319話「扉の前」
結婚式当日の朝。
目覚ましが鳴る数分前に、陽菜は目を覚ました。
カーテンの隙間から、まだ淡い朝の光が差し込んでいる。
隣では、中井が仰向けになっていた。
目を閉じている。
だが、眠っているようには見えなかった。
『中井くん』
「はい」
『起きてるじゃん』
「陽菜さんもです」
『いつから?』
「一時間ほど前からです」
『早すぎ』
「眠れませんでした」
『昨日、一緒に緊張しようって言ったけど、中井くんの方が緊張してるね』
「否定できません」
陽菜は身体を横へ向けた。
大きくなった腹部が、二人の間にある。
中井も陽菜の方を向き、布団の上からそっと腹部へ触れた。
「体調はどうですか?」
『起きて最初にそれ?』
「大切なことです」
『大丈夫。お腹も張ってない』
「子どもは?」
『まだ寝てるんじゃない?』
「そうですか」
『あたしたちより落ち着いてるのかも』
「俺たちが落ち着かなさすぎるだけだと思います」
中井の手の下で、腹部が僅かに動いた。
『起きた』
「はい」
『三人とも起きたね』
「そうですね」
陽菜は中井の手へ、自分の手を重ねた。
数か月前まで、今日を三人で迎えるとは思っていなかった。
結婚を決めたときには、まだ知らなかった命。
今は、二人の間で確かに動いている。
『今日、結婚するんだね』
「はい」
『まだ実感ない』
「俺もです」
『昨日は、あるみたいな顔してたじゃん』
「進行表を確認することと、実感があることは別です」
『あれだけ確認したのに?』
「確認しても、結婚式は初めてなので」
『二回目だったら困るよ』
「そういう意味ではありません」
陽菜が笑う。
中井は、その笑顔をしばらく見つめていた。
『何?』
「いえ」
『何か言いたそう』
「今日も、陽菜さんが笑っていてよかったと思いました」
『朝から泣かせないでよ』
「泣かせるつもりはありません」
『中井くんが先に泣きそう』
「泣きません」
『神谷さんと同じこと言ってる』
陽菜は布団から起き上がった。
中井がすぐに背中へ手を添える。
『一人で起きられるよ』
「知っています」
『じゃあ、毎回支えなくてもいいじゃん』
「支えたいんです」
『……そっか』
陽菜は、その手を断らなかった。
◇
朝食は、予定どおり中井が用意した。
温かいスープと、小さく切ったパン。
果物と、陽菜が口にしやすいものだけが並んでいる。
中井は向かいに座りながら、陽菜が食べる様子を見ていた。
『食べにくい』
「どうしてですか?」
『ずっと見られてるから』
「体調が悪くならないか確認しています」
『中井くんも食べて』
「はい」
『返事だけじゃなくて』
陽菜は自分の皿からパンを一つ取り、中井の口元へ差し出した。
「自分で食べられます」
『知ってる。口開けて』
「陽菜さん」
『早く』
中井が口を開く。
陽菜は笑いながら、パンを食べさせた。
『これで同じ』
「何がですか?」
『あたしだけ見られて食べるの、嫌だったから』
「では、俺も見ながら食べます」
『それはもっと嫌』
二人で朝食を終える。
中井は食器を片づけたあと、昨夜用意した鞄をもう一度開いた。
『また確認するの?』
「最後です」
『昨日も最後って言ってた』
「今日の最後です」
『式場に着いてからも見るでしょ』
「必要であれば」
『絶対見るじゃん』
陽菜は呆れながらも、中井を止めなかった。
その代わり、ソファに置いていた進行表を先に取り上げる。
「陽菜さん」
『これはあたしが持つ』
「俺が持ちます」
『駄目』
「どうしてですか?」
『中井くんが持つと、会場に着くまでに紙がもっと柔らかくなるから』
「折り曲げません」
『昨日だけで柔らかくした人が言っても信用できない』
陽菜は進行表を自分の鞄へ入れた。
『今日は、分かんなくなったらあたしに聞いて』
「陽菜さんも同じ進行表を見るだけでは?」
『二人で見れば落ち着くでしょ』
中井は少し黙ったあと、頷いた。
「分かりました」
『じゃあ行こっか』
「はい」
玄関を出る前に、二人は部屋を振り返った。
今夜も、ここへ帰ってくる。
何も変わらないように見える部屋へ、夫婦になって帰ってくる。
陽菜は中井の手を取った。
『忘れ物ない?』
「ありません」
『覚悟は?』
「持ちました」
『あたしも』
二人は並んで、玄関を出た。
◇
式場へ着くと、担当の長谷川が入口で待っていた。
「本日は誠におめでとうございます」
深く頭を下げられ、陽菜と中井も頭を下げる。
