320話「三人で歩く」
礼拝堂の扉が、ゆっくりと開いていく。
柔らかな光が廊下へ差し込み、その向こうに並ぶ人々の姿が見えた。
中井の両親と弟。
佳菜。
美園。
神谷。
黒澤。
そして、樹里。
静かな音楽が流れ始める。
参列者が一斉に立ち上がった。
陽菜は中井の腕を取り、入口で一度足を止めた。
『みんな、見てる』
「はい」
『急に緊張してきた』
「俺もです」
『転ばないでね』
「それは俺の台詞です」
『あたしは大丈夫』
「では、二人とも気をつけましょう」
『うん』
陽菜が一歩を踏み出す。
中井も、その歩幅へ合わせて歩き始めた。
誰かに連れられ、中井が待つ場所まで向かうのではない。
最初から二人で並び、同じ道を歩く。
それは、式場を決める前から二人で選んでいた形だった。
◇
樹里は、扉の向こうに現れた陽菜を見つめていた。
白いウェディングドレス。
大きくなった腹部を柔らかく包み、その上から長いベールが流れている。
背中は、首元から腰まで白い布に覆われていた。
その下に何が刻まれているのかは、誰にも分からない。
樹里と美園だけは知っている。
陽菜もまた、その過去を隠すのではなく、抱えたまま歩いている。
隣に立つ中井が、陽菜の速度に合わせている。
早くも、遅くもない。
陽菜が僅かに足を止めれば、中井も止まる。
陽菜が進めば、同じ一歩を踏み出す。
樹里は、その姿から目を離せなかった。
十八歳で初めて出会った陽菜は、今日よりもずっと幼かった。
強い言葉を使い、誰よりも先に前へ出て、自分が傷つくことを恐れていないように見えた。
両親を亡くしていたことも。
佳菜との間に、埋め方の分からない距離があったことも。
樹里は、あとになって知った。
知ったつもりになり、守らなければならないと思った。
だが、本当は違った。
陽菜は、自分で隣を歩く人間を選んだ。
自分の中にある命を受け入れ、怖さを抱えたまま、ここまで歩いてきた。
樹里の視界が僅かに滲む。
隣にいる美園が、何も言わずに樹里の手へ触れた。
樹里は振り払わなかった。
美園の指を、強く握り返すこともしない。
ただ、触れたままにしていた。
◇
佳菜は、陽菜の姿を見た瞬間に息を止めた。
控室でもドレス姿は見ている。
だが、中井の隣を歩く陽菜は、先ほどとは違って見えた。
父も母もいない。
姉である自分が、陽菜の手を引いているわけでもない。
陽菜は、最初から中井と並ぶことを選んでいた。
それでよかったのだと思う。
佳菜が何かをしてやらなければ、陽菜が前へ進めないわけではない。
もうずっと前から、陽菜は自分の足で歩いていた。
その事実を、佳菜は寂しいとは思わなかった。
今はただ、誇らしかった。
陽菜が途中で、僅かに顔をこちらへ向ける。
二人の目が合った。
佳菜は笑おうとした。
だが、先に涙がこぼれた。
陽菜の口元が、ほんの少しだけ緩む。
それだけで、佳菜には十分だった。
◇
中井の母は、すでにハンカチを目元へ当てていた。
父は背筋を伸ばしたまま、歩いてくる二人を見つめている。
弟は、写真を撮るために構えていたスマートフォンを途中で下ろした。
画面越しではなく、自分の目で見ようと思った。
神谷は、陽菜と中井が礼拝堂へ入った瞬間から、何度も瞬きをしていた。
用意したハンカチをまだ使うまいとしている。
だが、二人が参列者の間を進み始めると、目元を指で押さえた。
隣に座る黒澤が、その様子へ一度だけ目を向ける。
何も言わなかった。
今から指摘すれば、自分の声まで揺れそうだった。
黒澤もまた、二人が会社で過ごしてきた日々を思い出していた。
仕事中に何度も言い合いながら、いつの間にか互いのことを最もよく見ていた二人。
陽菜が倒れたときも。
中井が迷ったときも。
周囲に支えられながら、最後には自分たちでここへ来た。
「頑張ったな」
誰にも聞こえない声で、黒澤が呟いた。
◇
陽菜と中井は、ゆっくりと礼拝堂の中央を進んだ。
