↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
316/329

316話「新しい席」

八月一日。


 朝から強い日差しが窓へ差し込み、島川不動産の営業部では、始業前から空調が低い音を立てていた。


 いつもと同じ机。


 いつもと同じ書類。


 だが、部屋の奥だけが、昨日までとは違って見えた。


 黒澤が使っていた部長席から私物が消えている。


 代わりに、神谷の机に置かれていた資料や筆記具が、そこへ移されていた。


 神谷は新しい席の前に立ち、机の位置を僅かに直していた。


「神谷部長、おはようございます」


 出社した佐藤が、普段より少しだけ強調して呼ぶ。


「おはようございます」


「返事は普通ですね」


「どう返せばいいんですか」


「もう少し嬉しそうにされるかと思いました」


「今日から仕事の責任が増える人間へ、嬉しそうにしろと言わないでください」


「似合っていますよ、部長席」


「佐藤さんも、そのうち座れます」


「俺にはまだ早いです」


『二人とも、始業前から何の話をしてるの』


 陽菜が二人の間へ入る。


「神谷部長の座り心地についてです」


『まだ座ってないじゃん』


「今から確認していただきます」


「しません」


『神谷さん、緊張してる?』


「少しだけ」


『もっと堂々としてた方がいいですよ。高槻社長と話してたときの方が、よっぽど怖い顔してました』


「櫻井さん。俺は普段、そんなに頼りなく見えますか?」


『そういう意味じゃないです』


 陽菜は笑いながら、自分の席へ向かった。


 その途中で、樹里と目が合う。


『日高先輩、おはようございます』


『おはようございます、櫻井さん』


 会社で交わす、いつもどおりの挨拶だった。


 樹里の机にも、小さな変化があった。


 机上には、新たに作られた肩書が印刷された名刺が置かれている。


 特別案件統括担当。


 役職ではない。


 所属も営業部のままだ。


 ただし、複数部署にまたがる案件について、必要な人員と資料を集め、調整を求める権限が正式に与えられた。


 高槻興産の案件で、樹里が実質的に担っていた役割を、会社が形にしたものだった。


「日高さん」


 神谷が書類を持って近づく。


『はい』


「新しい決裁経路の一覧です。特別案件に指定されたものは、初期段階から日高さんへ共有されます」


『確認します』


「運用して問題があれば、今月中に修正します」


『神谷さんへ直接お伝えしてよろしいですか?』


「はい。俺だけで判断できないものは、総務部長と相談します」


『承知しました』


 神谷が書類を渡す。


 二人の指が触れそうになったが、どちらも反応を見せなかった。


 昨夜まで、夕食をどこで取るかLINEで話していた二人には見えない。


 周囲にいる社員にとっては、今日から新しい役割を担う上司と部下だった。


『二人とも、急に硬くないですか?』


 陽菜が自分の席から声をかける。


「初日ですから」


『昨日までと同じじゃないですか』


『櫻井さん。始業前とはいえ、席へ着いた方がいいですよ』


『日高先輩まで硬い』


「櫻井さん」


 中井が書類を持って陽菜の隣へ来た。


「朝礼の資料です」


『ありがとう、中井くん』


「それから、今日の外出予定ですが」


『午前中の一件だけでしょ』


「はい。午後の現地確認は、山本さんへ引き継がれています」


『分かってる』


「体調に変化はありませんか?」


『朝から三回目』


「まだ三回です」


『数えてるんだ』


「大切なことですから」


 陽菜が呆れたように笑う。


 少し離れたところで話を聞いていた陸と萌も、顔を見合わせた。


「陽菜先輩。午後の現地確認は、俺が行ってきます」


『うん。先方の担当者が細かいところまで確認する人だから、返事に迷ったら持ち帰っていいよ』


「分かりました」


『萌は、戻ってきた陸の記録を見て。管理契約に関する話が出たら、神谷さんにも共有して』


「はい。任せてください」


『二人ともお願いね』


「はい」


 二人の返事が重なる。


 陽菜は、自分の手から仕事が離れることを、以前ほど拒まなくなっていた。


 何もさせてもらえないとは思わない。


 任せられる相手が増えたのだと、今は分かっている。


「そろそろ始めるぞ」


 入口から黒澤の声が響いた。


 全員がそちらを見る。


 黒澤は小さな段ボール箱を抱えていた。


 机に置いていた私物らしく、中には筆記具や名刺入れ、古い手帳が入っている。


「黒澤部長、おはようございます」


「おはよう。ただし、俺は今日からこの部屋の部長じゃない」


 黒澤は神谷を見る。


「ここでの部長は神谷だ」


 営業部の視線が、一斉に神谷へ向いた。


 神谷は一度息を吸い、部長席の前に立つ。


「改めまして、本日付で営業部長を拝命しました、神谷です」


 いつもの声だった。


 高槻興産の会議室で、十七社を前に話していたときと同じように、落ち着いている。


「黒澤部長が作ってきた営業部を、そのまま維持するだけでは意味がないと思っています」


 黒澤の眉が上がる。


「随分言うようになったな」


「黒澤部長から、そう教わりました」


「俺のせいにするな」


 営業部に小さな笑いが起こる。


 神谷も僅かに笑ったあと、社員一人ひとりの顔を見た。


