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314話「あたしが選んだ人」

中井は、陽菜の正面へ座った。


 向かい合ったまま、しばらく何も言えなかった。


 話すと決めて帰ってきた。


 樹里と美園の前では、逃げないと言えた。


 それでも、陽菜の顔を見ると、自分がこれから口にする言葉で傷つけることが分かってしまう。


 陽菜は急かさなかった。


 テーブルの上で両手を組み、中井が話し始めるのを待っている。


『父親になるのが怖いって言ったよね』


「はい」


『それだけじゃないの?』


「……はい」


 中井は一度俯きかけた。


 だが、Roseで樹里から言われた言葉を思い出し、陽菜から目を逸らさなかった。


「陽菜さんと子どもを、俺が本当に守れるのか分からなくなりました」


『うん』


「今は仕事もあります。生活も安定しています。陽菜さんの体調が悪ければ、家事も代われます」


『してくれてるね』


「ですが、子どもが生まれたあとのことは、想像しても分からないことばかりです」


 中井の手に力が入る。


「陽菜さんが苦しんでいるとき、俺が正しいことをできるのか。子どもに何かあったとき、父親として支えられるのか」


『……うん』


「失敗したらどうしようと思いました」


『失敗なんて、誰でもするでしょ』


「その失敗で、陽菜さんを傷つけるかもしれません」


『もう傷つけてるけど』


 静かな声だった。


 責めるような強さはない。


 だからこそ、中井の胸へ深く刺さった。


「申し訳ありません」


『まだ、全部聞いてない』


「はい」


『総長と美園さんに、何を話したの?』


 中井は息を吸った。


 ここを隠せば、話したことにはならない。


「俺ではない方が、陽菜さんを幸せにできるんじゃないかと話しました」


 陽菜の表情が止まった。


「もっと父親になる準備ができている人や、家族を持つことに迷わない人の方が、陽菜さんと子どものそばにいるべきではないかと」


『それ、本気で言ったの?』


「そのときは、本気で考えていました」


『あたしに何も言わずに?』


「はい」


『あたしと別れようと思ったってこと?』


「そこまで決めていたわけではありません」


『同じだよ』


 陽菜の声が僅かに震えた。


『中井くんじゃない方がいいって思ったんでしょ』


「はい」


『それなら、中井くんがあたしの前からいなくなるってことでしょ』


「……はい」


『何で』


 陽菜の目に涙が浮かぶ。


『何で、中井くんが決めるの』


「陽菜さん」


『あたしが中井くんを選んだんだよ』


「はい」


『結婚したいって言ったのも、この子を二人で育てたいって思ったのも、あたしでしょ』


「はい」


『なのに、何であたしの未来を、中井くんが勝手に決めるの』


「申し訳ありません」


『謝ってほしいんじゃない!』


 陽菜が声を上げた。


 涙が頬を伝う。


『総長も、美園さんも、同じこと言ったんじゃないの?』


「言われました」


『だったら、分かったでしょ』


「はい」


『あたしのためとか、この子のためとか言って、自分が逃げようとしただけじゃん』


「そのとおりです」


 中井は言い訳をしなかった。


 陽菜が怒るのは当然だった。


 自分では支えられないかもしれない。


 別の人間の方が幸せにできるかもしれない。


 そう考えることで、自分が失敗する未来から逃げようとしていた。


「俺は、陽菜さんに必要とされなくなるのが怖かったんだと思います」


 陽菜が唇を噛む。


「父親として失敗して、陽菜さんに選んだことを後悔されるのが怖かった」


『だから、後悔される前にいなくなろうとしたの?』


「はい」


『最低』


「はい」


『情けない』


「はい」


『そこで否定してよ』


「否定できません」


 陽菜は手の甲で涙を拭った。


 中井は席を立たなかった。


 触れていいのかも分からないまま、正面に座り続けている。


「ですが、もう、自分ではない方がいいとは言いません」


 先ほどまで揺れていた声が、そこで止まった。


「陽菜さんが俺を選んでくれたことを、俺が否定しません」


 中井の目には、まだ恐れが残っている。


 父親になれると確信したわけではない。


 未来への不安が消えたわけでもない。


 それでも、その目は逃げる場所を探していなかった。


「怖くても、陽菜さんの隣にいます」


『……うん』


「失敗したら、隠さずに話します。分からなければ、分からないと言います」


『うん』


「一人で勝手に答えを出しません」


『絶対?』


「絶対です」


『また、あたしじゃないところで決めない?』


