312話「妹のそば」
翌朝。
陽菜は、朝礼が終わるのを待ってから樹里の席へ向かった。
『日高先輩。少しよろしいですか?』
『はい。何でしょうか』
『姉から、日高先輩と話したいって連絡が来ました』
樹里の手が止まる。
『佳菜さんからですか?』
『はい』
『何の話でしょうか』
『分かりません。結婚式の前に、一度会って話したいことがあるって』
『そうですか』
『連絡先を教えてほしいと言われました』
陽菜は少し迷ってから続ける。
『教えても大丈夫ですか?』
『構いません』
樹里はすぐに答えた。
『理由を聞かなくていいんですか?』
『佳菜さんが私へ話すことなら、本人から伺います』
『二人で会うんですか?』
『そのために連絡先を求めているのではありませんか?』
『そうですけど』
陽菜は樹里の表情を見る。
嫌がっているようには見えない。
かといって、久しぶりに同級生と話せることを喜んでいるようにも見えなかった。
『あたしも行った方がいいですか?』
『佳菜さんは、私と話したいとおっしゃったのでしょう』
『はい』
『でしたら、二人で話します』
『何を話したか、あとで教えてくれます?』
『内容によります』
『またそれ』
『佳菜さんが、陽菜さんへ知られたくない話をされる可能性もあります』
『姉があたしに知られたくないことを、日高先輩には話すんですか?』
『まだ何も聞いていません』
『そうですけど』
陽菜は納得しきれない表情をしていた。
『心配ですか?』
樹里に尋ねられ、陽菜は一度口を閉じる。
『少し』
『なぜですか?』
『分かりません』
佳菜と樹里は、中学時代の同級生だった。
自分の知らない二人の時間がある。
姉が、自分ではなく樹里と話したがっている。
何か悪いことが起きるとは思っていない。
それでも、自分だけが知らない場所で二人が会うことに、落ち着かないものを感じていた。
『あたしの話ですよね、多分』
『そうかもしれません』
『何か言われたら、全部信じないでくださいね』
『何をですか?』
『昔のあたしのこととか』
『今さら何を聞いても驚きません』
『それもそうか』
『連絡先を伝えてください』
『分かりました』
陽菜は自分の席へ戻りながら、何度か樹里を振り返った。
樹里はすでに、手元の仕事を再開していた。
◇
昼休み。
樹里のスマートフォンへ、登録されていない相手からLINEが届いた。
「突然ごめんなさい。櫻井佳菜です」
「陽菜から連絡先を聞きました」
「結婚式の前に、一度会えませんか」
短い三つの文章。
樹里は、画面に表示された名前を見つめた。
佳菜と最後に直接話したのは、いつだったのか。
陽菜が島川不動産へ入社するよりも前だった。
中学を卒業してからは、顔を合わせることもほとんどなかった。
それでも、陽菜が島川不動産の求人へ応募したと知ったとき、樹里にはすぐに分かった。
偶然ではない。
佳菜は、樹里が島川不動産で働いていることを知ったうえで、陽菜へ求人を勧めた。
自分と陽菜を再会させようとしたのだ。
樹里は返信を打った。
〈久しぶり。構わない〉
少し考えたあと、もう一文を加える。
〈都合の良い日を教えてほしい〉
間もなく、佳菜から候補日が届いた。
次の日曜日。
場所は、樹里に任せると書かれている。
樹里はRoseを思い浮かべた。
陽菜と佳菜の話をするなら、ほかの客に聞かれない場所がいい。
〈日曜日の午後、Roseという店でどうだ〉
店の場所も一緒に送る。
佳菜からの返事は、すぐに届いた。
〈分かりました。ありがとう〉
樹里はスマートフォンを伏せた。
向かいの席では、陽菜が中井と昼食を取っている。
中井が取り分けた料理を見て、量が多いと文句を言っていた。
それでも、最後には笑いながら箸を伸ばしている。
佳菜は今の陽菜を、どれだけ知っているのだろう。
◇
日曜日。
Roseは、普段ならまだ開店していない時間だった。
美園は樹里から事情を聞き、二人のために店を開けていた。
『本当に、私がいなくても大丈夫?』
『二人で話したいと言われた』
『何かあったら呼んで』
『喧嘩をするわけじゃない』
『同級生なんでしょ』
『それが何だ』
『総長、昔の同級生とはあまり話したがらないから』
『佳菜は少し違う』
『陽菜のお姉さんだから?』
『それもある』
美園は、二人分の飲み物をカウンターへ用意した。
『それじゃあ、奥にいるから』
『悪い』
『終わったら呼んで』