「誰か一人の判断や努力だけで、仕事を進める部署にはしません。分からないことや、止めるべきだと思うことがあれば、立場にかかわらず話してください」


 神谷の視線が、一瞬だけ樹里へ向く。


 すぐに全体へ戻った。


「責任は俺が取ります。ですが、判断に必要な意見は、皆さんからもらいたいと思っています」


 佐藤が誰より先に頭を下げる。


「よろしくお願いします」


 続いて、中井、陽菜、陸、萌たちの声が重なった。


 樹里も静かに頭を下げる。


『よろしくお願いいたします』


 神谷は、その言葉を正面から受け止めた。


「それから、日高さんには本日より、特別案件統括担当として動いていただきます」


 神谷が樹里を見る。


「通常の営業業務に加え、会社が指定する重要案件について、契約、工程、収支、各部署との連携を一括して確認していただきます」


『承知しました』


「仕事を抱え込む役割ではありません」


 樹里が僅かに目を細める。


 神谷は構わず続けた。


「必要な仕事を整理し、適切な担当者へ割り振る役割です。日高さん一人で処理することを求めているわけではありません」


『分かっています』


「本当ですか?」


『朝礼中ですよ、神谷部長』


 再び、営業部に笑いが起こった。


「これは失礼しました」


 神谷が咳払いをする。


 黒澤は腕を組みながら、その様子を見ていた。


「神谷」


「はい」


「初日から日高さんに言い負かされてるぞ」


「言い負かされてはいません」


『私も、言い負かしたつもりはありません』


「二人そろって否定するところが怪しいな」


 黒澤は笑い、抱えていた箱を持ち直した。


「まあ、あとは任せる」


 その一言で、部屋の空気が変わった。


 神谷の表情から、僅かに笑みが消える。


「はい」


「困ったら総務へ来い。ただし、営業の問題を全部持ってくるなよ」


「どちらですか」


「自分で考えろ」


「最後までそれですか」


「最後じゃない。同じ会社にいるんだから、これからも顔は合わせる」


 黒澤は営業部全体を見る。


「俺が総務へ行ったからって、急に大人しくなると思うなよ。提出が遅い奴は、今まで以上に追いかけるからな」


『それは総務部の仕事なんですか?』


 陽菜が尋ねる。


「今日から俺が決める」


『絶対、彩花さんと喧嘩しますよ』


「森下さんとはもうした」


『まだ朝ですよ』


「異動の挨拶をしたら、書類の置き方が雑だと言われた」


 陽菜が吹き出す。


 樹里は額へ手を当てた。


『彩花らしい』


「日高さん。同期なら、森下さんにもう少し柔らかくするよう言ってくれ」


『無理です』


「即答か」


『私の言葉で変わる人間ではありません』


「お前も同じだろ」


 黒澤が言ってから、すぐに言い直す。


「日高さんも、だ」


『今さら直さなくても構いません』


「癖なんだよ」


 黒澤は箱を抱え、営業部の出口へ向かった。


 扉の前で足を止める。


「神谷」


「はい」


「そこに座ったら、見えるものが増える」


 黒澤は振り返らなかった。


「その代わり、近くにいる奴の顔が見えなくなることもある。気をつけろ」


「覚えておきます」


「日高さん」


『はい』


「神谷が間違えたら止めてくれ」


『承知しました』


「俺のときより遠慮しろよ」


『努力します』


「そこは、すると言い切ってくれ」


 黒澤が笑いながら、営業部を出ていく。


 扉が閉まった。


 神谷は数秒間、その扉を見つめていた。


 やがて部長席へ向かい、初めて椅子へ腰を下ろす。


「では、朝礼を続けます」


 神谷部長としての最初の一日が始まった。


     ◇


 午前中。


 樹里は、新しい肩書で最初に共有された案件を確認していた。


 高槻興産ほど大きなものではない。


 だが、売買、改修、管理の三部門が関わるため、担当者同士の認識に僅かなずれが生じていた。


 以前なら、樹里は必要な資料をすべて自分で集めていただろう。


 関係者へ連絡し、数字を修正し、誰にも頼まれないまま全体を整えていた。


 樹里は受話器へ伸ばしかけた手を止める。


 代わりに、案件の工程を一枚の表へまとめた。


 誰が何を確認すべきかを書き込み、神谷へ送る。


 数分後、神谷が樹里の机へ来た。


「確認しました」


『不足はありますか?』


「ありません。改修部門との確認は俺から依頼します」


『私が連絡しても構いませんが』


「日高さんは、契約条件の確認をお願いします」


『分かりました』


「それから、管理部門の担当者には佐藤さんから聞いてもらいます」


『佐藤さんには別の訪問があります』


「午後からです。午前中であれば問題ありません」


『確認済みですか?』


「部長ですから」


 神谷が僅かに笑う。


 樹里も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


『では、お願いします』


「はい」


 神谷が離れていく。


 樹里は、自分の手元に残った書類を見る。


 すべてを自分で終わらせる必要はない。


 整理し、判断し、誰かへ渡す。


 任せたあとも、責任を放棄するわけではない。


 高槻興産の案件で神谷と作った仕事の形が、肩書として残っている。


 樹里は契約書を開き、自分に割り振られた箇所へ目を通し始めた。