途中、陽菜の腹部が僅かに動く。
陽菜は足を止めなかった。
『今、動いた』
小さな声で中井へ伝える。
「大丈夫ですか?」
『うん。この子も起きてる』
「そうですか」
『ちゃんと三人で歩いてるね』
「はい」
中井の腕へ、僅かに力が入る。
陽菜は、その腕へ自分の身体を預けすぎない。
中井も、必要以上に支えようとはしなかった。
二人で歩く。
片方が片方を運ぶのではなく、同じ場所へ向かって進んでいく。
正面へたどり着く。
二人が並んで振り返ると、席に座った参列者たちが見えた。
陽菜は、もう一度その顔を見た。
中井の家族。
佳菜。
美園。
黒澤。
神谷。
そして樹里。
両親の姿はない。
その不在が、なくなることはなかった。
ドレスを見てほしかった。
中井を紹介したかった。
お腹にいる子どものことを、自分の口から伝えたかった。
叶わないことは、いくつもある。
それでも、今日の陽菜は一人ではなかった。
両親の代わりになる者がいるのではない。
失った場所を、誰かが埋めたのでもない。
失ったものを抱えた陽菜の隣へ、自分の意思で残った人たちがいる。
陽菜は涙を堪え、正面へ向き直った。
◇
司式者が、二人へ向かって穏やかに言葉をかける。
これから先の人生には、喜びだけでなく、迷いや困難もある。
そのとき、互いを尊重し、言葉を交わし、同じ人生を歩んでいくことを誓えるか。
最初に、中井へ問いかける。
「誓います」
中井の声は、礼拝堂の奥まで真っ直ぐに届いた。
父親になることが怖い。
陽菜と子どもを守れるのか分からない。
一度は、その弱さから、自分ではない人間の方がいいのではないかと考えた。
今も、怖さがなくなったわけではない。
それでも、中井の声は震えていなかった。
怖いまま隣にいると決めた。
陽菜が自分を選んだことを、二度と勝手に否定しないと決めた。
続いて、陽菜へ同じ問いが向けられる。
『誓います』
陽菜の声も、はっきりと響いた。
母親になる方法を知らない。
誰かと家族になることにも、今まで何度も迷ってきた。
近づけば失うのが怖くなり、守られれば逃げたくなった。
それでも、中井の隣でなら、分からないまま進めると思った。
一人で強くあり続けるのではなく、怖いと口にしながら歩けると思った。
誓いの言葉が終わる。
指輪が運ばれてきた。
中井は陽菜の左手を取る。
その指へ指輪を通そうとしたとき、手が僅かに震えた。
『中井くん』
「はい」
『震えてる』
「緊張しています」
『さっきより?』
「はい」
『ちゃんと入れてね』
「分かっています」
中井は息を整え、ゆっくりと指輪を通した。
陽菜の指に、選んだ指輪が収まる。
今度は陽菜が、中井の左手を取った。
『中井くんの方が、手大きいね』
「今、気づいたんですか?」
『こうやって見ることなかったから』
「落とさないでください」
『大丈夫だって』
「先ほどから指輪を見ていません」
『中井くんの顔見てたから』
中井が黙る。
『また赤くなった』
「早くお願いします」
『はいはい』
陽菜は笑いながら、中井の指へ指輪を通した。
二人の左手に、同じ意味を持つものが並ぶ。
司式者に促され、中井が陽菜のベールへ手をかけた。
ゆっくりと持ち上げる。
白い布の向こうにあった陽菜の顔が、はっきりと見えた。
陽菜の目には、薄く涙が浮かんでいる。
「泣いていますか?」
『泣いてない』
「目が赤いです」
『中井くんもでしょ』
「光のせいです」
『ここまで来ても、それ言うんだ』
「陽菜さんが先に言ったので」
『じゃあ、二人とも泣いてないってことにしよ』
「はい」
中井が陽菜の頬へ手を添える。
陽菜は目を閉じた。
二人の唇が、静かに重なる。
長くはない。
だが、急ぐこともなかった。
参列者の前で交わしたその口づけは、これまで二人だけで重ねてきたものとは違っていた。
唇が離れる。
陽菜は目を開き、中井だけに聞こえる声で囁いた。
『今、この子も動いた』
