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317話「変わっていく形」

八月の半ばを過ぎると、陽菜の腹部は、服の上からでも僅かに分かるようになっていた。


 大きく膨らんでいるわけではない。


 それでも、以前と同じブラウスでは腹部の布が張る。


 陽菜は少しゆとりのある服を選ぶようになり、椅子から立ち上がるときには、無意識に机へ手をつくようになっていた。


 その日の午後。


 陽菜は資料を持って席を立とうとした。


 机の下へ落ちたペンに気づき、屈もうとする。


「拾います」


 通りかかった陸が先に腰を屈めた。


『これくらい平気だよ』


「俺の方が近かったので」


 陸はペンを拾い、陽菜の机へ置く。


『ありがとう』


「ついでに、この資料も会議室へ持っていきます」


『それはあたしが――』


「俺も同じ会議に出ます」


『……じゃあ、お願い』


「はい」


 陸は陽菜の返事を聞くと、資料を抱えて会議室へ向かった。


 以前の陽菜なら、自分で持つと言い張っていた。


 今も、何もせずに座っているつもりはない。


 ただ、差し出された手を断ることが、相手のためになるわけではないと分かり始めていた。


「陽菜先輩」


 今度は、萌が椅子を引いて近づいてくる。


『何?』


「午前中に連絡のあった管理会社ですが、先方の担当者と話がつきました」


『本当?』


「契約開始日は変えず、点検の日程だけ一週間ずらします。書面も送り直してもらいます」


『神谷さんには?』


「報告しました。日高さんにも、変更箇所を確認してもらっています」


『じゃあ、もう終わったんだ』


「はい」


 萌が微笑む。


 陽菜は、報告書へ目を通した。


 説明に不足はない。


 必要な記録も添付されている。


『ありがとう、萌』


「いえ」


『助かった』


「はい」


 萌の返事が、僅かに明るくなる。


 陽菜は書類を閉じ、萌へ返した。


 自分でやらなかったことへの悔しさはなかった。


 萌が最後まで処理した仕事を、素直に頼もしいと思えた。


「櫻井さん」


 神谷が営業部長席から声をかける。


「会議の前に、少しいいですか?」


『はい』


 陽菜が立ち上がる。


 隣にいた中井も、反射的に顔を上げた。


「体調の話ではありません」


 神谷が先に伝える。


「そうでしたか」


『中井くん、今のはあたしが呼ばれたんだけど』


「分かっています」


『絶対、ついてくるつもりだったでしょ』


「立ち上がってはいません」


『顔がついてきてる』


 近くで聞いていた佐藤が笑う。


 中井は何も言い返せず、手元の資料へ視線を戻した。


 陽菜が神谷の席へ向かう。


「十月以降の担当についてです」


『産休に入ってからの話ですか?』


「はい。現在、櫻井さんが持っている顧客は、山本さんと川原さんへ分けます」


『分かりました』


「担当を外れる前に、櫻井さんから引き継ぎの面談をしていただけますか?」


『もちろんです』


「復帰後については、今の段階で決めません」


 陽菜が神谷を見る。


「出産後の体調も、生活も、今は分かりません。いつ、どのような形で戻るかは、そのときに相談しましょう」


『戻る場所は、ありますか?』


「当然です」


 神谷は迷わず答えた。


「ただし、以前とまったく同じ働き方を求めるつもりもありません。櫻井さんが戻れる形を、そのときに考えます」


 陽菜は小さく息を吐いた。


『ありがとうございます』


「礼を言うことではありません」


『でも、言いたかったので』


「では、受け取っておきます」


『お願いします』


 陽菜が自分の席へ戻る。


 途中で、樹里と目が合った。


 話の内容が聞こえていたらしい。


 樹里は何も尋ねず、僅かに頷いた。


 陽菜も頷き返す。


 自分の仕事を誰かへ渡す。


 支えられることを受け入れる。


 その先にも、自分の帰る場所がある。


 陽菜は腹部へ手を添え、会議室へ向かった。


     ◇


