へ触れる。
「どうしましたか?」
『すごい人』
「はい」
『全員、あたしたちを見てる』
「新郎新婦なので」
『急に帰りたくなってきた』
「逃げないと言いましたよね」
『言ったけど』
「俺もいます」
『うん』
「子どももいます」
中井が陽菜の腹部へ目を向ける。
『うん』
「三人です」
陽菜は中井の手を握る。
『じゃあ、大丈夫』
司会者が二人の紹介と、開宴の挨拶を簡潔に行う。
陽菜と中井は、呼ばれるたびに頭を下げた。
続いて、司会者が黒澤の名を読み上げる。
「それでは乾杯のご発声を、新郎新婦の勤務先である島川不動産、総務部長の黒澤様にお願いいたします」
拍手が起こる。
黒澤は席を立ち、会場の前方へ向かった。
マイクの前へ立つ。
「ただいまご紹介いただきました、島川不動産の黒澤です」
黒澤は会場を見渡したあと、陽菜と中井へ顔を向けた。
「二人とは、営業部で長く一緒に仕事をしてきました。俺は今、総務部におりますので、正確には元上司ということになります」
会場から小さな笑いが起きる。
「乾杯の挨拶を頼まれたとき、せっかくだから二人の仕事ぶりを詳しく話そうと思い、原稿を用意しました」
黒澤が胸元から、折り畳んだ紙を取り出す。
「書き終わったら二枚を超えていました。今ここで全部読むと、乾杯する前に料理が冷めます」
再び、笑いが広がる。
陽菜は中井へ顔を寄せた。
『昨日、短くするって言ってなかった?』
「黒澤部長なりに短くしたのだと思います」
『まだ紙持ってるけど』
「大丈夫だと思います」
黒澤は手に持った原稿を見た。
「ですが、読み返して気づきました。会社での話を、今日ここで長々と話す必要はない」
原稿を折り、胸元へ戻す。
「二人とも、仕事では十分すぎるほど頑張ってきました」
黒澤の声から、先ほどまでの軽さが消える。
「困っている人間がいれば、自分の仕事を後回しにしてでも助ける。任された仕事は、最後まで投げない。誰かが無理をしていれば止めるくせに、自分の無理にはなかなか気づかない」
陽菜と中井は、黙って黒澤を見ていた。
「似た者同士だと思います」
黒澤が笑う。
「だから、家庭では頑張りすぎるな」
会場が静まる。
「一人で背負わず、困ったときは相手へ言え。二人で分からないことは、周りを頼れ。ここには、そのために集まった人間が大勢います」
黒澤は、陽菜の腹部へ目を向けた。
「これからは二人ではなく、三人です」
陽菜が、自分の腹部へ手を添える。
「完璧な夫婦や、完璧な親になる必要はありません。三人で笑って、困ったときには、今日ここにいる全員を遠慮なく巻き込んでください」
黒澤がグラスを持ち上げる。
「中井さん、陽菜さん。そして、これから生まれてくるお子さんの幸せを願って」
招待客が一斉にグラスを手に取る。
陽菜と中井の前には、同じノンアルコールの飲み物が用意されていた。
陽菜が、中井のグラスを見る。
『中井くんも同じなの?』
「はい」
『お酒飲んでもいいのに』
「今日は三人で同じものにします」
『そっか』
二人もグラスを持ち上げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
会場中の声が重なり、グラスが掲げられた。
陽菜と中井は互いのグラスを軽く合わせる。
『乾杯』
「乾杯」
二人が同時に口をつける。
その瞬間、陽菜の腹部が僅かに動いた。
『また動いた』
「驚いたんでしょうか」
『一緒に乾杯したんじゃない?』
「飲めませんよ」
『分かってるよ』
陽菜が笑う。
中井も穏やかに笑い返した。
◇
乾杯が終わると、会場には再び明るい音楽が流れ始めた。
料理が運ばれ、最初の歓談が始まる。
しばらくすると、招待客が順番に陽菜と中井の席へ集まってきた。
最初に来たのは、陸と萌だった。
「陽菜先輩、中井さん。おめでとうございます」
『ありがとう。受付もお疲れさま』
「何とか終わりました」
「萌さんが、全部確認してくれたので」
「陸くんもちゃんとやってたでしょ」
『二人で仲良くやったんだ』
「仲良くというか、仕事なので」
萌が答える。
陽菜は二人の顔を交互に見る。
『一緒に来たの?』
「駅で待ち合わせました」
陸が答える。
「受付の荷物があったので」
『ふうん』
「何ですか?」
『別に』
陽菜の口元が、楽しそうに緩む。
萌はその表情の意味に気づき、話題を変えるようにドレスへ目を向けた。
「陽菜先輩、本当に綺麗です」
『ありがとう、萌。萌も綺麗だよ』
「ありがとうございます」
『陸も、今日はちゃんとしてる』
「今日は、って何ですか?」
『ネクタイも曲がってないし』
陸と萌の視線が、一瞬だけ重なる。
『あれ?』
「何でもありません」
萌が先に答える。
『もしかして、萌が直した?』
「写真を撮りましょう、陽菜先輩」
『話逸らした』
「撮りますよ」
萌がスマートフォンを取り出す。
陸も陽菜へ近づき、四人で写真を撮った。
撮影が終わると、萌はすぐに画面を確認する。
「陽菜先輩、綺麗に写ってます」
