311話「選んだ人」
月曜日の夜。
Roseの入口には、閉店を知らせる札が掛けられていた。
最後の客を送り出した美園は、テーブルを片づけ、店内の照明を少し落とした。
カウンターには、樹里が一人で座っている。
『それで、何の話?』
『陽菜が来てから話す』
『私だけじゃ駄目なの?』
『二人に同じ話をする』
『会社で何かあった?』
『違う』
『高槻の仕事?』
『それも違う』
『じゃあ何?』
『あとで話す』
樹里は、それ以上何も答えなかった。
目の前には、美園が出した酒が置かれている。
だが、店へ来てからほとんど減っていない。
美園は樹里の様子を見ながら、何があったのか考えていた。
悪い話には見えない。
それでも、樹里が自分から二人を集めることは珍しかった。
しばらくして、店の扉が開く。
『遅くなってごめん』
陽菜が店へ入ってきた。
『走ってないだろうな』
樹里が尋ねる。
『走ってないよ』
『本当か』
『中井くんにも、走るなって言われた』
『ならいい』
『何で総長まで確認するの』
『お前は急ぐと、すぐ走るからだ』
『妊娠してからは気をつけてるよ』
陽菜はカウンターへ座った。
美園が、温かい茶を目の前へ置く。
『ありがとう、美園さん』
『中井くんは?』
『家にいる。終わったら迎えに来るって』
『わざわざ?』
『夜だからって』
『大事にされてるね』
『ちょっと心配しすぎだけどね』
そう言いながらも、陽菜の表情は嬉しそうだった。
カップを両手で包んだあと、樹里を見る。
『それで、話って何?』
『まだ来たばかりだろ』
『LINEで二人に話があるって言われたら、気になるでしょ』
『急がなくても話す』
『もう二人ともいるよ』
美園もカウンターの中から樹里を見る。
『私も気になってる』
『お前まで急かすな』
『ずっと待ってたから』
樹里は酒の入ったグラスへ視線を落とした。
会社で黒澤へ報告したときは、神谷が先に話した。
自分は隣で頷いただけだった。
だが今夜は、自分の口から二人へ伝えるために集めた。
しばらく黙ったあと、樹里が顔を上げる。
『神谷さんと』
そこで一度、言葉が止まった。
『……付き合うことになった』
陽菜は、カップを持ったまま動かなくなった。
美園もすぐには何も言わない。
二人の視線だけが、樹里へ向けられている。
『何だ』
『今、何て言った?』
『聞こえただろ』
『もう一回言って』
『断る』
『何で?』
『一度で十分だ』
『十分じゃないよ。神谷さんと付き合ったって言った?』
『そう言った』
『本当に?』
『嘘を報告するために、お前たちを呼ぶと思うか』
陽菜の表情が一気に明るくなる。
『やった!』
『大きな声を出すな』
『だって、やっとじゃん!』
『何がだ』
『ずっと待ってたんだよ』
『お前が待つことではない』
『神谷さん、ちゃんと言った?』
『何を』
『付き合ってほしいって』
『言った』
『総長も、ちゃんと答えた?』
『答えたから付き合っている』
『はいって言っただけじゃない?』
樹里の眉が僅かに動く。
『なぜ分かる』
『総長なら、そう答えそうだから』
『違う』
陽菜が目を見開く。
『違うの?』
『私も、自分の言葉で答えた』
美園の表情が、ゆっくりと緩んだ。
『何て言ったの?』
『そこまで話す必要はない』
『あるよ』
『ない』
『あたしたち、ずっと待ってたんだよ』
『だから、お前が待つことではない』
『美園さんも聞きたいよね?』
陽菜が助けを求めるように、美園を見る。
『聞きたい』
『美園』
『私だって気になるよ』
『言わない』
『じゃあ、どうして付き合おうと思ったかだけ教えて』
美園の声は、陽菜よりも穏やかだった。
『神谷さんを好きだから、で終わり?』
樹里はすぐには答えなかった。
適当に誤魔化せば、二人は納得しない。
それ以上に、自分が神谷へ伝えた言葉を、なかったことにしたくなかった。
『以前、神谷さんへ伝えたことがある』
『何を?』
『あの人は、ずっと私の歩幅に合わせてくれていた』
陽菜と美園が黙る。
『私が立ち止まっても、先へ行かなかった。追いつけとも言わずに待っていた』
『うん』
美園が小さく答えた。
『それでも、ずっと待たせたままでは駄目だと思った』
『総長が、追いつこうとしたの?』
『少し違う』
樹里は、自分が神谷へ告げた言葉を思い出す。
『神谷さんだけに私の歩幅へ合わせてもらうのではなく、私もあの人の歩幅を見たいと思った』
