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318話「それぞれの前夜」

十月。


 結婚式を翌日に控えた夜。


 陽菜と中井の部屋では、リビングのテーブルいっぱいに荷物が広げられていた。


 式場から渡された進行表。


 母子健康手帳。


 病院の診察券。


 常備薬。


 化粧道具。


 予備の靴と、着替え。


 中井は一つずつ確認しながら、鞄へ入れていく。


「母子健康手帳は入れました」


『うん』


「診察券もあります」


『うん』


「薬も入っています」


『さっきから三回確認してるよ』


「念のためです」


『明日、病院に行くわけじゃないんだけど』


「何かあった場合に必要です」


『式場にも伝えてるし、近くの病院も調べたんでしょ』


「はい」


『じゃあ大丈夫』


「まだ確認が終わっていません」


 中井は進行表へ視線を戻した。


「明日の朝は七時に出ます。朝食は六時半までに食べてください」


『そんなに早く食べられない』


「何も食べずに出ることはできません」


『少しなら食べる』


「用意します」


『あたしが作るよ』


「明日は俺が作ります」


『結婚式の日まで?』


「結婚式の日だからです」


 陽菜はソファへ座ったまま、中井の動きを眺めた。


 数か月前まで、部屋の中には二人分の生活しかなかった。


 今は、まだ生まれていない子どものためのものが少しずつ増えている。


 棚には妊娠や出産に関する本が並び、冷蔵庫には陽菜が口にできるものが常に用意されている。


 明日のために準備された鞄にも、花嫁の荷物より、陽菜と子どもの体調を守るものの方が多く入っていた。


『中井くん』


「はい」


『緊張してる?』


「しています」


『やっぱり』


「陽菜さんは?」


『してない』


「本当ですか?」


『少しだけ』


「どのくらいですか?」


『中井くんの半分くらい』


「俺がどのくらい緊張しているか、分かるんですか?」


『朝からずっと進行表持ってるから』


「必要なので確認しています」


『紙が柔らかくなってるよ』


 中井が手元を見る。


 何度も開いた進行表には、指で押さえた跡がついていた。


「新しいものを印刷します」


『そういう意味じゃない』


 陽菜が笑う。


 中井は進行表をテーブルへ置き、ようやく陽菜の隣へ座った。


「体調はどうですか?」


『大丈夫』


「お腹は張っていませんか?」


『大丈夫だって』


「子どもは?」


『さっきから動いてる』


 陽菜が中井の手を取り、自分の腹部へ当てる。


 服の上からでも、膨らみははっきりと分かる。


 二人で黙って待っていると、中井の掌の下が僅かに動いた。


「動きました」


『うん』


「明日のことが分かっているんでしょうか」


『さすがに分かんないでしょ』


「そうですね」


『でも、明日は三人で結婚式するんだよ』


「はい」


『写真を見せるんでしょ』


「大きくなったら見せます」


『顔がケーキまみれになってる写真も?』


「どうして俺の顔がケーキまみれになる前提なんですか?」


『例えばの話』


「陽菜さん」


『何?』


「何か考えていますか?」


『何も』


 陽菜は中井から目を逸らした。


「今、明らかに目を逸らしました」


『気のせい』


「ケーキは普通の量にしてください」


『分かってるって』


「本当ですか?」


『明日になったら分かるよ』


 中井は不安そうに陽菜を見る。


 陽菜は笑いながら、その肩へ頭を預けた。


 しばらくすると、テーブルの上に置いていた陽菜のスマートフォンが震えた。


 佳菜からLINEが届いている。


「明日はよろしくお願いします。体調だけは無理をしないでね」


 陽菜は画面を見つめた。


「佳菜さんですか?」


『うん』


「何と?」


『明日はよろしくって。無理しないでって』


「返信しないんですか?」


『するよ』


 陽菜は文字を打ち始めた。


 だが、途中で手が止まる。


 姉へ何を返せばいいのか、今でも分からない。


 楽しみにしている。


 来てくれて嬉しい。


 明日はそばにいてほしい。


