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313話「勝手に決めるな」

翌日の夜。


 閉店後のRoseでは、樹里と美園が中井を待っていた。


 陽菜には何も伝えていない。


 自分自身について二人へ話したい。


 できれば、美園にも同席してほしい。


 中井から届いたのは、それだけだった。


『遅いね』


 美園が時計を見る。


『約束の時間までは、あと五分ある』


『何の話だと思う?』


『本人から聞けば分かる』


『総長、心配じゃないの?』


『陽菜の体調には問題がないと聞いている』


『それでも』


『今考えても仕方ない』


 樹里は淡々と答えた。


 それでも、手に持ったグラスにはほとんど口をつけていない。


 美園はそれに気づいていたが、何も言わなかった。


 間もなく、店の扉が開く。


「失礼します」


 中井が一人でRoseへ入ってきた。


『こんばんは、中井くん』


「こんばんは、美園さん」


『来ていただき、ありがとうございます。中井さん』


「こちらこそ、急にお願いして申し訳ありません」


『構いません。お掛けください』


「はい」


 中井はカウンターの前へ座った。


 美園が冷たい茶を出す。


「ありがとうございます」


『それで、私たちに話って?』


 美園が尋ねた。


 中井はすぐには答えなかった。


 膝の上で手を組み、指先へ力を入れている。


 普段の会社では見せない、落ち着かない様子だった。


『急がなくても構いません』


 樹里が言う。


『話せるところから、お話しください』


「はい」


 中井は一度息を吸い、顔を上げた。


「陽菜さんと、子どものことです」


『体調に変化があったのですか?』


「ありません。先日の診察でも、順調だと言われました」


『では、何でしょうか』


「俺は、陽菜さんと子どもを守りたいと思っています」


『はい』


「結婚したあとも、何があっても二人のそばにいるつもりです」


 中井の言葉に迷いはない。


 だが、表情は苦しそうなままだった。


「そのうえで、日高さんと美園さんにもお願いがあります」


『何ですか?』


「これからも、陽菜さんと子どもを見守っていてください」


 樹里は中井を見つめた。


『それは、中井さん一人では守れないという意味でしょうか』


「違います」


 中井はすぐに否定した。


「陽菜さんにとって、日高さんと美園さんは家族です。俺と結婚したことで、その関係を変えたくありません」


『変えるつもりはないよ』


 美園が答える。


『中井さんに言われなくても、私も同じです』


「ありがとうございます」


 中井は頭を下げた。


 それでも、話を終えようとはしなかった。


 組んだ手を見つめたまま、次の言葉を探している。


『まだ、何かありますか?』


 樹里が尋ねる。


「はい」


『お話しください』


「俺は今、二人を守ると言いました」


『はい』


「その気持ちに、嘘はありません」


『それも分かっています』


「ですが」


 中井の声が僅かに小さくなる。


「正直に言えば、怖いです」


 樹里は何も言わなかった。


 美園も、続きを待っている。


「父親になることも。陽菜さんを支え続けられるのかも。考えるほど、自信がなくなります」


『具体的には、何が怖いのですか?』


 樹里の口調は変わらない。


 中井を責めることも、否定することもしなかった。


「陽菜さんの体調が悪くても、代わってあげることはできません。子どもに何か起きても、俺にはすぐに気づけないかもしれない」


『はい』


「仕事を続けながら、家のこともできるのか。二人に不自由な思いをさせずに生活できるのか。父親として、何を教えればいいのか」


 中井の手に、さらに力が入る。


「何一つ、確かなことがありません」


『父親になるのは、初めてです。分からないのは当然ではありませんか?』


「そう思おうとしています」


『陽菜とも、二人で覚えていくと話したのではありませんか?』


「話しました」


『では、なぜ一人で考えているのですか?』


「陽菜さんを、これ以上不安にさせたくないからです」


 中井は俯いた。


「陽菜さんも、母親になることを怖がっています。自分の母親には、もう何も聞けないと言っていました」


 美園の手が止まる。


「そんな陽菜さんに、俺まで怖いとは言えません」


『だから、私たちへ話しに来たのですか?』


「それもあります」


『ほかにも?』


「……自分の考えていることが正しいのか、聞きたかったんです」


『何を考えているのですか?』


 中井は、なかなか答えなかった。


 口にしてしまえば、今まで自分が陽菜へ伝えてきた覚悟まで嘘になるような気がした。


 それでも、その弱さを隠したまま結婚式を迎えたくなかった。