「本当ですか?」
『うん』
「驚いたんでしょうか」
『返事したんじゃない?』
「何と?」
『この家族でいいって』
中井は陽菜の腹部へ目を向けた。
「そうだと嬉しいです」
『大丈夫だよ』
「どうして分かるんですか?」
『あたしたちの子だから』
陽菜は笑った。
中井も、目元を赤くしたまま笑い返した。
◇
二人の結婚が宣言される。
礼拝堂に拍手が広がった。
陽菜と中井は参列者へ向き直り、そろって頭を下げる。
中井の母は、もう涙を隠していなかった。
父も小さく頷きながら拍手を送っている。
弟は片手で目元を拭い、もう片方の手を叩いていた。
佳菜は涙を流したまま笑っている。
美園も、目元を押さえていた。
神谷は、用意した一枚目のハンカチをすでに使っている。
黒澤はそれを横目で見ながら、自分も何度か強く瞬きをした。
樹里は拍手を続けていた。
涙は頬へ落ちていない。
だが、陽菜には分かった。
樹里の目が赤くなっている。
陽菜と目が合う。
樹里の唇が、小さく動いた。
声は聞こえなかった。
それでも、何と言ったのかは分かった。
おめでとう。
陽菜は、中井の腕を取ったまま笑った。
二人は再び、礼拝堂の中央を歩き始める。
今度は、入ってきた扉へ向かって進む。
参列者たちの拍手の中を、同じ歩幅で歩いていく。
途中で中井が、陽菜へ小さく尋ねた。
「疲れていませんか?」
『大丈夫』
「ゆっくりでいいです」
『うん』
「足元を見てください」
『中井くん』
「はい」
『今は前見よう』
中井が顔を上げる。
二人の前には、開いた扉がある。
「はい」
陽菜と中井は、並んで礼拝堂を出た。
◇
挙式後。
親族と参列者だけの短い写真撮影が行われた。
中井の母は陽菜の前へ来ると、腹部を圧迫しないよう気をつけながら、そっと抱き締めた。
「陽菜さん。本当におめでとう」
『ありがとうございます』
「今日から、私たちも家族だからね」
陽菜は一瞬、返事に迷った。
家族という言葉を、簡単に受け取ることはまだできない。
それでも、拒みたいとは思わなかった。
『……はい』
中井の父も、二人の前に立つ。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
『ありがとうございます』
「二人で無理をするな。困ったら連絡しなさい」
「はい」
『中井くんが無理してたら、すぐ言います』
「陽菜さん」
「それがいい」
父が笑う。
弟も二人へ近づいた。
「兄貴、陽菜さん。おめでとう」
「ありがとう」
『ありがとう』
「これから、義姉さんって呼んでもいいですか?」
陽菜の目が僅かに見開かれる。
『あたしを?』
「ほかにいないです」
『そっか』
陽菜は少し照れながら笑った。
『いいよ』
「ありがとうございます、義姉さん」
『急に呼ばれると変な感じ』
「そのうち慣れます」
『そうかな』
「俺もまだ慣れていません」
中井が言う。
『中井くんが慣れる必要ある?』
「弟が陽菜さんを義姉さんと呼ぶことにです」
『やきもち?』
「違います」
家族の間に笑いが広がった。
少し離れた場所で、その様子を佳菜が見ている。
陽菜が気づき、佳菜へ目を向けた。
佳菜は近づきすぎない位置で足を止めた。
「おめでとう、陽菜」
『うん』
「綺麗だった」
『控室でも聞いた』
「何度言ってもいいかと思って」
『美園さんと同じこと言ってる』
「そうなの?」
『うん』
短い沈黙が落ちる。
佳菜は、次の言葉を探しているようだった。
陽菜は待った。
「呼んでくれて、ありがとう」
佳菜が言う。
『来てくれて、ありがとう』
陽菜は少し迷ったあと、続けた。
『姉ちゃん』
佳菜の目に、再び涙が浮かぶ。
「うん」
『披露宴も、最後までいてね』
「もちろん」
『体調悪くなったら言って』
「それは私が陽菜に言うことじゃない?」
『みんなそればっかり言うから、たまにはあたしが言いたいの』
「分かった」
