316話「新しい席」
八月一日。
朝から強い日差しが窓へ差し込み、島川不動産の営業部では、始業前から空調が低い音を立てていた。
いつもと同じ机。
いつもと同じ書類。
だが、部屋の奥だけが、昨日までとは違って見えた。
黒澤が使っていた部長席から私物が消えている。
代わりに、神谷の机に置かれていた資料や筆記具が、そこへ移されていた。
神谷は新しい席の前に立ち、机の位置を僅かに直していた。
「神谷部長、おはようございます」
出社した佐藤が、普段より少しだけ強調して呼ぶ。
「おはようございます」
「返事は普通ですね」
「どう返せばいいんですか」
「もう少し嬉しそうにされるかと思いました」
「今日から仕事の責任が増える人間へ、嬉しそうにしろと言わないでください」
「似合っていますよ、部長席」
「佐藤さんも、そのうち座れます」
「俺にはまだ早いです」
『二人とも、始業前から何の話をしてるの』
陽菜が二人の間へ入る。
「神谷部長の座り心地についてです」
『まだ座ってないじゃん』
「今から確認していただきます」
「しません」
『神谷さん、緊張してる?』
「少しだけ」
『もっと堂々としてた方がいいですよ。高槻社長と話してたときの方が、よっぽど怖い顔してました』
「櫻井さん。俺は普段、そんなに頼りなく見えますか?」
『そういう意味じゃないです』
陽菜は笑いながら、自分の席へ向かった。
その途中で、樹里と目が合う。
『日高先輩、おはようございます』
『おはようございます、櫻井さん』
会社で交わす、いつもどおりの挨拶だった。
樹里の机にも、小さな変化があった。
机上には、新たに作られた肩書が印刷された名刺が置かれている。
特別案件統括担当。
役職ではない。
所属も営業部のままだ。
ただし、複数部署にまたがる案件について、必要な人員と資料を集め、調整を求める権限が正式に与えられた。
高槻興産の案件で、樹里が実質的に担っていた役割を、会社が形にしたものだった。
「日高さん」
神谷が書類を持って近づく。
『はい』
「新しい決裁経路の一覧です。特別案件に指定されたものは、初期段階から日高さんへ共有されます」
『確認します』
「運用して問題があれば、今月中に修正します」
『神谷さんへ直接お伝えしてよろしいですか?』
「はい。俺だけで判断できないものは、総務部長と相談します」
『承知しました』
神谷が書類を渡す。
二人の指が触れそうになったが、どちらも反応を見せなかった。
昨夜まで、夕食をどこで取るかLINEで話していた二人には見えない。
周囲にいる社員にとっては、今日から新しい役割を担う上司と部下だった。
『二人とも、急に硬くないですか?』
陽菜が自分の席から声をかける。
「初日ですから」
『昨日までと同じじゃないですか』
『櫻井さん。始業前とはいえ、席へ着いた方がいいですよ』
『日高先輩まで硬い』
「櫻井さん」
中井が書類を持って陽菜の隣へ来た。
「朝礼の資料です」
『ありがとう、中井くん』
「それから、今日の外出予定ですが」
『午前中の一件だけでしょ』
「はい。午後の現地確認は、山本さんへ引き継がれています」
『分かってる』
「体調に変化はありませんか?」
『朝から三回目』
「まだ三回です」
『数えてるんだ』
「大切なことですから」
陽菜が呆れたように笑う。
少し離れたところで話を聞いていた陸と萌も、顔を見合わせた。
「陽菜先輩。午後の現地確認は、俺が行ってきます」
『うん。先方の担当者が細かいところまで確認する人だから、返事に迷ったら持ち帰っていいよ』
「分かりました」
『萌は、戻ってきた陸の記録を見て。管理契約に関する話が出たら、神谷さんにも共有して』
「はい。任せてください」
『二人ともお願いね』
「はい」
二人の返事が重なる。
陽菜は、自分の手から仕事が離れることを、以前ほど拒まなくなっていた。
何もさせてもらえないとは思わない。
任せられる相手が増えたのだと、今は分かっている。
「そろそろ始めるぞ」
入口から黒澤の声が響いた。
全員がそちらを見る。
黒澤は小さな段ボール箱を抱えていた。
机に置いていた私物らしく、中には筆記具や名刺入れ、古い手帳が入っている。
「黒澤部長、おはようございます」
「おはよう。ただし、俺は今日からこの部屋の部長じゃない」
黒澤は神谷を見る。
「ここでの部長は神谷だ」
営業部の視線が、一斉に神谷へ向いた。
神谷は一度息を吸い、部長席の前に立つ。
「改めまして、本日付で営業部長を拝命しました、神谷です」
いつもの声だった。
高槻興産の会議室で、十七社を前に話していたときと同じように、落ち着いている。
「黒澤部長が作ってきた営業部を、そのまま維持するだけでは意味がないと思っています」
黒澤の眉が上がる。
「随分言うようになったな」
「黒澤部長から、そう教わりました」
「俺のせいにするな」
営業部に小さな笑いが起こる。