 九月。


 結婚式まで、一か月を切った。


 陽菜は、樹里と美園を伴って、式場内の衣装室を訪れていた。


 中井は別室で衣装の最終確認をしている。


 陽菜が試着室から出ると、樹里と美園が同時に顔を上げた。


 白いウェディングドレス。


 初めて選んだときよりも、腹部には明らかな膨らみがある。


 腰の位置や布の流れが調整され、陽菜の身体を締めつけずに包む形へ変わっていた。


「お腹の部分に、もう少し余裕を持たせています」


 衣装担当者が、陽菜の腰へ手を添える。


「式の直前にも確認しますが、こちらの部分でさらに調整できます」


『苦しくないです』


「背中側も、ご希望どおりすべて裏地を入れています。こちらでしたら、肌が透けることもありません」


『ありがとうございます』


 陽菜は鏡の中で背中を確認した。


 首元から腰まで、不透明な白い生地が続いている。


 その上を繊細なレースが覆っているが、背中に刻まれたものは何も見えない。


「背中をすべて覆う形ですので、重く見えないよう、袖と胸元のレースを少し軽くしています」


『綺麗』


 美園が呟く。


『すごく似合ってるよ』


『本当?』


『うん』


 樹里も椅子から立ち、陽菜の前へ来た。


『体調は苦しくありませんか?』


『大丈夫』


「少しでも苦しくなりましたら、すぐにおっしゃってください」


 衣装担当者が陽菜へ伝える。


「一度外しますので、少々お待ちください」


 背中の留め具を確認したあと、担当者が試着室の外へ出ていく。


 扉が閉まった。


 三人だけになる。


『総長』


 陽菜が鏡越しに樹里を見る。


『何だ』


『ちゃんと隠れてる?』


『ああ。何も見えない』


『美園さんからは?』


『大丈夫。動いても見えないよ』


 美園は陽菜の背後へ回り、背中の布へ触れる。


『あの人たちの前で、これを見せるわけにはいかないからね』


『うん』


 会社の人間は、陽菜たちの過去を知らない。


 背中に刻まれたRose girlsの文字も、薔薇も知らない。


 話すつもりもなかった。


 あの頃を否定しているわけではない。


 ただ、陽菜たちだけが知っていればいいものだった。


『でもさ』


 陽菜が鏡に映る二人を見る。


『三人とも背中を隠した格好で並んでたら、逆に怪しくない?』


『誰もそこまで見ていない』


『分かんないよ。彩花さんとか気づきそう』


『彩花には、肌を出すのが嫌いだと言えばいい』


『総長、昔から平気で背中出してたじゃん』


『会社では出していない』


『そういう問題?』


 美園が笑う。


『大丈夫だよ。私と総長は招待客なんだから、花嫁ほど見られないって』


『美園さんは見られるでしょ』


『どうして?』


『綺麗だから』


『それなら総長もでしょ』


 陽菜と美園が樹里を見る。


 樹里は僅かに眉を寄せた。


『なぜ私を見る』


『総長のドレス、まだ見てないから』


『あとで着ます』


『どんなの?』


『見れば分かる』


『背中は?』


『当然、隠れるものです』


『色は?』


『質問が多い』


 陽菜が笑った、そのときだった。


 腹部の内側から、小さく押されたような感覚があった。


『……あ』


 陽菜の手が、腹部へ移る。


 樹里の表情が変わった。


『どうした』


『今、動いた』


 美園も陽菜を見る。


『赤ちゃん?』


『たぶん』


『痛いのか?』


『痛くない。ちょっと押されたみたいな』


 樹里は陽菜の腹部を見つめたまま、動かなかった。


『総長、触る?』


『いや』


『何で』


『今は衣装の確認中だろう』


『関係ないじゃん』


 陽菜が樹里の手を取る。


 ためらう樹里の手を、自分の腹部へそっと当てた。


『この辺』


 樹里の掌が、白い布の上へ触れる。


 三人とも、黙って待った。


 すぐには何も起こらない。


 樹里が手を離そうとした瞬間、掌の下で、僅かに動く感覚があった。


 樹里の指が止まる。


『分かった?』


『……ああ』


『いたでしょ』