「陽菜さんの隣にいるのは」


 一度、声が止まる。


「俺ではない方がいいんじゃないかと、考えてしまうことがあります」


 美園が中井を見る。


 樹里の表情は、まだ変わらない。


『どういう意味でしょうか』


「日高さんなら、陽菜さんが無理をしていてもすぐに気づけます。美園さんなら、陽菜さんが話せないことも待って聞ける」


『中井くん』


 美園が止めようとする。


 だが、中井は続けた。


「俺は、何度も陽菜さんの気持ちを見落としました。今も自分のことばかりで、二人を本当に支えられるのか分からない」


『それで、どうするつもりなのですか?』


「結婚をやめたいわけではありません」


『では、何を考えたのですか?』


「もし俺より、陽菜さんを幸せにできる人がいるなら」


『陽菜が、そう言ったのですか?』


 樹里の声が少し低くなる。


「いいえ」


『中井さんではない方がいいと、陽菜本人が言ったのですか?』


「言っていません」


『では、誰が決めたのですか?』


 中井は答えられなかった。


『中井さん』


「……俺です」


『陽菜に何も聞かず、あなたが一人で決めたのですか?』


「決めたわけではありません。そう考えてしまうことがあるだけです」


『同じです』


 樹里の言葉から、僅かに温度が消える。


『陽菜が選んだ相手は、中井さんです』


「はい」


『それを、なぜ中井さんが否定するのですか?』


「否定するつもりは」


『しています』


 樹里は、中井から目を逸らさない。


『自分ではない方がいいという言葉は、陽菜の選択が間違っていたと言っているのと同じです』


 美園の胸に、かつて佐藤から言われた言葉が蘇る。


 前の人は、美園さんの身体を見て離れた。


 美園さんは、僕の未来を見て先に離れた。


 やっていることは、同じです。


 佐藤の将来を邪魔したくない。


 自分より、別の女性を選んだ方が幸せになれる。


 そう考え、美園は佐藤に何も聞かず、自分から関係を終わらせた。


 中井が今口にしていることは、あのときの自分と同じだった。


 相手を大切に思っている。


 相手の幸せを願っている。


 その気持ちを理由に、相手の未来を勝手に決めようとしている。


『中井さん』


 美園が静かに呼ぶ。


『私も、同じことをしたよ』


「美園さんが?」


『佐藤くんには、私より別の人といた方がいいと思った』


 中井が顔を上げる。


『将来のためだと思って、何も聞かずに別れた』


「でも、今は」


『佐藤くんに怒られた』


 美園は少しだけ笑った。


『僕の未来を勝手に決めないでくださいって』


 中井は何も言えなかった。


『相手のためだと思ってた。でも、本当は自分が怖かっただけだった』


「怖かった?」


『いつか置いていかれるのが怖くて、その前に私から離れた』


 美園は中井を真っ直ぐ見た。


『中井くんも、本当に陽菜のためだけに言ってる?』


 その問いに、中井の視線が落ちる。


「……違うと思います」


『何が怖いの?』


「守れなかったときに、陽菜さんから必要とされなくなるのが怖いです」


 初めて、隠していた感情がそのまま出た。


「父親として失敗して、陽菜さんを支えられなくて。俺では駄目だったと思われるのが怖い」


 弱々しい声だった。


 背中を丸め、視線を落とした姿には、先ほどまで口にしていた覚悟の欠片も見えない。


「だったら最初から、俺じゃない方がいいのかもしれないと」


 樹里が椅子から立ち上がった。


 中井の前まで歩く。


「日高さん?」


 中井が顔を上げる。


 樹里の手が、その胸ぐらを掴んだ。


 椅子に座っていた身体が、強く引き寄せられる。


『お前の何十倍も、陽菜は怖いんだ』


 それまでの敬語が消えていた。


 中井の目が大きく開く。


『あいつは、自分の身体の中で子どもを守ってる』


 樹里の指に力が入る。


『何かあれば、自分が悪かったと思う。仕事をしたからか。食べたものが悪かったのか。もっと早く気づけなかったのか。あいつは全部、自分のせいにする』


「……はい」


『母親になろうとしてるのに、自分の母親にはもう何も聞けない』


 十六歳で両親を失った陽菜。


 姉との距離も分からないまま、十八歳で家を出た。


 誰かに頼るより先に、自分で立とうとした。


 その陽菜が今、中井を選び、家族を作ろうとしている。


『やっと、自分から誰かを家族に選んだんだ』


 樹里の声が震える。


『それを、お前が勝手に間違いだったことにするな』


「間違いだとは――」


『同じだ!』


 樹里の声が、閉店後の店内へ響く。


『お前じゃない方がいいなんて、陽菜に言われてもいないのに決めるな!』


 美園は、胸の奥を強く掴まれたように感じた。


 あのとき自分も、佐藤の未来を勝手に決めた。


 佐藤が何を望むかを聞く前に、自分ではない方がいいと決めた。