佳菜は笑い、陽菜も小さく笑い返した。
失った時間が戻ったわけではない。
二人の間にあった距離も、まだ残っている。
それでも、同じ場所に立つことはできた。
◇
写真撮影が終わったあと、披露宴の準備に入る前の短い時間。
陽菜は、美園と樹里が待つ小部屋へ入った。
中井は家族と話すため、少しだけ別れている。
三人だけになる。
『総長』
陽菜が樹里を見る。
『何だ』
『何で控室に来なかったの』
『美園がいた』
『そういうこと聞いてない』
『式で見れば十分だと思った』
『泣くからでしょ』
『泣いていない』
『目、赤いよ』
『神谷さんの方が赤い』
『神谷さんの話はしてない』
美園が笑う。
『総長、陽菜が入ってきたとき、息止まってたよ』
『止めていない』
『私の手も握ってた』
『美園が先に触れたんだろう』
『握り返したのは総長』
『二人とも、うるさい』
陽菜は笑いながら、樹里の前まで歩いた。
白いドレスのまま、背中を向ける。
『ちゃんと隠れてた?』
『ああ』
『誰にも見えてない?』
『何も見えていない』
『そっか』
陽菜は背中を向けたまま、ベール越しに布へ触れる。
『でも、消えたわけじゃないからね』
『分かっている』
『総長のも、美園さんのも』
『うん』
美園が答える。
陽菜は二人へ向き直った。
『どうだった?』
『綺麗だったよ』
美園は迷わず答えた。
『すごく綺麗だった』
『総長は?』
『美園が言っただろう』
『総長から聞いてない』
『……よく似合っていた』
『それだけ?』
『まだ必要か?』
『もっとあるでしょ』
樹里は陽菜を見る。
笑っている顔。
涙で僅かに赤くなった目。
白いドレスに包まれた、大きな腹部。
言いたいことはいくらでもあった。
だが、今ここですべてを口にすれば、披露宴まで持たない気がした。
『おめでとう、陽菜』
樹里はそれだけを伝えた。
陽菜の笑顔が、少しだけ柔らかくなる。
『うん。ありがとう、総長』
美園が陽菜の肩を抱く。
『私からも、もう一回』
『何回目?』
『何回でもいいでしょ』
美園は陽菜を抱き締めた。
『おめでとう』
『ありがとう、美園さん』
陽菜も、美園の背中へ腕を回す。
そのまま、美園越しに樹里を見る。
『総長も』
『何がだ』
『こっち来て』
『狭い』
『いいから』
樹里は動かなかった。
陽菜が美園から片腕を離し、その手を伸ばす。
『早く』
樹里は小さく息を吐き、二人へ近づいた。
陽菜の手が樹里の腕を掴む。
三人の身体が近づいた。
ドレスが皺になるほど強くは抱き締められない。
背中のタトゥーも、互いの衣装の下に隠れている。
それでも三人には、触れた場所の奥に同じものがあると分かっていた。
『苦しくないか』
『大丈夫』
『ドレスが崩れるよ』
『少しだけだから』
『陽菜、泣いてる?』
『泣いてない』
『声が変だぞ』
『総長に言われたくない』
三人が、泣きながら笑う。
ほんの僅かな時間だった。
やがて陽菜から腕を解く。
『披露宴があるから、もう行かなきゃ』
『ああ』
『総長、スピーチ逃げないでね』
『逃げない』
『原稿、できた?』
『できている』
『本当に?』
『昨日、完成させた』
『楽しみにしてる』
樹里の表情が、僅かに固くなる。
美園は、その変化に気づいた。
だが、何も言わなかった。
『じゃあ、あとでね』
陽菜は二人へ笑いかけ、小部屋を出ていった。
扉が閉まる。
樹里は、自分の鞄へ視線を落とした。
その中には、整えたスピーチ原稿が入っている。
今、陽菜へ伝えた言葉は、原稿のどこにも書かれていなかった。
◇
挙式が終わり、披露宴開始までの時間が近づく。
式場のロビーには受付用の机が並べられ、席次表や案内が用意されていった。
会場の外には、披露宴から参加する招待客を乗せた車が、一台ずつ到着し始めている。
閉じられていた入口の扉が開く。
これまで別々の場所で陽菜と中井を見守ってきた人々が、同じ会場へ集まり始めていた。