『最初からいるだろう』


『そういう意味じゃないよ』


 陽菜が笑う。


 樹里は何も言わず、もう一度腹部へ目を向けた。


 そこにいる命が、初めて自分へ存在を伝えたように感じた。


『美園さんも』


『いいの?』


『当たり前でしょ』


 今度は美園の手を取る。


 陽菜の腹部へ触れた美園は、穏やかに目を細めた。


『動いてる』


『ね』


『元気だね』


『誰に似たんだろ』


『陽菜じゃない?』


『まだ分かんないじゃん』


『中井くんに似たら、もう少し大人しいよ』


『それはそうかも』


『聞かれたら怒られるぞ』


『総長が言わなければ大丈夫』


『私を巻き込むな』


 三人の笑い声が、小さな試着室へ重なる。


 背中は白い布に覆われている。


 かつて三人で刻んだものは、誰にも見えない。


 それでも、その時間まで消えたわけではなかった。


 あの頃を知る三人が、今は新しい命の動きを囲んでいる。


 やがて衣装担当者が戻り、三人は何事もなかったように姿勢を整えた。


     ◇


 陽菜の試着が終わると、次は樹里と美園が用意した衣装へ着替えた。


 先に出てきたのは美園だった。


 落ち着いた色合いのドレスは、背中をすべて覆いながら、腰の線を美しく見せている。


 袖と首元に控えめな飾りがあり、露出は少ない。


 それでも、Roseに立つときとは違う華やかさがあった。


『美園さん、綺麗』


『ありがとう』


『佐藤くん、ずっと見てそう』


『そんなことしないよ』


『すると思う』


『陽菜は自分の旦那さんを見てなさい』


『中井くんはいつでも見られるもん』


『結婚する前からそれを言う?』


 試着室の扉が開く。


 樹里が姿を現した。


 深い紺色のドレス。


 肩から背中までを覆う生地には光沢があり、動くたびに色合いが僅かに変わる。


 髪も試しにまとめられ、普段のスーツ姿よりも首筋がはっきりと見えていた。


 背中にあるものは完全に隠れている。


 だが、樹里自身が持つ凛とした雰囲気までは隠れなかった。


 陽菜と美園が黙る。


『何だ』


 樹里が二人を見る。


『いや』


『似合わないのか?』


『逆』


 陽菜が立ち上がる。


『綺麗すぎて腹立つ』


『なぜ怒られる』


『総長、普段からもう少しそういう格好したら?』


『必要がない』


『神谷さんに見せた?』


『見せる必要があるのか』


『恋人でしょ』


『当日見ればいい』


『絶対、固まるよ』


 美園が樹里の周囲を一度回り、背中を確かめる。


『ちゃんと隠れてる』


『そういうものを選んだ』


『総長も綺麗だよ』


『美園まで何だ』


『本当のこと』


 樹里は居心地が悪そうに鏡へ目を向けた。


 普段とは違う自分の姿が映っている。


 樹里は一瞬だけ、神谷がこれを見たときの顔を想像した。


 すぐに考えるのをやめる。


『これで問題ない』


『顔、少し赤いよ』


『暑いだけだ』


『空調ついてるけど』


『陽菜』


『はいはい』


 三人の衣装が決まった。


 白いドレス。


 深い紺色。


 落ち着いた華やかな色。


 どの衣装も、背中に刻まれた過去を外から覆っている。


 それでも三人は、自分たちが何を隠して並ぶのかを知っていた。


     ◇


 その夜。


 樹里は自宅の机で、再びパソコンを開いていた。


 友人代表スピーチ。


 文書の題名だけは、何週間も前につけている。


 だが、本文はまだ一行も完成していなかった。


「新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり親しくさせていただいております」


 以前、書いて消した一文。


 樹里はもう一度、同じ文章を打っていた。


 続けて、指を動かす。


「責任感が強く、誰に対しても明るく接する、信頼できる友人です」


 間違ってはいない。


 陽菜は責任感が強い。


 明るく、周囲から信頼されている。


 だが、それだけではない。


