315話「帰る場所の鍵」
日曜日。
定休日のRoseには、いつもの照明がついていなかった。
カウンターの上だけを照らす小さな灯りの下で、美園は棚からグラスを一つずつ下ろしていた。
長く使ってきた棚が、少し傾いている。
営業に支障が出るほどではない。
それでも、扉を開け閉めするたびにグラスが僅かに揺れることが気になっていた。
『やっぱり、一人でやればよかったかな』
「今から追い返そうとしていますか?」
しゃがんで棚の金具を確認していた佐藤が、顔を上げる。
『そういう意味じゃないよ』
「では、どういう意味ですか?」
『休みの日まで店に来てもらうの、悪いなって』
「俺が来たいと言いました」
『でも、棚を直すなんて言ってないでしょ』
「美園さんが電話で、休みなのに店へ行くと言っていたので」
『片づけるだけのつもりだったんだけど』
「そのあと、棚が気になると三回言いました」
『三回も言った?』
「言いました」
『覚えてない』
「俺は覚えています」
佐藤は再び金具へ目を向けた。
ドライバーを回す横顔は真剣だった。
美園はグラスを抱えたまま、その姿を見つめる。
別れていた時間は、決して長くなかった。
それでも、佐藤が再びRoseへ来るようになってから、扉が開く音の聞こえ方が変わった。
以前は、来ることを期待していないふりをしていた。
来なければ寂しくなり、来れば嬉しいくせに、そのどちらも悟られないようにしていた。
今は違う。
佐藤が来ると分かっている日は、最初から待っている。
扉が開けば、嬉しいと思う。
その気持ちを、なかったことにしなくなった。
「美園さん。そのグラスは、もう下ろさなくて大丈夫です」
『でも、こっちも揺れてるよ』
「棚ではなく、美園さんの持ち方が危ないです」
『失礼だな』
「一度に持ちすぎです」
『これくらい平気』
美園が上段のグラスへ手を伸ばす。
その瞬間、佐藤が立ち上がった。
「俺が取ります」
『届くよ』
「知っています。それでも俺が取ります」
『子ども扱いしないで』
「していません」
佐藤が美園の背後から腕を伸ばし、グラスを取る。
身体が僅かに触れた。
美園は反射的に避けそうになり、その場に踏みとどまった。
佐藤はグラスをカウンターへ置く。
「これで全部ですか?」
『うん』
「では、棚を動かします。美園さんは離れていてください」
『私も持つ』
「重いです」
『二人なら平気でしょ』
「手を挟むかもしれません」
『佐藤くん』
「はい」
『私、この店を一人で作ったんだよ』
「知っています」
『棚くらい動かせる』
「一人でできることと、一人ですることは同じではありません」
美園の手が止まる。
佐藤は、それ以上何も言わずに棚の片側を持った。
「こちらをお願いします」
『……うん』
二人で棚を僅かに手前へ動かす。
壁との隙間を確認すると、片方の固定具が緩んでいた。
「これですね」
『直せそう?』
「新しい金具が必要です」
『買ってくる』
「一緒に行きましょう」
『すぐ近くだよ』
「昼ご飯もまだです」
『佐藤くん、お腹空いた?』
「美園さんが朝から何も食べていないと思っただけです」
『食べたよ』
「何をですか?」
『コーヒー』
「食事ではありません」
『細かいなぁ』
「美園さんが大雑把なんです」
『年上に向かって言う?』
「年齢の話はしない約束です」
佐藤の声から、僅かに柔らかさが消えた。
美園は、自分が無意識に口にした言葉へ気づく。
以前、佐藤を突き放すために並べた理由の一つだった。
年齢が離れている。
佐藤には、もっと相応しい未来がある。
それを口にすることで、自分から終わらせようとした。
『ごめん』
「責めているわけではありません」
『うん』
「ただ、美園さんがまた同じことを考えているのかと思いました」
『考えてないよ』
美園は迷わず答えた。
『もう、年齢を理由に佐藤くんから離れようとは思ってない』