 どの言葉も、今の自分には少し近すぎた。


 迷った末、短い文章を送る。


『こっちこそ、明日はよろしく』


 それだけだった。


 すぐに既読がつく。


 佳菜から新しい返事は来なかった。


 陽菜はスマートフォンを伏せる。


「それでいいと思います」


 中井が言う。


『見てたの?』


「見ていません。ただ、陽菜さんの顔を見ていました」


『まだ、何を話せばいいか分かんない』


「明日、すべて話す必要はありません」


『うん』


「同じ場所にいるだけでもいいと思います」


『中井くんの家族とも会うんだよね』


「はい。父と母と弟は、俺たちより先に式場へ着くと言っていました」


『ちゃんと挨拶できるかな』


「何度も会っています」


『明日は違うじゃん』


「では、一緒に緊張しましょう」


『またそれ?』


「はい」


 陽菜は中井の手へ自分の指を絡めた。


『お父さんとお母さんも、来てくれたかな』


 誰のことか、中井にはすぐ分かった。


「はい」


『見たかったかな。あたしのドレス』


「きっと」


『お腹見たら、何て言ったんだろ』


「お二人とも、驚いたと思います」


『怒られたかも』


「最後には喜んでくれたと思います」


『何で分かるの』


「陽菜さんのご両親だからです」


 陽菜は目を閉じた。


『そっか』


「はい」


『明日、ちゃんと見てくれるかな』


「見ています」


 中井が陽菜の手を握り返す。


 陽菜は目を開き、その横顔を見た。


『明日、結婚するんだね』


「はい」


『逃げない?』


「逃げません」


『あたしも逃げない』


「お願いします」


『そこは信用してるって言ってよ』


「信用しています」


『遅い』


 二人の笑い声が、静かな部屋に重なった。


     ◇


 同じ頃。


 佳菜は、自宅のベッドの上に衣装を広げていた。


 派手ではない、落ち着いた色のワンピース。


 その横には、陽菜と中井から届いた招待状が置かれている。


 何度も読んだため、封筒の端が僅かに柔らかくなっていた。


 姉として、何をすればいいのか。


 明日の朝、陽菜の控室へ入っていいのか。


 ドレス姿を見たとき、何と声をかければいいのか。


 佳菜には分からなかった。


 両親を亡くしたあとも、同じだった。


 陽菜を守らなければならないと思いながら、何をすれば姉になれるのか分からなかった。


 働くことで生活を支えようとした。


 だが、それだけでは陽菜の寂しさを埋められなかった。


 気づいたときには、陽菜は自分から離れていた。


 佳菜はスマートフォンを見る。


 先ほど送ったLINEには、陽菜から短い返事が届いている。


『こっちこそ、明日はよろしく』


 近づいたとは言えない。


 それでも、拒まれてはいなかった。


 佳菜は返信欄を開き、また閉じた。


 明日は、何も求めない。


 姉と呼ばれることも、頼られることも。


 ただ、陽菜が選んだ人と夫婦になる姿を、最後まで見る。


 それだけでいい。


 佳菜は招待状を丁寧に封筒へ戻し、明日の鞄へ入れた。


     ◇


 柚希の部屋では、二着のドレスが並べられていた。


 形は違う。


 柚希のドレスは柔らかな色で、零のものは落ち着いた色をしている。


 だが、腰に添えられた細い飾りと、耳元につける小物の色がそろっていた。


「零ちゃん、本当にこっちでいい?」


「自分には、少し綺麗すぎないっすか」


「そんなことないよ」


「柚希ちゃんが選んでくれたから着るっすけど」


「絶対似合うって」


「柚希ちゃんの隣に立って、おかしくないっすかね」


「おかしくない」


 柚希が、零のドレスを身体へ当てる。


「二人で選んだんだから、二人で着よう」


「凛ちゃんに、すぐ気づかれそうっす」


「気づいてほしいから合わせたんでしょ?」


「それは柚希ちゃんが言ったんすよ」


「零ちゃんも頷いたよ」


「断れなかっただけっす」


「嫌だった?」


「……嫌じゃないっす」


「じゃあ決まり」


 柚希が笑う。


 零は照れながらも、並んだ二着を見つめていた。


 かつて人と並ぶことが怖かった自分が、明日は恋人と色を合わせた服で人前に立つ。


 そのことが、少しくすぐったかった。