美園が店の奥へ入った直後、扉が開いた。
「こんにちは」
佳菜が、一人でRoseへ入ってくる。
樹里はカウンターの前で立ち上がった。
『久しぶり』
「うん。久しぶり、日高さん」
中学を卒業してから、長い時間が経っている。
制服を着ていた頃とは、互いに見た目も変わっていた。
それでも佳菜の表情には、樹里が覚えている面影が残っている。
『座って』
「ありがとう」
佳菜は、樹里から一つ席を空けた場所へ腰を下ろした。
美園が用意した飲み物へ手を添える。
「ここは、日高さんの知り合いのお店?」
『ああ。長い付き合いだ』
「そうなんだ」
短い会話のあと、沈黙が落ちた。
二人とも、昔話をするために会ったわけではない。
樹里は、佳菜が口を開くのを待った。
「陽菜から、聞いてる?」
『何を?』
「私たちが、あまり仲の良い姉妹じゃないこと」
『詳しくは聞いてない』
「そう」
『両親が亡くなったあと、二人で暮らしていたことは知ってる』
「二年間だけね」
『陽菜が十八歳で家を出たことも』
「それだけ?」
『あいつは、自分から話したくないことは話さない』
「昔からそうだった」
『お前もだろ』
佳菜が僅かに笑う。
「日高さんは、変わってないね」
『随分変わったつもりだ』
「陽菜から見れば、そうなのかもしれない」
佳菜は飲み物へ視線を落とした。
「両親が亡くなったとき、陽菜は十六歳だった」
『ああ』
「私は、姉なんだからしっかりしなきゃって、そればかり考えてた」
家の手続き。
生活費。
陽菜の学校。
毎日の食事。
両親がいなくなった直後から、佳菜には考えなければならないことがいくつもあった。
「食事を作って、必要なお金を渡して、学校から届いた書類に目を通した。帰りが遅ければ連絡もした」
『十分やってる』
「私も、そのつもりだった」
佳菜は自嘲するように笑った。
「でも、それしかできなかった」
『それしか?』
「陽菜が泣いているところを、ほとんど見てない」
樹里は何も言わなかった。
「両親が亡くなった日も、そのあとも。あの子は私の前で泣かなかった」
『泣かなかったことが、お前の責任なのか』
「泣けなかったんだと思う」
佳菜は、当時の陽菜を思い出すように目を伏せた。
「私が、姉らしくしなきゃって必死だったから。陽菜まで、自分がしっかりしなきゃいけないと思ったのかもしれない」
佳菜は両手でグラスを包んだ。
「何がつらいのか、聞けばよかった。寂しいなら寂しいって言っていいと、私から伝えればよかった」
『今だから言えることだ』
「うん」
『当時のお前も、親を亡くしたばかりだった』
「それでも、私は姉だった」
『姉なら、何でもできるのか』
佳菜が樹里を見る。
『お前も、自分が泣けなかったんじゃないのか』
佳菜は答えなかった。
両親を失ったのは、陽菜だけではない。
だが、自分には妹がいる。
自分まで崩れるわけにはいかない。
そう思い、佳菜も誰にも弱音を吐かなかった。
「陽菜が家を出ると言ったときも、止められなかった」
『なぜだ』
「私と暮らすのが嫌なんだと思ったから」
『本人に聞いたのか』
「聞いてない」
『なら、分からないだろ』
「怖かったの」
佳菜は、初めてはっきりと感情を口にした。
「一緒にいてって言って、嫌だって言われるのが怖かった」
『だから、何も言わなかったのか』
「気をつけて。困ったら連絡して。それしか言えなかった」
陽菜が出ていったあとも、必要な連絡は続いた。
誕生日。
仕事。
住所。
互いの生活に大きな変化があれば、短い言葉だけを送る。
だが、その距離をどう縮めればいいのか、二人とも分からないままだった。
「島川不動産の求人を陽菜へ教えたのは、偶然じゃない」
『知ってる』
「やっぱり、気づいてたんだ」
『入社初日に陽菜から聞いた』
「怒った?」
『お前を殴ろうとは思った』
「思ったんだ」
『実際には何もしてない』
「会わなくてよかった」
佳菜が少しだけ笑う。
「陽菜は、あの頃いろいろな仕事を転々としてた。何をしても長く続かなかった」
『聞いてる』
「何か言えば、うるさいって返された。私から仕事を紹介しても、断られると思った」
『それで、私がいる会社を選んだのか』
「日高さんがいるなら、陽菜も途中で逃げないと思った」
『勝手な判断だ』
「うん」
『私が、陽菜に会いたくないと思っていた可能性もある』
「それも分かってた」
『なら、なぜだ』