『ありがとうございます』
「ありがとうございます」
「櫻井様、体調はいかがでしょうか」
『大丈夫です』
「少しでも違和感がありましたら、すぐにお申しつけください。進行の途中でも休憩を入れられます」
『はい』
「中井様も、何かございましたら近くのスタッフへお声がけください」
「分かりました」
長谷川は二人の顔を見て、柔らかく微笑んだ。
「それでは、ここからは別々のお支度となります」
『別々なんだ』
「お支度が整いましたら、礼拝堂の前でお会いいただきます」
陽菜が中井を見る。
『泣かないでね』
「泣きません」
『ドレス見ただけで泣いたら、みんなに言うから』
「陽菜さんもです」
『あたしは泣かない』
「昨日、ご両親の話をして泣きそうになっていました」
『それは言わない約束でしょ』
「約束はしていません」
『中井くん』
中井が僅かに笑う。
陽菜も笑い返した。
「それでは、のちほど」
『うん』
二人の手が離れる。
陽菜は長谷川と花嫁控室へ向かい、中井は別のスタッフに案内されて新郎控室へ入った。
◇
中井の両親と弟は、すでに会場へ到着していた。
中井が支度を終える頃、三人が新郎控室へ入ってくる。
「おめでとう」
母が中井の姿を見るなり、目元を押さえた。
「まだ始まってないよ」
「分かってるわよ」
「母さんが最初に泣いてどうするんだ」
弟が言う。
「あなたも写真を撮りすぎでしょう」
「兄貴がこんな格好するの、今日くらいだから」
「写真はあとにしてくれ」
中井の父は、少し離れたところから息子を見ていた。
「緊張しているか」
「.....うん」
「そうか」
短く答えたあと、中井の肩へ手を置く。
「陽菜さんを一人で守ろうとするな」
中井が父を見る。
「二人で家庭を作るんだ。お前だけが背負うものじゃない」
「……はい」
「困ったときは、俺たちにも言え」
「ありがとう」
父の手が離れる。
母は中井の前へ立ち、僅かに曲がっていた襟元を直した。
「陽菜さん、体調は大丈夫なの?」
「今朝は問題なかったよ。式場の方にも伝えてある」
「あなたが何度も聞いて、疲れさせてないでしょうね」
「気をつけてる」
「本当に?」
「母さんまで陽菜さんと同じことを言わないで」
「それなら安心ね」
母が笑う。
「早くドレス姿を見たいわ」
「俺も」
中井が答えると、弟がすぐにスマートフォンを向けた。
「今の顔、撮った」
「消してくれ」
「嫌だよ。あとで義姉さんに見せる」
「余計なことをしないでくれ」
家族の笑い声が控室へ響く。
中井の緊張が、ほんの少しだけ解けた。
◇
花嫁控室では、陽菜の髪と化粧が整えられていた。
鏡の前に座り、何度も自分の姿を確かめる。
普段より丁寧に整えられた髪。
派手すぎない化粧。
まだドレスを着ていない自分を見ても、これから結婚式を挙げる人間には見えなかった。
扉がノックされる。
『どうぞ』
『陽菜』
美園が控室へ入ってきた。
背中までを覆う、落ち着いた色のドレス。
身体の線を綺麗に見せながらも、露出は抑えられている。
髪も普段とは違う形へ整えられていた。
『美園さん、綺麗』
『先にそれ言う?』
『だって本当に綺麗だから』
『ありがとう。陽菜も、もう顔だけで花嫁になってるよ』
『顔だけって何』
『まだドレス着てないでしょ』
『今から着るの』
美園は、鏡の中の陽菜を見る。
『体調は?』
『みんなそれしか聞かない』
『大事だから』
『大丈夫だよ』
『赤ちゃんは?』
『朝から動いてる』
『そっか』
美園が陽菜の腹部へ目を向け、穏やかに笑う。
『今日、三人で結婚式だね』
『うん』
『本当に、おめでとう』
陽菜は鏡越しに美園を見る。
『まだ早いよ』
『何が?』
『式が終わってから言って』
『何回言ってもいいでしょ』
『じゃあ、終わってからも言ってね』
『うん。何回でも言う』
衣装担当者がドレスを運んでくる。
陽菜は立ち上がり、美園に手を借りながら試着室へ入った。
身体を締めつけないよう、ゆっくりと白い布を重ねていく。
腹部の膨らみに合わせて調整されたドレス。
背中は不透明な生地と裏地で、首元から腰まで完全に覆われている。
最後の留め具が整えられる。
「苦しくありませんか?」
『大丈夫です』
「背中側も、すべて隠れています。動いても透けることはありません」
陽菜は鏡を使い、自分の背中を確認した。
何も見えない。
Rose girlsの文字も、薔薇も、白い布の下に隠れている。