「店が忙しいことは?」
『それも理由にしない』
「生活が違うことは?」
『違うなら、合わせられるところを探す』
「子どものことは?」
美園は一瞬、息を止めた。
胸の奥に残る痛みが、完全になくなったわけではない。
佐藤がいつか後悔するのではないかという恐れも、消えてはいなかった。
それでも、その恐れを理由に佐藤の答えを決めることは、もうしたくなかった。
『私の身体は変わらない』
「はい」
『佐藤くんが、子どもを欲しいと思う日が来る可能性もなくならない』
「はい」
『そのときが来たら、怖くても佐藤くんに聞く』
美園は佐藤を見る。
『私と一緒にいる人生を、今も選べるのかって』
「何度聞かれても、同じように答えます」
『今は、でしょ』
「未来の俺の気持ちを、今の俺が保証することはできません」
美園の目が僅かに揺れる。
佐藤は、その変化を見逃さなかった。
「ですが、変わっていない気持ちまで疑われるつもりもありません」
『佐藤くん』
「今の俺は、美園さんと生きたいと思っています」
佐藤は、まっすぐに美園を見つめていた。
「明日も来たいです。来週も、その先も」
『毎日は来なくていいよ』
「何日までならいいですか?」
『そういう意味じゃない』
「では、来てもいいんですね」
『……うん』
「それで十分です」
佐藤の表情が柔らかくなる。
美園は照れを隠すように、カウンターの上のグラスを並べ直した。
『買い物、行こうか』
「はい」
『お昼は何が食べたい?』
「美園さんが朝食を食べていないので、すぐに食べられるものがいいです」
『だから、コーヒー飲んだって』
「それは聞きました」
『佐藤くん、復縁してから少し厳しくなってない?』
「美園さんが何でも一人で済ませようとするからです」
『前からそうだよ』
「前は、どこまで口を出していいか分かりませんでした」
『今は分かるの?』
「分かりません」
『分かんないんだ』
「分からなくても、黙らないことにしました」
美園は小さく笑った。
『それ、誰かに言われた?』
「美園さんと別れて、覚えました」
『……そっか』
二人でRoseを出た。
美園が鍵を閉め、取っ手を引いて確認する。
歩き出そうとした佐藤を、美園が呼び止めた。
『佐藤くん』
「はい」
『これ、持ってて』
美園が鞄の中から、小さな鍵を取り出した。
佐藤は差し出された鍵を見つめる。
「何の鍵ですか?」
『Roseの裏口』
「どうして俺に?」
『予備があったから』
「それだけですか?」
『それだけ』
「では、店に置いておけばいいのではありませんか?」
『細かいなぁ』
「大事なことです」
美園は鍵を引っ込めそうになった。
だが、途中で手を止める。
以前なら、冗談だったと言って鞄へ戻していた。
拒まれる前に、自分でなかったことにしていた。
『佐藤くんが来るって言った日に、私が遅れることもあるから』
「はい」
『店で何かあったとき、来てもらうかもしれない』
「はい」
『それから……』
美園は鍵を見つめた。
『私が、一人じゃどうにもならないときに使ってほしい』
佐藤はすぐに受け取らなかった。
「一人でどうにもならないとき、美園さんは俺を呼べますか?」
『呼ぶよ』
「本当に?」
『努力する』
「そこは、呼ぶと言い切ってください」
『佐藤くん、しつこい』
「知っています」
美園は佐藤の手を取り、その掌へ鍵を置いた。
指を閉じさせる。
『呼ぶ』
「はい」
『佐藤くんを呼ぶから、持ってて』
「分かりました」
『勝手に入ってきたら怒るよ』
「必ず連絡します」
『なくしても怒る』
「大切にします」
『誰かに渡しても怒る』
「渡しません」
『あと――』
「美園さん」
『何?』
「ありがとうございます」
佐藤が鍵を握る。
美園は、その手を離せなかった。
鍵を渡しただけだ。
一緒に住む約束をしたわけでも、結婚を決めたわけでもない。