 樹里の言葉は中井へ向けられている。


 それでも、一つ一つが過去の自分にも突き刺さった。


『私も、同じ間違いをした』


 樹里が続ける。


 美園が顔を上げる。


『陽菜のためだと思って、何も言わずに消えた』


 四年間。


 陽菜は樹里を探し続けた。


 自分を遠ざけることが、陽菜を過去から解放する唯一の方法だと信じていた。


『あいつなら、私がいない方が幸せになれると思った』


「日高さん」


『だが、置いていかれた陽菜は、自分に何が足りなかったのかを考え続けた』


 樹里は、自分自身へ言い聞かせるように言葉を重ねる。


『相手のために離れるなんて、逃げた側の言い訳だ』


 中井の胸ぐらを掴む手が、僅かに震えていた。


『怖いことが悪いんじゃない』


 樹里は中井の目を見る。


『父親になれるか分からなくてもいい。失敗しても、不器用でもいい』


「はい」


『だが、怖いからって陽菜の未来を勝手に決めるな』


「はい」


『情けない面を、あいつの前で見せるな』


 中井の目が揺れる。


『怖いと言うなって意味じゃない。弱さを隠せとも言ってない』


 樹里は、さらに中井を引き寄せた。


『自分の不安を理由に、陽菜にお前まで支えさせるなと言ってるんだ』


「はい」


『怖いなら、怖いまま隣にいろ』


「はい」


『何度失敗しても、そのたびに陽菜と話せ』


「はい」


『絶対に逃げるな』


 中井は一度、目を閉じた。


 今まで、自分の中にある恐怖をなくそうとしていた。


 怖がる自分では、陽菜を守れない。


 迷う自分には、父親になる資格がない。


 そう思い、自分ではない誰かの方がいいと考えた。


 だが、それは陽菜のためではなかった。


 失敗した自分を見られる前に、逃げ道を作っていただけだった。


 中井は目を開いた。


 まだ恐怖は消えていない。


 父親になる方法も、陽菜を支え続ける正解も分からない。


 それでも、視線はもう落ちなかった。


 樹里から逃げず、真正面からその目を見る。


 丸まっていた背中が伸びる。


 強く握りしめていた手から力が抜けた。


「怖いです」


 中井は、今度ははっきりと言った。


「父親になることも。陽菜さんと子どもを守りきれるのかも、今でも怖いです」


 声はもう震えていなかった。


「ですが、自分ではない方がいいとは、もう言いません」


 樹里は黙って聞いている。


「陽菜さんが俺を選んでくれたことを、俺が否定しません」


『ああ』


「失敗したら、陽菜さんに話します。怖くなっても、一人で答えを決めません」


『ああ』


「陽菜さんが怒っても、泣いても、俺から離れません」


 中井の目にあった迷いが、少しずつ消えていく。


 根拠のない自信へ変わったのではない。


 怖さを認めたうえで、それでも隣に立つと決めた人間の目だった。


「俺が、陽菜さんの帰れる場所になります」


 樹里の手から、ゆっくりと力が抜ける。


 胸ぐらを放す。


 中井のシャツには、強く掴まれた皺が残っていた。


 二人の間に、短い沈黙が落ちる。


 樹里は中井の目を確認した。


 先ほどまでの、誰かに答えを求める目ではない。


 自分で決めた覚悟を、相手へ伝える目へ変わっていた。


『私は』


 樹里は、そこで一度言葉を止めた。


 陽菜は、誰かから渡される人間ではない。


 誰と生きるのかは、陽菜自身が決める。


 それでも、長い間一人で抱えてきたものを中井へ預けるには、この言葉しかなかった。


『私は、お前ならなれると思ったから、陽菜を託した』


 中井の表情が変わる。


『陽菜が選んだからだけじゃない』


 樹里は続ける。


『私も、お前ならあいつの隣に立てると思った』


「日高さん」


『裏切るな』


「はい」


『陽菜を、絶対に一人にするな』


「約束します」


『陽菜のそばで、あいつが帰れる場所になれ』


「なります」


 中井は椅子から立ち上がった。


 樹里へ向かって、深く頭を下げる。


「陽菜さんと子どものそばに、一生います」


 先ほど口にした、守るという言葉。


 同じ意味を持ちながら、その重さは変わっていた。


 何も失敗しないという約束ではない。


 怖さが消えるという言葉でもない。


 失敗しても、怖くても、絶対に逃げないという覚悟だった。


『頭を上げてください』


 樹里の呼び方と口調が、普段のものへ戻っていた。


 中井が顔を上げる。


『突然、胸ぐらを掴んで申し訳ありませんでした。中井さん』


「いえ」


『痛くありませんでしたか?』


「大丈夫です」


『シャツに皺がつきました』


「陽菜さんには、自分で説明します」


『私がしたことは、そのままお話しください』


「はい」


『責任は取ります』


「恐らく、日高さんより俺が怒られると思います」


『なぜですか?』