かつて三人だけで生きていた時間。
それを消したわけではない。
今日は誰にも見せず、自分の中へ抱えたまま、新しい人生へ進む。
『美園さん』
『うん。大丈夫』
陽菜が何を確認したいのか、美園には分かっていた。
美園は陽菜の背中を見て、もう一度頷く。
『何も見えないよ』
『そっか』
担当者がベールを用意していると、再び扉がノックされた。
「陽菜。入ってもいい?」
佳菜の声だった。
陽菜の身体が僅かに固まる。
美園は何も言わず、陽菜の返事を待った。
『……いいよ』
扉がゆっくり開く。
佳菜は控室へ入ったところで足を止めた。
白いドレス姿の陽菜を見たまま、何も言わない。
『何?』
「ごめん」
『何で謝るの』
「分からない」
『変?』
「違う」
佳菜の声が震える。
「綺麗」
陽菜は鏡へ目を向けた。
『そっか』
「うん」
『ならよかった』
それ以上、会話が続かない。
二人の間に、昔から変わらない距離が残る。
美園はベールを持ち上げた。
『佳菜さん』
「はい」
『後ろを見てもらってもいいですか? 私からだと、少し分かりにくくて』
佳菜は一瞬迷ったあと、陽菜の背後へ回った。
「何をすればいいですか?」
『ベールが真っ直ぐ下りているか、見てもらえますか?』
「分かりました」
担当者が髪へベールを留める。
佳菜は、陽菜の背中に広がる白い布を、僅かに震える指で整えた。
「こっちが少し折れてる」
『直せそう?』
「うん」
佳菜が布を伸ばす。
その手は慎重だった。
触れていい場所を確かめるように、何度も止まりながら動く。
「これで大丈夫だと思う」
『姉ちゃん』
「何?」
『後ろ、変じゃない?』
「変じゃない」
『本当に?』
「うん。すごく綺麗」
陽菜は鏡越しに佳菜を見る。
姉に何かを整えてもらった記憶は、ほとんど残っていない。
佳菜も同じことを考えているのか、陽菜の背後で俯いた。
「こういうこと、一度もできなかったね」
『今日したじゃん』
佳菜が顔を上げる。
『一回目』
「……うん」
『だから、もういいでしょ』
「いいの?」
『何が?』
「ここにいても」
陽菜はすぐに答えられなかった。
姉妹として失った時間が、一言で戻るわけではない。
明日から急に近くなれるとも思っていない。
それでも、今ここにいる佳菜を、追い出したいとは思わなかった。
『式が始まるまでは』
「うん」
『そのあとは、席に行くでしょ』
「そうだね」
『だから、それまで』
「分かった」
佳菜は小さく笑った。
美園は何も言わず、二人を見守っていた。
◇
陽菜の控室から少し離れた廊下。
樹里は、長椅子に座っていた。
深い紺色のドレスは、肩から背中までを完全に覆っている。
普段のスーツ姿とは違う。
まとめた髪から首筋が見え、控えめな装飾が樹里の凛とした雰囲気を引き立てていた。
膝の上には、スピーチ原稿を入れた封筒がある。
樹里の指が、その端を強く掴んでいた。
「日高さん」
呼ばれて顔を上げる。
礼服姿の神谷が立っていた。
『神谷さん。おはようございます』
「おはようございます」
神谷は挨拶をしたあと、樹里を見たまま動かなかった。
『何ですか?』
「いえ」
『何か問題がありますか?』
「ありません」
『では、なぜ黙っているんですか』
「想像していた以上でしたので」
『何がですか?』
「よくお似合いです」
樹里は僅かに目を逸らした。
『ありがとうございます』
「もう少し見てもいいですか?」
『意味が分かりません』
「すみません」
『謝るくらいなら言わないでください』
「ですが、言わずにいるのも難しかったので」
樹里は答えず、膝の上の封筒へ視線を戻した。
神谷が隣へ座る。
二人の間には、一人分の距離があった。
会社の人間が来る場所では、それ以上近づかない。
「日高さん」
『はい』
「原稿が折れます」
樹里が自分の手を見る。
封筒の端が、指の力で僅かに曲がっていた。
樹里は手を緩める。
『問題ありません』
「中身の話ではありません」
『分かっています』
「緊張していますか?」
『していません』
「それも、昨日から何度も聞きました」
『なら、同じ質問をしないでください』
「昨日より、手に力が入っています」
『……少しだけです』
「そうですか」
神谷は、それ以上尋ねなかった。
原稿の内容も、何が不安なのかも聞かない。
ただ、樹里と同じ廊下に座っていた。
「おはよう」
黒澤が、廊下の向こうから歩いてくる。
神谷と樹里が立ち上がる。