     ◇


「明日の服装は、当日まで秘密でしょうか」


 電話越しに、青柳が尋ねる。


「はい。まだ見せません」


「それは残念です」


「明日になれば見られます」


「写真で先に見るより、凛さんに会ったときの楽しみに取っておく方がよさそうですね」


「そうしてください」


「どのような色かだけでも、教えていただけませんか?」


「駄目です」


「少しくらいはいいかと思ったのですが」


「青柳さんは、そうやって聞き出すのが上手なので教えません」


「警戒されていますね」


「何度も話していますから」


「では、明日まで我慢します」


 凛は壁に掛けたドレスへ目を向ける。


「青柳さんは、もう準備できましたか?」


「はい。あとは明日の朝、着替えるだけです」


「ネクタイは曲がっていませんか?」


「今はまだ締めていません」


「そういう意味ではありません」


「鏡の前で十分に確認します。もし曲がっていたら、凛さんに直していただけますか?」


「最初から、それを狙っていますか?」


「できれば、お願いしたいと思っています」


「仕方ありませんね」


「ありがとうございます」


 青柳の声が、僅かに柔らかくなる。


「明日は、凛さんより先に会場へ着いてお待ちしています」


「待たせるのは悪いです」


「待たされるのではありません。私が、凛さんを待っていたいんです」


 凛は一瞬、言葉を失った。


「……青柳さんは、たまにそういうことを普通に言いますね」


「おかしかったでしょうか」


「おかしくはありません」


「では、楽しみにしています」


「私も、青柳さんに会うのを楽しみにしています」


「ありがとうございます。明日、凛さんを見つけたら、最初に伝えたいことがあります」


「今では駄目なんですか?」


「姿を見てからでなければ、言えません」


「何を言うつもりですか?」


「それも、明日まで秘密です」


「ずるいですね」


「お互いさまです」


 凛は小さく笑った。


「では、遅れないでください」


「もちろんです。おやすみなさい、凛さん」


「おやすみなさい、青柳さん」


 通話を終え、凛は改めて明日のドレスを見る。


 普段、青柳の前で着ることのない形だった。


 明日、彼はどんな顔で、何を伝えてくれるのか。


 想像しただけで、凛の口元が緩んだ。


     ◇


 萌は、披露宴受付の手順をもう一度確認していた。


 招待客の名簿。


 席次表。


 預かった案内。


 必要なものは、すべて鞄へ入っている。


 スマートフォンが震えた。


 陸からだった。


「萌さん。明日、荷物が多いなら駅まで迎えに行きます」


 萌は鞄を見る。


 一人で持てない量ではない。


「大丈夫。陸くんも受付の資料を持ってるでしょ」


「俺の方は少ないです」


「集合時間に間に合えばいいから」


「では、集合時間の三十分前に駅で待っています」


「何でそうなるの」


「萌さんが大丈夫と言って、無理をすることがあるからです」


「陽菜先輩みたいなこと言わないで」


「陽菜先輩から教わりました」


 萌は画面を見ながら、少しだけ笑った。


「じゃあ、十五分前」


「分かりました」


「遅れないでね」


「萌さんより先に着きます」


「競争じゃないから」


「明日、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


 会話はそこで終わった。


 萌はスマートフォンを置き、再び鞄の中を確認する。


 少し考えたあと、小さな鏡と櫛を追加した。


 受付のために必要なものではない。


 それでも、明日はいつもより少しだけ綺麗にしていたかった。


     ◇


 彩花のもとには、高村からLINEが届いていた。


「明日、何時に会場へ着きますか?」


「受付開始の少し前です。高村さんは?」


「私も同じくらいです。一緒に入りませんか?」


「いいですよ。駅で待ち合わせますか」


「お願いします」


「高村さん、また何か持っていくつもりでしょう」


「何のことですか?」


「櫻井さんのための荷物です」


「念のため、口にしやすい飴と飲み物だけです」


「式場にもありますよ」


「分かっています。でも、ある方が安心なので」