 樹里が知っている陽菜は、泣きながらでも自分の前に立った。


 一人で消えた樹里を、四年間探し続けた。


 再会したあとも怒り、泣き、何度拒まれても隣から離れなかった。


 樹里の手を取り、自分だけでなく、美園まで再び同じ場所へ連れ戻した。


 それをどう書けばいいのか分からない。


 会社の人間には、三人の過去を明かせない。


 仮に過去をすべて話せたとしても、言葉にできるとは思えなかった。


 樹里は、打ち込んだ二行を見つめた。


 やがて、すべてを消す。


 白い画面へ戻った。


「書けませんか?」


 背後から、神谷の声がした。


 樹里が振り返る。


 神谷はキッチンから二つのカップを持ってきていた。


 片方を樹里のそばへ置く。


『見たんですか?』


「見ていません」


『画面は開いたままでした』


「樹里さんが見せると言うまで、読みません」


 神谷は少し離れた椅子へ座った。


「ただ、消したことは見えました」


『何度書いても、陽菜のことを書いている気がしません』


「書くことがないからですか?」


『逆です』


 樹里は白い画面を見る。


『多すぎます』


「そうですか」


『どこから書けばいいのか分かりません』


「出会ったときからでは?」


『それは話せません』


「では、再会したときから」


『それも、説明しようとすると長くなります』


「今の櫻井さんについては?」


『今だけを書けば、それ以前の陽菜がいなくなる気がします』


 神谷は考えるように黙った。


 樹里はカップへ手を伸ばす。


 温かい飲み物から、僅かに湯気が上がっていた。


「俺には、三人のすべては分かりません」


『はい』


「だから、何を書けばいいかも言えません」


『それで構いません』


「ですが、樹里さんが書けないのは、伝えたいことがないからではないと分かります」


 樹里の指が、カップの縁で止まる。


「言葉にした瞬間、足りなくなるのが怖いんじゃないですか?」


 樹里は答えなかった。


 否定できなかった。


 どんな言葉を選んでも、陽菜への思いを小さくしてしまう気がする。


 守ろうとしたことも、傷つけたことも、救われたことも、一つの文章には収まらない。


『期限は近づいています』


「はい」


『いつまでも白紙にはできません』


「それでも、今日完成させる必要はありません」


『ですが』


「今日は、櫻井さんとお子さんが動いたことを覚えておけばいいんじゃないですか?」


 樹里が神谷を見る。


『陽菜から聞いたんですか?』


「中井さんが、嬉しそうに話していました」


『そうですか』


「樹里さんも触ったそうですね」


『無理やり触らされました』


「嫌でしたか?」


『……いいえ』


 樹里は画面へ向き直った。


 白紙の一番上へ、短い言葉を打つ。


「今日、陽菜のお腹の中で、小さな命が動きました」


 披露宴で読む文章ではない。


 挨拶にもなっていない。


 それでも、先ほどまでの二行より、自分の言葉に近かった。


 樹里は消さずに残した。


「今日は、そこまでですか?」


『はい』


「では、少し休みましょう」


『悠真さん』


「はい」


『当日まで、内容は見ないでください』


「約束します」


『完成しなくてもです』


「その場合は、白紙を持って立つ樹里さんを見ています」


『縁起でもないことを言わないでください』


「樹里さんなら、何も書かれていなくても話せると思います」


『買い被りすぎです』


「そうでしょうか」


 樹里は文書を保存し、パソコンを閉じた。


 スピーチは完成していない。


 書けたのは、披露宴で使えるかも分からない一文だけだった。


 それでも、白紙ではなくなった。


 樹里はカップを持ち、神谷の隣へ移る。


 窓の外では、夏の終わりを告げるように、虫の声が響いていた。


 十月まで、あと一か月。


 変わっていくものを見送りながら、樹里も少しずつ、自分の言葉を探し始めていた。

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