神谷も僅かに笑ったあと、社員一人ひとりの顔を見た。
「誰か一人の判断や努力だけで、仕事を進める部署にはしません。分からないことや、止めるべきだと思うことがあれば、立場にかかわらず話してください」
神谷の視線が、一瞬だけ樹里へ向く。
すぐに全体へ戻った。
「責任は俺が取ります。ですが、判断に必要な意見は、皆さんからもらいたいと思っています」
佐藤が誰より先に頭を下げる。
「よろしくお願いします」
続いて、中井、陽菜、陸、萌たちの声が重なった。
樹里も静かに頭を下げる。
『よろしくお願いいたします』
神谷は、その言葉を正面から受け止めた。
「それから、日高さんには本日より、特別案件統括担当として動いていただきます」
神谷が樹里を見る。
「通常の営業業務に加え、会社が指定する重要案件について、契約、工程、収支、各部署との連携を一括して確認していただきます」
『承知しました』
「仕事を抱え込む役割ではありません」
樹里が僅かに目を細める。
神谷は構わず続けた。
「必要な仕事を整理し、適切な担当者へ割り振る役割です。日高さん一人で処理することを求めているわけではありません」
『分かっています』
「本当ですか?」
『朝礼中ですよ、神谷部長』
再び、営業部に笑いが起こった。
「これは失礼しました」
神谷が咳払いをする。
黒澤は腕を組みながら、その様子を見ていた。
「神谷」
「はい」
「初日から日高さんに言い負かされてるぞ」
「言い負かされてはいません」
『私も、言い負かしたつもりはありません』
「二人そろって否定するところが怪しいな」
黒澤は笑い、抱えていた箱を持ち直した。
「まあ、あとは任せる」
その一言で、部屋の空気が変わった。
神谷の表情から、僅かに笑みが消える。
「はい」
「困ったら総務へ来い。ただし、営業の問題を全部持ってくるなよ」
「どちらですか」
「自分で考えろ」
「最後までそれですか」
「最後じゃない。同じ会社にいるんだから、これからも顔は合わせる」
黒澤は営業部全体を見る。
「俺が総務へ行ったからって、急に大人しくなると思うなよ。提出が遅い奴は、今まで以上に追いかけるからな」
『それは総務部の仕事なんですか?』
陽菜が尋ねる。
「今日から俺が決める」
『絶対、彩花さんと喧嘩しますよ』
「森下さんとはもうした」
『まだ朝ですよ』
「異動の挨拶をしたら、書類の置き方が雑だと言われた」
陽菜が吹き出す。
樹里は額へ手を当てた。
『彩花らしい』
「日高さん。同期なら、森下さんにもう少し柔らかくするよう言ってくれ」
『無理です』
「即答か」
『私の言葉で変わる人間ではありません』
「お前も同じだろ」
黒澤が言ってから、すぐに言い直す。
「日高さんも、だ」
『今さら直さなくても構いません』
「癖なんだよ」
黒澤は箱を抱え、営業部の出口へ向かった。
扉の前で足を止める。
「神谷」
「はい」
「そこに座ったら、見えるものが増える」
黒澤は振り返らなかった。
「その代わり、近くにいる奴の顔が見えなくなることもある。気をつけろ」
「覚えておきます」
「日高さん」
『はい』
「神谷が間違えたら止めてくれ」
『承知しました』
「俺のときより遠慮しろよ」
『努力します』
「そこは、すると言い切ってくれ」
黒澤が笑いながら、営業部を出ていく。
扉が閉まった。
神谷は数秒間、その扉を見つめていた。
やがて部長席へ向かい、初めて椅子へ腰を下ろす。
「では、朝礼を続けます」
神谷部長としての最初の一日が始まった。
◇
午前中。
樹里は、新しい肩書で最初に共有された案件を確認していた。
高槻興産ほど大きなものではない。
だが、売買、改修、管理の三部門が関わるため、担当者同士の認識に僅かなずれが生じていた。
以前なら、樹里は必要な資料をすべて自分で集めていただろう。
関係者へ連絡し、数字を修正し、誰にも頼まれないまま全体を整えていた。
樹里は受話器へ伸ばしかけた手を止める。
代わりに、案件の工程を一枚の表へまとめた。
誰が何を確認すべきかを書き込み、神谷へ送る。
数分後、神谷が樹里の机へ来た。
「確認しました」
『不足はありますか?』
「ありません。改修部門との確認は俺から依頼します」
『私が連絡しても構いませんが』
「日高さんは、契約条件の確認をお願いします」
『分かりました』
「それから、管理部門の担当者には佐藤さんから聞いてもらいます」
『佐藤さんには別の訪問があります』
「午後からです。午前中であれば問題ありません」
『確認済みですか?』
「部長ですから」
神谷が僅かに笑う。
樹里も、ほんの少しだけ口元を緩めた。
『では、お願いします』
「はい」
神谷が離れていく。
樹里は、自分の手元に残った書類を見る。
すべてを自分で終わらせる必要はない。
整理し、判断し、誰かへ渡す。
任せたあとも、責任を放棄するわけではない。