陽菜の目が僅かに潤む。
『どちらかが待つのではなく、二人で歩幅を合わせて、同じ方向へ歩いていきたいと伝えた』
『総長が?』
『何だ』
『本当に、そこまで言ったの?』
『言った』
『すごい』
『何がだ』
『だって総長、自分からそんなこと言えるようになったんだ』
『子どもの成長を見るような言い方をするな』
『でも、前の総長なら言わなかったでしょ』
樹里は反論できなかった。
以前なら、相手の気持ちを受け入れるかどうかだけを答えていた。
自分がどうしたいのか。
神谷とどのような関係になりたいのか。
それを相手へ渡すことはできなかった。
『よかったね、総長』
美園が言う。
からかうような声ではない。
樹里が誰かに愛されたことだけを祝っているのでもなかった。
樹里自身が、自分からその人を選べたことを喜んでいた。
『……うん』
樹里が小さく答える。
陽菜が再び目を見開く。
『今、うんって言った』
『聞こえただろ』
『もう一回言って』
『嫌だ』
『総長、今日すごい素直』
『帰るぞ』
『まだ来たばっかりだよ』
『話は終わった』
『終わってない』
陽菜は身を乗り出しかけ、美園に止められた。
『陽菜。お腹』
『分かってる』
陽菜は姿勢を戻した。
それでも、樹里を見る目は変わらない。
『いつから?』
『金曜日』
『打ち上げの日?』
『そうだ』
『やっぱり、あのあとだ』
『何が、やっぱりだ』
『神谷さんと二人で残ってたじゃん』
『話があると言われた』
『どこに行ったの?』
『店だ』
『二人で飲んだの?』
『少しだけ』
『そこで告白された?』
『店を出てからだ』
『何でそこまで答えてから止めるの』
『お前が勝手に聞くからだ』
『キスは?』
樹里の言葉が止まった。
陽菜の口元が上がる。
『したんだ』
『答えてない』
『今ので分かるよ』
『分かるな』
『どっちから?』
『話す必要はない』
『神谷さんから?』
『答えない』
『総長からもした?』
『帰る』
樹里が席を立とうとする。
美園が、その前にグラスを遠ざけた。
『まだ残ってるよ』
『もういらない』
『陽菜が聞きすぎるからでしょ』
『美園さんも聞きたいくせに』
『私は、付き合ったところまで聞けたら十分』
『嘘。絶対気になってる』
『少しはね』
『美園』
『ごめん』
美園は笑いながら謝った。
陽菜は諦めず、樹里を見つめる。
『一回だけ?』
『何がだ』
『キス』
『答えない』
『じゃあ、一回じゃないんだ』
『なぜそうなる』
『一回なら一回って言えるでしょ』
『回数を覚えていない』
口にした直後、樹里が止まる。
陽菜と美園も、一瞬黙った。
『回数を覚えてないくらいしたの?』
『違う』
『今、そう言ったじゃん』
『数えていないという意味だ』
『長いやつ?』
『陽菜』
樹里の声が低くなる。
『だって気になる』
『お前と中井のことを、同じように聞いてもいいのか』
『あたしは答えられるよ』
『答えるな』
『何でも聞いて』
『聞きたくない』
陽菜が笑い、美園も口元を手で押さえた。
『総長、顔赤いよ』
『酒のせいだ』
『全然減ってないじゃん』
『うるさい』
樹里は、今度こそ席を立った。
『もう帰る』
『待って。あと一個だけ』
『嫌だ』
『会社では、今までどおりなの?』
樹里の足が止まる。
今度の陽菜の声には、からかう響きがなかった。
『神谷さん、八月から部長になるでしょ』
『黒澤部長へは、今日二人で報告した』
『もう?』
『先に伝える必要がある』
『何て言われたの?』
『仕事中に特別扱いをしないこと。私の評価を神谷さん一人で決めないこと。問題があれば異動も検討すること』
『そこまで決めるんだ』
『上司と部下になるからな』
『嫌じゃない?』
『必要なことだ』
『神谷さんは?』
『同じ考えだ』
陽菜は、樹里の答えを聞いて小さく頷いた。
『そっか』
『何だ』
『ちゃんと二人で考えてるんだなと思って』
『当然だ』
『なら安心した』
『お前に心配されることではない』
『あたしは心配するよ』
陽菜は真っ直ぐ樹里を見る。
『総長が幸せになれるか、ずっと心配してた』
樹里の表情から、僅かに力が抜ける。
『余計な心配だ』
『知ってる』
『自分と子どものことを心配しろ』
『それもしてる』
『中井にも心配を掛けるな』
『分かってる』
美園がカウンターの中から、樹里のグラスを片づけた。