「高村さんらしいですね」


「森下さんは、何か用意しましたか?」


 彩花は、自分の机を見る。


 そこには、小さな封筒が置かれていた。


 陽菜へ渡す手紙だった。


 長い文章ではない。


 同じ会社で過ごした時間と、これからも戻ってくる場所があることだけを書いている。


「内緒です」


「気になります」


「明日になれば分かりますよ」


 彩花は返信し、封筒を鞄へ入れた。


     ◇


 黒澤は、自宅で乾杯の挨拶を書き直していた。


 最初に用意した原稿は、二枚を超えている。


 高槻興産の案件。


 中井が入社した頃の話。


 陽菜が初めて大きな契約を取った日の話。


 書き始めると、話したいことが増えた。


「長いな」


 黒澤は原稿を見て、自分で呟いた。


 乾杯の前に、出席者を疲れさせるわけにはいかない。


 仕事の話を大半削り、最後に一言だけ残す。


「二人とも、会社では十分頑張ってる。家では頑張りすぎるな」


 黒澤は声に出してから、首を傾げた。


「俺が言うと、説得力がないか」


 さらに考え、別の言葉を書き足す。


 だが、また長くなる。


 黒澤は筆を置いた。


「まあ、その場で話せばいいか」


 結局、原稿には「祝福」と「乾杯」の二文字だけが残った。


     ◇


 閉店後のRose。


 カウンター席に座った佐藤は、明日のスピーチ原稿を読んでいた。


「中井さんは、真面目で、誠実で――」


『硬い』


 グラスを片づけていた美園が言う。


「まだ最初の一行です」


『だからだよ』


「では、どう始めればいいと思いますか?」


『中井くんの変なところから』


「友人代表スピーチです」


『真面目なことは、みんな知ってるでしょ』


「変なところとは何ですか?」


『陽菜のことになると、急に心配性になるところとか』


「それは書きました」


『書いたんだ』


「ただし、後半です」


『最初でいいのに』


「美園さんは、明日話さなくていいから気楽ですね」


『私は聞く方がいい』


「日高さんのスピーチで泣くんじゃないですか?」


『泣かないよ』


「本当ですか?」


『佐藤くんこそ、自分のスピーチで泣かないでね』


「泣きません」


『その言い方、神谷さんみたい』


「神谷さんは泣くと思います」


『まだ始まる前から泣きそう』


 二人が顔を見合わせて笑う。


 佐藤は原稿を置き、美園を見る。


「明日は、美園さんの方が先に会場へ行くんですよね」


『うん。私は挙式から出るから』


「披露宴の前には会えますか?」


『会えるよ』


「では、迎えに行きます」


『会場の中で?』


「はい」


『一人で歩けるけど』


「知っています」


『じゃあ、普通に来ればいいでしょ』


「美園さんを迎えに行きたいんです」


 美園は少しだけ黙った。


『……分かった』


「嫌ではありませんか?」


『嫌じゃないよ』


「では、約束です」


『うん』


 美園はカウンター越しに、佐藤のネクタイへ触れる。


 明日着けるものではない。


 それでも、形を整えるように指で撫でた。


『明日、楽しみにしてる』


「俺のスピーチをですか?」


『それも』


「ほかには?」


『佐藤くんに会うこと』


 佐藤の目が僅かに見開かれる。


 美園は照れを隠すように手を離した。


『もう帰って。明日、寝坊するよ』


「美園さんも早く帰ってください」


『片づけたら帰る』


「一人で大丈夫ですか?」


『大丈夫』


 美園は一度答えたあと、言い直す。


『でも、最後までいてくれる?』


「はい」


 佐藤は椅子へ座り直した。


 美園は安心したように、残りのグラスを片づけ始めた。


     ◇


 神谷は、明日着るスーツを壁へ掛けていた。


 ネクタイを選び、靴を確認し、胸ポケットへ入れるハンカチを用意する。


 少し考えたあと、もう一枚追加した。


 スマートフォンを手に取り、樹里へLINEを送る。


「スピーチは完成しましたか?」


 しばらくして、返事が届く。


『一応』


「一応、ですか?」


『最後まで書きました』


「では、安心しました」


『安心はしていません』


「眠れそうですか?」