それでも美園にとっては、自分の暮らしの中へ佐藤が入ることを認める、小さな決断だった。
『こっちこそ』
「どうして美園さんがお礼を言うんですか?」
『受け取ってくれたから』
「断ると思ったんですか?」
『少しだけ』
「俺が断る前に、引っ込めるつもりでしたか?」
『……少しだけ』
「また先に決めるところでしたね」
『引っ込めなかったでしょ』
「はい」
『だから、褒めて』
「よく渡せました」
『子どもに言うみたい』
「では、別の方法にします」
佐藤が、美園の手を引いた。
近づいた身体を受け止め、その額へ口づける。
美園は目を閉じた。
額から頬へ。
最後に、唇が重なる。
短い口づけだった。
それでも佐藤が離れると、美園はそのシャツを掴んだ。
『もう一回』
「はい」
今度は、美園から唇を重ねた。
通りに人の姿がないことを確認する余裕もなかった。
佐藤の首へ腕を回し、先ほどよりも長く触れる。
離れたあとも、美園はすぐに顔を上げられなかった。
「美園さん」
『何?』
「買い物へ行かなくて大丈夫ですか?」
『今、それ言う?』
「昼ご飯を食べていませんから」
『雰囲気ないなぁ』
「このまま続けると、店へ戻りたくなります」
美園が佐藤の胸元から顔を上げる。
佐藤の耳が赤くなっていた。
『鍵、もう使う?』
「連絡してから使う約束です」
『私、ここにいるけど』
「では、連絡します」
佐藤が真面目な顔でスマートフォンを出す。
美園は吹き出した。
『嘘。先にご飯』
「はい」
『そのあと棚を直して、夜は店で食べよ』
「何を作りますか?」
『佐藤くんが食べたいもの』
「美園さんが食べたいものがいいです」
『じゃあ、一緒に決める?』
「そうしましょう」
二人は並んで歩き出した。
佐藤の手には、Roseの鍵が握られている。
美園は何度か、その手へ目を向けた。
渡さなければよかったとは思わなかった。
怖さよりも、その鍵を佐藤が持っていることへの安堵の方が大きかった。
以前の美園は、失う日のために、先に離れようとした。
今は違う。
いつか何かが変わる可能性を知りながら、それでも今日の続きを佐藤と選んでいる。
それは美園にとって、永遠を約束するよりも勇気のいることだった。
同じ日の夜。
樹里は自宅の机に座り、パソコンを開いていた。
画面に表示されているのは、友人代表スピーチと名づけた文書だった。
陽菜から頼まれてから、何度か開いている。
だが、内容はほとんど増えていなかった。
樹里はキーボードへ指を置いた。
しばらく考えたあと、一行目を打つ。
「新婦の櫻井陽菜さんとは、長年にわたり親しくさせていただいております」
間違った文章ではない。
披露宴で読んでも失礼にはならない。
それでも樹里は、画面に並んだ文字を見つめたまま動かなかった。
櫻井陽菜さん。
長年にわたり親しくしている。
どちらも間違いではないはずなのに、自分と陽菜のことを書いた文章には見えなかった。
樹里は一文をすべて選択し、削除した。
再び、白い画面だけが残る。
陽菜と出会った日のことを書くべきなのか。
離れていた時間のことを書くべきなのか。
再会した日のことか。
中井と出会い、少しずつ変わっていった陽菜のことか。
書くべきことは、いくらでもある。
だが、どれも人前で話す言葉へ変えた瞬間に、自分たちのものではなくなる気がした。
樹里は新しい一文を打つ。
「陽菜は――」
そこで指が止まる。
画面には、その四文字だけが残った。
樹里は削除できなかった。
続きも書けなかった。
パソコンの横には、陽菜と中井から届いた招待状が置かれている。
樹里はそれを一度見たあと、白い画面へ視線を戻した。
『……何を話せばいい』
答える者のいない部屋で、樹里は小さく呟いた。
画面の中の「陽菜は」という言葉の先で、カーソルだけが点滅し続けていた。