     ◇


 夕方。


 終業時刻を過ぎると、社員が順番に帰り始めた。


「お先に失礼します、神谷部長」


「お疲れさまでした」


 佐藤が頭を下げ、営業部を出ていく。


 中井も資料を片づけた。


「陽菜さん、帰りましょう」


『うん』


 陽菜が鞄を持ち、立ち上がる。


『神谷部長、お先に失礼します』


「お疲れさまでした。明日の外出は、体調を見て変更してください」


『分かっています』


「中井さんも、無理をさせないでください」


「はい」


『二人とも心配しすぎです』


 陽菜はそう言いながら、中井の差し出した手から鞄を取り返そうとはしなかった。


 出口へ向かう途中、樹里の机の前で止まる。


『日高先輩も、あまり遅くならないでくださいね』


『今日はもう終わります』


『本当ですか?』


『何ですか、その疑い方は』


『信用がないので』


『早く帰ってください』


『はいはい。お先に失礼します』


『お疲れさまでした』


 中井と陽菜が出ていく。


 陸と萌も続き、営業部には神谷と樹里だけが残った。


 扉が閉まる。


 それでも二人の間に流れる空気は、すぐには変わらなかった。


「日高さん」


『はい』


「本日の業務は終わりましたか?」


『終わりました』


「では、退勤してください」


『神谷部長は?』


「部長なので、少し確認するものがあります」


『初日から残業ですか?』


「初日だからです」


『そうですか』


 樹里はパソコンを閉じ、鞄を持った。


『では、お先に失礼します』


「お疲れさまでした」


 神谷は部長席に座ったまま、樹里を見送る。


 樹里は営業部を出た。


 神谷が席を立ったのは、その十分後だった。


     ◇


 会社から少し離れた駅前。


 樹里は、人通りの少ない場所で神谷を待っていた。


 会社では一緒に帰らない。


 周囲へ交際を隠すためではない。


 ただ、神谷が営業部長になった初日に、二人そろって退勤する姿を見せる必要はないと判断した。


 神谷が改札近くへ姿を現す。


「お待たせしました」


『十分です』


「待ちましたよね」


『待っていません』


「先に出たのは樹里さんです」


『では、少しだけ待ちました』


 会社を離れた二人の呼び方が変わる。


 それだけで、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。


『初日はどうでしたか、神谷部長』


「ここではやめてください」


『似合っていましたよ』


「からかっていますか?」


『半分は』


「残りの半分は?」


『本当にそう思っています』


 神谷は少し黙った。


「樹里さんも、特別案件統括担当らしく見えました」


『長い肩書ですね』


「気に入っていませんか?」


『肩書そのものには、興味がありません』


「では、仕事は?」


『悪くありません』


「それは、かなり気に入っているという意味ですね」


『勝手に解釈しないでください』


「付き合いが長いので分かります」


 神谷が歩き出す。


 樹里も、その隣へ並んだ。


「今日は仕事を任せてもらえましたね」


『業務を分担しただけです』


「以前なら、すべて自分で連絡していたと思います」


『……そうかもしれません』


「無理に変わる必要はありません」


『ですが、変わらなければならない部分もあります』


 樹里は前を向いたまま答えた。


『私一人でできることには、限界があります』


「はい」


『高槻興産の案件で、分かりました』


「俺もです」


『悠真さん一人でも、成功しなかったと思います』


「はい」


『私一人でも』


「はい」


 樹里が神谷を見る。


『だから、今日の分担で問題ありません』


「分かりました」


『ただし、私へ仕事を回さなさすぎても指摘します』


「それは怖いですね」


『部長なら受け止めてください』


「努力します」


『そこは、すると言い切るところでは?』


「黒澤部長の真似ですか?」


『違います』


 二人の歩幅が自然にそろう。


 神谷は樹里の手に触れかけ、周囲を見た。


 会社からは離れている。


 同じ会社の人間も見当たらない。


 それでも一瞬迷った神谷の手を、樹里が先に取った。


「樹里さん」


『勤務時間外です』


「はい」


『今は、部長と部下ではありません』


「では、恋人として夕食へ誘ってもいいですか?」


『もう店を決めているのでしょう』


「予約もしています」


『断られたらどうするつもりだったんですか?』


「一人で食べます」


『それは困ります』


「どうしてですか?」


『私も、悠真さんと食べるつもりで待っていましたから』


 神谷が足を止めそうになる。


 樹里は手を離さず、そのまま歩き続けた。


『遅れますよ』


「はい」


 神谷が一歩進み、再び樹里の隣へ並ぶ。


 会社では、営業部長と特別案件統括担当。


 外へ出れば、まだ始まったばかりの恋人同士。


 どちらか一方を選ぶのではない。


 それぞれの立場を抱えたまま、二人で歩ける形を探していく。


 八月最初の夜。


 二人は同じ歩幅で、予約された店へ向かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。