「一人で勝手なことを考えていたからです」


 樹里は否定しなかった。


『そうかもしれません』


「そこは否定していただけないんですね」


『陽菜なら、怒ると思います』


『怒るだろうね』


 美園も同意する。


 中井は僅かに笑った。


 その表情にも、先ほどまでの暗さはなかった。


『中井くん』


 美園が呼ぶ。


「はい」


『怖かったことも、ちゃんと陽菜に話してあげて』


「話してもいいのでしょうか」


『話さないと分からないよ』


「ですが、余計に不安にさせるかもしれません」


『不安にさせることと、一人で勝手にいなくなろうとすること。どっちが陽菜を傷つけると思う?』


「後者です」


『うん』


 美園は静かに頷いた。


『私も、話さなかったから佐藤くんを傷つけた』


「美園さん」


『中井くんが今言ったこと、他人の話には聞こえなかった』


 美園は、自分の胸元へ手を添えた。


『自分じゃない方が相手は幸せになれる。そう思って、勝手に離れようとしたから』


「後悔していますか?」


『してる』


 迷わず答えた。


『だから、中井くんには同じことをしてほしくない』


「分かりました」


『陽菜が怒っても、最後まで話して』


「はい」


 中井はもう一度、二人へ頭を下げた。


「今日は、話を聞いていただきありがとうございました」


『こちらこそ、お話しいただきありがとうございました』


『気をつけて帰ってね』


「はい。失礼します」


 中井はRoseを出ていった。


 扉が閉まる。


 店内には、樹里と美園だけが残った。


 美園は、中井が使っていたグラスを片づけようとした。


 だが、すぐには手を伸ばさなかった。


『総長の言葉、私にも刺さった』


『中井さんへ言ったことだ』


『分かってる』


『なら、気にするな』


『無理だよ』


 美園は、閉じた扉を見る。


『私も、佐藤くんの未来を勝手に決めた』


『ああ』


『あのときの私は、本当に佐藤くんのためだと思ってた』


『私も、陽菜のためだと思って消えた』


『似てるね、私たち』


『そうだな』


 樹里は、今度は否定しなかった。


『怖いから逃げたのに、相手のためだって言い換えてた』


『認めるのは難しい』


『うん』


 美園はグラスを手に取り、洗い始める。


『でも、中井くんの目、最後は変わったね』


『ああ』


『最初は、総長に答えを決めてもらおうとしてた』


『今は、自分で決めた』


『怖いままでも、隣にいるって』


『それでいい』


 父親として何も失敗しない人間などいない。


 陽菜を一度も不安にさせない人間もいない。


 それでも、失敗するたびに向き合い、離れずにいられるなら。


 陽菜が選んだ相手は、間違っていない。


『総長も、少しは人に預けられるようになったね』


『預けたわけじゃない』


『託したって言ってたよ』


『言葉の問題だ』


『同じだと思うけど』


『違う』


『じゃあ、何が違うの?』


 樹里は答えなかった。


 美園は追及せず、僅かに笑う。


『陽菜を手放したわけじゃないよ』


『分かってる』


『中井くんに全部押しつけたわけでもない』


『ああ』


『一緒に守る人を増やしただけ』


 樹里は、閉じた扉を見つめた。


『……そうかもしれない』


     ◇


 中井が自宅へ戻ると、陽菜はリビングのソファに座っていた。


 玄関が開いた音を聞き、すぐに立ち上がろうとする。


「そのままでいてください」


『まだ何もしてないよ』


「立とうとしていました」


『帰ってきたから迎えに行こうとしただけ』


 中井がリビングへ入る。


 陽菜は、そのシャツを見て目を細めた。


『何、その皺』


「日高さんに胸ぐらを掴まれました」


『総長に?』


「はい」


『何で?』


 中井は陽菜の前へ座った。


 Roseへ向かう前とは、目が違っている。


 陽菜にも、それが分かった。


 何かを隠そうとしている目ではない。


 叱られることから逃げず、すべてを話そうと決めた目だった。


「陽菜さん」


『何?』


「話したいことがあります」


『うん』


「俺は、父親になることが怖いです」


 陽菜の表情が変わる。


 中井は視線を逸らさなかった。


「それから、陽菜さんの未来を、俺一人で勝手に決めようとしました」


『どういうこと?』


「最初から、すべて話します」


 中井は、陽菜の手を取った。


 怖さは、まだ消えていない。


 それでも、もう一人では抱えない。


 自分から離れる未来を、陽菜に聞かずに選ぶこともしない。


 逃げ道を探していた男の目は、もうそこにはなかった。


 陽菜の隣に居続けると決めた、一人の父親の目へ変わっていた。

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