『神谷さんなら、総長が無理をしたら止めてくれると思う』
『すでに何度も止められている』
『付き合う前から?』
『仕事の話だ』
『これからは、仕事以外でも止めてもらえるね』
『自分のことは自分で決める』
『そう言うと思った』
美園は穏やかに笑った。
『でも、一人で決められないときは、神谷さんにも預けてあげて』
樹里はすぐには答えなかった。
神谷へ仕事を預けた。
気持ちも伝えた。
それでも、何もかも一人で決めようとする癖が、急に消えたわけではない。
『……考えておく』
『前より進んだね』
『何がだ』
『前なら、必要ないって言ってた』
『余計な分析をするな』
『はい』
美園は素直に答えた。
『総長』
陽菜が呼ぶ。
『今度は何だ』
『おめでとう』
今まで何度もからかった陽菜が、最後だけは真面目に伝えた。
『本当によかった』
樹里は、陽菜と美園を見る。
二人に伝えることを避けなくてよかった。
そう思っても、上手く言葉にはできなかった。
『……ありがとう』
短い返事。
それでも、二人には十分だった。
◇
店の外には、中井が迎えに来ていた。
「日高さん。お疲れさまです」
『お疲れさまです。遅い時間に申し訳ありません』
「いえ。陽菜さんを送っていただき、ありがとうございます」
『私は何もしていません』
『中井くん』
陽菜が中井の隣へ立つ。
「はい」
『すごい話がある』
樹里の眉が動く。
『陽菜』
『本人から話した方がいい?』
『中井さんへは、後日自分で伝える』
『分かった』
陽菜は素直に引いた。
その表情には、話したくて仕方がない気持ちが出ている。
「無理に聞きません」
中井が言う。
「日高さんからお話しいただけるときに伺います」
『ありがとうございます』
『中井くんまで総長みたい』
「そうでしょうか」
『何も聞かないところ』
『陽菜。会社の外でも、中井さんの前では呼び方に気をつけろ』
『中井くんは知ってるからいいでしょ』
『今は店の前だ』
『誰もいないよ』
『そういう問題ではない』
「俺は気にしていません」
『中井さんが気にするかどうかではありません』
『もう。分かったよ』
陽菜は中井の腕へ自分の腕を絡ませた。
『帰ろっか』
「はい」
『総長、美園さん。おやすみ』
『おやすみ』
『気をつけて帰れ』
陽菜と中井が歩き出す。
樹里も美園へ短く挨拶し、別の方向へ向かった。
◇
帰宅した陽菜は、着替えを終えてソファへ座った。
隣には中井がいる。
「日高さんのお話は、良いことだったんですか?」
『すごく良いこと』
「そうですか」
『聞きたい?』
「日高さんが自分でお話しするとおっしゃったので、待ちます」
『真面目だね』
「陽菜さんは、話さないでいられますか?」
『言わないよ』
「本当ですか?」
『多分』
「多分ですか」
陽菜が笑ったとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが震えた。
画面には、佳菜の名前が表示されている。
招待状を送ってから、初めて届いたLINEだった。
陽菜は通知を開いた。
〈招待状、届いた〉
〈出席で返したから〉
短い二つの文章。
その下に、もう一つ続いていた。
〈それから、日高さんと一度話がしたい〉
陽菜の笑みが消える。
「お姉さんですか?」
『うん』
「何かありましたか?」
陽菜は、表示された文章をもう一度読んだ。
『総長と話したいって』
「日高さんと?」
『何でだろ』
「理由は書かれていないんですか?」
『書いてない』
陽菜は入力欄を開く。
〈何の話?〉
送信する。
しばらくして、佳菜から返信が届いた。
〈結婚式の前に、一度会って伝えたいことがある〉
〈連絡先を教えてもらえる?〉
陽菜はすぐに答えなかった。
佳菜と樹里は、中学時代の同級生だった。
だが、今も連絡を取っているとは聞いていない。
自分を通さず、二人だけで何を話そうとしているのか。
胸の中に、僅かな不安が生まれる。
「陽菜さん」
『何?』
「日高さんへ確認してから、お伝えしてはどうでしょうか」
『そうする』
陽菜は、佳菜へ返信した。
〈本人に聞いてから連絡する〉
佳菜から届いたのは、短い返事だった。
〈お願い〉
陽菜は画面を見つめた。
神谷との未来を選んだ樹里。
結婚式を前に、ようやく樹里へ会おうとしている佳菜。
別々だった二つの時間が、七月の夜に重なろうとしていた。