「決めません」


『あたしに愛想を尽かされるのが怖くても?』


「怖いまま、陽菜さんに話します」


 陽菜の涙が、もう一度頬を伝った。


 今度は拭わなかった。


『あたしだって、怖いよ』


「はい」


『ちゃんと産めるかも分かんない。この子が無事に育ってくれるかも、まだ分かんない』


「はい」


『母親になれるかも分かんない』


 陽菜は自分の腹部へ手を置いた。


 まだ服の上からは、はっきりとした変化は見えない。


 それでも、そこに命がいることを、陽菜は一日の中で何度も意識していた。


『お母さんが生きてたら、聞けたのかもしれない』


 中井は黙って聞いていた。


 陽菜が十六歳のときに両親を亡くしたことも、そのあと佳菜と二人で暮らし始めたことも知っている。


 だから、簡単に分かりますとは言えなかった。


『妊娠したとき、嬉しかった。でも、同じくらい怖かった』


「どうして、俺に言わなかったんですか」


『中井くんが、あたしより心配してたから』


「俺が?」


『コーヒーも止めるし、荷物も全部持つし、ちょっと立っただけで大丈夫ですかって聞くし』


「心配でしたから」


『分かってる。でも、中井くんが必死だったから、あたしまで怖いって言ったら困らせると思った』


「困りません」


『今なら言えるよね』


「はい」


『あたしも、中井くんがそのうち疲れるんじゃないかって怖かった』


「疲れません」


『そういうふうに、すぐ否定しないで』


 中井は口を閉じた。


『疲れるときだってあるでしょ。仕事もして、家のこともして、あたしのことまで気にして』


「……あるかもしれません」


『そのときは言って』


「はい」


『一人で我慢して、急にいなくなる方が嫌』


「分かりました」


『あたしも言うから』


「何をですか?」


『怖いことも、しんどいことも。中井くんに腹が立ったときも』


「今のようにですか?」


『今よりもっと言うかも』


「覚悟しておきます」


 陽菜の口元が、ほんの僅かに緩んだ。


 中井はそれを見ても、すぐに安心した顔にはならなかった。


「陽菜さん」


『何?』


「許してもらえるとは思っていません」


『まだ怒ってるよ』


「はい」


『たぶん、明日も少し怒ってる』


「はい」


『でも、そっちに座ってるのは嫌』


 陽菜が、自分の隣を手で示した。


 中井は立ち上がり、隣へ座る。


 陽菜はすぐには身体を寄せなかった。


 中井の横顔を見たあと、その胸元へ目を移す。


『シャツ、皺になってる』


「はい」


『総長に掴まれたの?』


「掴まれました」


『本当に?』


「はい」


『何て言われた?』


「お前の何十倍も、陽菜は怖いんだ、と」


 陽菜の目が僅かに見開かれる。


「怖いなら、怖いまま隣にいろとも言われました」


『……総長らしい』


「それから、絶対に逃げるな、と」


『うん』


「俺なら、陽菜さんの帰れる場所になれると思ったから、陽菜さんを託したと言われました」


 陽菜は俯いた。


 泣き止みかけていた目から、新しい涙が落ちる。


『そんなこと言ったんだ』


「はい」


『あたしには言わないくせに』


「日高さんも、かなり迷いながら話していたように見えました」


『総長、不器用だから』


「知っています」


『中井くんが言わないでよ』


「申し訳ありません」


『でも、そっか』


 陽菜は中井のシャツの皺へ指先で触れた。


 そのまま布を摘まみ、ゆっくりと中井の方へ身体を寄せる。


 中井は自分から抱き締めなかった。


 陽菜が額を胸へつけたところで、ようやく背中へ腕を回す。


『美園さんは、何て言ったの?』


「自分も、同じことをしたと言っていました」


『佐藤くんの未来を勝手に決めたこと?』


「はい。佐藤さんから、自分の未来を勝手に決めないでほしいと言われたそうです」


『そっか』


「それから、今日話したことを陽菜さんへ全部話すようにと」


『美園さんらしいね』


「はい」


『二人とも知らないのに、二人で親になれるのかな』


「なれるかどうかは、まだ分かりません」


『そこは、なれるって言ってよ』


「先ほど、すぐに否定するなと言われましたので」


『そういうところだけ素直に聞かなくていいの』


 中井の胸元で、陽菜が小さく笑った。


 中井の腕に、少しだけ力が入る。


「では、二人で覚えましょう」


『それ、前にも言ったね』


「何度でも言います」


『忘れそうになったら?』


「また二人で言います」


『中井くんが勝手に決めそうになったら?』


「陽菜さんへ話します」


『その前に、あたしが怒る』


「お願いします」


『総長に掴まれる前に止める』