「私には、ほかに思いつかなかったから」
佳菜は樹里から目を逸らさなかった。
「姉なのに、自分で陽菜を支えられなかった」
『だから私へ押しつけたのか』
「そう言われても仕方ないと思ってる」
佳菜の声は静かだった。
言い訳をするつもりはない。
「それでも、陽菜が立ち止まったままでいるよりはいいと思った」
樹里は、陽菜が入社した日のことを思い出した。
営業部へ案内された陽菜は、樹里の顔を見た瞬間、総長と呼んだ。
人違いだと否定した。
誰もいない廊下へ連れていき、過去のことを口にするなと叱った。
あの日から、すべてが動き始めた。
『結果が良かったから、正しかったとは言わない』
「うん」
『だが、今の陽菜がいるのは、お前があの求人を教えたからだ』
「日高さんが、受け入れてくれたからだよ」
『受け入れたつもりはない。勝手に入ってきた』
「陽菜らしいね」
『何度追い返しても、ついてきた』
「昔からそうだったみたいだね」
『知ってたのか』
「日高さんの名前は、何度も聞いたことがあった」
樹里の目が僅かに動く。
「家では、ほとんど自分の話をしなかった。でも、日高さんの話だけはしてた」
『何と』
「自分には、絶対に追いつけない人がいるって」
『あいつが勝手に言っていただけだ』
「嬉しくない?」
『別に』
「その顔、昔から変わらないね」
『どういう意味だ』
「嬉しいときほど、何でもないふりをする」
『余計なことを言うな』
佳菜は小さく笑った。
そのあと、改めて樹里を見る。
「陽菜が結婚することになって、子どももできた」
『ああ』
「招待状も届いた」
『出席するんだろ』
「そのつもり」
『ならいい』
「でも、式でどんな顔をして陽菜の前に立てばいいのか、まだ分からない」
『普通にしていればいい』
「普通が分からないの」
『それは、私に聞かれても困る』
「日高さんなら、分かるかと思った」
『私も陽菜との距離を何度も間違えた』
「日高さんが?」
『近づかせないことが、あいつを守ることだと思っていた』
佳菜は黙って聞いている。
『何も言わずに消えれば、陽菜は私の過去から離れられると思った』
「でも、離れなかった」
『四年も探していたらしい』
「うん」
『私は、それを知らなかった』
「私も、全部は知らなかった」
『守っているつもりで、あいつが決めることを奪っていた』
「私と同じだね」
『そうかもしれない』
樹里は否定しなかった。
『だが、今の陽菜は、自分で中井さんを選んだ』
「うん」
『結婚も、子どもを産むことも、自分で決めて進んでる』
「日高さんが守らなくても?」
樹里は一度、言葉を止めた。
以前なら、自分が守ると答えていた。
誰にも任せない。
陽菜が困れば、自分が前へ出る。
それが当然だと思っていた。
『あいつはもう、自分の足で人生を歩いている』
佳菜が顔を上げる。
『私は、それを見守っていくだけだ』
「離れるの?」
『違う』
樹里はすぐに否定した。
『必要なら、いつでも隣へ行く。だが、あいつより先に道を決めるつもりはない』
「そう」
『お前も、同じでいいんじゃないか』
「私も?」
『姉らしいことができなかったと、勝手に決めるな』
「でも、何もできなかった」
『島川不動産を勧めた』
「日高さんへ任せただけだよ」
『それでも、お前が動かなければ再会しなかった』
「それだけ」
『十分だ』
佳菜は俯いた。
目元に浮かんだものを隠すように、グラスへ手を伸ばす。
「日高さん」
『何だ』
「妹のそばにいてくれて、ありがとう」
樹里は何も答えなかった。
「私が聞けなかったことを聞いてくれた。言えなかったことを叱ってくれた。陽菜が逃げそうになっても、何度も止めてくれた」
『私は、そこまでしてない』
「陽菜を見れば分かる」
仕事の話をするとき。
中井の話をするとき。
結婚式の話をするとき。
短い連絡の中でも、以前の陽菜とは違うことが伝わっていた。
「これからも、よろしくお願いします」
佳菜は深く頭を下げた。
樹里は、その姿を見つめた。
『頭を上げろ』
佳菜が、ゆっくりと顔を上げる。
『さっきも言った。陽菜は、もう自分で歩いてる』
「うん」
『あいつのそばにいるかどうかも、私が決めることじゃない』
「そうだね」
『それでも、陽菜が私を必要とする限り、離れるつもりはない』
「ありがとう」
『礼はいらない』
「それも、昔から変わらないね」
『何がだ』