『二人のもあとで送って』
「分かりました」
『受付してるところの写真もある?』
「式場の方が撮ってくれていました」
『じゃあ、それも』
「はい」
『二人で並んでるやつね』
「陽菜先輩」
『何?』
「今日は、中井さんだけ見ていてください」
『中井くんはいつでも見られるから』
「陽菜さん」
「中井さんも何か言ってください」
「俺にも止められません」
『諦めるの早いよ』
四人の間に笑いが広がった。
◇
続いて、柚希と零、凛と青柳がやってきた。
『柚希ちゃん、零。その服、合わせたの?』
「分かりますか?」
『分かるよ。小物の色が同じじゃん』
「柚希ちゃんが選んでくれたんす」
『似合ってる。二人で並ぶともっといいね』
「ありがとうございます」
零が照れたように答える。
柚希は嬉しそうに零の腕へ触れた。
「陽菜さんも、本当に綺麗です」
『ありがとう、柚希ちゃん』
「お腹、大きくなりましたね」
『うん。最近はずっと動いてる』
「触ってもいいですか?」
『いいよ』
陽菜が頷くと、柚希はそっと腹部へ手を当てた。
零は少し離れた場所から見ている。
『零も』
「自分は大丈夫っす」
『何で』
「緊張するんで」
『いいから』
陽菜は零の手を取り、自分の腹部へ添えた。
「陽菜さん」
『少しだけ』
すぐには何も起こらない。
零がどうすればいいか分からず、陽菜の顔を見る。
そのとき、掌の下が小さく動いた。
零の目が見開かれる。
「今、動いたっす」
『いたでしょ』
「はい」
『零にも挨拶したんじゃない?』
「自分にっすか?」
『うん』
零は陽菜の腹部を見つめた。
「元気に生まれてきてほしいっす」
『ありがとう』
陽菜が笑う。
零は、もう一度小さく頭を下げてから手を離した。
「陽菜さん。私たちも、写真をご一緒してよろしいですか?」
凛が尋ねる。
『もちろん。凛ちゃんも綺麗だね』
「ありがとうございます」
『青柳さん、ずっと凛ちゃん見てません?』
「はい」
青柳は隠そうともせず答えた。
「今日は、見ていても許していただけると思っています」
「少し見すぎです」
凛が言う。
『でも、嫌じゃないんでしょ?』
「陽菜さん」
『顔に書いてあるよ』
「書いてありません」
「私には見えています」
青柳が穏やかに言う。
「青柳さんまで言わないでください」
「失礼しました」
そう答えながら、青柳は笑っていた。
全員で並び、写真を撮る。
その一枚には、白いドレス姿の陽菜と中井。
色を合わせた柚希と零。
互いを意識しながら並ぶ凛と青柳が写った。
◇
席へ戻った樹里は、陽菜たちが招待客に囲まれている姿を見つめていた。
鞄の中には、スピーチ原稿が入っている。
まだ取り出していない。
今は、考えないようにしていた。
『日高さん』
会社の人間たちが近くにいるため、美園の呼び方が変わる。
『何だ』
『食べてます?』
『食べています』
『さっきから、ほとんど減ってないですよ』
『あとで食べます』
『スピーチまで、まだ時間ありますよ』
『分かっています』
美園は樹里の皿を見たあと、それ以上は言わなかった。
代わりに、視線を佐藤へ向ける。
佐藤も自分の席で、時折胸元を確認していた。
内ポケットに、友人代表スピーチの原稿が入っている。
『佐藤くんも緊張してるみたい』
『そうだな』
『総長も』
美園が、ごく小さな声で言う。
樹里は美園を見る。
周囲には聞こえていない。
『私は問題ない』
『またそれ』
『事実だ』
『原稿、持ってきた?』
『持っている』
『なくさないでね』
『子どもではない』
『途中で読めなくなっても、逃げないでね』
樹里の指が止まる。
『読める』
『ならいいけど』
美園は微笑み、自分の席へ戻った。
樹里は、もう一度会場の正面を見る。
陽菜が中井の隣で笑っている。
その周囲には、二人を祝う人たちが集まっていた。
原稿に書いた陽菜より、目の前にいる陽菜の方が、ずっと陽菜らしかった。
◇
歓談が一段落する。
招待客がそれぞれの席へ戻り始めた。
陽菜も飲み物へ口をつけ、僅かに息を吐く。
「疲れましたか?」
中井がすぐに尋ねる。
『少しだけ』
「休憩を入れてもらいますか?」
『大丈夫。座ってるから』
「本当に?」
『本当』
「苦しくなったら、すぐに言ってください」
『分かってる』
「約束してください」
『約束する』
陽菜は中井の顔を見た。
『中井くん』
「はい」
『次、ケーキだよね』
「進行表では、そうなっています」
『楽しみ?』
「はい」
『そっか』
「どうして笑っているんですか?」
『別に』
「何か考えていますよね」
『考えてないよ』
「昨日も同じことを言っていました」
『気のせい』
「陽菜さん」
司会者がマイクを手に取る。
「皆様、まもなくウェディングケーキ入刀のお時間となります」
会場の照明が、ケーキの置かれた場所を照らした。
陽菜の口元に、悪戯を思いついたときの笑みが浮かぶ。
中井は、その横顔を見て、僅かに警戒するように目を細めた。