「それは助かります」


 陽菜は顔を上げた。


 目元は赤い。


 それでも、中井を見つめる目から、先ほどまでの硬さは消えていた。


『中井くん』


「はい」


『あたしが選んだのは、中井くんだから』


「はい」


『完璧な父親が欲しいんじゃない』


「はい」


『あたしと一緒に怖がってくれる人がいい』


「……はい」


『一人で平気なふりしないで』


「陽菜さんもです」


『うん』


「約束できますか?」


『中井くんが守るなら』


「守ります」


『じゃあ、あたしも守る』


 中井は陽菜の頬へ手を添えた。


 涙の跡を親指で拭う。


「陽菜さん。申し訳ありませんでした」


『もう一回やったら、今度はあたしが胸ぐら掴むからね』


「分かりました」


『あと、総長にも謝らせる』


「それはいいです」


『何で?』


「俺に必要なことを言ってくれましたから」


『でもシャツ、皺になってるよ』


「クリーニングに出せば戻ります」


『じゃあ、あたしの方が大事?』


「比べるものではありません」


『そこは即答するとこでしょ』


「陽菜さんの方が大事です」


『遅い』


 陽菜はそう言いながら、中井の頬へ口づけた。


 唇が離れる。


 中井がもう一度近づこうとすると、陽菜はその胸を手で押した。


『今日はこれだけ』


「はい」


『まだ少し怒ってるから』


「承知しました」


『でも、離れないで』


「はい」


 中井は陽菜の肩を抱いた。


 二人はソファに並んだまま、しばらく動かなかった。


 怖さは消えていない。


 これから先も、二人が知らないことはいくつも起こる。


 それでも、どちらかが相手の未来を決めるのではなく、分からないまま二人で選んでいく。


 今は、それでよかった。


 数日後。


 陽菜と中井は、十月の挙式へ向けた衣装の打ち合わせに来ていた。


 陽菜が試着室から出ると、中井が椅子から立ち上がる。


 白いウェディングドレスは、以前試着したものと同じだった。


 だが、腰回りの留め方が少し変わっている。


「いかがですか。苦しくありませんか?」


 担当者に尋ねられ、陽菜は腹部へ手を添えた。


『今は大丈夫です』


「十月にはお腹がさらに大きくなりますので、後ろを調整できる形へ直します。式の直前にも、もう一度最終確認をさせてください」


『お願いします』


「体調が悪くなった場合は、打ち合わせの日程も変更できます。遠慮なくご連絡ください」


『はい』


 陽菜は鏡の中の自分を見る。


 今はまだ、ドレスの上から妊娠しているとはほとんど分からない。


 だが十月には、隠せないほど大きくなっているはずだった。


『変じゃない?』


「何がですか?」


『お腹、大きくなっても、このドレスで大丈夫かな』


「大丈夫です」


『まだ分かんないでしょ』


「では、何度でも確認します」


『中井くん、すぐ心配するくせに、そういうときだけ簡単に大丈夫って言うよね』


「ドレスのことは詳しくありませんが、陽菜さんが着ることは決まっていますから」


『何それ』


「どのように直しても、陽菜さんに似合うと思います」


 陽菜は鏡越しに中井を見る。


『昨日までなら、信用しなかったかも』


「今日は信用してもらえますか?」


『半分くらい』


「残りの半分は、十月までに信用してもらいます」


『頑張って』


「はい」


 担当者が、腰の部分へ仮の布を当てる。


「こちらに余裕を持たせれば、お腹が大きくなっても形を崩さずに着ていただけます」


『この子と三人で着るドレスになるんですね』


「そうですね」


 陽菜は腹部を撫でた。


 中井が隣へ来る。


 人目を気にしたのか、腹へ直接手を重ねることはしなかった。


 代わりに、陽菜の肩へそっと触れる。


「写真にも、三人で残りますね」


『まだ見えないけどね』


「あとで見せられます」


『何を?』


「お腹の中にいたときから、一緒に結婚式をしたんだと」


 陽菜は再び鏡を見る。


 白いドレス姿の自分。


 その隣に立つ中井。


 そして、今はまだ自分の中にいる小さな命。


 完璧な家族には見えなかった。


 きっと、これからも完璧にはならない。


 それでも、自分が選んだ人と、自分たちなりの家族になっていく。


『中井くん』


「はい」


『十月までに、また怖くなることあると思う』


「はい」


『あたしもあるから』


「そのときは、話してください」


『中井くんもね』


「約束します」


 陽菜は鏡の中の中井へ笑いかけた。


 中井も、今度は迷わず笑い返した。

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