「素直に受け取らないところ」
『お前に言われたくない』
樹里の答えに、佳菜は少しだけ笑った。
「日高さんも、誰かに見守ってもらってるの?」
樹里の表情が僅かに変わる。
『なぜ、そう思う』
「前より、少し柔らかくなったから」
『気のせいだ』
「その人も、結婚式へ来る?」
『来る』
「そう」
佳菜は、それ以上尋ねなかった。
「会えるのを楽しみにしてる」
『何も紹介しないぞ』
「まだ、何も聞いてないよ」
『顔に出ている』
「日高さんに言われたくないな」
二人の間に、初めて同級生だった頃に近い空気が戻った。
◇
話を終え、佳菜が席を立つ。
「今日は、ありがとう」
『私も、話せてよかった』
「陽菜には、どこまで話す?」
『お前が決めろ』
「全部話してもいい」
『分かった』
「でも、私からも少しずつ話してみる」
『その方がいい』
「できるかな」
『できるかどうかではなく、話したいなら話せ』
「簡単に言うね」
『言葉にしなければ、陽菜には伝わらない』
「日高さんにだけは、言われたくなかった」
『私も、最近言われた』
「誰に?」
『……関係ない』
佳菜は笑いながら、Roseを出ていった。
扉が閉まる。
しばらくして、美園が店の奥から戻ってきた。
『終わった?』
『ああ』
『どんな話だったの?』
『姉妹の話だ』
『それだけ?』
『それだけで十分だ』
美園は、佳菜が座っていた席のグラスを片づけた。
『陽菜のお姉さん、どんな人だった?』
『不器用だ』
『総長が言うんだ』
『何だ』
『似てるのかなと思って』
『似てない』
『陽菜を大事にしてるところは?』
樹里は答えなかった。
店を出る前に、スマートフォンを取り出す。
陽菜とのLINEを開いた。
〈佳菜と話した〉
それだけを送る。
すぐに既読がついた。
〈何の話だった?〉
樹里は、少し考えてから返信した。
〈お前のことを心配していた〉
陽菜からの返事は、しばらく来なかった。
やがて、短い文章が届く。
〈そっか〉
続けて、もう一つ。
〈姉ちゃん、元気だった?〉
〈元気だった〉
〈ならよかった〉
姉妹の距離が、すぐに縮まったわけではない。
長く話せなかった時間が、一日で消えることもない。
それでも、どちらも相手を嫌って離れたわけではなかった。
近づき方が分からず、それぞれの場所で立ち止まっていただけだった。
樹里がスマートフォンをしまおうとしたとき、別の通知が届いた。
表示された名前は、中井だった。
「日高さん。休日に申し訳ありません」
「お話ししたいことがあります」
樹里の指が止まる。
すぐに次の文章が届いた。
「できれば、美園さんにも同席していただきたいです」
『美園』
『何?』
『中井さんから、話があると連絡が来た』
『中井くんから?』
『お前にも同席してほしいそうだ』
美園の表情が変わる。
『陽菜に、何かあったの?』
『それは書かれていない』
樹里は中井へ返信する。
〈承知しました。陽菜の体調に、何かありましたか?〉
間もなく、返事が届いた。
「体調に問題はありません」
「陽菜さんには、まだ話していません」
「俺自身のことで、日高さんと美園さんに聞いていただきたいことがあります」
樹里は、その文章を美園へ見せた。
『自分のことだって』
『ああ』
『何だろう』
『本人から聞く』
樹里は再び入力欄を開いた。
〈明日の閉店後、Roseでいかがでしょうか〉
「ありがとうございます。伺います」
〈美園にも確認しました〉
「よろしくお願いします」
やり取りが終わる。
樹里はスマートフォンを伏せた。
『陽菜には話さない方がいいのかな』
美園が尋ねる。
『中井さんが、まだ話していないと書いている』
『じゃあ、私たちからは言えないね』
『ああ』
『悪い話じゃなければいいけど』
『陽菜の体調には問題がないそうだ』
『それでも、心配じゃない?』
『心配しても、今は何も分からない』
『総長らしいね』
『明日になれば聞ける』
樹里はそう答えた。
だが、伏せたスマートフォンへ一度だけ視線を向ける。
佳菜は、陽菜の人生を樹里へ任せたのだと思い、長く後悔していた。
そして今度は、中井が自分自身のことを話すため、樹里と美園を求めている。
陽菜を大切に思う人間たちは、それぞれの場所で、正しい距離を探している。
その答えを誰か一人が決めることはできない。
翌日の夜。
中井は、自分の中に隠してきた弱さを二人へ見せようとしていた。