「二人とも早いな」
「おはようございます、黒澤部長」
『おはようございます』
黒澤は樹里の姿を見て、少し驚いた顔をした。
「日高さん、今日は随分違うな」
『どういう意味ですか?』
「褒めてるんだよ。似合ってる」
『ありがとうございます』
「神谷、お前もそう思うだろ」
「すでに伝えました」
「早いな」
「何がですか?」
「いや、何でもない」
黒澤は笑いながら、礼拝堂の場所を確認する。
「櫻井さんは?」
『支度中です』
「日高さんは入らないのか?」
『美園が中にいます。佳菜も来たそうです』
「そうか」
黒澤は、それ以上聞かなかった。
樹里は控室の扉を見る。
陽菜のドレス姿を見たい。
それでも、今見れば何かが崩れそうだった。
披露宴のスピーチは、まだ先にある。
挙式すら始まっていない。
今から感情を抑えられなくなるわけにはいかなかった。
控室の扉が開く。
美園が出てきた。
廊下に神谷と黒澤がいることを確認し、樹里へ近づく。
『日高さん』
『何だ』
『陽菜、綺麗だよ』
樹里の指が、再び封筒の端へ力を込める。
『そうか』
『入らない?』
『入らない』
『待ってたよ』
『式で見る』
『そう』
美園は無理に連れていこうとしなかった。
『手、また強くなってるよ』
小さな声で言われ、樹里は封筒から力を抜いた。
『分かっている』
『ならいいけど』
美園は神谷と黒澤へ頭を下げたあと、控室へ戻っていった。
神谷が樹里を見る。
「大丈夫ですか?」
『大丈夫です』
「分かりました」
今度は、本当かどうか確かめなかった。
◇
挙式開始の時刻が近づく。
中井の両親と弟。
佳菜。
美園。
神谷。
黒澤。
そして樹里。
挙式から参列する者たちは、順番に礼拝堂へ案内された。
樹里は席へ着き、膝の上へ小さな鞄を置いた。
その中には、スピーチ原稿が入っている。
今は、取り出す必要がない。
正面へ目を向ける。
礼拝堂の入口にある扉は、まだ閉じていた。
隣には美園が座っている。
佳菜は少し離れた席で、扉を見つめていた。
中井の両親と弟も、静かに開始を待っている。
神谷が、斜め後ろから樹里の横顔を見る。
樹里はまっすぐ前を向いたまま、一度も入口から目を逸らさなかった。
◇
礼拝堂の外。
支度を終えた中井は、閉じた扉の前で陽菜を待っていた。
遠くから、衣装の布が床を撫でる音が聞こえる。
中井が顔を上げる。
長谷川に付き添われ、陽菜が廊下の向こうから歩いてきた。
白いウェディングドレス。
大きくなった腹部を柔らかく包む形。
背中は白い布に覆われ、長いベールがその上を流れている。
陽菜は、中井の前で足を止めた。
『何か言ってよ』
中井は答えなかった。
陽菜を見つめたまま、目を動かすことができない。
『変?』
「違います」
『じゃあ何?』
「……綺麗です」
『それだけ?』
「ほかに言葉が出ません」
『中井くんなら、もっと長く言うと思ってた』
「考えていた言葉はありました」
『忘れたの?』
「陽菜さんを見たら、全部なくなりました」
陽菜が照れたように笑う。
中井の目元が、僅かに赤くなっていた。
『泣いてる?』
「泣いていません」
『もう赤いよ』
「光のせいです」
『神谷さんと同じ言い訳しそう』
「神谷さんは、もう泣いているんですか?」
『まだ見てないから知らない』
中井は陽菜の前へ一歩近づいた。
腹部へ視線を下ろす。
「体調は?」
『大丈夫』
「苦しくありませんか?」
『大丈夫だって』
「子どもは?」
『さっき動いてた』
「そうですか」
『中井くん』
「はい」
『今は、あたしを見て』
中井が顔を上げる。
「見ています」
『途中で転びそうになったら支えてね』
「必ず」
『ゆっくり歩いて』
「はい」
『あたしに合わせて』
「もちろんです」
長谷川が二人へ声をかける。
「ご入場のお時間です」
陽菜と中井は、並んで扉の前へ立った。
打ち合わせのときに、二人で決めたこと。
陽菜は誰かに連れられて、中井のもとへ向かうのではない。
最初から二人で並び、同じ入口から歩き始める。
中井が腕を差し出した。
陽菜はその腕を取る。
『緊張してる?』
「しています」
『あたしも』
「一緒ですね」
『うん』
二人の前で、閉じていた扉へスタッフの手が掛かる。
扉の向こうには、二人を待つ人たちがいる。
陽菜は一度だけ、自分の腹部へ手を添えた。
中井も、その手へ重ねる。
『三人で行こっか』
「はい」
ゆっくりと、扉が開き始めた。