高槻興産の案件で神谷と作った仕事の形が、肩書として残っている。
樹里は契約書を開き、自分に割り振られた箇所へ目を通し始めた。
◇
夕方。
終業時刻を過ぎると、社員が順番に帰り始めた。
「お先に失礼します、神谷部長」
「お疲れさまでした」
佐藤が頭を下げ、営業部を出ていく。
中井も資料を片づけた。
「陽菜さん、帰りましょう」
『うん』
陽菜が鞄を持ち、立ち上がる。
『神谷部長、お先に失礼します』
「お疲れさまでした。明日の外出は、体調を見て変更してください」
『分かっています』
「中井さんも、無理をさせないでください」
「はい」
『二人とも心配しすぎです』
陽菜はそう言いながら、中井の差し出した手から鞄を取り返そうとはしなかった。
出口へ向かう途中、樹里の机の前で止まる。
『日高先輩も、あまり遅くならないでくださいね』
『今日はもう終わります』
『本当ですか?』
『何ですか、その疑い方は』
『信用がないので』
『早く帰ってください』
『はいはい。お先に失礼します』
『お疲れさまでした』
中井と陽菜が出ていく。
陸と萌も続き、営業部には神谷と樹里だけが残った。
扉が閉まる。
それでも二人の間に流れる空気は、すぐには変わらなかった。
「日高さん」
『はい』
「本日の業務は終わりましたか?」
『終わりました』
「では、退勤してください」
『神谷部長は?』
「部長なので、少し確認するものがあります」
『初日から残業ですか?』
「初日だからです」
『そうですか』
樹里はパソコンを閉じ、鞄を持った。
『では、お先に失礼します』
「お疲れさまでした」
神谷は部長席に座ったまま、樹里を見送る。
樹里は営業部を出た。
神谷が席を立ったのは、その十分後だった。
◇
会社から少し離れた駅前。
樹里は、人通りの少ない場所で神谷を待っていた。
会社では一緒に帰らない。
周囲へ交際を隠すためではない。
ただ、神谷が営業部長になった初日に、二人そろって退勤する姿を見せる必要はないと判断した。
神谷が改札近くへ姿を現す。
「お待たせしました」
『十分です』
「待ちましたよね」
『待っていません』
「先に出たのは樹里さんです」
『では、少しだけ待ちました』
会社を離れた二人の呼び方が変わる。
それだけで、張り詰めていた空気が僅かに緩んだ。
『初日はどうでしたか、神谷部長』
「ここではやめてください」
『似合っていましたよ』
「からかっていますか?」
『半分は』
「残りの半分は?」
『本当にそう思っています』
神谷は少し黙った。
「樹里さんも、特別案件統括担当らしく見えました」
『長い肩書ですね』
「気に入っていませんか?」
『肩書そのものには、興味がありません』
「では、仕事は?」
『悪くありません』
「それは、かなり気に入っているという意味ですね」
『勝手に解釈しないでください』
「付き合いが長いので分かります」
神谷が歩き出す。
樹里も、その隣へ並んだ。
「今日は仕事を任せてもらえましたね」
『業務を分担しただけです』
「以前なら、すべて自分で連絡していたと思います」
『……そうかもしれません』
「無理に変わる必要はありません」
『ですが、変わらなければならない部分もあります』
樹里は前を向いたまま答えた。
『私一人でできることには、限界があります』
「はい」
『高槻興産の案件で、分かりました』
「俺もです」
『悠真さん一人でも、成功しなかったと思います』
「はい」
『私一人でも』
「はい」
樹里が神谷を見る。
『だから、今日の分担で問題ありません』
「分かりました」
『ただし、私へ仕事を回さなさすぎても指摘します』
「それは怖いですね」
『部長なら受け止めてください』
「努力します」
『そこは、すると言い切るところでは?』
「黒澤部長の真似ですか?」
『違います』
二人の歩幅が自然にそろう。
神谷は樹里の手に触れかけ、周囲を見た。
会社からは離れている。
同じ会社の人間も見当たらない。
それでも一瞬迷った神谷の手を、樹里が先に取った。
「樹里さん」
『勤務時間外です』
「はい」
『今は、部長と部下ではありません』
「では、恋人として夕食へ誘ってもいいですか?」
『もう店を決めているのでしょう』
「予約もしています」
『断られたらどうするつもりだったんですか?』
「一人で食べます」
『それは困ります』
「どうしてですか?」
『私も、悠真さんと食べるつもりで待っていましたから』
神谷が足を止めそうになる。
樹里は手を離さず、そのまま歩き続けた。
『遅れますよ』
「はい」
神谷が一歩進み、再び樹里の隣へ並ぶ。
会社では、営業部長と特別案件統括担当。
外へ出れば、まだ始まったばかりの恋人同士。
どちらか一方を選ぶのではない。
それぞれの立場を抱えたまま、二人で歩ける形を探していく。
八月最初の夜。
二人は同じ歩幅で、予約された店へ向かった。