『問題ありません』


 神谷は、その文章を見つめた。


 仕事中にも、樹里は同じ言葉をよく使う。


 本当に問題がないときも、問題を自分の中へ押し込めたときも。


「何か必要なら連絡してください」


『悠真さんは、明日泣かないようにしてください』


「泣きません」


『ハンカチは用意しましたか?』


 神谷は二枚のハンカチを見る。


「一枚だけです」


『嘘ですね』


「どうして分かるんですか?」


『悠真さんですから』


 神谷は思わず笑った。


「明日、樹里さんのドレス姿を見るのを楽しみにしています」


 返事が来るまで、少し時間がかかった。


『期待しすぎないでください』


「もう遅いです」


『おやすみなさい』


「逃げましたね」


 既読はついたが、返事はなかった。


 神谷はスマートフォンを置き、二枚のハンカチをスーツのそばへ並べた。


     ◇


 樹里の机には、印刷されたスピーチ原稿が置かれていた。


 数日前まで白かった画面には、最後まで文章が並んでいる。


 出会いについては曖昧にした。


 過去を知らない人間が聞いても、不自然ではない言葉を選んだ。


 会社で再会してからの陽菜。


 仕事への向き合い方。


 中井と出会ってからの変化。


 これから二人で家庭を築いていくことへの祝福。


 何度読み返しても、誤りはない。


 長さも適切だった。


 会社の人間が聞いても、親族が聞いても問題はない。


 樹里は最後の一行まで目を通した。


 それでも、陽菜のことを書いたとは思えなかった。


 スマートフォンが震える。


 美園からの電話だった。


『もしもし』


『総長、まだ起きてた?』


『起きている』


『原稿、できた?』


『一応』


『神谷さんにも聞かれたでしょ』


『なぜ分かる』


『聞きそうだから』


 電話の向こうで、美園が笑っている。


『佐藤くんの原稿は?』


『真面目すぎる』


『佐藤さんらしいな』


『総長のも真面目すぎるんじゃない?』


『読んでいないだろう』


『読まなくても分かるよ』


 樹里は原稿へ目を落とした。


『必要なことは書いた』


『陽菜に言いたいこと?』


『友人代表として話すべきことだ』


『それ、同じ?』


 樹里は答えなかった。


『総長』


『何だ』


『綺麗に書こうとしすぎると、何も残らないよ』


『披露宴のスピーチだ。整える必要はある』


『うん』


『過去をすべて話すわけにもいかない』


『分かってる』


『なら、これでいい』


 樹里は原稿を揃える。


『明日は早い。美園も休め』


『総長もね』


『分かっている』


『おやすみ、総長』


『おやすみ』


 通話が切れる。


 樹里は、最後にもう一度原稿を見た。


 綺麗に書こうとしすぎると、何も残らない。


 美園の言葉が頭に残っている。


 それでも、今から書き直すことはできなかった。


 樹里は原稿を封筒へ入れる。


 鞄の内側へ収め、明日着る深い紺色のドレスを確認した。


 背中まで覆う生地。


 そこに何が刻まれているのか、外からは分からない。


 原稿も同じだった。


 整えた言葉の内側にあるものは、誰にも見えない。


 それでいいと思って書いたはずだった。


 だが、本当に陽菜へ伝えたいことまで隠してしまった気がした。


 樹里は部屋の明かりを消した。


 眠りにつこうと目を閉じても、陽菜の顔が浮かぶ。


 十八歳で、初めて出会った頃。


 強く、明るく、誰にも弱いところを見せようとしなかった。


 陽菜が十六歳で両親を亡くし、その痛みを抱えたまま生きていたことを、樹里はずっとあとになって知った。


 離れる前。


 会社で再会した日。


 中井の隣で笑っていた日。


 そして、白いドレスを着て、大きくなった腹部へ手を添えていた姿。


 どの陽菜も、明日の原稿にはいなかった。


 それでも朝は来る。


 樹里は、枕元に置いた鞄へ一度だけ目を向けた。


 その中には、最後まで整えた原稿が入っている。


 明日、自分が本当にそのとおり読めるのか。


 樹里には、まだ分からなかった。

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